魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす

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  • 岩波書店 (2024年11月8日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (270ページ) / ISBN・EAN: 9784000616690

作品紹介・あらすじ

よい読書体験はよい人間形成につながると信じる。真っ暗な地下鉄の線路を歩いた昔日の彷徨から、自らの実存の問いと対峙した神学遍歴、半世紀後に届いた「魂の教育」を願う母の祈りまで――。ルネサンス期の幅広い人文主義的な教養主義の理想「ボナエ・リテラエ」を冠する『世界』連載で紡がれた、ある救済の物語。

みんなの感想まとめ

自己の存在や信仰について真摯に向き合う姿勢が印象的な作品で、著者の率直な語り口が魅力を引き立てています。幼少期のエピソードや教育に対する考え方を通じて、読書の重要性や人間形成の過程が描かれています。ま...

感想・レビュー・書評

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  • 「あんり」という著者の名前の由来から。
    女性のような名前に対し、自らの禿頭を自虐しつつ、この名前による幼少期からのエピソードを語る。著者の見た目は可愛らしい?感じだが、全体的にこの〝率直さ”が本書の魅力であり、教育(学習)における思いや、キリスト教に対する向き合い方も同じ調子で語っていく。特に、キリスト教については洗礼を受けるまでの気持ちの変化は、その信仰がないものにとっては不思議な感覚だ。そうした著者を構成する思想や経験を告白した自伝でもある。

    ー わたしは受験勉強というものをいっさいしなかった。というより、すべきではないと思っていた。大学受験なんて、現状に尻尾を振る不潔な破廉恥漢のすることだ。そうではなく、ひたすら読みたい本を読んで考えることこそ、自分の知性を高め人格を磨く正しい道だ。そうじていた。今から思うと、貴重でありがたいボナエ・リテラエの時間だった。

    私にも同じ時期があったから良く分かる。もっとも、私は本も読まなかったし、知識そのものを軽蔑していた。ただの厨二病であった。その後、勉強の面白さに気付いて尻尾を振って受験勉強をすることになるのだが、その時、反動のように受験勉強以外の読書がしたくて仕方なくなった。だが、結局、大学で違う楽しみを見つけて読書生活にも入らなかった。

    ー 古代ギリシアでは、こういう人を円環的な教養人と呼ぶ。アリストテレスによると、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手になりすぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。これは、長く大学の教員を見ているとよくわかる。優れた業績を上げるため、たしかに人間性の他の部分を犠牲にして研究に没頭してきたのだろう。真の教養人は、大学には稀である。

    そうなのだろうか。嗜むだけの教養ではなく、もっと人生や信仰と一体化していくような差し迫った教養を望んでいた。没頭こそ究極だというように。気付くと著者の半生を聞きながら、自らと対話してしまうような、語り出したくなるような読書だった。

  • ひとみちゃん、お勧め本。
    神学者の読書遍歴。
    キリスト教を多角度から読むことの面白さを知る。
    キリスト教以外の宗教も根本は変わらない。
    「うちのお母さんは世界一!」は納得

  • 読み始めた動機としてキリスト教について、というか宗教について批判的な目線を持っていたので頭のいい人がどういう理由から宗教に傾倒していったのか興味があった。
    世界中を魅了する一大コンテンツ「キリスト教」の魅力にまだ自分が気づいていないだけなのではないかと。
    読んだ感想は宗教だから、キリスト教を信仰したから人は救われるのではなく、自分を肯定したり、自分の実存を存分に発揮したり、徳性を高めたり、生きる勇気を持つ事ができるようになったり、他人を愛せるようになる為に行われる営みの一つとして信仰というものが用いられていると感じた。

    作者の人生とその時々の本との出会い、それによる思想の変遷が率直で恥ずかしいほど正直に綴られていて好感が持てた。牧師が皆この人ほどの人格者なのだとしたら毎週早起きして教会に通って説教を聞く時間は幸福な時間なんだろうな。

    以下印象に残ったところ
    人間は罪を犯す生き物で悪意から切り離す事などできない、罪を自覚し悪意を飼い慣らし、出来るだけ善良に生きようとする試みが信仰という営み。

    人間には決して理解することの出来ない神という存在を理解しようとする神学者達は当然だが互いを常に批判し合っている。各々の解釈は当然異なるので。

    聖書を読破したキリスト教信者は全体の1割程度。

    自分のお母さんが一番!という感情は世界中の誰かのお母さんと比べているわけではない。
    宗教も一緒、自分の宗教が一番!という感想は他人の宗教は二番!という結論には至り得ない。

  • 255P

    キリスト教神学者の森本あんりさんの自叙伝かつ読書遍歴的な本でユーモラスでめちゃくちゃ面白かった。本が好きな人が本について語る本が好きすぎる。元々森本あんりさんはキリスト教で辿るアメリカ史とか宗教国家アメリカの不思議な論理とかキリスト教視点でアメリカを教えてくれる人というイメージがあった。今自宅が大田区久が原にあるって言ってて地元が同じだと思った。完全に好きな著者になった。

    森本 あんり
    (もりもと あんり、1956年10月19日[1] - )は、日本の神学者、牧師[2]、国際基督教大学名誉教授。2022年4月[3][4]-2026年3月[5]東京女子大学・第17代目学長。男性。神奈川県生まれ[2]。幼い頃に実母を亡くし、実父と継母(父の再婚相手)を両親として育った[6]。父親は画家・グラフィックデザイナー[7]。1975年東京都立小石川高等学校卒業[8]、1979年国際基督教大学教養学部人文科学科卒業[9]。1982年東京神学大学大学院組織神学修士課程修了[9]。1982 - 1986年日本基督教団松山城東教会牧師[9]。1991年アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国プリンストン神学大学院博士課程修了(組織神学)、Ph.D[9]。1991年国際基督教大学宗務部(国際基督教大学教会牧師)[注 1]、1997年同大学準教授[注 2]、2001年教授、2012年-2020年[4]同大学学務副学長[9]。2022年4月1日[3][4]-2026年3月31日[5]東京女子大学・第17代目学長。1996年『ジョナサン・エドワーズ研究』(創文社)で第1回アメリカ学会・清水博賞受賞[11][12]。2002年以降、プリンストン大学、カリフォルニア大学バークレー校で客員教授を務める[9]。小田嶋隆とは小中高[注 3]の同級生[注 4]であり、親しい友人だった[15][8]。

    「しかし、わたしの父には別の意味ではっきりとした意図があった。なぜ『ファーブル昆虫記』なのか。その理由は、題名をこのように書いたのでは見えないところにある。最初の一冊を手渡すとき、父はわたしにこう言った。「これはな、おまえと同じ名前の人が書いた本だよ」そう、これはアンリ・ファーブル著の『昆虫記』なのである。解説によると、このアンリは、南フランスの貧しい村に生まれ、学校の教師となり、退職してから昆虫記を書き始め、後に世界的な名著となるこの本を四十年も書き続けたそうである。父にとって大事だったのは、その名前だった。定型のお答え  「どうしてそんな名前なのですか」──これは、わたしが半世紀にわたって受け続けた質問である。男の名前にしては珍しいし、ひらがなで書くのはさらに珍しい。小さい頃から名簿の上で女の子に間違われた。学校の身体検査では間違ったグループに入れられたし、大人になってから医者にかかると、診察室へ入った途端に医者はカルテを見直す。電話口で本人確認をする手続きがあれば、しつこく疑われる。  講演に招かれた時などは、妙齢の女性が登場するのを期待して集まった聴衆に、まずお詫びをしてからでないと話を始められない。勝手に間違った想像をするほうが悪いのだが、そういう想像をさせてしまった側の責任はあるかもしれない。真面目な学術書の背にひらがなの著者名があると、どうにも納まりが悪い。余計な誤解を生まないようにと、出版社はわたしの本に顔写真を入れるようになったが、すると今度は、「裏表紙を見てびっくり、禿げたおっさんだった」などという評が書かれる始末である。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「だいたい初対面でそういうことを尋ねる人は、自分の質問には当然答えてもらう、という無邪気な横柄さをおもちなので、わたしもちょっと意地悪になって、「ええ、母方の祖父がフランス人だったものですから」と答える。するとその人は、まじまじとわたしの顔を見直すのが常である。次によくやるのは、「実は聖書から取られた名前です」という答えである。そうすると、だいたい「ああ、やっぱりそうですか」と納得して終わりになることが多い。もちろん、聖書にあんりという名前は出てこない。  過去にわたしからこういう答えをもらった人がおられたら、お詫びをしておきます。すみません、それはみんな噓です。もう少し興が乗っていれば、「芸名です」と答えるが、そういう人にはたいてい冗談が通じないので、「では本名は何ですか」とさらに突っ込んでくる。しかたがないから、しばらく前までは「木村拓哉です」と答えていたが、さすがに少し古くなったので別の名前を探しているところだ。何かよい候補があればご教示を賜りたい。  こういう話は、どこかで正史を語っておかないと、結局いつまでも訊かれ続けて苦々しい思いをすることになる。といって、そんなプライベート・ヒストリーを真顔で書くようなところもそうざらにあるものではないので、ここに一度だけ書いておきたい。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「こういう数知れない苦労があったため、わたしも何度か親に命名の由来を尋ねたことがある。実は、既にあげたいくつかの逃げの答えには、もう一つバージョンがある。「画家の父がアンリ・ルソーやアンリ・マティスを好きだったから」という答えで、これは半分くらい正しい。名付けた父  わたしの父は絵描きだった。戦後の混乱期に美術大学へ通ったが、学費が続かず中退している。風景や人物の油絵が主だが、後には水彩もやり、さらに彫金や篆刻、版画やリソグラフなど、手広く創作芸術を楽しんだ。わたしが生まれた頃が一番貧しくて、食い扶持を稼ぐために大手証券会社に勤めることになり、デザイン部門を担当した。時代はちょうど右肩上がりの高度成長期を迎えていて、全国各地に次々と支店が開設されてゆく。父はそれらの店内レイアウトや広告業務を一手に引き受けた。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「 若い頃のファーブルは、中学校で理科の教師をしていたが、給料は「金持ちの家の馬の世話係」よりも安かった。だから生活はとても苦しかったが、好きな本さえ読んでいれば、その間だけは楽しかったという。そんな時に出会ったのが、死んだ昆虫の標本作りをするのではなく、生きた昆虫をそのまま観察する学者の本だった。どうやら、ファーブルにも「ファーブル」がいたらしい。そこで彼は記す。「人間の一生のうちには、一冊の本で、はっと目をひらかれるようなこと」がある。それは、ストーブの焚き口に運ばれた口火のような働きをする。ストーブの中にいくらたくさん薪が積み上げられていても、この口火がなければ火は燃え立たない。もともと昆虫好きだったファーブル先生の心に火をつけたのは、レオン・デュフールという名の博物学者だった。医者でもあったデュフールは、餌の虫が腐らないのはハチがホルマリンのような防腐剤を注入するからだ、と書いている。ファーブルは、その本から多くを学びつつも、実験や観察を通してその説明が間違いであることを発見してゆくのである。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「 アンリ・ファーブル先生は、こうしてわたしの読書体験に火をつけてくれた。だが残念ながら、似ているのはそこまでである。そんなに面白い読み物なのに、わたしはそれらを読んで虫の世界を想像するだけで、そこに書かれてあることを自分で体験してみようとは一度も思わなかった。フンコロガシが丸い玉を作るのも、ハチが針の一撃で大きな獲物をおとなしくさせるのも、話としては夢中で読んだが、では自分もそういう虫を見つけてきて飼育してみよう、ということにはならなかった。  よく小さな子どもが地面にしゃがみ込んで、じっと虫たちを見続けていることがある。わたしもそんなふうに虫たちの生態を観察したことはあるだろうが、自分の目で実際の姿を見るよりは、誰かの体験談としてそれを読み、空想の中に自分の知らない世界を作り上げて自由に旅をするほうがずっと楽しかった。  それが、おそらくわたしの名前の「杏」の部分だったのだろう。だが、「理」の部分を置き去りにすると、とんでもない結果を引き起こしてしまう。そのことも書いておかねばならない。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「 『ファーブル昆虫記』を夢中で読んだわたしは、中学生になると当然のように理科を好きになった。特に勉強熱心なわけではなかったが、学校の成績はよかった。その頃「アチーブメントテスト」という外部業者のテストが導入され、学年全体で成績の順位が出るようになる。わたしはだいたい一位か二位だった。小中高と一緒で、その後とても親しくなる小田嶋隆も、成績上位者の常連だった。後に彼との交友についても書くことになる。  理科の先生もわたしに目をかけてくれていたので、わたしは夏休みに壮大な自由研究のプロジェクトを立ち上げた。その頃のわたしは、きっかけが何だったのかさっぱり覚えがないのだが、アメーバという生き物に興味をもっていた。原生生物で単細胞、大きさも手頃で、生命の基本的なしくみが見えやすい。細胞の中でゆっくりと原形質を移動させ、足のようなものを出して這い回る。これは勉強してみる甲斐がありそうだ、と思い定めたわたしは、学校の理科室から特別に許可を得て顕微鏡を借り出し、準備万端、大いに張り切って夏休みを迎えたのだった。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著


    「 「ボナエ・リテラエ」という言葉をよく使ったのは、エラスムスである。それによって彼は、ルネサンス期の幅広い人文主義的な教養を表していた。彼にとっての「良い本」は、キケロやクインティリアヌスやプルタルコスといった古典的著作が中心だったが、分野に限らず読者に良い道徳的感化を与える書物ならすべて、すなわち人間がより人間らしくなるための学び studia humanitatisを与えてくれる書物全般を指していた。人間は、美しい言葉の語りにいざなわれて、未開の洞穴から明るい陽光の射す文明へと足を踏み出した。だから今も、良い書物を読むことでみずからの野蛮な欲望を飼い慣らし、人間が本来的にもっている社会共存性を錬磨して、より完全で円熟した人間へと成長するのである。人間とは、いつも人間になりつつある途上の存在なのだ。  道徳的な書物だけではない。人間性の解放を掲げたルネサンスは、しばしば人間性を抑圧するキリスト教へのアンチテーゼとして語られるが、思想史的に見るとこれはやや浅薄な理解である。ルネサンスの人文主義的な原典批判の興隆なしに、聖書解釈を拠り所とした宗教改革は起きなかっただろうし、宗教改革に結実する人間の目的志向的なエートスなしに、ルネサンスが近代的な人間像や時代形成の原理となることはなかっただろう。エラスムスは、人文主義的な教養とキリスト教的な精神世界を統合し、そこに人間の本来的な超越への志向を見いだしたトレルチ的な文化総合の範例である。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「やがて父は大田区の久が原にマンションの一室を購入し、そこへわたしと二人で移り住むことになった。東京の南端で、おそらくできるだけ森本家から遠くに引っ越したかったのだろう。母は祖父母のもとにとどまり、その後も長く別居状態が続いた。  高校生になったわたしは、相変わらず秋葉原のラジオ街に出掛けて部品を買い集め、小さな電気工作を楽しむことはあったが、アマチュア無線を再開しようという気にはならなかった。かくしてわたしの無線局は、わたしの家庭とともに破局を迎えた。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「小石川高校では、クラスは三年間もちあがりで、担任も換わらない。だから生徒同士や担任とのつながりはとても深くなる。わたしのクラスの担任は新先生というお名前で、英語の先生だった。非常に怖いが愛情も深く、わたしを含め男子も女子もクラス全員が心服していた。この先生に怒られれば、それは当然怒られるべくして怒られたのだ。事実わたしたちは授業中にも生活面でもよく雷を落とされたが、いつも見守られているようで、かえって嬉しかった。  その新先生から、二年生の時にわたしの父宛に以下のような達筆の書面が送られている。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「古代ギリシアでは、こういう人を円環的な教養人と呼ぶ。アリストテレスによると、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手になりすぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。これは、長く大学の教員を見ているとよくわかる。優れた業績を上げるため、たしかに人間性の他の部分を犠牲にして研究に没頭してきたのだろう。真の教養人は、大学には稀である。  小田嶋によると、当時のわたしがしきりに彼と話したがったのは、「宇宙の果て」のことだったという。わたしが言うには、「宇宙の果て」というのがあれば、その先に何があるのか、もし何かがあれば、そこは「果て」ではないことになる、ということだった。そんなことを考えてばかりいたから、目先の受験勉強には興味がもてず、世間一般の尺度で測られることがない牧師という職業を選んだのだ、というのが後々の彼の見立てだった。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「岡は、当時からやたらに大人びていて、どこか陰のある魅力的な人物だった。少し高めの嗄れた彼の声を今でもよく覚えている。その彼が、自分の家とは別のところにアパートの一室を借りていて、そこでマルクスの『ヘーゲル批判』を読むのだという。どうしてそういう話になったのか、なぜ自分がそこに加わったのかは覚えていない。そもそも高校生が自分でアパートを借りる、なんてことができるのかどうかもわからないが、それだけでも妙に大人びた世界をのぞき見る思いがしたものである。当然のことながら、溜まり場となったその部屋には紫煙が立ちこめていた。  この読書経験のことを後年ある本に「想い出の三冊」という題で書いたので、ここにそのまま引用しておく。  「宗教は民衆のアヘンである」と固く信じていたわたしは、生意気な高校生仲間とともに煙草くさい部屋に集まってこの新潮社版マルエン選集第一巻を読んだ。なぜ今どき宗教を信ずるなどという愚かな人間がいるのだろう、というのがわたしの疑問だったが、今その本を取り出して真っ黒に引かれた線や書き込みを読み返してみると、当時の自分が何も内容を理解していなかったことがわかる。それでも昔は、背伸びをしながら一生懸命にこういう本を読む、というのが正しい青春のあり方だった。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「使徒パウロは、新約聖書「ローマ人への手紙」の冒頭で「わたしは福音を恥としない」と書いている( 1章 16節)。ということは、さすがのパウロも最初はちょっと恥ずかしかったのに相違ない。何せ知的にも宗教的にも、当代最高の権威を身にまとっていたパウロである。そうであるからこそ、そしてキリスト教徒とみれば誰彼かまわず引っ捕らえて牢屋にぶち込んでいた反キリスト教の闘士パウロだったからこそ、その言葉には千金の価値があるのだ。わたしの言葉で言えば、イエスもパウロも、徹底した反知性主義者である。おままごとの世界転覆  危なかったのはそれだけではない。統一教会はたまたま説法を聞いただけだが、エホバの証人の集会には自分から出掛けていった。大田区久が原の自宅近くに、「王国会館」と書かれた彼らの集会所があったのを見つけて行ったのである。同じ「キリスト教」という名がついていても、それぞれ毛色も中身も違う無関係の宗派だという認識は、その頃のわたしにはまったくなかった。  ただ、こちらは何度か行っただけですぐに興味を失ってしまう。「礼拝」といっても、やっていたのは学校みたいなことだったからである。前に立ったリーダーが小さなパンフレットを読んでその中身を質問すると、まるで小学校の生徒よろしく、真面目な信徒たちがこぞって「はい」「はい」と手を上げる。答え終わると「はい、 ○ ○兄弟、その通りです」なんて、はじめからそこに書かれてあることをオウム返しに答えるだけなのだから、みんな正解に決まっているじゃないか。こんな「よい子のおままごと」で世界転覆はできない、とわたしは早々に見切りをつけた。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「わたしが最初に出版した図書は、『福音主義神学概説』という分厚いドイツ語の翻訳書である。旧東独時代のフンボルト大学神学部での講義録、つまり「共産主義とキリスト教をどのように接合させるか」という難しい課題を引き受けた書物で、大胆かつ精妙、とても優れた内容に仕上がっている。当時わたしは、神学校を卒業して四国松山の教会に副牧師として赴任したばかりだった。地元の大学教授が何人もいる教会で、若い牧師を育てたいという暖かな応援を一身に感じながら、わたしは神学の深みに分け入る幸せな時間を与えられた。  はじめて自分の名前のついた本が出版されれば、誰しも嬉しいだろう。頰ずりして一緒に寝たくなるかもしれない。だが、この本が出版されたのは、松山の教会を辞してプリンストンへ留学に発った後のことだった。共訳者からは連絡をもらっていたが、五百頁もある重い本なので、出版社はのんびりと船便で一冊だけ送ってきた。定価は何と七五〇〇円。もちろん誰も買わない。ただでさえ難解な本だし、もともと神学のマーケットは日本では極小である。おざなりな業界紙の書評が一本出ただけで、それきりわたしも忘れていた。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「 なぜあの本なのか、あの難しい神学専門書のどこにそんな力があったのか、今でもよくわからない。山﨑浩子さんご本人が書いた脱会手記『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋)も読んでみた。彼女の「脳天を打った衝撃の一文」というのは、最初の一頁に書かれてあることだったらしい。ともかく、出版元の日本基督教団出版局は、積み上がっていた在庫が捌けて大喜びだったし、わたしは突然まとまった額の印税が送られてきて、ほくほくだった。  山﨑浩子さんは、幸いその後もきっぱり縁が切れているようだが、その夫になりかけた勅使河原秀行さんは今も「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の要職にあり、先日三十年ぶりにマスコミに登場していた。きっと彼は読まないだろうし、読んでも同じ結果にはならないだろう。まあ、せめて一人分でも役に立ったのなら嬉しいことである。あの事件でわたしの本は完売したものの、さすがに重版するのは無謀だということで、オンデマンド再版になっている。旧統一教会と政党政治の関わりが大きく問題になった昨今のことなので、読み直す価値はあるかもしれない。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「贋物を見分けるには、本物に触れるのがいちばんである。ちなみに、統一教会は以前からあちこちの大学のキャンパスでステルス活動を続けており、キリスト教系の諸大学を含む主要各大学に拠点を築いているが、国際基督教大学にはかつて一度も入ったことがない。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「統一教会やカルトの話が出たので、わたしのボナエ・リテラエもつい先走りしてしまった。だが、他人の話をする前に、まず「おまえは何でクリスチャンになったんだ」と訊かれるのは目に見えているので、今回はその話を書いておきたい。  といって、そんなに大それた回心物語があるわけでもない。アメリカで「日本から神学を学びに来た」と自己紹介をすると、やはり同じように「なぜクリスチャンになったのか」と尋ねられて閉口したものである。誰もが内村鑑三みたいに立派な「余は如何にして基督信徒となりし乎」を語れるわけではない。わたしの場合、突き詰めると「ガールフレンドが教会に行っていたから」になってしまう。もうちょっと高尚な話を期待する方々には申し訳ないのだが、率直に言うとそういうことである。大学に入り、同じセクションで仲良くなった女性がいた。デートに誘うと、日曜日は教会に行くから、というので、わたしもしかたなくついて行ったのである。  そのうち、妙なことに気がつき始めた。あれほど愚かで時代遅れだと思っていたキリスト教について、友人や先生たちが平気で真顔の議論をしている。まるで今日の昼飯はうどんにするかカレーにするかを談じているかのように、事もなげである。しかも、授業を通してわたしが圧倒された尊敬すべき教授までもが、人間の思想の優れた営みとして宗教や信仰の話をするではないか。これは何かおかしい、と思った。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「その交わりの中で出会ったのが、森有正の本である。戦後すぐに東京大学で哲学を教えていた森有正は、フランスへ渡ってそのままパリに居付いてしまう。二十年ほどしてようやく日本と和解する気になったらしく、再着陸の地ならしにと、少し前から国際基督教大学で教えるようになっていた。だから彼の名前は、ときどき先生や友人たちの話題に上っていた。わたしは『バビロンの流れのほとりにて』を手始めに、次から次へと昼も夜も彼の本を読みふけるようになった。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「だからそれは、オトナだけの話になる。「ヨハネ福音書」に、姦淫の罪で捕らえられた女の話が出てくる。律法学者とパリサイ人は女を石打の刑に処すべきだと迫るが、イエスは何も答えない。あまりに人びとがやいのやいのと問い続けるので、イエスは立ち上がって一言だけ答える。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」すると人びとは、「年寄から始めて」一人また一人と出て行き、ついには誰もいなくなった( 8章 7、 9節)。わたしの大好きな一節である。誰も、何も、言わない。だがわかっている。歳を重ねれば重ねるほど、その自覚は深まる。大人になるということは、罪を知るということである。いや、人は罪を知ることで大人になるのだ。洗礼を受ける  そしてわたしも大人になった。二十歳のクリスマス聖日に大学教会で洗礼を受け、キリスト者となった。洗礼を受けて「クリスチャン」になるということは、自分がそういう名で呼ばれ、そういう目で見られるのを受け入れる覚悟を決める、ということである。これほど恥ずかしいことはない。それまでの自分を振り返るなら、これほど不釣り合いでふさわしくない呼び名はないだろう。今でも、穴があったら入りたい。でも、それを隠しておくことはできない。洗礼を受けるということは、そういう人生を送ると腹を決めることだ。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「どうやってか。それは、パウロが書いているとおり、「聞くこと」によってである。信仰は聞くことによる(「ローマ人への手紙」 10章 17節)。そして、読むのは一人でもできるが、聞くのは誰か他の人がいなければできない。要するに、信ずるようになるきっかけには誰かがいる、ということである。自分が信頼する人がいて、その人の言葉や思想や行為に感化される。キリスト教に限らず、宗教はだいたいそういう人の連鎖で出来上がっている。すでに書いた通り、わたしにもいくつかの大切な出会いがあった。もし別の人に出会っていたら、わたしはまったく別の信仰をもったかもしれない。  聞くことには、教会の説教も含まれる。聖書は、読むものではなく聞くものである。そして、聞くというからには、その中身は誰かが読んで解釈したことである。つまり、聞くことには何らかの共同体とその伝統が介在している。そしてこれは、すべてのテクスト理解に通じる共通の前提である。誰も、文化的な真空の中で何かを読んで理解することはできない。だから、「自分一人で聖書を読み、そこに書いてあることに得心したので、ある日キリスト教徒になりました」という人はいないのである。  聖書を読むことを重んじるのは、日本のキリスト教界の特徴かもしれない。特に日本のプロテスタント教会で美風とされるのが、聖書を端から端まで読み通す「聖書通読」である。信徒向けの雑誌などでよく「毎日数頁ずつ読んで通読しましょう」という企画が組まれるが、不思議なことに海外でそんな企画にお目にかかったことはないし、日本国内でもたぶんカトリック教会にはない習慣だろう。何しろ、あの厚さである。挑戦したことのある人はよく知っていると思う。「創世記」に始まって「出エジプト記」くらいまでは物語が面白くて何とか行けるのだが、「レビ記」「民数記」あたりで挫折するのが常である。あれを旧約・新約ともに全部読んだ人となると、世界のキリスト教徒ではごく少数だろうし、歴史を通して見ればほとんど極小の人数である。聖書は信じるから読むのであって、読んだから信じるようになるわけではないのだ。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「聖書を読むことを重んじるのは、日本のキリスト教界の特徴かもしれない。特に日本のプロテスタント教会で美風とされるのが、聖書を端から端まで読み通す「聖書通読」である。信徒向けの雑誌などでよく「毎日数頁ずつ読んで通読しましょう」という企画が組まれるが、不思議なことに海外でそんな企画にお目にかかったことはないし、日本国内でもたぶんカトリック教会にはない習慣だろう。何しろ、あの厚さである。挑戦したことのある人はよく知っていると思う。「創世記」に始まって「出エジプト記」くらいまでは物語が面白くて何とか行けるのだが、「レビ記」「民数記」あたりで挫折するのが常である。あれを旧約・新約ともに全部読んだ人となると、世界のキリスト教徒ではごく少数だろうし、歴史を通して見ればほとんど極小の人数である。聖書は信じるから読むのであって、読んだから信じるようになるわけではないのだ。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著


    「 どうしてそんなことが言えるのか。「同性愛」という具体例で示そう。すでに何度か書いたことなのだが、よく聞かれるのでもう一度短く繰り返しておきたい。旧約聖書の「レビ記」には、「あなたは女と寝るように男と寝てはならない」( 18章 22節)と定められているし、新約聖書の「ローマ人への手紙」にも、「男は男に対して恥ずべきことをなし」( 1章 27節)などという非難の言葉がある。だからキリスト教は同性愛を禁じているのだ、と読めるだろう。  しかし、これらの言葉が非難しているのは「同性愛」ではなく「同性間性行為」であり、しかも異性愛者があえて「自然の関係を捨てて」行なう倒錯行為である。同性愛という関係性の存在が広く知られるようになったのは二十世紀で、聖書が書かれた時代にはすべての人が異性愛者だと考えられていた。ある人びとにとっては同性愛こそが「自然の関係」だ、ということが知られていなかったため、このような非難がなされているのである。  現代では、性的指向は本人の自発的な選択による結果ではないし、自分の意志でそれを変えることも難しいことが明らかになっている。聖書が書かれた時代には、そういう理解はなかった。だから「聖書は同性愛について何も語っていない」と言うのが正しい。それは、聖書が核ミサイルやインターネットについて何も語っていないのと同じだ。問題は、現代に生きるわれわれがそこから何を読み取るかである。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「もちろん、こういう読み方に納得しない人もいる。特にアメリカの福音派に多い。彼らは「聖書に書いてあるのだからそのまま受け入れるべきだ」と論じるのだが、実はそういう彼らも、自分ではそんなことをしていない。先ほどの同性間性行為を禁じた旧約の言葉のすぐ傍には、「入れ墨をしてはいけない」とか「占いをしてはならない」とか「貧しい人や外国人を大切にしなければならない」とも書いてある。同じく新約聖書にも、貪欲、争い、高慢、大言壮語、親に逆らうこと、不誠実、無慈悲などは「死に値する」と同列に明言されている。これらの言葉を一切無視しておいて、同性愛の一節だけを守る、というのでは筋が通らないだろう。そういう読み方をするのは、聖書を読む以前にすでに特定の差別原理が心の中にあるからだ。だから、二つめの問いに対する答えは、事実としても全世界的に「否」なのである。というか、一つめの問いで明らかなように、そもそも聖書を全部読んだ人が少ないので、そこに書いてあることを全部守る、などという発想ははじめから出てこないのである。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「 ウェーバーを読むようになったのは、学部時代に旧約聖書学を教わった並木浩一先生の影響もあっただろう。神学という研究分野を大きく分けると、聖書学系と神学思想系とがある。わたしは神学の中でも組織神学が専門で、聖書学はまったくの素人だが、それでもわたしの信仰の半分くらいはこの並木先生の思想でできている。前々回あたりで「授業を通してわたしが圧倒された尊敬すべき教授までもが、人間の思想の優れた営みとして宗教や信仰の話をする」と書いたのも、この先生のことである。並木先生との出会いがなければ、わたしは信仰には至らなかっただろう。少なくともわたしの信仰は、今よりずっと薄っぺらなものになっていただろう。神学的に言えば、旧約は待望で、新約は成就である。旧約は問いで、新約は答えである。旧約聖書の長くて深い問いの果てに、新約聖書の答えがある。手っ取り早く先に答えだけを求めるようでは、信仰が浅薄になるのも当然である。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「ちょうどその頃、先生の『古代イスラエルとその周辺』(新地書房)が出版された。奥付をみると、今から思うととても信じられないことに、先生はまだ四四歳の助教授で、同書が最初の単著だった。発行が一九七九年六月二五日、表紙裏にはわずか四日後の二九日付で「著者並木浩一」という自署をいただいてある。「一日の苦労は一日にて足れり」という聖書の言葉も書き添えられているが、これはきっとご自分のことだけでなく、当時のわたしを観察して選ばれた一言なのだろう。わたしはすでに卒業して神学校へ進んでいたが、キャンパスは歩いて五分の隣同士だったので、神学校の授業の傍ら、あい変わらず並木先生の授業にもぐりで出席し続けていた。それも、学部時代にすでに二度聴いた授業である。同じ授業だが、三回目に聞いてもやはり新鮮で衝撃的だった。先生の授業は、だいたい半分が前の晩に読んだ本の感想で、それが授業本体の内容と同じくらい面白かった。「シラバス通りにやれ」などという昨今の愚かな制約がなかった、のどかな時代のことである。  聖書学系で旧約聖書を専門とする人の中にも、いくつかのタイプがある。ひたすら本文の語義的な解釈に没頭する人、考古学的な発掘の成果を重んじる人、そして広く思想的な関心から比較と分析をする人──並木先生は明らかに三つめのタイプで、門外漢のわたしが傾倒していたのも、万葉集やコーランを読みつつ旧約聖書を論じるその部分だった。先生のもとに集まる学生にも同じように思想系の周辺タイプが多かったと思う。二〇二二年に並木先生との対談本『旧約聖書がわかる本』(河出新書)を出した芥川賞作家の奥泉光氏も、その一人である。旧約聖書学プロパーを専攻する学生はむしろ少数派だった。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著


    「ユダヤ教も戒律型である。伝統的には六一三の戒律があると言われるが、この数は実数というより理念数だろう。こちらも、一つのルールを守るために付随するルールがあり、それぞれについてさらに細分化されたルールが設けられている。たとえば、「安息日を守る」という戒律をとっても、その遵守にはラビたちの定めた三九の禁止規定に従わなければ守ったことにはならない。しかも、その三九の禁止は「結ぶ」「こねる」「刈り取る」「火をおこす」「文字を書く」などのごく一般的な表現なので、その適用範囲をめぐってさらなる解釈が必要になる。安息日に歩いてよいのは何歩までか、字は一つなら書いてもよいか、食事の支度はどこまで可能か、毛織物の洗濯が不可なら綿織物はよいのか。火事や急病人が出た場合は例外か。通報したり治療したり消火活動をしたりすることは許されるのか。こういった具合で細分化が進むのが、戒律型の決疑論的な特徴である。  面白い話もたくさんある。厳格なユダヤ人は、安息日に電気製品を使わない。スイッチで火花が飛べば「火をおこす」行為になってしまうからである。だからユダヤ人が多く住むニューヨークの建物では、行先階のボタンを押さなくても済むように、安息日のエレベーターは一階ずつすべての階に止まる自動運転になる。ただし、すぐ隣のエレベーターは普通に運行するので、誰かが行先階のボタンを押してくれれば、いそいそとそちらに乗り込んでくる。自分が押さない限り、便乗するのは許されるのである(もしそういう真面目なユダヤ人がもじもじしているのを見たら、エレベーターのボタンを押して助けてあげましょう)。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「もちろん、すべての宗教を「戒律型」と「原罪型」の二つに振り分けることはできない。同じ一つの宗教の中でも重複や濃淡があるだろうし、時代による変遷もある。たとえば、キリスト教でもプロテスタントは明らかに原罪型だが、カトリックは大罪小罪の区別などがあって、どちらかといえば戒律型に寄っている。  仏教も、現世の苦諦が不可避だという認識には原罪型の要素も見えるが、初期仏教では戒律型の要素が強い。『ブッダ最後の旅』という題で岩波文庫に入っている『大パリニッバーナ経』は、お釈迦さまが死を覚悟し、一番弟子のアーナンダを伴った最後の旅に出かけて入滅するまでの教えを記したものである。村々を経巡りながら、いくつもの大切な戒律を説いているが、いつも授業で引用して学生の受けがよいのは次の一節である(第五章九)。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「他方、イングランド古来の権利からすると、国内に固定資産をもつものだけが利害関係をもつのだから、有産者だけが政治に参加すべきだ、という議論になる。レヴェラーズのように完全な政治的平等を求めれば、無産者が多い当時のイングランド社会には大きな混乱とアナーキーの危険が生じるだろう。そしてその空隙に乗じて、王党派が再び実権を握ることになるだろう。レヴェラーズの主張を聞いたクロムウェルら指導部は、そういう危機感を抱いた。この危機感は、短命に終わった共和政という実験の後に、王政復古となって現実化することになる。  結局、会議は結論に至ることもなく、軍内部の対立をあぶり出しただけに終わった。クロムウェルは、会議の参加者一人ひとりを通して神の言葉が語られ、やがてそこから集合的な「会議の意向」 Sense of the Meetingが形成され析出されてゆくことを期待していた。しかし、溝は埋まらなかった。たとえ同じ目的を共有していても、その実現方法において意見が食い違うことはある。「会議の精神」という立像は、後のクエーカー集団のように、もう少し共通の土台があるところでだけ姿を現すのかもしれない。けっして譲ることのできない信念同士のぶつかり合いでは、静かに身を隠すばかりだろう。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「学部と大学院でいちばんよく読んだのはカール・バルトである。これはちっとも特別なことではなく、昔の小学生が『ファーブル昆虫記』を読むのと同じくらいありきたりの選択だった。組織神学や教義学をやるにはバルト抜きでは到底できなかったし、東京神学大学では特にその風潮が強かったので、同志社や関西学院など関西方面の神学徒には今でもからかわれるほどである。  学部では、はじめ哲学専攻でアウグスティヌスかカントをやるつもりだったが、その後神学に転向し、卒業論文で取り上げたのはバルトの虚無論だった。問いの基本設定は「悪の問題」、つまり「なぜこの世に悪が存在するのか」である。それを古典的な定式で整理すると、だいたいこんなふうになる。神は世界を善なるものとして創造された。だが、この世には悪が存在する。もし神が、 ①全知で、 ②全能で、 ③愛に満ちているなら、人はどうして悪に悩まされるのか。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「毎年夏休みに入ると、ひと月ほど長野県佐久市のお寺(信豊庵)に籠もって勉強した。これは、人文科で哲学を教えておられた岡野昌雄先生が主宰する数人の共同生活である。朝は六時に起きて村の子どもたちとラジオ体操をする。それから夜の九時まで、それぞれ小さな文机をあてがわれて読書と思索をするだけ。年齢も専門もばらばらだったが、すぐ隣で熱心に勉強している友がいるのは励みになる。食事は交替で自炊した。山の中腹にある破れ寺をお借りしていたので、電灯は点くが冷蔵庫はない。当番になると、ちょっと坂を下ったところにある村の生協で食材を仕入れ、自分にできる簡単な料理を作った。哲学系が多かったので、豆腐を切るにも「カント切り」か「ヘーゲル切り」かで大いに盛り上がったことを覚えている。何のことはない、上からみて K型に切るのと H型に切るの違いだけである。ときどき村の子どもたちがやってきては、興味深そうに横文字の本を覗いてみたりちょっかいを出したりして、気を紛らわせてくれた。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「だが、トレルチはそこで探究を終えたのではない。彼は、絶対性主張を一つめの主観的確信の領域に位置づけ直したのである。それは、学問によって客観的に論証すべき事柄ではない。素朴な絶対性は、素朴だからといって妄想であったり錯誤であったりするわけではない。ちょうどそれは、素朴な知覚が必ず妄想や錯誤であるとは限らないのと同じである。そして、いかなる宗教もこの主観的な確信としての絶対性なしに立ち上がることはできない。トレルチの言葉で言うと、「すべての宗教は絶対的な宗教として生まれる」のである。  たしかにその通りである。ユダヤ教徒の朝の祈りは、「自分が非ユダヤ人に生まれなかったことを感謝します」だし、イスラム教徒にとって『コーラン』は何ものも超えることのできない神の最終的な啓示である。仏教徒にとってはブッダの教える四諦八正道こそ救いに至る唯一の道だし、ヒンドゥー教徒は『ヴェーダ』こそ唯一永遠のダルマだと信じている。どんな宗教であれ、信ずる人にとってはその宗教こそが絶対的な妥当性をもつ真理なのである。信仰は、「ここにわたしの救いがある」という確信があってはじめて成立する。その瞬間に「他の宗教のほうがよい」とか「別にどの宗教でもかまわない」などと思う人はいない。  読者の中には、この時点で「自分にはどの宗教も絶対的真理ではない」と思っている人もおられるだろう。「宗教なんて信じるとロクなことがない。パレスチナを見ろ。お互いに対立して戦争するばかりじゃないか。だから何も信じないのが一番だ」──その通り。まさにそこに、あなたの絶対性主張がある。あなたは無宗教こそ最高だと思っている。他の宗教と取り替えるなんて、まっぴらご免だと思っている。だからその時点では、やっぱり自分の(無)宗教が一番で絶対なのである。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「ちなみに、無宗教を自任する人は、宗教を信ずる人をあからさまに見下すことがある。これは、わたし自身がそうだったからよく知っている。  信仰の絶対性は、他の宗教との比較の末に得られた結論ではない。幼稚園の子どもが「わたしのお母さん世界一よ」と言うのと同じである。それは、友達のお母さんと比較した上での発言ではない。まして世界中のお母さんを調査した上での結論でもない。子どもがそこで表現しているのは、「お母さん大好き」「お母さんありがとう」という素朴な信頼と感謝である。言語学のカテゴリーで言うと、「言語行為」 speech actである。客観的に観察された事実を述べているのではなく、そのように発話することで特定の行為をなすことである。たとえば牧師が結婚式で夫婦の宣言をしたり、裁判官が法廷で判決文を読み上げたり、けんかした人が仲直りの謝罪をしたり。「世界一」と表現することによって、子どもは自分の心いっぱいの嬉しさを伝えようとしているのだ。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「そもそも、たくさんのメニューを取り揃えてその中から好きなものを選んでもらう、という発想はひと昔前の大学にはなかった。大学に「選択科目」という概念が生まれたのは、十九世紀後半のことである。授業というものは、教師が教えるべきだと思うものを教えるのだ。学生に学びたいものを選ばせていたのでは、わたしが経験したような幸いな出会いは得られないだろう。自分の専門や関心から遠いと思われるような授業にこそ、宝物が隠されているのである。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「たとえば、杜甫の「国破れて山河あり」という五言律詩を思い出してみる。杜甫は、都の長安が戦乱で破壊され、政治社会の秩序が崩壊した現実を嘆いている。彼の嘆きをいっそう際立たせているのが、変わりなくめぐり来たのどかな春の山河との対比である。おそらく、ふだんなら気にとめることもなかったその自然秩序の美しさや調和、その穏やかで泰然とした存在が、ノモスが壊れたときに露わになるのである。ノモスの裂け目から、ふだんは隠されているコスモスの存在が姿をのぞかせる。コスモスは、人間の構築物ではない。だから壊れない。世間の浮き沈みに左右されない。人間の心に寄り添ったり忖度したりしない。そういう存在に再接続することで、人は自分の位置を再確認し、存在を肯定することができる。  だから人間にはお祭りが必要なのである。世間の秩序を無視した無礼講が設けられるのである。祝祭や儀礼によって、人はノモスを離れたコスモスを実感し、より原初的で本能的な存在の感覚を取り戻す。ここはエリアーデだ。繰り返し回帰する永遠の秩序に浸り、安らぎを得るのである。レクリエーションとは再創造( re-creation)に他ならない。  そう考えてゆくと、宗教はもともと存在論の範疇で機能するものであることがわかってくる。仮にある日、外で遊んでいた子どもが事故に巻き込まれた、という報せを受けたとしよう。そのとき、病院へ駆けつける親は、ただひたすら子どもの無事だけを祈る。それ以外のことは何も考えない。病院に着くなり「あんた今日のテストは何点だったの」などとは聞かない。優等生であるかないか、勉強ができるかどうか、そんなことはどうでもいい。「ああ無事でよかった」──それだけである。その子がどういう子であるか( how)ではなく、生きていて無事で元気でいること( that)だけが問題なのである。存在が究極的な関心事になる。  あるいは、映画『もののけ姫』のラストシーンを思い返してみる。鉄や銃という文明をもった人間たちの血みどろの戦いが終わると、湖畔の夜がゆっくりと明けてゆく。周囲の枯れた山に、春の緑が戻ってゆく。人間のつくり上げたノモスは、愚かな戦争で脆くも崩壊する。だが、どんなに荒れ果てようと、山の自然は春を迎え、命の息吹を回復させる。人間がそれを力で屈服させることはできない。これがコスモスという存在である。」

    —『魂の教育 よい本は時を超えて人を動かす』森本 あんり著

    「魂の教育」森本あんり著 読了。
    神学者である著者の自伝的エッセイ。非キリスト教徒だった著者が信仰を抱くようになった経緯だったり、キリスト教における様々な実存(=どのように生きるのか)的問いへの多種多様な思想が垣間見れて面白かった。

  • ユーモラスな語り口ながら、実に真摯に学問に向き合ってきたことがよく分かる。
    人生の歩みも、そこで出会った本も、とても面白い。
    本は絶対的なものとして存在するのではなくて、その人の、その人生のその時に、「現れる」ものなんじゃないかな。
    本書で登場する本はどれも興味深いが、中でも「ローマ書」「ニコマコス倫理学」「光の子と闇の子」はぜひとも読みたい。とくにニーバーは、現代でも必読のような気がする。

  • 「魂の教育」といった仰々しいタイトルや章題からして説教じみた神学者の教えのように捉えられてしまう外観が勿体ないほどに
    研究者のライフヒストリーという自分好みのモノが、連載形式の小気味よさで綴られている。

    神学の学究のあり方や、そもそもの神学的な思考や生活自体に縁遠くそういった細部まで踏み入れられずとも、一本筋のとおった物語的な筆者の営みが描かれていて、深く思考を強いられるとともに単純にストーリーとしても楽しめる。筆使いもさすが。

  • 著者の40歳くらいまでの自叙伝が、読書や神学と共に語られていて、とても面白い内容です。特に進学に馴染みがない私にとっては、私自身の仏教の信仰を問う良いきっかけになりました

  • 特に神学の話などは、自分が良く理解できているとはとても思えないですが、何度でも繰り返し読みたくなる、内容のたくさん詰まった、切れ味のスパッとした本でした。ちょっと予算オーバーだったけど、最近一番「買って良かった」と思えた本。

  • 019-M
    閲覧

  • 一つ一つがとても知らない世界だらけで、

    引き込まれながら読みました。

    何だか全然関係ないような細かい話のようで、なんでか読み進めてしまう、素晴らしい書き手・語り手の技でした。

    森本あんりさんの子どもの頃のこと、どんな子だったか、名前、

    懸賞論文への応募と新聞社の論調に合わせた作文で勝ち取った豪華旅行(やっぱすごい、小さいときから書ける人だったのですね)、

    どうやって大学(ICU)に行くことになったか、

    ガールフレンドが教会に行っていたからクリスチャンになった、

    交換留学での出会い、

    プリンストン神学大学に行くことになったか、

    その5年間のアメリカ生活での豊かな人間関係、

    四国で牧師さんになったり、

    もうなんだか物語のような人生、

    でもそれは本書のメインテーマではなくて、

    いろいろな章に散りばめられた森本あんりさんのいろいろな過去が、

    少しずつ明らかになりつつ、

    実際の主役は、ボナエ・リテラエー良い書物。

    本と言っても、気軽に手に取れないものが多い、

    著者の紹介なしには、垣間見ることもあまりなさそうな偉大な知の書物というか、

    こんなふうに本とともに自分を振り返られるって素敵だなーと思いながら、

    そんなふうにもしかしたら私たち一人ひとりも、自分の思考が形作られてきた過程を本を通して他者に伝えられるかもしれないですね。こんなに知的ではなかったとしても。おもしろそう。

  • 本を読んで世界が変わる、拓かれる感じ

    私にとって、世界を変えてくれた書はなにかな

  • ICU寮、プリンストン大学でPH.D.修める課程など、学生生活は読みどころでした。隣人と生活を回していくことも学びの場面に見えました。

  • 【本学OPACへのリンク☟】
    https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/724064

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著者プロフィール

1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)学務副学長、同教授(哲学・宗教学)。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体‐‐寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社)、『反知性主義‐‐アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『異端の時代‐‐正統のかたちを求めて』(岩波新書)など。

「2019年 『キリスト教でたどるアメリカ史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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