- 岩波書店 (2023年12月26日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (286ページ) / ISBN・EAN: 9784000616164
作品紹介・あらすじ
「わたしの家も、この街も、置いていけばゴミになるの?」 「ゴミ」「星」「林檎」……戦争の体験は人が言葉に抱く意味を変えてしまった。ウクライナを代表する詩人が避難者の証言を聴き取り、77の単語と物語で構成した文芸ドキュメント。ロバート キャンベルが現地を訪ねて思索した手記とともに、自ら翻訳して紹介。
みんなの感想まとめ
戦争の影響を受けた人々の生の声が、心に響く言葉として表現されています。ウクライナの詩人が集めた77の単語と物語は、戦争という過酷な現実の中で変わりゆく言葉の意味を探求し、日常の中に潜むさまざまな感情—...
感想・レビュー・書評
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戦禍にあるウクライナの人の生の声。それと日本語翻訳を担当したキャンベルさんのウクライナ訪問記という2部構成。日本にはいま時代を逆行する憲法「改悪」の流れがあるが、どうせやるなら権力者や資本家や役人が国民を害する決定を下せないことを明文化する「改正」のムーブメントを起こせないものだろうか。
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2022年2月24日のロシアの軍事侵略により、主に東部在住のウクライナ人は西部などに避難することになった。鉄道の乗換駅や、西部の都市で避難民を受け入れたり援助活動をするウクライナ人の詩人は、避難者たちの言葉を書き取った。
この原書を知ったロバート・キャンベルがウクライナを訪ねて見たこと、インタビューしたことも収録されている。
まだ渦中にある当事者の言葉って、憎しみとか怒りとかではなくて、本当に日常に基づいたものが多いんですよね。今まで親しんでいたものが変わってまったこと、自分も大変だけど他の誰かを痛ましく思う気持ち。
チョーク:「たすけて」の文字とその下に落ちていたチョーク。このチョークを持って「助けに来たよ」と言えたらどんなに良いか。
バスルーム:戦争前は心身リラックスする安全地帯だったバスルームは、戦争が始まってからは爆撃のときに身を守る安全地帯になった。
ココア:避難者たちはココアを飲みたがった。みんな甘いものが必要なんだ。今はココアをたくさん用意しているけれど、避難者があまり来られなくなってしまっている。
テトリス:避難の荷物をスーツケースに詰め込むためにテトリスをやっていたのだろうか。
ココア:避難者を乗せた列車が着く駅でココアやお菓子を用意している。みんな甘いものが好き。こんなときには余計に。攻撃が激しくなり避難者が降りてこなくなった。ココアも用意しているのに。
ゴミ:この家も、私も、置いていったらゴミになるの?
ロバート・キャンベルによるインタビューや聞き取りもあります。
避難所となった劇場は閉じることはせず、避難者の前で演じた。子供たちは「あの白い服を来た女の人は、死んだ人だね」などと話していて、劇場の人たちは「避難者につらい思いでを主出させてしまったのか」と思う。だが医師は「見えるものにして、再構築することは、前に進むために必要なのです」という。こんなことでも避難者のためになるのであれば。
ロバート・キャンベルの講演に、学生は「平和をめざすというより、勝利を目指すと言ってほしい」という。漠然とした美しい言葉だけの平和では、すぐに破られる事がわかっている。実際ロシアは冬のオリンピック年の3度に渡り侵略してるし。
現在侵略されているのウクライナの人々の言葉は、憎しみとかではなく、以前は日常だったものが今では全く変わってしまったことへの静かなつぶやきが感じられた。そして当事者には「平和」は、結局は勝たないと実現されないよね、って感じているんだな。 -
ウクライナの人々の日常に起きている生きている言葉
物々しさだったり、ユーモアだったりと
いろんな感情が垣間見れる
後半は、この本をまとめるにあたっての話しだったが
そちらは端折ってしまった -
アレクシェーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」が過去から現代に現れてしまった。
死と隣り合わせになることで、人生が詩になってしまうと言う皮肉。
自由
「自由といえば、誰かがかわりに手に入れてくれるものではありません。誰かが与えてくれることもなければ、プレゼントしてくれることもなく、誰かに期待することはできないものなんです。自分の手で作る以外にない、ということです。そう、ハンドメイドですよ(笑)。自由を作る工場なんて存在しません。量産品ではないのです。」
「今年の三月八日、女性たちには生と死が配られることになりました。わたしたちは、生の方をもらいました」 -
ポッドキャスト番組をきっかけにこの本の存在を知った。
現時点でも放送回のアーカイブが残っていて、訳者の名前や本のタイトルで検索すればいくつかの番組がヒットする。
自分のこの感想を読むよりも、そちらを聴いた方が参考になると思うので、興味のある人は聴いてほしい。
『戦争語彙集』は、ウクライナの詩人オスタップ・スリヴィンスキーが、避難者たちの支援ボランティアをする中で聞き取りした言葉をまとめたものだ。
スベトラーナ・アレクシエーヴィチ作品のような聞書き集をイメージしていたが、本の構成としては辞書に近かった。
ロシアとの戦争が始まったことで、それまで使っていた言葉の意味が変質したり、新たな価値基準が加わったりしてしまう。
以下は印象に残ったエピソード。
「ナンバープレート」
ロシアからの砲撃を受けた車の中から遺体を引っ張り出して埋葬する。
身分証明書を持っていなかったり、原形をとどめないほど焼かれてしまったりして、身元を特定できない人がいる。
埋葬したあとで誰かを特定する手がかりになればと、墓標代わりにナンバープレートを引っかける。
平時にはただ車を識別するためだったものが、戦争中は別の役割を持つ。
「焼き網」
電気も水道もガスも街から消えたあと、住民たちは家の外に出て野外調理を始めた。
ある人はレンガを積んで、その上に扇風機の前ガードを置いて焼き網に仕立てた。
白い湯気がもくもくと出ている野外調理の最中に、その向かいの団地では窓から炎が上がっている。
「『近い』と『遠い』」
距離感も変わる。
【遠い】
・爆発の最中のベッドと廊下との間の距離
・ガソリンスタンドと検問所に並ぶ長蛇の列を通過しなければならない、キーウとヴィンニツヤとの距離
【近い】
・敵軍の発射物が着弾した地点までの距離
・ペット用のキャリーバッグを使わず三匹の猫を車に乗せ運転したときの、ヴィンニツヤとキーウとの間の距離
「きれいなもの」
ある女性が第二次世界大戦について書かれた話を思い出す。
女の子がナチスに目をつけられ性暴力をされないようにと、母の最もみすぼらしい服を着てやり過ごしたというエピソード。
「わたしは、箪笥(たんす)の前でおろおろしています。もう『最もみすぼらしい』服を着る時が来ているのだろうか」
「戦争では、きれいなものが危険になります。きれいなもの、人、関係は、今や、心を動かすためではなく、根こそぎ潰されるためにあります。憧れと愛撫のためではなく、苦しみのためにあるのです」
この他にもさまざまな言葉がウクライナ語のアルファベット順に並べられている。
まるで辞書の用例採集のようでもある。
「スモモの木」や「おばあちゃん」の話は、まるでひとつの物語のようだ。
大切なものを守ろうとすると、人は恐怖心を克服できるのか。それとも心中するような気持ちだったのか。
皮肉交りの呼び名や笑えるエピソードも多い。
ロシア軍の姿が見えたら「『お客さん』が来た」と言う。
あるいは「ラシスト(ロシアのファシスト)」や「オーク(人食い鬼)」と呼ぶ人もいる。
ロシア軍からの砲撃については「祝砲(サリューティ)を撃ってきた」と皮肉る。
「シャワー」の話では、砲撃中にはシャワーを浴びるのをオススメしないと書かれている。
理由は、そのタイミングで砲撃を食らったら、ケツが泡だらけの姿で発見されてしまうから。
「稲妻」の話も面白い。
高校生時代に稲妻のタトゥーをノリで彫った。
そのタトゥーの形がSS(ナチス親衛隊)のシンボルマークを連想されるのではないかとヒヤヒヤして、ロシア側の検問所を通るときは怖かった。
しかし、そのピンチを救ったのは本物の稲妻だったというオチが最後につく。
このへんのエピソードについては、戦争に関する本だから、笑って読んだら不謹慎なのではないかと思い込み、なんとなく眉間にシワを寄せて深刻に読んでいた。
しかし、訳者のロバート・キャンベルの手記を読んだら、そのまま笑いながら読んでもいいのだと気づかされた。
当たり前のことだが、戦争中にもユーモアはある。気張り過ぎだったなと、ちょっと恥ずかしくなってしまった。
この本は二部構成になっている。
前半はおもに詩人のオスタップ・スリヴィンスキーが聞き書きした言葉を集めた「戦争語彙集」になっている。
そして、後半には訳者ロバート・キャンベルがウクライナを訪れたときの手記が書かれている。
訳者のキャンベルは、まずインターネットで著者のスリヴィンスキーに連絡をとったあとで、実際にウクライナに足を運ぶことを決意する。
ポーランド経由でリヴィウに着き著者と会う。
どのような経緯でスリヴィンスキーが避難者たちの支援するボランティアに加わり、言葉を集め、ネット上で発表し始めたのかが語られる。
その後、首都キーウの出版社で文芸の編集者をしているボランティアスタッフも話に加わる。彼女もいくつかの言葉の採録に関わっている。
キャンベルは翌日、リヴィウの人形劇場に向かい、芸術総監督から話を聞く。
ロシアの侵攻開始後、その劇場は避難所になった。
前半に収録されている「沈黙」と「歯」は、ここで聞き取られたエピソードだ。予備知識なしで読んでも十分に通じるが、この手記を読んでさらに理解が深まった。
この劇場では男性職員が徴兵された。照明担当、舞台装飾担当、俳優の3人。
建物の中には大勢の避難者がいて、さらに職員の人手が不足している中でも、この劇場では作品を作って上演し続けた。
危機的状況が続く中で、いかにして避難者たちの心の傷を分離させていくか、あるいは支援者たちが燃え尽きないように気をつけているかが語られる。
次に、350年以上の歴史をもつリヴィウ国立大学を訪れる。ここには東洋学科があり、キャンベルは日本文学担当の教員や学生たちと交流する。
まずは21世紀の日本文学の作家として、平野啓一郎や柳美里、木村紅美、村田沙耶香の作品について講義する。
そのあと、事前に『戦争語彙集』を読んできた学生たちとキャンベルが、印象に残った作品について感想を語り合う。その中には、自分の身のまわりで起こった話をする学生もいる。
ここでのやりとりを読んで、まるで一緒に授業を受けているような、あるいはウクライナの学生たちと読書会をやっているような、そんな気持ちになった。
その後、キャンベルはブチャの団地やリヴィウの仮設住宅、キーウなどに行き、避難者たちの話を聞く。
ブチャは大規模な虐殺と拷問が行われた場所だ。
ポーランドへの避難から戻ってきたら、家の中が荒らされ略奪されていた人。「最後の夜になるかもしれないから」と、寝る前に何度も妻とお別れの挨拶をした人。カホウカ・ダム爆破による洪水で農地が塩沼になり、ウクライナ南部にある故郷に帰れなくなった人。破壊された住宅を修理するボランティアをしている人。
印象に残っているのは、この本の表紙イラストを描いた画家の話だ。
破壊された家をすぐに再建することはできないが、花壇を作るのは可能だ。だから、再建がままならないのに、手入れの行き届いた菜園や花壇、庭がある家が多いという。
この話を読んだあとで表紙を見返すと、黒い背景に浮かぶユリにまた違った意味を見出だせる。
リヴィウ国立大学の学生は言う。
「この『戦争語彙集』という本は、残念ながら、第二部、第三部と、これから戦争が終わるまでは続くと思います」
そして、悲しいことにまだ戦争は終わっていない。
著者のスリヴィンスキーはこのプロジェクトを戦争が終わるまでやり遂げるつもりだという。
また訳者のキャンベルは、これは他言語へ翻訳も含めての継続中のプロジェクトだという。
発売されてから1年半近くたつが、いま読んでも遅いということはない。 -
作品紹介にある通り、ウクライナ戦争により心身共に傷ついた市井の人々の生の声を元にした詩だ。
ニュースやドキュメンタリーとは異なり、直接心に響く。
後半はロバートキャンベル氏が、実際に詩の元になる証言をされた方々との会話を中心に、その心情に触れる。
食べもの
東部地域からやってきた家族を一晩お世話することになりました。
台所に案内して言いました。「ここがキッチン。食卓にある食べものを召し上がってくださいね」。
その瞬間、彼らは泣き始めたのです。「キッチンにある食べものを、召し上がってくださいね」という一言で。
安らかな場所で食べることができる幸せ。
何でもない日常が、彼らにとっては至上の喜びだったりする。
自由
自由といえば、誰かが代わりに手に入れてくれるものではありません。誰かが与えてくれることもなければ、プレゼントしてくれることもなく、誰かに期待することはできないものなんです。自分の手で作る以外にない、ということです。そう、ハンドメイドですよ(笑)。自由を作る工場なんて存在しません。量産品ではないのです。
そう、彼らにとっては自由も死を尽くして獲得するものなのだ。
・私たちが二つの世界大戦で体験したように、戦争は非常に早く場所を変えることが可能なのです。人間の残虐さと人間の優しさには、限界も無く、国境も無い。私たちは正しい側に立つべきです。
彼らは、全世界の人に正義というものを訴えている。
・普通の人々の死に対して無関心であってほしくないです。100人が死亡したというニュースや統計があるとき、それは単なる数です。でも、そこに語られた言葉があれば、それは感情です。
亡くなった人たちには、それぞれに歴史があり、感情があったことを忘れてはいけない。
・(なぜ戦争をしなければならないのか?と言う)問いはもちろん大事です。けれど今、わたしたちは圧倒的な、一方的な暴力にさらされています。生きるか死ぬかの瀬戸際にずっと立たされています。善い戦争というものはない、いつなんどきでも武器を捨てなさい、平和を第一に、そういうことなのか。そのような問答であるなら要りません。今は、そのことを問う時期ではないのです。「平和」の代わりに「勝利」と言ってください。
ふわっとした着地点の見えない「平和」では、むしろわたしたちの言語も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです。
表紙の美しい絵も、ウクライナ人のアナスタシアさんによるものだ。
ロシア(プーチン)の理不尽さを、改めて感じた一方で、このような状況で、私たちはどうすべきかと考えさせられた。 -
この本におさめられているウクライナの市井の人たちの言葉は、とても深刻で、時に可笑しくも美しくもあります。日常生活に戦争が入り込んでしまった人たちにとっては、普通の言葉、単語ですらとても重い物語を持つのだと実感されました。ただそのような言葉、物語を語ることで救われることもあるのでしょう。キャンベルさんの、「言葉もシェルターになれるのではないか」という問いがとても響きます。
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2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻を始めた。
普通の暮らしを営んでいた人々は戦火に見舞われた。危険の中、留まる人もいれば、ウクライナ西部へ、さらには国外へと逃れた人もいた。いずれにしろ、それまで築いてきた家や財産を奪われ、将来設計を覆され、先の見通しが立たない絶望の淵に立たされた。戦闘そのものがいつ終わるのかもわからない。
そうした中、西部リヴィウに逃れてきた人々の支援活動を行っていたウクライナの詩人、オスタップ・スリヴィンスキーがいた。彼は避難者の世話をする傍ら、彼らの話を聞き取り、一話一話を書き留め、文芸ドキュメントとした。書籍は2023年5月にウクライナで刊行されたが、それに先立ち、原稿がインターネット上で公開された。この一部が英訳され、ネットニュースとなった。
これに目を留めたのが本書の訳著者であるロバートキャンベルである。キャンベルは著者スリヴィンスキーと連絡を取り、邦訳の許可を得た。さらに、戦時下のウクライナを訪ね、著者や証言者に実際に会うことにした。23年6月の2週間余りの取材の様子は、テレビ番組(ETV特集『戦禍に言葉を編む』)としても放映されている。
本書は二部構成で、前半がウクライナ語で刊行された『戦争語彙集』の邦訳(英訳からの重訳)、後半が「戦争のなかの言葉への旅」と題するキャンベルのウクライナ訪問記である。
『戦争語彙集』は、1つ1つの言葉から想起される、それぞれの避難者の短い「物語」で構成される。
「バス」「スモモの木」「おばあちゃん」「痛み」「稲妻」といった普通の言葉が、戦時下ではどんな意味合いを持つのか、持たされてしまうのか。
例えば、普段なら車についている「ナンバープレート」は、砲撃された車から見つかった身元不明の遺体の墓標となることもある。埋葬後、遺族が探し当てる目印となるように。
例えば「星」。夜空にきらめく星ではない。窓ガラスが砕け散るのを防ぐため、縦横斜めに張られたテープ。朝の光を浴びると壁に星のように映る。
例えば「猫」。あるおばあさんは大事な猫をキャリーバッグに入れて避難しようとしていた。ところがあまりに大きすぎ、非難の妨げになっていた。一緒にいた女性は置いていくよう説得し、おばあさんは泣きながら置いていく。猫とおばあさんは再会できたのだろうか。
後半の「戦争のなかの言葉への旅」では、断片的な物語の背景が描き出され、物語が立体的に立ち上がってくる。
ある人は駅でボランティア活動に携わり、ある人はシェルターの中で日々を送り、ある人は変わり果てた街の眺めに心を痛めた。
そうした中、避難場所となった人形劇場で上演が再開される。大学では、文学について講義が行われ、学生たちが討論を交わす。画家は美しい花の絵を描く。
誰かが語る物語は、聞き手を得て、その人を癒すだろうか。
演じられる劇は、人々が前を向き、明日へ進んでいく力を与えるだろうか。
絵画は、音楽は、ひとときの癒しを与え、安らぎをもたらすだろうか。
決して声高ではない、しかし切実な言葉たち。
それらは人々に思いを伝えるだろう。
その思いが広がり、戦争を止める術につながればよい。
そうなれば本当によいのだけれど。 -
ウクライナ戦争下のリヴィウの街で、戦渦を生きる人々からの聞き書きによるストーリーを、戦争によって言葉の意味が変わってしまうという見立てのもと、辞書のようにフラットにならべた本。強烈なイメージをもったストーリーが並ぶ。
事態が深刻だからこそ、ユーモラスに語らずにはいられないのだろう。どれもどこか可笑しみが含まれている。狭い鉄道のコンパートメントに家族とペットで詰め込まれながら乗り込む「テトリス」、警報が鳴り響くなか「ゴミ」の分別に迷っている話などなど。
「自由」は誰からも提供されない、量産品ではない、ハンドメイドなのだ、という表明も忘れ難い。読むタイミングによって、刺さるストーリーは異なりそうだ。
聞き書きの短いエピソードが並ぶ形式もあって、『戦争は女の顔をしていない』と印象が近いのだが、『女の顔』のほうで出てくるストーリーには、もっとはっきりとドイツ兵への憎しみが現れており、憎しみによって開放されてしまう残酷さも見え隠れしていた。馬車でドイツ兵の死体を踏みながら進むとき、頭蓋骨が割れる音を聞くたびに快哉を叫んだ、とか。それがおぞましくも有り、切実でもあった。『語彙集』にはそれがないようにおもった。憎しみや残酷さは聞かれなかったのか、省いたのか、著者にそれを聞いてみたい。
後半は訳者であるロバート・キャンベルの本書の背景を探る紀行。
ウクライナの人々は、特に田舎の人々は花が好きで、破壊された家々の再建は簡単でなくても、花は植えられるからと花壇を世話する人たちの話が印象的だった。同じようなことを、私も東日本大震災の震災遺構のデザインの仕事のなかで経験したからだ。震災遺構として整備される津波被災をした学校校舎の計画を、元の住民たちに示したところ、周囲を囲むフェンスの位置を変えて欲しいという。今の計画では、花壇がフェンスに囲まれてしまい、簡単に世話をできなくなる。いつ行っても花をさわれるように、花壇がフェンスの外になるようにしてほしいというのだ。それで、フェンスの位置を変えた。花壇はいまも定期的に世話されている。 -
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紐解き始めてみて、頁を繰る手を停めることが出来なくなってしまった。強く惹かれてドンドン読み進んだ。或いは、ウクライナ関係のモノということでは「こういうモノこそ読みたかった」というような気もしている。
ウクライナの詩人でエッセイストでもあり、様々な活動をしているオスタップ・スリヴィンスキーの作品を、米国出身で、日本で活動する日本文学研究者で大学教員でもあるロバート・キャンベルが翻訳し、併せてロバート・キャンベルがウクライナを訪ねての経験を題材とするエッセイが収録されている。「2部構成」のようでもあるが、完成形になった作品を前半に示しながら、それが登場する迄の経過が関連する挿話を綴ったモノが後半に在るという、「両者で1つ」というように自身は理解した。
オスタップ・スリヴィンスキーは主にウクライナ西部のリヴィウで活動している。ロシア・ウクライナ戦争が始まり、戦禍を逃れようとする人達がリヴィウに集まる中、その人達を支援する活動に携わるのだが、そうした中で聴いた多くの話しを記憶に留めて、掌篇として書き綴り続けた。話しのキーワードを綴った篇の題名とした。そしてその各篇の題名を辞書の要領で、アルファベット順に並べる形で発表した。題して『戦争語彙集』である。全体で77篇在る。何れも1ページ、2ページというような次元の、正しく掌篇である。
ロバート・キャンベルはこの作品に惹かれ、翻訳して日本で紹介することを思い立ち、準備に取り掛かった。ネットでの通信でオスタップ・スリヴィンスキーと遣り取りをし、ウクライナを訪ねて御本人や、他の様々な人達に会うという計画もした。そして英語版を基に日本語翻訳を起こし、ウクライナ語・ウクライナ文学の研究者の助力を得て、ウクライナ語原版と対照する検討も加え、本書の前半の部分は完成したという。
日本語訳された各篇は「ランダムに並んでいる?」というように見えるが、全て原版のウクライナ語の辞書の要領(=アルファベット順)で並べたモノをそのまま写している。各ページにはウクライナ語で篇の題名に用いられた単語が示されている。
「戦争の語彙」とでも聞けば、所謂“軍事関係”な用語が多く出て来るのかと思わないでもない。が、本作『戦争語彙集』はそういうことではない。示される語彙は、一般的に誰でも使うような日常の語である。それらが「戦争」という様子の中で人々から発せられる時、そうした普通の語彙に「如何いう意味が込められる?」というようなこと、その語彙のキーワードで「何が語られる?」というようなことが主眼だ。
ゆっくりとこの作品の部分を読んだ上で、ロバート・キャンベルによるウクライナ訪問のエッセイを読んだ。
このエッセイの部分では、オスタップ・スリヴィンスキーが『戦争語彙集』を綴るに至った経過、その活動での心象の変遷というようなことが詳しく語られる。更に、オスタップ・スリヴィンスキーに綴るべき話しを提供した人達の話しも在る。
深く考えさせられたのは“沈黙”ということや、戦禍の中での文化や芸術の意味というようなことだった。
本当に疲れ果てて、言葉を発する気力も失うような中での“沈黙”というモノに、戦禍を潜り抜けた人達は包まれてしまう場合が在る。戦禍は文化活動のようなモノを吹き飛ばす、或いは塗潰すという面を持っているかもしれない。が、それでも表現する、それを観るというようなこと、何かを読んで考えて語らうようなことという文化活動は人には求められるのかもしれない。そういう話題の提起が在って考えさせられた。
そして大学教員でもあるロバート・キャンベルは、リヴィウ大学関係者と連絡を取って、大学で学生や教員への講演を行い、質疑応答や意見交換が為された。加えて『戦争語彙集』を事前課題として参加者に読んで頂き、それを題材とした対話も行っている。このリヴィウ大学関係の部分は興味深く読んだ。或いは「語彙」ということになるのかもしれないが、「平和」という語に対し「それは“勝利”に替えるべきだ」という意見が参加者から在った。こういう現在の事態に関する幾つも在る観方の一環が少し直截的に伝わった。
正直、2022年2月に事態が動いた時の連日のような情報発信に比べ、最近はウクライナの事態に関して少し静かになっているようには思う。が、当時の「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていて、何が如何なっているのか静かに観て考えようということを排撃するかのような調子よりは好いかもしれない。現場はウクライナで、ロシア側は「特定軍事行動」と称しているが、如何いうように観ても「大規模な軍事侵攻」で、それに抗う戦闘行為が発生すれば、そういうのは「戦争」と呼ぶ他に無い。戦争になれば、最も困るのは現地に在る普通の人達である筈だ。それでも「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていたような頃、ウクライナの人々の苦境を思いやるようなことを軽視するかのような感さえ否定出来ず、個人的には不快感を禁じ得なかった。過去の経過の故に、個人的な次元では縁者が両国に散って在る例も多く、事態に複雑な想いを抱いている人達も非常に多いというようにも思う。そして「非難!」と拳を突き上げるだけでは、事態の収拾を目指すこともし悪いようにも思う。
こういうような考えを持っているので、「人々に寄り添う」というようにして話しを聴いて掌篇を綴ったという本作は強く惹かれる。本作の原版が登場した時点で、2022年2月から1年半程度であった。もう直ぐ2年で、何処迄、如何続くのか、如何幕引きが為されるのか判り悪い状況ではある。そうなれば、更に「人々の話し」は出て来るであろう。オスタップ・スリヴィンスキーはそれらを更に綴り続けるという意向のようではある。興味深い反面、戦禍の少しでも早い幕引きを願うので、何時までもこの「語彙集」が綴られ続ける状況というのも考え物ではあろう。が、戦禍の幕引きの中での「語彙」というモノもまた在り得るかもしれない。
ウクライナの事態に少しでも関心が在るのであれば、本作は是非読むべきだと思う。非常に貴重な一冊だと思う。 -
戦争の体験は、一人ひとりが言葉に抱く意味を変えてしまう。
前半は、ウクライナの詩人が実際に避難者の支援をしながら聞き取った証言たち。あらゆる証言に一切の優劣をつけることなるフラットに並べ提示する。マドレーヌ、ニュース、悦び、スイーツ、ゴミ、記事などの語彙にまつわる証言がとくに、戦時の人々の人生や心の置き方として強く印象に残った。
「(…)その時に気づくんです。何もかも、以前とは違うのだと。朝ご飯も、犬の散歩も、表面や膜に過ぎないのだと。では、膜の内側にはいったい何が入っているのだろう?戦争が始まる前にそこにあったものは、一体何だったのだろう?」
(ニュース p.77)
「わたしの家も、この街も、置いていけばゴミになるの?そもそも、そんなことを考えている場合なの?」
(ゴミ p.93)
後半は、ロバート・キャンベルさんが実際のウクライナに入って、詩人や実際に避難を経験した人たちに会って聞いたこと、見たもの、感じたことがエッセイとして書かれている。前半の断片的な証言の奥行きを理解し、立体的にその経験を想像することができる。
その中で、日本からの人たちが無邪気に言う「平和」を求める言葉の数々が、ウクライナの人たちにある種ネガティブに受け止められる場面がある。
「ふわっとした着地点の見えない『平和』では、むしろわたしたちの言語も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです」(p.175)
日本の平和思想と、まさにいま侵略されている国の避難民の現実は一致しえない。私は国際政治においてはどちらかというとリアリズムの立場を取るので、無条件な平和思想には同意できない。前者に基づく言葉は、戦地において空虚に響くだろう。しかしだからといってどちらかをお花畑、どちらかをリアリズムと切り分けるのではなくて、日本において平和思想が根付いた背景も軽んじるべきではないと思う。キャンベルさん自身も、エッセイの中でどちらかが正しいと結論付けることはしてない。
いまのわたしたちは同じ現実を生きているわけではないからこそ、現地での経験をきちんと知らないといけないと思う。 -
言葉がシェルターになる。
戦争・侵略は、言葉の意味を変える。
避難してきた方々から、溢れでる言葉から、感じ、想像する様々な感情、風景。
そして、単なる語彙集とせず、現地を訪れ、その語彙の周りも丁寧に取材され、記録されたロバートさんの手記で、その語彙の奥行きが深まる。
この語彙集は、本望では無いにしろ、続巻が出るのだろう。そして、必ず読む。他人事ではなく、隣人のこと。 -
バスタブのシェヘラザード、黄色いランプ、林檎の落ちる音。
人々の祈るような語りは美しく、鮮やかで、凄まじい。 -
バス、スモモの木、おばあちゃん、痛み、稲妻、妊娠、バスタブなど、77の単語と物語で構成したドキュメント。
「わたしの家も、この街も、置いていけばゴミになるの?」
戦争の体験が、言葉に抱く意味を変えてしまった。
ウクライナを代表する詩人が避難者の証言を聴き取り、ロバート・キャンベルが現地を訪ねた記録とともに解説。
戦争語彙集というタイトル、深いなぁ。 -
“戦争という経験をした時、全ての言葉は比喩的意味を失ったと思います”
目の前の出来事に言葉の意味が強制的に書き換えられるということ。それでも言葉を紡ぐことで互いをケアする戦場のリアル -
先に読んだ鷲田清一さんのエッセイ「「透明」になんかされるものか」の中の一文で紹介されていたので気になった本です。
著者のオスタップ・スリヴィンスキーさんはウクライナの詩人。本書は、ロシアによるウクライナへの侵攻下、国内各地から彼が住むリヴィウに避難してきた人々の声をそのままに書き起こした著作です。
本の中に並ぶ淡々とした表題のあとにつづく言葉の背後には、それこそ極限状態の感情の吐露が感じられます。 -
現実と違って、どこかユーモラス。
コントや漫才の一場面みたいな。
この本が出版された後も、まだまだ戦争は続いている。
