- Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000614962
作品紹介・あらすじ
同時代人への哀惜をこめ、感傷に流れず過去を検証する。著者畢生の「晩年図巻」シリーズ待望の続編は、〈ミレニアム〉に湧き立った二〇〇〇年から、誰もが言葉を失った二〇一一年三月一一日まで、平成中期に世を去った八〇人の晩年を描き出す。本巻には元祖『人間臨終図巻』の山田風太郎、古今亭志ん朝、張学良、ナンシー関らを収録。
感想・レビュー・書評
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「人間晩年図巻」の3冊目。
本書は2021年10月の発行で、2000年-2003年の間に亡くなられた方々が紹介されている。紹介されている主な方々で、興味深く読んだのは、青江美奈、大貫久男、山田風太郎、ナンシー関、ネルソン吉村大志郎、といった方々。
2000年はバブルがはじけて10年、「失われた10年」という言葉を実際に使っていたかどうか。シドニーオリンピックが開催された年。
2001年はアメリカでの同時多発テロが発生した年。貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像を今でも覚えている。その実行犯の1人が本書で取り上げられている。
2002年は日韓ワールドカップの年。日本でのチケットが入手出来ず、韓国まで観戦に行った。
2003年はスペースシャトル、コロンビア号の事故の年。
ミレニアムから21世紀に入る時期。
私的には、2003年からイギリスに留学した時期。その後の職業人生を考えると、とても大事な決断であり、経験であった。
そういったことを考えながら読んだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
新年早々どうなのかと思ったが、正月こそ、人の生涯とその最期を知り、思いを馳せるのに相応しいような気がしてきた。
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知っている人はそうかと思うが、知らない人で関心もない世界の人は全然わからない。しかし、ここに出てくる人はちょっと変わっている。
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仙波龍英、梶山静六、青江三奈、吉田清治、大貫久男、並木路子、田山幸憲、山田風太郎、モハメド・アタ、古今亭志ん朝、張学良、左幸子、ビリー・ワイルダー、トール・ヘイエルダール、柳家小さん、矢川澄子、ナンシー関、岡田正泰、伊学準、安原顕、天本英世、加藤大治郎/阿部典史、チャールズ・ブロンソン/西村彦次、ネルソン吉村大志郎の晩年を収める。仙波龍英から始めるなど独自の人選の姿勢は変わらない。従軍慰安婦の嘘を騙り続けた吉田清治、パチプロの田山幸憲、テロリストのモハメド・アタ、オートバイレーサーの加藤大治郎/阿部典史、サッカー選手のネルソン吉村大志郎など、この本でその人生を知った人も多い。合掌。
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続きが出たのか。図書館でもぎ取るように借りる。
「ナンシー関」から読んでしまう。それではいけない、と最初から読み始める。
採り上げられた26人中、知っていたのは18人。尹学準など、著書『オンドル夜話』を読んでいるのに名前を失念していた。
母体となった『人間臨終図巻』の著者 山田風太郎が選ばれたのは当然としても感慨深い。
モハメド・アタって誰、と思ったら9・11テロの実行犯。現代史を語る上でスポットを当てたのだろう。
安原顯の闘病は身につまされた。
意義深いシリーズ、年鑑のように続いてほしい。 -
安原顯と山田風太郎の晩年が心に残った。
両者とも幼少から筋金入りの本好きで、安原は気に入った本は3冊買っていた(盗んでた?)し、山田は食糧を求めた行列の中でも本を手放さなかった。
これだけ本を愛し執着を寄せた読書人の晩年は、対照的だった。
安原は「死ぬ前に、あと一冊でいいから面白い本を」と余命半月もない時期に、一度に本を16冊も注文している。
一方で山田の晩年の楽しみは、夫人と共にする夕食で、ウイスキーを飲みながらテーブル狭しと並べられた手料理を、ただ眺めることだったという。
著者は戦時中の食糧難の反動だろうと記している。
本書を読むまで安原による生原稿流出騒動を知らなかったし、村上春樹による追悼・回顧エッセイもはじめて読んだ。
安原の態度が突然と豹変し、それまでの良好な関係から自身を口汚く罵倒し始めたキッカケを、読んでくれと渡された安原の小説に対する自身の反応だったのだろうと推測している。
「どうしてこれほど興味深い人物が、どうしてこれほど興味を書き立てられない小説を書かなくてはならないのだろう、首をひねった」とは村上の弁。
もちろん本人の前では、良い部分だけを取り上げ褒めたらしいが、安原は相当傷つき、根にもったのだろう。
村上の自筆の原稿が安原の手によって、無断で古書店に売却されていたと知り、本人の死とともに、さらに他に悼むべきことができたことが本当にやるせないと回想の最後で締めくくっている。
「人の死は、ほかの何かの生命を道連れに携えていくものなのだろうか」という一文に、万感が込められていて、ちょっと村上春樹の小説を読んでみようかという気にさせられた。
同時に、安原の書評も読んでみたくなった。
辛口の域を超えていて、二言目には「グズ、バカ、チンケ」と罵倒するというのだから恐ろしい。
大江健三郎は賞の選考委員をやめると怒り、実は著者も安原の被害に遭っている。
認めるものは認めるが、気に入らないものに対する批評家としての姿勢は、断固としていて、しかも過激。
ただ、自身もその洗礼を浴びた著者もどうして、児玉清司会の週刊ブックレビューでは、視聴者がハラハラするほど、厳しい書評ぶりだった記憶がある。
生前にインタビューして本まで出している山田風太郎の章は、著者の筆も思い入れが込もっていて、読んでて面白い。
「いまが日本の絶頂だったと気づくはず、あとは下り坂だよ」と未来を暗示したり、「人間には早過ぎる死か、遅すぎる死しかない」と見事な警句を語っていたが、古今東西歴史上の人物で印象に残る辞世の言葉は?という問いに、間髪を入れず勝海舟の「コレデオシマイ」と返すところがグッときた。
あと、これは『戦中派不戦日記』の中の一節だが、終戦間近の4月に、桜の木の下に行き交う人々を描写した詩のような一文は、本当に忘れがたい。
「花の下ゆく人、春来れる明るさと、運命の日迫る哀痛の表情溶け合い、またこれ雨にけぶりて、ふつう日本人に見られざる美しき顔を生み出せり」
「およそ人間のやることで、自分の死ぬことだけが愚行ではない」
「死は推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやって来る」 -
渋い仕事だ、と思う。いずれは誰もが死ぬ。その死と、そこから照射されるその人物の生を描き出すこと。そこにどんな感傷も込めないでただ淡々と描き切ること。それがこの本では試みられる。従って読んでいて楽しくなる本ではない。自分にも想定外/予想外の形で死が訪れることを思い知らされて辛くなる、と思う。だが、死ぬからその人物はムダに生きた、ということにはなるまい。誰もがその人に課せられたミッションを引き受け、こなし、そして死ぬ。そうした生の過程が平等な強度を以て記される。そこにこの本の美点はある。なかなか手ごわい一冊だ
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まあ、面白いけれど、山田風太郎の「人間臨終図巻」ほどの網羅性がなくてどういう基準でこれらの人々を選択したのか著者の意図が読み取れなかった。古今亭志ん朝と柳家小さんの節は面白かった。