岡義武著作集 明治政治史 (第一巻)

  • 岩波書店 (2001年7月6日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (330ページ) / ISBN・EAN: 9784000917513

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  • P41、42
    文久三年1863年
    将軍家茂が兵三千を率いて入洛
    →将軍の入洛は寛永年間の家光以来二百余年ぶり
    その後、孝明天皇は加茂社に攘夷の祈願で行幸
    →天皇が皇居外に公式に行幸したのは寛永三年の後水尾天皇以来237年ぶり

    P50
    1864年の馬関戦争(四国(米英仏蘭)艦隊下関砲撃事件)の折、長州藩の砲台は破壊され、兵が上陸、戦利品として砲台を奪うとき
    →この戦闘に参加したフランス士官アルフレ・ルサンはこう記している
    フランス水兵が沿岸に据えられている長州藩の大砲を取り外して戦利品として持ち去る際、日本人たちはこの作業に協力した。彼らは誰に対しても戦争は実に嫌だったと云っていた。
    →同じくモンスマンもこう記している
    オランダの水兵たちが大砲を外してボートに載せる作業をしているとき、武器を帯びていない沢山の日本人たちが運搬の手伝いにきた。かれらの一人は「今日の仕事のあとで貴方がたはお疲れだろうから、私たちが大砲積込みを手伝いましょう」と申し出、そして、ボートが岸を離れるときには別れの挨拶をした。
    →イギリスのアーネストサトウも下関の人々は極めて友好的だったと記している
    →また当時下関北岸で四国艦隊と長州藩が戦闘をしたとき、南岸の豊前藩の砲台は火を吹かず、むしろ夥しい数の人が集まって観戦し、四国艦隊の砲撃が長州藩の砲台を破壊する度に歓声がこだました。
    やがて長州藩が敗北すると群衆は喜び、アーネストサトウらにその戦果を嬉々として聞いた
    →これは江戸幕府下における藩意識の強さと、民族意識の未成熟さを物語っている。

    P55
    中岡慎太郎から板垣退助への手紙
    攘夷!と叫ぶのは彼我の勢力差を知らぬ空論か相当な卓見家である。
    卓見というのも、薩摩は生麦事件による薩英戦争で、長州は砲撃による馬関戦争で、危機感を大いに高め、武備充実の必要性で藩論が一致した。
    これらは戦争の功であり、それをもたらしたのは卓見であった、と言っている。

    P59
    慶喜の幕政改革は反幕派も眼を見張るものだった。
    慶喜は越前藩主松平慶永の問いに答え、今求められているのは中興の方針ではなく、創業の方針だと答えた。
    その時について、後年、中興や改革は旧制度を前提とするが、創業とは旧制度を眼中におかず、目下の現実に適合した制度を天から降ってきたように創設することであると回想している。

    例えば、永年のの厳格な慣行を打破して、家格に拘泥せず人材の抜擢を行った。

    P60
    横浜鎖港の交渉に出た池田筑後守にフランス(駐日公使ロッシュ)が接近。幕府を支援することで、他国より優位に立とうとし、フランスは幕府を支援した。
    →1865年幕府はフランスに造船所の建設を依頼し、それは横須賀に作られることになった。

    →一方でイギリス(駐日公使オルコック→パークス)は薩長に接近。

    P78〜79
    明治維新の原因は単純ではないが、基本的には、江戸封建体制の内部的矛盾に西洋諸大国の重圧が加わり、崩壊した。
    外圧は国内に複雑な政治的反応を生んだ。
    激しい民族的反撥感と民族的危機感を高揚させ、外圧を契機とする朝幕の対抗から国家権力の二元化が現出。
    →尊王倒幕派の岩倉具視、大政奉還を決断した徳川慶喜も、西洋列強を相手にするのに、国内が二元体制であってはならないと考えた。
    →その時、なぜ従来の幕府一強ではなく、朝廷のもとへの一元化となったのか?
    →徳川慶喜すら朝廷のもとでの一元化を決断した。
    朝廷のもとに国家権力の一元化が進んだのは、民族的危機のもと、民族感情の正当化の根拠を神国思想に求めたと考えることが出来る。

    P92
    版籍奉還
    →木戸孝允+大久保利通で薩長に加え土肥を説得して先行。諸藩を従わせた
    →封建制度を崩壊させ、藩主→政府任命の行政官へ
    →廃藩置県で完全に郡県制に移行

    P109
    新政府成立の頃においては、西洋大国による当面の脅威は蝦夷地に対するロシアの動向
    →政府は箱館裁判所のち箱館府解説して蝦夷地を統治。また樺太に移民を送った。

    しかし、ロシアが樺太に兵士、流刑人を送り続けて実行支配。
    →1875年、樺太千島交換条約で樺太を手放しつつ、ウルップ以北の千島列島を日本領とした。
    (この時ロシアはバルカン半島にかかりっきり)

    P118
    木戸孝允→大村益次郎
    天下の入を5分にし、その3分を海陸軍、その1分を政府入用、その1分を救恤(社会保障)万民のために便利を興すべかか
    →大村益次郎も大いに賛成
    →天下の財力を兵部一省に用いることなど出来ないと言う人もあろうが、国家の「本を知らざるの論」である。
    ロシアがインドや満州に南下してきている。差し迫った脅威。
    →山縣有朋が兵部大輔、陸軍大輔、陸軍卿として近代陸軍を創設

    P122
    内務卿大久保利通は殖産興業において、外債の無用な発行に反対。征韓論に対しても、外債の増大により不履行となれば、それを理由に英国に干渉される恐れを指摘し、反対。
    また、産業奨励のため1977年に上野で第一回内国勧業博覧会を開いた。その際、西南戦争の勃発を迎えたが、「戦争は戦争、博覧会は博覧会」といい、戦時下でも予定通り開催。大久保利通がいかに殖産興業に心血を注いでいたことを示す。

    P183
    福沢諭吉の自由民権運動に対する所感

    P220
    「薩の海軍、長の陸軍」
    ただし陸相自体は、初代内閣(1985年、第一次伊藤博文内閣)の大山巌以来、1895年の第二次伊藤博文内閣で二ヶ月余り山県有朋(長州)が兼任した以外は1898年の第三次伊藤博文内閣で桂太郎(長州)が就任するまで、歴代薩摩出身者によって占められた。
    なお海相は1985年の初代内閣(西郷従道)から1906年の第一次西園寺内閣で斉藤実(岩手出身)が就任するまで、全て薩摩出身者によって占められた。

    P228
    井上馨が、恥も外聞も捨てて外国人を歓待し(鹿鳴館時代)、その精神面さえもキリスト教を受容して、西洋列強に認められ、条約改正を成し遂げようとした。
    そして列強の妥協を少しばかり取り付けた裁判管轄条約案を、当時の外務省翻訳局次長の小村寿太郎は屈辱的とし、世上に漏洩させ、それは自由民権派による格好の政府攻撃材料となった。
    その前年に起きたノルマントン号事件(1986年)により世上は紛糾していたところに油を注いだ形。

    P257
    超然主義の伊藤博文と、立憲政治は政党政治になるので、少なくとも政府を支える政府党が必要だと訴える側近。

    また、大日本帝国憲法はヨーロッパ諸国の多くの憲法と異なり、上下の軋轢からやむを得ず作った憲法ではない。
    上下一致の力により、日本国を保つために作ったものであり、君臣合体のために作ったものである。
    伊藤博文の強い自負と、当時の藩閥政府の強力さが伺い知れる。

    P290
    1890年 第一回帝国議会
    当時の内閣総理大臣山県有朋による演説
    「主権線」と「利益線」

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