ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論

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  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000614139

作品紹介・あらすじ

やりがいを感じないまま働く。ムダで無意味な仕事が増えていく。人の役に立つ仕事だけど給料が低い——それはすべてブルシット・ジョブ(ルビ:クソどうでもいい仕事)のせいだった! 職場にひそむ精神的暴力や封建制・労働信仰を分析し、ブルシット・ジョブ蔓延のメカニズムを解明。仕事の「価値」を再考し、週一五時間労働の道筋をつける。『負債論』の著者による解放の書。

感想・レビュー・書評

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  • 人類学者でありアナキスト活動家でもあるデヴィッド・グレーバー(1961-)による現代社会への問題提起の書、2018年。

    学生時代に、書店で『アナーキスト人類学のための断章』という本を見かけ、その著者デヴィッド・グレーバーの名前を知った。「アナーキスト」と「人類学」という二つの語の結びつきが奇妙に感じられて印象に残ったのだが、これまで読んでみることはなかった。本書を読むと、「人類学」と「アナキズム」の結びつきが決して突飛なものではないということが、少しずつ了解されてきた。本書の中でも彼は自分の政治的立場を明確に述べている。「わたし自身の政治的立場は、はっきりと反国家主義である。つまりアナキストとして、国家の完全なる解体を望んでいるし、そこにいたるまで、国家にいま以上の権力を与えるような政策には関心がない」(p359)。

    グレーバーが本書の主題として取り上げるのは、現代の大多数の労働者が全く無意味に見える業務に生活のほとんどの時間を費やしている、という問題である。彼はこれを「ブルシット・ジョブ」と命名する。現代人を苛むブルシット・ジョブの正体は何なのか。なぜそれは人間にとって有害なのか。なぜそれは増大してきたのか。なぜ人々はそれを減らそうとしないのか。こうした問いを、経済的、政治的、歴史的、社会的、文化的な多様な視点から解明していく。

    以下では、私が捉え得た限りの論点を備忘録的に挙げておく。

    □ ブルシット・ジョブの定義

    ブルシット・ジョブは、以下の三要件を満たす有償労働として定義される。

    ① 実質的な価値が無く、無意味で、不必要で、有害な業務である。
    ② 被雇用者本人が①を自覚しており、その業務の存在理由を正当化できない。
    ③ ②にもかかわらず、被雇用者は①が真ではないかのごとく取り繕うよう、自他双方への欺瞞を強いられる。

    一般に「割に合わない仕事(シット・ジョブ)」とされるものは、「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」とは区別される。前者は不当に低収入ではあるが社会的に有益な仕事であることが多いのに対し、後者は過剰に高収入ではあるが社会的にはまるで無意味な仕事であるから。

    □ ブルシット・ジョブの諸類型

    ブルシット・ジョブの典型として以下の五類型が挙げられている。

    ① 取り巻き(flunkies)・・・上司に実際以上の権威があるかのごとく偽装するために上司のそばに侍る業務。具合的にいかなる業務がそこに割り当てられるのかは、二次的な問題とされる。女性秘書など。

    ② 脅し屋(goons)・・・消費者を脅迫して故意に彼らの不安を煽ることで、本来は存在しなかった需要を捏造する業務。広告業など。(美容技術を施した女優の美しさをみせつけることで)「われわれは視聴者が番組本編をみているあいだは自分たちに欠陥があるようにおもわせ、CM時間にはその〔欠陥への〕「解決策」〔商品〕の効能を誇張してみせるのです」(p63)。

    ③ 尻ぬぐい(duct tapers)・・・構造的に欠陥がある組織や無能な上司によって惹き起こされる損害の後始末をする業務。組織の不具合や上司の無能さといった問題の根本原因を解消することよりも、その問題に対応することに人員を割いたほうがましだ、と考えられている。

    ④ 書類穴埋め人(box tickers)・・・官僚機構において手続き上必要とされる書類を作成する儀式的な業務。そうした書類やひいては手続きそのものが実質的に有意味であるのかどうかは、二次的な問題とされる。なぜなら、官僚機構においていったんある制度が導入されれば、その実質的な是非は問われることなく、制度の永続的な運用が自己目的化されるから。背景には、実質的な業務よりも形式的なペーパーワークのほうが重要とみなされる、官僚機構特有の倒錯がある。

    ⑤ タスクマスター(taskmasters)・・・他者にブルシット・ジョブを割り当て、それを監督する業務。場合によっては自らブルシット・ジョブを作り出し、それを他者に割り当てることもある。中間管理職など。

    「ブルシット・ジョブを生み出しているのは、資本主義それ自体ではありません。それは、複雑な組織の中で実践されているマネジリアリズム〔経営管理主義〕・イデオロギーです。マネジリアリズムが根を下ろすにつれ、マネジリアリズムの皿回し――戦略、パフォーマンス目標、監査、説明、評価、新たな戦略、などなど――を維持するだけが仕事の大学スタッフの幹部たちが登場します」(p86)。

    □ なぜブルシット・ジョブは非人間的なのか

    そもそもブルシット・ジョブの問題は、①「無意味性」(社会的価値が全くない無意味な業務であること)と、②「欺瞞性」(無意味な業務であることを自覚しながらさもそうではないかのように自他双方に対して欺瞞を強いられること)の二点にある。このそれぞれが人間精神に対して暴力的に作用するからである。

    ①について。人間は、他者との関係性において、はじめて自己の価値を確認できる。つまり人間は、自己の意志と能力を用いて、社会的に有意味な状況を構築することができて、はじめて自己の存在理由を確認することができる。よって、無意味な業務であるブルシット・ジョブを強いられる状況は、人間の自尊心を損なうという点で、人間性に破滅的な影響を及ぼす。これは、「他者にとっての自己」への攻撃であるといえる。

    ②について。人間は、自己を自己として率直に受け容れることが可能となって、はじめて自己が自己であるという根源的な自己同一性を確認することができる。よって、自己欺瞞を伴うブルシット・ジョブを強いられる状況は、自己同一性の感覚を不安定化させてしまうという点で、同じく人間性に破滅的な影響を及ぼす。これは、「自己にとっての自己」への攻撃であるといえる。

    また、ブルシット・ジョブが強要されるとき、そこには権力が作用している。労働の現場では、上位者による下位者への理不尽な権力行使が頻繁に起こるものであり、ときにそれはサディスティックな虐待行為にまで発展する。さらにひどいときには、それは権力の表現それ自体を目的としてなされていることもある。そこでは、労働者はその自由意志を無化され、雇用者に操作されるだけの道具的存在に貶められる。このような状況では、自律的主体であろうとする精神に深刻な傷痕を残すことになる。

    □ なぜブルシット・ジョブは増加したのか

    そこには、産業資本主義から金融資本主義への変遷という、経済的な背景がある。

    ①産業資本主義のもとでは、自動車産業に代表されるように、企業は実質的な財を生産しそれを販売することで利益を上げていた。②しかし、1970年代頃から台頭しはじめる金融資本主義のもとでは、FIRE部門(金融、保険、不動産)に代表されるように、実質的な生産に基づいて利益を上げるのではなく、自分や他人の資産を動かしてそれを増殖させることによって利益を上げる(則ち、他者に債務を負わせ、その利子によって利益を上げる)。③そこでは、複雑な資産運用を管理するうえで、ひとつひとつの操作の適正性を保証することが求められ、そのために各段階ごとに細分化した手続きが増加し、この煩瑣な業務を担う経営管理部門に多数の人員が割かれることになる。

    ④このような金融部門の経営形態が他の業種にも広がっていく。⑤あらゆる企業において、社会的な実質を伴わない経営管理上の形式的な手続き業務としてのブルシット・ジョブが大量に形成されていく(複雑化する業務→そのひとつひとつの適正性をチェックするためにそのひとつひとつごとに課せられる膨大な書類作成と事務手続き→さらに複雑化する業務)。⑥それと同時に、実質的な生産活動を担うブルーカラーよりも、こうした社会的には無価値なブルシット・ジョブを担う専門職ホワイトカラー(コンサルタント、アナリスト、マーケティング専門家、会計スタッフ、法務スタッフ、それらを統括する無数の中間管理職など)の存在感が増していく。⑦ついには、かつて有意味とみなされていた実質的な業務までもが、ブルシット化していくことになる。

    「わたしのいいたいのは、実質のある仕事のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結だということであるはっきりいえば、自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げるのである。なぜかというと、ケアリングの価値を取り巻くプロセスや作業や成果をコンピューターが認識できるような形式へ転換するのには、膨大な人間労働を必要とするからである」(p337)。

    金融資本主義は、いっさいの人間的社会的事象を、資産価値と同様に計量可能=交換可能=比較可能なものとみなし、数値化することが即ち効率化であると思い込む傾向がある。

    □ ブルシット・ジョブの存在はネオリベラリズムと矛盾しないのか

    現代の支配的なイデオロギーであるネオリベラリズムが経済効率に至上の価値を置いているということを考えれば、労働力の無駄遣いでしかないブルシット・ジョブの存在自体が極めて矛盾したものに映る。それにもかかわらず、現代の経済システムがこうした膨大なブルシット・ジョブによって成立し維持されているのであれば、実はそこで駆動しているのは経済の命法ではないのであって、何らか別の政治的な意図が働いているのではないか。

    ここでグレーバーは、現代の経済システムが中世の封建制と類似していると指摘し、それを「経営封建制」と名付ける。中世の封建制においては、封建領主が、法的強制力という政治的手段を用いて農民が生産した富を収奪し、支配と権威の確保という政治的目的のためにその富を配下の者たちに再配分する。また、現代の経済システムにおいても、企業が消費者や納税者から収奪した富は、かつての産業資本主義のように労働者に還元することはせず、富裕層や企業上層部の資産を増大させるのに加えて、ブルシット・ジョブおよびそれを担う管理部門の役職を新設するのに費やされる。こうしてブルシット・ジョブおよびそれを担う膨大な被雇用者が際限なく再生産されていく。

    つまり、現代の経済システムも中世の封建性も、「物財を実際に製造し、運搬し、保全するよりも、その物財の領有や分配を基盤におき、それゆえに、システムの上部と下部のあいだに諸リソースをまわす作業に人口のかなりの部分が従事する政治-経済システム」であり、「その人口は、複数の層[略]が複雑に位階化されたヒエラルキーへと組織される傾向にある」(p238)という点で共通している。

    そこでは、ヒエラルキーの高さと複雑さが、その頂点にいる封建領主=企業経営者の権威の大きさを象徴するとされる。つまり、ブルシット・ジョブならびにそれに従事する多数の被雇用者は、経済的には無駄でしかないが、雇用者の権威を可視化しかつ実際以上に粉飾して誇示してみせるという政治的目的のために、大量に必要とされることになる。

    この意味では、現代の経済システムは、資本主義ではないということになる。新自由主義イデオロギーは、決して全地球的に貫徹されているのではない。それは、もっぱら経営者が労働者に対して強要するだけのものだという意味で部分的なのであり、経営者自身は効率至上主義の命法が及ばぬ例外としてそれに服従してはいない。つまり新自由主義は、純粋に経済学的な命法としてそれ自体で独立している根源的なものではなくて、ある特定の政治的思惑に従属しているのである。

    以上からもわかるとおり、「ブルシット・ジョブは「民間部門」には存在せず、非効率な「公共部門」にのみ起こりうる」という議論は、新自由主義が部分的なものでしかないという点を見落としたことから生じる誤解である。「すなわち、経営者たちは時間的・エネルギー的に最も効率の良い方法を科学的に研究し、それを労働の編制に適用した。ところが、その同じ方法を自分たちに応用することは決してしなかったのである[略]。その結果、ブルーカラー部門において、きわめて情け容赦ない効率化とリストラが敢行されたのと同時期に、ほぼすべての大企業で無意味な経営職および管理職のポストが急速に増殖した」(p37-38)。

    □ なぜブルシット・ジョブは減少しないのか

    その背景には、歴史的に形成されたイデオロギー状況がある。

    中世から近代へ移行し、資本主義が誕生することによって、一生涯を賃労働に縛りつけられる労働者が生み出されることになった。こうした歴史的状況に呼応するかのように、中産階級とそのイデオローグたちは、「労働は自己規律と人格形成の契機として道徳的に価値がある」という「労働=善」のイデオロギーを広めていく。その典型例としてカーライルの言葉が引かれている。「ひとは働くことによって自身を完成する」。「真の労働はすべて神聖である」。「苦役の生涯をうったえる諸君はなにものか? 不平をいうな。わが疲れたる兄弟よ、顔を上げよ。かなた神の永遠の世界に、諸君の仲間である労働者が生き残り、かれらのみが神聖な一隊の不死の者として、人類の帝国の天なる親衛隊として、残っているのを見るがよい」(p298)。つまり、「労働は、無意味な苦役であるかもしれないが、人格を陶冶するものであり、それ自体で価値がある。その報いはあの世で受け取れ」という。「徳はそれ自体が報いである」を労働へ応用したのである。この「苦痛であるがゆえにこそ、価値がある」というマゾヒスティックに倒錯した弁証法は、現代人をブルシット・ジョブに縛りつける呪いのひとつであろう。労働とは、自己否定なのである。この苦役に対する報酬は、自尊感情と、社会的承認と、商品の消費を通した自己実現である。

    (同時期に生まれたもうひとつの呪いについて。かつて天上の星々とともにあった時間は、産業革命期に時計が普及することによって、人間による所有と管理と売買の対象となった。こうして、「労働者は、たとえ無意味であることが周知の業務であっても、労働時間のあいだはそれに従事しなければならない」という通念が生れた。なぜなら、労働者の時間は、労働者自身のものなのではなくて、彼らを賃金によって買い上げた雇用者の所有物であるから。賃労働において怠惰は、道徳的堕落であると同時に、法的には盗みとされるようになった)。

    (なおカーライルを引用した箇所に付した注において、これと対照的なニーチェの労働観が紹介されていて興味深い。ニーチェはカーライルのような労働の称賛の背後に「すべての個体的なものに対する恐怖心」を見出す。「人々がいま労働[略]を見て結局感じるところは、そうした労働が最善の警察であること、それが各人を制御して、その理性や欲情や独立欲の発展を力強く妨げることができるということである。なぜかといえば、労働は異常に多くの神経力を使い、それを思索や瞑想や夢想や配慮や愛情や憎悪から奪ってしまうから」(p398-399))。

    なぜ、社会的にも有益である実質的な仕事は、社会的に無意味なブルシット・ジョブと比べて、低い報酬しか支払われないのか。なぜ、労働の社会的価値と経済的価値は反比例しており、かつ多数の人々がそれを妥当なこととして是認してしまっているのか。この事態も、「労働は、苦痛であればあるほど、それゆえに価値がある」という呪いによって説明できるだろう。則ち、社会的に有益である実質的な仕事は、その有意味性ゆえにすでに報われているのであり、その上さらに高額な報酬を要求するのは不当である。なぜなら、社会的利益の実現を目的とする仕事を選んだにもかかわらず、その仕事の成果に対して高額の報酬を要求することは、社会的富の不均衡な分配を惹き起こすことになり、仕事の目的と矛盾するから。同様に、社会的に無益なブルシット・ジョブは、その無意味性ゆえにすでに苛まれているのだから、その上さらに低い報酬しか支払われないのは不当である、ということになるのだろう。この根底には「嫉妬」の構造があるように思われる。「嫉妬」は労働者の分断状況を作り出しているという点で、深刻な問題である。

    「[略]、否定しようのないことが一点ある。そのような労働の状況が、憎しみと反感に満ち満ちた政治的状況を助長しているということである。必死にがんばっているのに仕事がない人びとは、雇用を得た人びとに対して反感を抱く。雇用を確保している人びとは、貧困者や失業者に対する反感を抱くようにそそのかされている。貧困者や失業者は、たえず、たかり屋とか寄生虫といわれつづけている。ブルシット・ジョブにはまった人びとは真に生産的であったり有用であったりする労働をおこなっている労働者に反感を抱き、真に生産的で有用である労働をおこなっているのに十分な給料をもらっておらず、品位を貶められ、その意義を十分に理解されない人びとは、有益であり立派で魅力的なことをしながら同時に裕福に暮らしていける数少ない仕事を独占しているとみえる人びと――そのような人びとを「リベラル・エリート」と呼ぶ――に反感をおぼえる。かれらは、こと自分たちが(適切にも)腐っているとみなす政治エリートを嫌悪するという点では、一致団結する。しかし、政治エリートといえば、自分たちにむけられる以外の、このような無内容な憎悪の形態は、非常に都合がよいとみている。というのも、自分たちから注意を逸らすことができるからである」(p320-321)。

    ブルシット・ジョブという現象から見えてくるのは、労働は搾取と抑圧と分断の最前線にあるということである。

    □ ベーシックインカムの導入へ

    生活を労働から切り離し、不条理なブルシット・ジョブから人間を解放するための手段として、ベーシックインカムの導入が提言される。

  • この本以降「ブルシット・ジョブ」という言葉が流行語のように数々の著作で引用され、動画でも用いられてきた。この語感の意味をその定義以上の文化的な課題への警鐘を含め、しっかり前後の文脈まで把握する事が重要。二次的な浅い理解ではなく、原典を読めて良かった。本著は少し冗長で口説く感じるが、平易で分かりやすい表現。かつ、自らの頭で考えながら読む為には、あれこれ具体例を示しながら、ダラダラとした対談のような紙幅がちょうど良かったと、後から感じた。

    興味のある切り口で頭の整理をしてみる。「価値のある仕事とは何か」「価値とは何か」「価値の無い仕事は何故生まれたか」「隣人と奥さん(旦那さん)を交換し、相互に有償で仕事を依頼するとどうなる」「本当は働かなくても良いのでは」、これら個人的な疑問に対し、本著を援用し、時に行間を自発的に思考し、読み進めた。本来、読書とはその所作なのかも知れない。

    富裕国の37から40%の労働者が既に自分の仕事を無駄だと感じているらしい。無駄なら辞めれば良いが、お金が必要だ。また、何故無駄と感じるのか、無駄とは何か。コロナ禍にエッセンシャルワーカーという言葉が多用された。生活に必須な仕事以外は自粛。そう言われると、確かに、無用な仕事はありそうだ。更に、ここでは、職務に留まらず、同じ仕事における「拘束時間」を問題視する。

    勤務時間中においては労働者の時間はそれを買った人間に所有されているという観念がある。そのため勤務時間中は生産性を上げて余裕の時間が生まれても、自分の好きなことをするわけにはいかない。監視の目があるから、余計な仕事をする。余計な仕事をしないと暇すぎて心が参ってしまうという問題もある。漫画でも読んで待機できれば良いが。この点、一足飛びに労働分配とベーシックインカムにより解決されずとも、コロナ禍のテレワークが社会実験となったように感じる。仕事の早い人間は、テレワーク中に手っ取り早く成果を出し、ブルシットの生まれる余白を自らの時間として手に入れたのだ。

    労働者が実際に行っている事は、フェミニストがケアリング労働と呼ぶものにかなり近い、という本著の発言も響いた。ケアリング労働を有償で交換し合えば、労働者の納得感は増すが、最終的には税務署が喜ぶだけだ。金銭を対価にせずに、つまり、価値比較の無用化とそこから第三者に搾取されぬためには、我々は、信頼と愛をベースに、または単にネット上の承認欲求を満たす仕組みをモチベーションに労働交換比率を高めていくのが良いのだろう。その時、それはブルシットと対極になる。

    思考は尽きない。もっと読みたい、考えたいと思わせる読書だった。

  •  ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)とは何か。なぜそんな仕事が存在するのか。

     ブルシット・ジョブとは働いてる本人すらクソどうでもいいと感じ、そんな自分を騙して働く仕事のことである。給料はいいのに欺瞞のせいでその人は苦しんでいる。だからブルシットなのだ。
    (もし、特定の業種をブルシット・ジョブだと主張する人がいたらその人はグレーバーの論を理解していない。それはただの職業差別で止めるべきだ。)
     グレーバーは自分の仕事がブルシット・ジョブだと訴える数多くの証言を集め(そんな極端なケースが!とも感じたが)、その姿を浮かび上がらせる。

     そして個人がブルシット・ジョブと感じるミクロな問題から、なぜブルシットな仕事が存在し、製造やケアなどの仕事が低賃金化していく中でブルシット・ジョブは増殖を続けていくのかというマクロな問題へ。
     そこには金融などの増大に加え、価値のある仕事はその価値ゆえに対価をもらうべきではないという観念など様々な労働を巡る観念の変遷が関係している。

     大事なのはブルシット・ジョブ減らし非ブルシット・ジョブ(やその賃金を)を増やすということではないようだ(この対立軸をうまく利用したのがトランプ)。価値として数値化しにくいものを数値化しようとすればそこにブルシット・ジョブが生まれる可能性がある。全ては複雑なのだ。
     グレーバーが最後に対策としてあげたのが仕事と生存を切り離すベーシックインカムなのもこの複雑さ故なのではないかと感じた。

     何より大事なのは自分の仕事のブルシット性に目を向けることなのだと思う。全てを変えるのは自分のブルシット・ジョブな部分に気づくことからなのだろう。

     400ページの分量で内容も複雑だがぜひ多くの人に読んでほしい一冊。ブルシット。ジョブの概念で世界の見え方が変わる。
     今年の流行語大賞はブルシット・ジョブで決まり!

  • 世の中には、クソどうでもいい仕事に就いている人がいるらしい

    【感想】
     audiobook.jpで読んだが、文量が多く、翻訳も固めのため、理解が難しい。割と出オチ本というか、タイトルで結論が出ている本。世の中には「クソどうでもいい仕事」がいっぱいある、働いている本人すら意味が無く、社会にとって有害とさえ考えているという。この本を聞いて掴めたのは、そのブルシットジョブの分類くらいだろうか。人類学、社会学の知見が無いと、筆者の分厚い記述を面白がるのは難しく感じた。
     筆者としては、労働や社会の規範が自体が、「労働」という行為自体を必要としているから、無駄な労働も存在している、というような論を主張しているが、なんというか、学説的すぎる。もっと、原因は即物的な気がする。巨大企業のオペレーションなんて、人が完璧にチューニングするのは不可能で、どこかで絶対無駄で意味のない仕事、それが当人にはコントロール不可な状態は必ず発生すると思う。国は人や企業を法律や条例でコントロールしようとしているけど、産業や文化の移り変わりの方が必ず先に起きるわけで。ルールと現状のギャップが起きるのは社会構造上、どうしようもない。つまり、無駄な仕事がある背景は、社会・企業システムやオペレーションの問題だと思う。文化や思想のせいにしても、改善のアプローチが難しいし。

    ■ブルシットジョブ分類
    取り巻き(フランキー)
    ー誰かを偉そうに見せる仕事
    脅し屋(グーン)
    ー存在を他者の雇用に依存する仕事
    尻拭い(ダクトキーパー)
    ー組織の欠陥を解決するための仕事
    書類穴埋め(ボックスティッカー)
    ーやってないことをやったと主張するための仕事
    タスクマスター
    ー仕事を割り当てる仕事

  • 『わたしの第一の目標は、社会的効用や社会的価値の理論を展開することではなく、わたしたちの多くが自分の仕事に社会的効用や社会的価値が欠けていると内心考えながら労働している事実のもたらす、心理的、社会的、そして政治的な諸効果を理解することにある。』
    面白かった!
    最初にタイトルを聞いた時、ビジネス書か自己啓発本かと思ったのだけど、著者は文化人類学者。
    仕事について現在の人々の証言という横の広がり、これまでの歴史という縦の流れと様々な角度から考察し、何で今の世界がこんなことになっているのかを詳しく読み解いていく。
    コミカルな文章で訳もとても良く、読みやすかった。
    グサグサ来ることたくさんあったけど…。
    今後の思考の助けになってくれそう。
    著者の他の本も読みたい。

  • -エッセンシャルワーカーが低賃金な謎を解き明かすラディカルな本

    医療、福祉、家事、教育、育児 etc。
    コロナ禍でエッセンシャルワーカーと持ち上げられ感謝されるが、そこに実質的な市場の原理は働かず、なぜか低賃金、時に無償労働になるケア・ジョブ。
    エッセンシャルゆえに彼・彼女らが消えれば明日にも大混乱になる。一方でロビイスト、XXアナリスト、XXストラテジスト、トレーダーが明日消えても、世界に実質的に与える混乱はないが、高額な報酬を得る。
    この神の見えざる手が及ばぬバミューダ海域は長年の疑問だったけど、本書はピューリタリズムで広まった無償の神性労働と有償の苦痛な労働の固定観念まで遡って解体していく。その過程がロックで心地よい。
    ラッダイト運動の説明は目からウロコ。単に機械への恐怖心による反抗だと思っいたが、実際には工業の黎明期に雇われた女性、子供の収入が、家長である男性(職人)の所得を上回ったために発生したジェンダー闘争?の側面があった(結果、男性を工場で雇用することが義務化された)

    一般的に言われることは、機械が人間の雇用を奪うというのは迷信で、実際にはサービス業への労働人口の大移動をもたらし、先進国の統計上はほぼ完全雇用が達成されたとされる。
    しかしそれはまやかしであり、政治的に生み出された巨大な官僚資本主義により、人為的に生み出された迷宮のような「仕事ごっこ」=「ブルシットジョブ」がその穴埋めをしていただけだった。
    これは今の日本人に1番刺さる内容ではないか?
    省エネ家電、GOTOなんちゃら、オリンピック等々で生み出された事務局の数々とその官僚的複雑さが人為的に生み出す無意味な穴埋め仕事の山。

    資本主義は長らく「生産」要素をファクトリーの尺度でしか測らず、サービス=ケアワークの観点を無視してきた。

    生活をするために仕事をする=生活するために「無意味であっても」仕事的ななにかを作り出さねばならない。

    この矛盾を断ち切る手段が「生活と労働の完全な分離」=ベーシックインカム というのは、若干飛躍が過ぎる気がして、まだ府落ちてないけど、同時に反論する根拠もない。

    なにしろ労働は突き詰めると神学問答、というのはゾクっとした。その固定観念を揺るがした力強い知見。

  • デビッド・グレーバーは、2013年の「ブルシット・ジョブ現象について」と題された小論で、どうでもいい無益な仕事「ブルシット・ジョブ」が世の中に満ち溢れているのではないかという刺激的な仮説を世に問うた。この小論は各国語に翻訳され(例に挙げられた14か国語の中になぜか日本語が入っていない。ラトビア語や韓国語は入っているのに)、様々な議論を巻き起こした。その中にこの論争に関してイギリスで世論調査が行われ、労働者のうち37%が自分の仕事に意味がないと感じていて、不満と考えている割合はそれよりも低い33%という結果が出た。論争や世論調査の結果は著者の想定していた以上のものだったのだ。

    「なにか有益なことをしたいと望んでいるすべてのひとに捧げる」とした本書は、この小論を大幅に拡張して一冊の本にしたものである。小論はそのまま収められているが、そこで十分に掘り下げられていなかったこと ― なぜこの状況が問題視されずになんらかの手が打たれなかったのか ― を探求したものである。ブルシット・ジョブに関する広範な議論やヒアリングの事例が含まれるため、結果とても長い本になっていて、もう少し冗長度を下げて短く(そして値段も安く)することはできたかと思う。またもちろん、その内容について必ずしも賛成するという人ばかりではないと思う。しかしながらそれでも、何かしらの大きな問題提起がされていて、読まれるべき本とひとまず言っていいかと思う。

    【ブルシット・ジョブの定義】
    グレーバーは、ブルシット・ジョブを最終的に次のように定義する。
    「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」

    自分の仕事はこの定義にズバリと当てはまります、正にそうです、という人はもしかしたらそれほど多くはないのかもしれない。ただ、自分でもそのように感じているという主観的評価が定義に含まれているところがここでは大事なところだ。そして、実際にイギリスの労働者の37%がイエスと答えたのだ。

    グレーバーは、具体的なブルシット・ジョブの例として、人材コンサルタント、コミュニケーション・コーディネーター、広報調査員、財務戦略担当、企業の顧問弁護士、などを挙げている。果たして、これらの仕事全部がブルシット・ジョブなのかどうかわからないが、より一般的な観点から整理して、ブルシット・ジョブのカテゴリーとして次のようなタイプの仕事を挙げている。
    ・取り巻き (Flunkies)
    ・脅し屋 (Goons)
    ・尻ぬぐい (Duct Tapers)
    ・書類穴埋め人 (Box Tickers)
    ・タスクマスター (Task Masters)

    このレビューで詳しくそれぞれがどういうものかは書かないが、何となく想像は付くだろう。

    【ブルシット・ジョブの精神的負担】
    グレーバーは次のように書く。
    「わたしが募った証言から強烈に伝わってくることのひとつが、これだ。つまりは、腹の煮えくり返るような不明瞭さである。なにかいやなこと、馬鹿げたこと、途方もないことが起こっているというのにその事実を認めてよいのかさえはっきりせず、だれを、なにを非難したらよいのかも、それ以上にはっきりしないのである」

    自分の社会的価値に疑問を抱きながら働いていることの心理的負担は相当のものだとグレーバーは指摘する。さらに悪いことには、これらのみせかけの仕事がいったい誰のせいなのかがわからないということだ。

    グレーバーは「精神的暴力」と呼ぶ。本来、受ける必要のない暴力である。
    「ブルシット・ジョブは、ひんぱんに、絶望、抑うつ、自己嫌悪の感覚を惹き起こしている。それらは、人間であることの意味の本質にむけられた精神的暴力のとる諸形態なのである」

    無意味な雇用目的仕事がどうしてこれほど人を不幸にさせるのか。本書の最後の方で、フーコーの権力論を援用してブルシット・ジョブに関わる権力構造を分析している。フーコーの権力論は、権力そのものは悪ではなく具体的な個人に集約されているものではなく、逆に権力は社会の中に組み込まれる関係であるとされる。ブルシット・ジョブはそのような社会構造の中から生まれてきたのだ。

    ブルシット・ジョブのような無駄な仕事が市場資本主義の中でこれほどまでの大きさで生まれているのは市場資本主義の逆説である。グレーバーは、ブルシット・ジョブを生み出しているのは資本主義それ自体ではないという。その原因は、マネジリアリズム・イデオロギーだと指摘する。

    【ブルシット・ジョブに関する問い】
    グレーバーは、ブルシット・ジョブに関して三つの次元の違う問いを立てなければならないと指摘する。
    1. 個人的次元: なぜ人はブルシット・ジョブをやることに同意し、それに耐えているのか?
    2. 社会的・経済的次元: ブルシット・ジョブの増殖をもたらしている大きな諸力とはどのようなものか?
    3. 文化的・政治的次元: なぜ 経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか、なぜだれもそれに対応しようとしていないのか?

    この件に限らず、これらの異なる次元を混同して説明しようとするから、議論が発散したり、
    レイシズムにせよ男女平等にせよLGBTQ運動にせよ学歴社会・競争社会問題にせよ社会保障問題にせよ、複雑な社会問題を論じるときにはすべからくこの次元を意識して議論するべきだ。著者が指摘する通り、ブルシット・ジョブ問題もしかり。グレーバーは、特に政治的次元でなぜブルシット・ジョブが社会において問題化されずに増大していくのかという点を論じている。

    これは、労働に関する倫理的価値の問題だとグレーバーは言う。義務であり創造であるという労働倫理感が西欧社会に敷衍したがゆえに、無駄な労働を作ってでも雇用を確保し、さらに労働者がそれに対して異議を唱えたり、そもそも労働を拒否したりすることがないということが起こったと論じる。仕事を全くしないことの引け目を感じることにより、ブルシット・ジョブであってさえも仕事をすることが道徳的に正しいと感じるのだ。グレーバーは、社会学者らしく、ヨーロッパで労働が精神的に義務化され、かつ倫理的に正しいものとなっていった歴史を振り返る。また、これは資本主義の誕生によって賃労働が主になってきたことによって強化された。社会は労働価値説を受け入れ、時間を所有し売買することとなった。その労働倫理は、宗教的にも社会的にも利益があることだった。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で論じたように、仕事は神の恩寵であった。守るべき美徳であった。

    【ベーシックインカム】
    ケインズは、テクノロジーの進化によって二十世紀末までには週十五時間労働が実現されるだろうと予測した。テクノロジーの進化はおそらくはそれを可能にするほど進化したにも関わらず、ブルシット・ジョブが生まれたおかげでそのような社会にはならなかった。完全雇用や、労働の美徳という道徳観から、本来必要のない仕事を多くの人がしていて、それがおかしいことと指摘されず、修正に向けて動くこともなかったからだ。

    ここで持ち出されるのが、普遍的ベーシックインカムである。著者は、政策的解決策としてベーシックインカムを提言するわけではないことを強調する。何となれば著者のポジションはアナキストであるからだ。ただ、それよりもまずは多くの人がこの観点からベーシックインカムを検討してみてほしいというのが著者の意図であるのだ。

    グレーバーは、ベーシックインカムによって金銭的な必要性がなくなった上で人が仕事を選ぶようになるとブルシットジョブではなく、「有益な仕事」をするようになるだろうと主張する。ベーシックインカムの究極的な目標は、生活を労働から切り離すことだと主張する。

    一方でベーシックインカムは政府の肥大化や不経済・非効率を生み出すのではと言われる。それに対して著者によると、ブルシット・ジョブの存在を前提とすると、それらが縮小することから、ベーシックインカムの導入によって政府の経済的な面からも削減される効果を期待できるとも主張する。少なくとも導入されるベーシックインカムにより、国家権力の拡大を招くのではなく、まったくその逆として立ち現れる限りにおいて著者は賛同するのである。そのためには、条件付きではない、普遍的ベーシックインカムが求められる。

    【ベーシックインカム社会と宗教的社会】
    グレーバーは、「本書の主要な論点は、具体的に政策提言をおこなうことにはない。本当に自由な社会とは実際にどのようなものなのかの思考や議論に、手をつけはじめることにある」という。そこで、著者の狙いに沿って、ベーシックインカムが実現されるような社会とはどういう社会なのかを考えてみたい。

    本書の議論を読み進めて頭によぎったのは、新興宗教が成立する条件との親和性である。ちょうど旧統一教会の問題が日々話題になっていることから影響されて連想されたことではある。そこには何か本書の議論で不足している要素のようなものがあるのではと思うので、結論があるわけではないが、少し考えてみたい。

    ある種の閉鎖的な新興宗教においては、その閉鎖的コミュニティが最低限の生活を保障する。一方でメンバーは、そのコミュニティに「有益な仕事」に従事する。そこにはブルシット・ジョブは存在し得ないだろう。そして、そのための経済的な基盤として持てるものが拠出する、という構造である。それを実現するための条件が絶対的な「善きこと」をコミュニティのメンバーが共有することである。この構造は、ベーシックインカムが経済的かつ社会的に成立するための条件と似ているのではないか。政策的な法制度がそれを保証するのか、教義が保証するのか、違いはたくさんあれども、ベーシックインカムが成立するためにはそれを受け入れるための信心・道徳のようなものが必要となってくるのではないかと思う。

    これは、グレーバーの考えが新興宗教に似ているということでは全くない。閉鎖的な新興宗教が成立する構造が、ベーシックインカムを成り立たせる構造とが似ているのではないかということである。逆に新興宗教がグレーバーの考え方をある意味では先取りして、実践をしているのではないかとも思えてくるのである。たとえば、週15時間労働を美徳として、それ以上にお金のために働くことを忌避し、コミュニティのケアのために時間を割くことが当然とされるような社会である。

    そもそも『プロテスタンティズムと資本主義の精神』でマックス・ウェーバーが説くように、資本主義の成立において宗教が説く価値観が重要であった。仕事を天職と捉えて、その成功に邁進し、結果としての富の蓄積を神の恩寵と捉える精神が涵養されたことがプロテスタンティズム国家によって資本主義が発展したことと相関性が認められるという主張だ。ベーシックインカムのように社会的価値を生産性や労働価値といった既存の価値観から大きく変化させるような社会学的かつ人類学的な思考の押し寄せる大きな変化が必要ではないかと思う。それはもちろん宗教であるとはいかないだろうが、これまでの資本主義的価値観が大きく変わるような社会的変化が求められるだろう。それは、もちろん起きえないことではなく、常識や倫理観などは思うよりもたやすく変わる。最近でも、レイシズムやセクシズムの世界で起きた。課題はこの問題において、特に労働と社会的価値観において、そういった倫理観のシフトが社会全体で起きうるのかということだろう。

    【まとめ】
    著者は、ブルシット・ジョブという多くの人の眼からは見えていなかった事象を見えるようにして取り出して、その分析を行った。その上で、著者は普遍的ベーシックインカムの導入について論じて、導入を視野に入れた議論が行われることを望んだ。それは高齢化社会における社会保障の問題と大きく絡んでくるだろう。
    グレーバーは、ブルシット・ジョブの問題は三つの次元において問われるべき問題だと言った。「ブルシット・ジョブ」はベストセラーにもなり、ワードとしてはそれなりに世間には広まった。しかし、ともすれば個人的次元の問題のように捉えられがちであったブルシット・ジョブの問題を、本来問われるべき文化的・政策的次元から問うべき問題だと理解するためにも、「ブルシット・ジョブ」というワードと紹介記事だけを読んでわかったような気にならないように、ちょっと長いけれどやはり読まれるべき本だというのがひとまずのまとめになる。決して、シンプルな問題ではないのだから。

    とはいうもののやはり長いし高い、という人には、新書で『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』という本が出ていて、かなり忠実なまとめになっているので、いったんはこちらで読むのもお薦め。

  •  本書内での「ブルシット・ジョブ」の最終的な実用的定義は「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害である有償の雇用形態である。とはいえ、その雇用形態の一環として、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている。」とされている。
     本書はグレーバーがブルシット・ジョブについて書いた小論文に対する多数の反響を元に、今まで誰も触れたがらなかった事象を白日の下にさらす目的で書かれた。
     ブルシット・ジョブの分類として、「取り巻き」や「尻拭い」など5つの分類が示されるが、部分的に自分の仕事にも当てはまると感じる要素であり、世の中にも多く存在しているのではないかと感じる。
     本文中に出てくる軍のパソコン移設に関するブルシット・ジョブのように、ほんの少しの変更のために費やされる申請・承認・派遣といった不要なプロセスが世界に蔓延っている。
     それはなぜか。資本主義による熱狂と共に人類は経済的により豊かな生活を獲得することができた。より多くを生み出し、より多くを消費するサイクルを回し続けることで、ますます人々は「豊かな生活」を手にすることができた。資本主義による「無限の成長」を目指し、それを実現させることに熱中した。その結果、何が起きたか?それは成長し続けなければならない企業・組織による必要以上の肥大化である。本来であれば必要ではないであろう人員を大量に採用し、見せかけの仕事=雇用目的仕事を行わせることにより企業・組織としての「力」を示すのである。この資本主義による欺瞞こそがブルシット・ジョブの本質である。
     そこから抜け出すにはどうすべきなのか。本書では具体的な解決策を論じることを控えているが、ユニバーサル・ベーシック・インカムのような人々への公正な再分配とケア労働(本当に必要とされる仕事)への人員の再配置が必要ではなかろうかとされている。
     私が思うに先進国では今後特に人口減少の流れが進んでいく中で、今ある仕事のすべてをまかなうことは不可能ではないかと感じる。人々にとって本当に必要な仕事・物事を明らかにして、そこに集中的に人を配置していくことが社会にとって必要だと思う。社会の一端を担う人として何ができるのか、考え続けたい。

  • <ブルシット・ジョブ>とは
    ⇒「被雇用者本人さえ、その存在を正当化しがたい、無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態」

    「社会的貢献度の高い労働が搾取され、ブルシット・ジョブが高い報酬を得るのはなぜか?」
    「自動化が進んでも、ケインズが予測した週十五時間労働はなぜ達成されないのはなぜか?」
    「仕事のブルシット部門がより膨張し、実質ある仕事のブルシット化も進むのはなぜか?」

    資本主義の原理によって効率化されるはずの民間企業でもダミーのホワイトカラーの仕事が無数につくりだされるおびただしい事例や、アンケートや聞き取りをもとに、ブルシット・ジョブに就く多くの被雇用者自身が社会に貢献していないと感じている現状を提示し、現代社会に上記のような問題が存在することを示したうえで、その原因を探る試みです。

    著者はその理由としていくつかのポイントを挙げます。
    ・経済ではなく政治によって分配がなされる、認識自体が難しい経営封建制の成立
    ・「仕事は罰であり、仕事をしないことは悪」とする、宗教由来の潜在的な価値観
    ・「ケアリング労働」のような数量化しえないものを、数量化しようとする欲望の帰結

    2011年のウォール街占拠運動にも携わったことでも知られる著者は、具体的な業界としては金融業(次に情報産業など)を最も多く俎上にあげており、経済の金融化がブルシット・ジョブの増大に大きく関与しているとしています。ホワイトカラーの増大が効率性とはなんの関係もない例としては、ユニリーバに買い上げられた工場に関する実例(P235)が象徴的な事例となっています。また、「ケアリング労働」に関する言及も多く、仕事の本質は搾取の対象となりやすい「ケアリング労働」にあり、今後は自動化が進むことによって益々その割合が増大するという指摘も重点です。

    終章では、「本書は、特定の解決策を提示するものではなく、ほとんどの人々がその存在に気付きさえしなかった本」だとしながらも、具体的な対策について述べています。読み終えて、現在、自分自身が生きる社会そのものがフィクションのように感じられました。

    以下は参考までに、各章ごとのメモの一部を残します。
    ----------
    【序章 ブルシット・ジョブ現象について】
    本書の原型となる2013年寄稿の試論とそれへの反響。
    【1.ブルシット・ジョブとはなにか?】
    「ブルシット・ジョブ」の定義。殺し屋や王などの特殊な例から境界を考察する。
    資本主義下において社会主義体制にあったようなダミー仕事が増殖する現状。
    【2.どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?】
    ブルシット・ジョブの五分類
    →取り巻き/脅し屋/尻ぬぐい/書類穴埋め人/タスクマスター(不要な上司/不要な仕事生成)
    【3.なぜ、ブルシット・ジョブをしている人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか?】
    人間とは本質的に社会的な存在であることについて。
    産業革命以降の「時は金なり」という新しい価値観。
    【4.ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか?】
    人間の時間が他人の所有物になりうるという発想の社会的・知的起源。
    ソーシャル・メディアの台頭の理由。
    【5.なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?】
    近年、急速に増加するブルシット・ジョブの仕事の割合。
    ホワイトカラーの増大が効率性と関係がない例と、増殖する不要な管理者とその業務。
    経済の金融化と情報産業の発展、そしてブルシット・ジョブの増殖のあいだにある、内在的な関係。
    【6.なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?】
    政府や企業のトップが不在でも支障がなく、ごみ収集事業者がストを行っただけで街が居住不能になった例。
    自己目的化した労働の道徳性。
    仕事の定義と宗教的な価値観について。
    経営封建制の特異な性質。
    【7.ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?】ブルシット・ジョブの増殖を駆動している経済的諸力。
    「価値」と「諸価値」について。現在進んでいるのは、諸価値を価値の論理に包摂せんとする企て。
    ケアリング労働と数量化しえない仕事の重要性。
    現状に対応するための政策について。

  • ろくに仕事もしていない私であるが、最近切実に「仕事」について考える。今の私にぴったりの本であった。

    ケインズは1930年に20世紀末には「週15時間労働」になるって予言していたのか。
    表紙カバーの紹介文を読むだけで読みたくなる。

    難しいかと心配していたがそういうことはなく、とても饒舌で、楽しくてタメになるおしゃべりを聞いているような感じで読めた。
    日頃なんとなく思っていたことを言葉にしてもらったような部分もあるし、私にとっては初めての、でもとても納得できる知見もたくさん得られた。

    抜き書きしたいところが多すぎる。要点だけではなく、例え話等込みで大量に抜きたくなり…
    図書館で借りて読んだのだが、この本もちょっと高いけど買うべき本である(言い訳をするなら、買えば多分積読になる、私の場合。図書館の返却期限があってこそ読める)。




    "ひとは、たんにそのプロセスが不条理であるから苦しむだけではない。あらゆる官僚制的儀式と同じで、実質的な作業よりも、それをプレゼンし、評価し、管理し、議論することにはるかに多くの時間を費やさねばならないがゆえに苦しんでいるのである。" 241ページ

    "報酬が多く人気もあるが究極的にはブルシットであるようなオフィス仕事" 250ページ

    "第一に、仕事をすることで得られる最も重要なものは、(1)生活のためのお金と、(2)世界に積極的な貢献をする機会であるということ、第二に、この二つには倒錯した関係性があるということ。すなわち、その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなるということ、である。" 271ページ

    "ブルシット・ジョブが惨めさを生みだしているのは、世界に影響を与えているという感覚のうちにつねに人間の幸福が織り込まれているがゆえである。この感覚は、仕事について語るさいには、たいてい社会的価値が大きければ大きいほど、受け取る対価は少なくなるだろうということにも、たいていの人が気づいている。そしてアニーのように、多くの人びとが、子どものケアのような有用でありかつ重要な仕事をやるか(他人を助けることで得られる満足感それ自体が見返りであり、それ以上の報酬は期待すべきでないと説教されつつ)、あるいは無意味であり自尊心を傷つけられる仕事を受け入れるか(原因はなんであれ心身ともに破壊するような労働に就かないような人間は生きるに値しないという浸透した感覚以外にとくに理由もなく、心身を破壊されつつ)、選択を迫られている。"
    315ページ

    "労働のなかにあって、苦行である度合いを低くしたり、むしろ楽しいものにしたり、他者のためになっていることへの満足をおぼえさせたりする、そのような要素はすべて、その労働の価値を下げるものとみなされるということである—そしてその結果、報酬の水準を低くすることが正当化される。(略)
    私たちの労働が強化されているのは、わたしたちが奇妙なサドマゾヒズム的弁証法を発明してしまったからなのだ。その弁証法のおかげで、私たちはひそやかな消費の快楽を正当化するのはただ職場での苦痛のみであると感じてしまうのである。それと同時に、ますます仕事が睡眠時間以外の生活を侵食するようになっているという事態は、わたしたちが(略)「生活(a life)」という贅沢を持ち合わせていないこと、逆にいえば、時間を割く余裕のあるものといえばひそやかな消費の快楽のみであることと裏腹である。カフェで一日中政治について議論したり、友人の複雑でポリアモリーな恋愛事情のゴシップを報告し合うのには、とても時間がかかる(実際一日丸ごと必要だ)。それとは対照的に、バーベルを上げたり、近所のジムでヨガ教室に参加したり、デリバルーに宅配を頼んだり、『ゲーム・オブ・スローンズ』を観たり、ハンドクリームや家電を買いにいったりといったことは、たとえば仕事のあいまとか休憩時間とか、どれもきっちりた定められた時間枠のなかで実行可能である。これらはどれも「代償的消費主義(compensatory consumerism )」とわたしが呼びたいものの例証である。それでもってわたしたちは、生活の持ち合わせがないという事実、あるいはあるとしてもかぎりなく乏しいという事実を埋め合わせることができるのである。" 319ページ


    この後も抜き書きしたいところがいくつもあるのだが、もう無理。

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著者プロフィール

1961年ニューヨーク生まれ。ニューヨーク州立大学パーチェス校卒業。シカゴ大学大学院人類学研究科博士課程(1984-1996)修了、PhD(人類学)。イェール大学助教授、ロンドン大学ゴールドスミス校講師を経て、2013年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。2020年死去。
訳書に、『アナーキスト人類学のための断章』(2006 年)、『負債論──貨幣と暴力の5000 年』(2016 年)、『官僚制のユートピア』(2017年、共に以文社)、『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(2020年、岩波書店)ほか。
日本語のみで出版されたインタビュー集として『資本主義後の世界のために──新しいアナーキズムの視座』(以文社、2009 年)がある。
著書に、Lost People: Magic and the Legacy of Slavery in Madagascar (Indiana University Press, 2007), Direct Action: An Ethnography (AK Press, 2007). ほか多数。
マーシャル・サーリンズとの共著に、On Kings (HAU, 2017, 以文社より刊行予定)、またグレーバーの遺作となったデヴィッド・ウェングロウの共著に、The Dawn of Everything(Farrar Straus & Giroux, 2021)がある。

「2022年 『価値論 人類学からの総合的視座の構築』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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