やかまし村の春・夏・秋・冬 (岩波少年文庫 129)

  • 岩波書店 (2005年12月16日発売)
4.20
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784001141290

みんなの感想まとめ

子どもたちの日常を描いたこの物語は、スウェーデンのやかまし村に住む6人の子供たちの春夏秋冬の冒険を、リーサの視点で楽しむことができます。自然と共に遊ぶ姿や、季節ごとのイベントが織り交ぜられ、読者はその...

感想・レビュー・書評

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  • やかまし村シリーズの続編。
    スウェーデン、やかまし村に住む6人の子供たちの日常を、リーサの語り口にて紹介されていく物語。
    リンドグレーンの自伝に近いと言われていて、
    子供達のささいな日常に読んでいて本当にワクワクさせられる。
    この本は四季のイベントなどもあり、ワクワクもさらに加速w

    クリスマスやイースターなどのビッグイベントの他に、私が気に入ったのはリーサとアンナが人を幸せにする話し。
    子供たちが思う“人の幸せ”と、大人の感じる幸せのズレや間の悪さw とっても可愛くておかしかった。

    巻末に高楼方子さんも解説を書いてくださっていて、それもとても良かった。

  • ★4.0
    シリーズ2作目。前作と同じく、中屋敷の末っ子・リーサの視点で綴られる、やかまし村の春夏秋冬。夏は湖に浮かぶ島で海賊ごっこ、冬は氷が張った池でスケートと、常に自然とともに遊ぶ子どもたちが、何とも無邪気で本当に可愛らしい。時に「子どもたちだけで大丈夫?」と心配したりもするけれど、私の子ども時代も探検と称して無茶をしていたな、と懐かしく思い出したりも。そして、常に仲良し小好しな6人ではなく、意地悪をしたり喧嘩をしたり、常に自然体な姿を捉えるリンドグレーンの目線が微笑ましい。シャスティンの成長も楽しみ。

  • 子ども時間をのびのびと生きる子どもたち。スウェーデンの四季の美しさや生活の様子の描写がたまりません。日本のパパやママや先生には?????の子どもたちの姿かもしれませんね。子どもを変にいじらない大人の姿から、スウェーデンの豊かさが感じられます。帰りたいよ~。

  • やかまし村シリーズ第1作。住んでいる6人の子どもたちのうち、8歳になるリーサの視点で書かれている。電子機器のない時代の子どもたちの様子が素敵な挿絵と共に生き生きと描かれ、子ども時代に夢見た生活を思い出させる作品。ゲームやパソコンとにらめっこの今の子どもたちにもぜひ読んでもらいたい。

  • これほどまでに分かりやすい四季は、日本だけかと思ったら
    そうでもないという事が判明。
    いやでも冬がすごいだけ?

    また色々食べ物が出てきて美味しそうでした。
    そして新しい住人誕生!
    こうして人数が増えていくのはいいのですが
    ふと別な事に気が付きました。
    お手伝いさんは、住み込み?

  • 北欧ってとても素敵そうなところだ、と思い、いつかやかまし村へ行くと思っていたよ子供の頃。

  • よくいじめで人の背中に貼り紙を貼るのがあるけど、それがイースターで許されてる行為と初めて知った。エイプリルフールと同じ感覚だったんだなあ。

  • 何十年ぶりに読みました。
    内容は覚えていませんでしたが、
    子供の頃のあのワクワクを思い出しました。
    3軒の家の子供部屋が木の枝で繋がっていることがとても羨ましかったですね。

  • やかまし村シリーズでこれがいちばん好きかも!季節を感じるできごとがたくさん。大人たちの話もちょっと出てきてよかった✨おじいさんの誕生日の話にはうるうるきてしまった。

  • 『やかまし村』シリーズ、2冊目。
    クリスマス、復活祭などのイベントはありますが、基本的には日常の物語。
    なのになんでこんなに楽しいのか。

    「平凡な毎日こそが幸せ」というよりは、リーサの視点が「平凡な毎日」をスペシャルにしてるんだと思うんですよね。
    リーサとアンナのお買いもののドキドキ感よ。

    なんで人間は鬼ごっこなんかするのか、牝牛には、きっとわからないでしょう。といって、よくかんがえてみると、わたしにも、なぜだかはわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
    (69ページ)

    ラッセとボッセとわたしは、どの卵も、赤や黃や緑にぬっておきました。色つきの卵って、とにかく感じがいいですから、卵にはいつも色をぬっとくといいとおもいます。
    (92ページ)

    スウェーデンの復活祭は魔女の扮装をするんだとか、ラストの方で語られる戦争から第二次対戦中スウェーデンは中立の立場を通したということを知りました。

    屋根裏部屋にいると、とてもいい気もちでした。頭のうえの屋根には、雨がはげしい音をたててぶつかり、軒にある雨どいでは、水がザアザアながれる音がしました。その屋根裏にすわりこんで、カステラをたべて、そして、そとにでなくていいというのは、すてきでした。
    (160ページ)

    これって少し前に日本でも話題になった「ヒュッゲ」ですよね。(ヒュッゲはデンマーク語ですが。)外が嵐だからこそ満たされる安心感。
    やかまし村は3軒しか家がないし、子どもも6人(プラス赤ちゃんひとり)しかいないので、普通に考えるとすごく寂しい村な気がするんですが、物語全体にただようのはこの安心感。
    この場面はなんだか泣きそうになりました。


    以下、引用。

    14
    だいたい焼き終わったころ、わたしたちは、めいめいの、すこしずつのこったこね粉をまとめて、大きなかたまりにし、それで優勝クッキーをひとつつくりました。これは、まい年つくるんです。

    その日の午後、クッキーをぜんぶ焼きあげてしまうと、わたしたちは、ひとつのびんにエンドウマメを三百二十二個いれ、やかまし村じゅうをねりあるきました。そして、びんのなかにエンドウマメがいくつあるかを、みんなにあてさせました。いちばんうまく数をあてた人が、優勝クッキーをもらうんです。

    20
    わたしたちは、クリスマス・ツリー用にとっておいた、赤いリンゴを、屋根裏からもってきて、木につるし、わたしたちの焼いた、ショウガ入りクッキーも、だいぶつかいました。わたしたちがおじいさんの部屋でつくった、紙のかごには、ほしブドウと木の実を入れて、枝にさげました。それから、なかに綿をつめた天使たちも、とりつけました。この天使たちは、おかあさんが子どもだったころにも、じぶんのクリスマス・ツリーにつけたものです。もちろん、わたしたちは、たくさんの旗や、ロウソクや、キャンディーもつけました。こうして準備ができあがったクリスマス・ツリーは、まったくきれいでした!

    28
    わたしは、ひとにクリスマス・プレゼントをあげて、よろこんでもらうのがすきです。それは、じぶんがプレゼントをもらうのとおなじくらい、たのしいんです。

    49
    わたしたちは、ロウソクをけして、窓のそばにいき、まっくらな夜のやみをながめました。新年がやってくるのが見えるかとおもったんです。でも、なにも見えませんでした。

    69
    なんで人間は鬼ごっこなんかするのか、牝牛には、きっとわからないでしょう。といって、よくかんがえてみると、わたしにも、なぜだかはわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。

    90
    つぎの聖木曜日の夕がた、わたしたち子どもたちはみんな、復活祭の魔女に変装しました。

    91
    おとうさんは、うちの庭で、木の葉をもしていました。そして、わたしたち、復活祭の魔女はみんな、火のまわりをはねまわり、もえたりいぶったりしてる、葉っぱの山をとびこえました。わたしたちは、ブロッケン山にいって、魔女のおどりをやってるつもりにしたんです。

    92
    テーブルには、青いテーブル・クロスをしきましたし、黄色い復活祭用のお皿もならんで、みごとでした。

    ラッセとボッセとわたしは、どの卵も、赤や黃や緑にぬっておきました。色つきの卵って、とにかく感じがいいですから、卵にはいつも色をぬっとくといいとおもいます。

    120
    ええ、水車小屋のあたりって、ほんとにわくわくするような場所です! そこは、とってもきれいです。おまけに、ちょっぴりきみがわるいんです。

    126
    「でかけていいかなんて、うちの人にきかないほうがいいぜ。……子どもが水の精を見にいきたがると、おとなってものは、まったくおかしなかんがえかたをしやすいんだ。だから、あとになってから、いいのかどうか、きいたほうがいいよ。だって、そのときなら、もう、なんていわれたってだいじょうぶだもの。」

    160
    屋根裏部屋にいると、とてもいい気もちでした。頭のうえの屋根には、雨がはげしい音をたててぶつかり、軒にある雨どいでは、水がザアザアながれる音がしました。その屋根裏にすわりこんで、カステラをたべて、そして、そとにでなくていいというのは、すてきでした。

    171
    ラッセは、こういいました。
    「われわれは、金もちからぶんどって、貧しい者にあたえるんだ。」
    といっても、よくよくかんがえてみますと、わたしたちの知りあいに、金もちはいません。それに、そんなに貧乏な人もいないんです。

    200
    それに、だいたい、新聞の記事はかなしいことだらけで、「戦争になる」「戦争になる」とばかり書いてあったんです。

  • こんなに楽しい、のびのびとした子ども時代を送れたら素晴らしいてすね❗
    子育てする時に、こんな環境を提供する大切さを大人は頭に置いてもらいたいな。
    おじいさんを大事に思う様子に胸を打たれます。

  • スウェーデンの春夏秋冬を楽しむ子どもたちの姿。

    クリスマスに始まり、そり遊び、大晦日、新年のパーティー、スケート、4月1日、復活祭、雨など季節折々のイベントが描かれている。日本と異なる習慣を知って憧れた。

    ショウガ入りクッキー、レモネード、カステラなど出てくる食べ物のすべてが美味しそうだった。今では食べたことがあるものもあるが、ここに描かれているものより美味しいことはなかったと思う。今でも「いちばん上等なあぶりソーセージ」はどんなに美味しいだろうと想像する。お使いに行ってみたいし、食べてみたい。

    オッレの妹ケルスティンが生まれたところは、たびたびリーサが優しいと言及していたオッレの優しさがよく出ている。オッレが妹を可愛がるのに嫉妬する犬スヴィップは、前の巻で意地悪な靴屋さんに飼われていたものをオッレが優しくして懐かせ、もらってきた犬である。オッレは嫉妬する犬にもきちんと愛情を注ぎ、嫉妬しなくていいようにする。優しいオッレも、それに気付くリーサもいい。

    おじいさんの80歳の誕生日を祝うところでは、少々歴史を感じる。きっと苦労してきたおじいさんが、孫娘のアンナに死なないでと言われてちゃんとした返事はしないところ、戦争の記事ばかりの新聞で80歳の誕生日を迎えたことが記事になっており、それを繰り返し読むところ、戦争がやってくるかとのボッセの質問に、おじいさんが「神さまが、ちっちゃなやかまし村をかばってくださるだろうよ。」と答えるところ。ここは小さい頃からなぜか悲しくなってしまう。やかまし村で過ごすリーサたちには想像もつかない時間や世界が、この物語の背後にもあるのだ。そう思うと途方に暮れる。

    大人になった自分は、その後で子どもたちが語る将来の自分たちの姿に、おじいさんと一緒に「ほう、ほう、そうだ、そうだ。それまでには、なん年もかかるよ。ほんとに、子どもだっていうのは、いいもんだなあ。」としみじみした。もう子どもには戻れないし、やかまし村のような生活はできないが、だからこそやかまし村の物語はいつも輝いている。

  • のどか。とても。

  • 【やかまし村の春・夏・秋・冬】
    【やかまし村はいつもにぎやか】
    アストリッド・リンドグレーン著、大塚勇三訳、岩波書店、2005年、2006年

    リンドグレーンの「やかまし村」3部作の2,3冊目。
    原作はそれぞれ1949年、1952年に出版されている。

    「水の精を見に行きました」
    「アンナとわたしは、なにをやってるのか、じぶんでもわかりません・・・」
    「賢者の箱」

    などの章は、子供向けの本なのに、43歳男性の自分がおもわず笑ってしまう。
    本当にいい本だ。

    子ども達だけに読ませておくなんて、なんてもったいない!


    児童文学者の長谷川摂子が以下の寄稿をしている。

    ーー
    わたしたちは生き物です。生きているということは身体の奥に生命力の火を燃やしている、ということでしょう。その火の力で体も心も温まってこそ、さまざまの活動に取り組むことができるのではないでしょうか。もちろん、動物にも生命力の火はそなわっています。動物はいつもその火のゆらめきと行動が一体になっています。その一体性を本能と呼んで良いかもしれません。しかし、人間は動物のように本能をむき出しに、無自覚に生きるわけにはいきません。人間はその火をかまどのなかに閉じ込めつつ、燃やさなければならないのです。生産活動のための組織、習慣や制度、さまざまの人間関係をまとめる社会秩序、やくそくごと、そんなかまどで生命の火をじょうずに囲って生きているのです。しかし、その規制があまりにつよくなり、かまどのレンガが二重三重に厚くなったら、もし、酸素をおくるかまど口までふさがれてしまったら、人間はどうなるのでしょうか。心も身体も冷え冷えとし、エネルギーが萎え細り、体調が悪くなったり、無気力になったりし、人生は憂鬱になってきます。生きるということはこの火のぬくもりをかまど越しに、心身の全体にひろげ、エネルギーをしっかり維持する、ということではないでしょうか。

    そこで遊びは大切な役割を果たすと、わたしは思うのです。遊びは経済活動や生産とは直接むすびつかない、実質的には意味のないものかもしれません。でも、それだからこそ、遊びは軽やかに生命力と結び付いてくれます。遊びは活発な体の動きや想像力によって、かまどのレンガをうすくしたり、かまどの口をあけて酸素をおくりこんで火をかきたて、生命の火のぬくもりを心にも体にもいっぱいに広げてくれるもの。そんな気がしてならないのです。

    ーー

    人が育つことの極意がここに書かれているのではないか。
    そして、今日、新たな役目を引き受けることになるが、そのスタートにふさわしい文章だ。

    遊びは、子どもにも大人にも、いま必要とされている。



     わたしたちは、鬼ごっこをやりました。・・・牡牛たちは、目をみはって、わたしたちを見つめていました。なんで人間が鬼ごっこなんかするのか、牡牛には、きっとわからないでしょう。といって、よく考えてみると、わたしにもなぜだかわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
    (「やかまし村の春・夏・秋・冬」)


    #優読書

  • 年明けに"お年玉本"をどうしようかな~と思いながら、読んでみた。リンドグレーンというと、ピッピくらいしか読んでない。読み終わってから気づいたが、シリーズ3冊のうち、これは真ん中の巻で、先に『やかまし村の子どもたち』、あとに『やかまし村はいつもにぎやか』があるらしい。もちろん単独でも読めるけど、他の2冊もまた読んでみたい。

    読みはじめた最初は、ラッセ、ボッセ、わたし(リーサ)、オッレ、ブリッタ、アンナ…と出てくる子どもの名前がごっちゃになって、これはどこの誰やったっけ…と最初に戻ったりしたが、だんだん馴染んできた。

    スウェーデンの「やかまし村」の6人の子どもたちの日々。6人…というと、学年ごとに出入りはあったけど、学童保育に通うさいごの学年、小3のときに一緒だった「6人」を思い出す。はっきりとは書かれていないが、やかまし村の子どもたちはそれくらいの年頃だろう。

    私がおもしろかったのは、「アンナとわたしのお買い物」。

    お母さんに入り用なものを頼まれたリーサ。「買う品物を、書いておいたほうがいいわね」とお母さんは言ったが、鉛筆が見当たらなかったので、リーサは「おぼえといて、ちゃんとおもいだすから、だいじょうぶ」と言って、お母さんの並べたてる品物をおぼえた。

    リーサが頼まれたのは、イーストを200グラム、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ、ショウガを一袋、針を一袋、イワシの缶詰を一缶、甘いアーモンドを100グラム、酢を一壜。

    そこへアンナがいっしょに買い物にいかないかと飛び込んできて、二人はかごを持ってでかける。アンナのほうも買う品物を書いてはいなかった。

    アンナが買ってくるものは、石鹸、黒パン一包み、コーヒー500グラム、角砂糖1キロ、ゴムバンド2メートル、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ。

    二人はでかける前に、おじいさんにお店で買ってきてほしいものがあるかどうかをたずね、「樟脳と塗り薬を一壜」頼まれた。

    でかけようとしたら、オッレのお母さんにも買い物を頼まれた。40番の白糸を一巻き、ヴァニラ入り砂糖を一缶、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ。

    買うものを全部おもいだせるか、ちょっと心配したけれど、天気はいいし、道の脇の木はいい香りがしてくるし、二人は腕を組んで、かごをふりまわし、歌いながら歩いた。「あぶりソーセージ、ひとつだよ♪」 「いちばん、いちばん、上等な♪」という具合に。

    さてお店について、二人は自分の番が来るまで長ーいこと待って(大人たちは、どんどん前に出てってしまう!)、やっとエーミルおじさんに注文を聞いてもらえた。まずアンナが、自分のお母さんと、おじいさんに買っていく品物を並べたて、計って包みにしてもらった。つぎに、リーサが、自分のお母さんと、オッレのお母さんに買っていくものを並べたて、包んでもらった。

    エーミルおじさんにすっぱいドロップをもらって帰途についた二人は、やかまし村への分かれ道のところで買い忘れに気づく。「ねえ、アンナ、わたし、イーストを買ったかどうか、おぼえてる?」(p.108) 包みを全部手で押してみても、イーストらしいのはなく、二人はいやいやながらお店に戻って、イーストを買って、またすっぱいドロップをもらった。

    そしてまた分かれ道のところまで帰ってきて、こんどはアンナが叫ぶ。「あら、おじいさんのしょうのうのぬり薬は!」(p.109) 二人はしかたなくお店に戻り、エーミルおじさんの笑ったこと!二人は、ぬり薬をもらって、またすっぱいドロップをもらう。

    もういっぺん分かれ道に来たとき、アンナが怖い顔で言った。「わたし、どうかんがえても、お砂糖を買わなかったと思うわ。(p.109)」 かごの中のものを何度も手で押してみたけれど、砂糖らしいのはない。また店へ戻ってきた二人を見て、エーミルおじさんはたまげるばかり。砂糖をもらい、またすっぱいドロップをもらった。

    「ね、アンナ、あの分かれ道のとこ、かけてとおるのよ。それしか、方法がないわ。そうしなかったら、買いわすれたものをおもいだすばっかりだわ。」(pp.110-111) それで二人は分かれ道を駆けて通り抜けた。そして、またあのあぶりソーセージの歌をうたおうとしたときに、アンナが言うのだ。

    「リーサ!わたしたち、あぶりソーセージを買わなかったわ!」(p.112) 二人はしばらく道の脇に座り込んで、口を利かなかった。だって、もう分かれ道を過ぎて、急な坂を次々にのぼって、そんなところまで帰ってきていたのだ。二人は、いやいやながら道を戻り、お店へ向かった。あぶりソーセージを三つもらって、こんどこそ二人はやかまし村へ帰る。

    分かれ道のところで、水車小屋のユーハンが馬に車を引かせてやってくるのが見えた。リーサとアンナは、車に乗せてもらって村まで帰った。リーサはお母さんに「どうしたの。おそろしく時間がかかったのね!」 (p.115)と言われる。そりゃあ時間もかかる。二人はお店まで何度も何度も戻ったのだ。

    かごの中から品物をぜんぶとりだしたあとで、お母さんはそんな苦労も知らずにこう言った。「ほんとに、しっかりした子だわ。なにひとつ、わすれてこなかったものね!」(p.116)

    二人が「いやいやながら」お店に戻るところや、分かれ道を駆け抜けても、やっぱり買い忘れがあったところに、笑ってしまった。二人がかごをふりまわしながら歌って歩く姿が、挿し絵になっていて、それもまた笑いを誘う。"これからは買い物に行く時は品物を書いていこうと思いました"みたいな、変な教訓話で終わったりしないのもいい。

    結局この本は"お年玉本"にはしなかったけど、おもしろかった。

    (1/3了)

  • おもしろい

  • 再読。
    映画の映像もとてもいいんですよね。
    スウェーデンの人にとってはこの作品が一番子供時代を思い出してなつかしくなる話なのだとか

  • 母は、やっぱりリンドグレーンが好き。特別なことは何も起こらないけれど、それでも楽しいリンドグレーンの世界。日常の幸せをひしひしと感じながら読めることが、何よりも嬉しいのです。娘は、ゲラゲラと笑いながら読んでいました。自分の日常と重ねて楽しめていた様子。娘は、ラッセファン。母は、断然、オッレファンです。

  • やかまし村は、たった3軒の家で構成されている村で、そこで暮らす3人の男の子 & 3人の女の子(その後+1人の赤ちゃん)の日常が描かれています。  その6人の子供達の中の8歳の少女の一人称で語られる「遊びの毎日」は実に生き生きとしていて、少なくとも KiKi ぐらいの年齢の読者には遠く離れた国のお話でありながらも違和感を感じさせない物語なんじゃないかしら?  同じ作者の「ピッピ」のように奇想天外な登場人物が出てくるわけでもなし、「カッレ」のように大きな事件が起こるわけでもない。  でも読んでいて「あった、あった!  こういうこと。  KiKi の子供の時はね・・・・・。」と似たような体験を思い出させる何とも懐かしく、微笑ましい物語の宝庫でした。

    登下校の際に石の上を歩くことを仲間内の決まりとして、万が一何かの拍子で地面に足をつけちゃうようなことがあったら「死んだことにする」な~んていう遊びは KiKi にも覚えがあります。  もっとも KiKi たちの時代は、その遊びには子供なりにちゃんとした(?)本当の理由がありました。  当時は舗装道路と言えば自動車道路限定でした。  そして急増していた「交通事故」から学童自動を守るために通学路は畑の中とか民家の軒先が指定されていて、そこは未舗装だったんですよね。  だから一度雨でも降ろうものならそこかしこに水たまりができちゃって、そこを歩くと靴はドロドロになるし、下手をすると靴下まで泥水が浸み込んで気持ち悪いことこのうえない。  だからどうにかして靴をドロドロにしないために石の上を飛んで歩くというのは必要に迫られていたことでもあったんです。

    でも、それをそのまま口にしちゃったら余りにもつまらないし、まして程よい距離感で都合の良い石があるわけでもなし。  だからそこに遊びの要素を持ち込んで、「石から落ちたら死んじゃうということにしよう!」となったんですよね。  この物語を今回再読するまで、そんなことはすっかり忘れていたんだけど、読み進むにつれて飛び石下校にまつわるアレコレを鮮明に思い出しました。  本来「靴を汚さないため」の飛び石下校だったはずなのに、子供の跳躍力ではとうてい辿りつけない石しか見つけられなかった時に「えいや!」とばかりに飛んでみたら、結局大きな水たまりのど真ん中に落っこちて、挙句そこで足を滑らせて靴はおろか、スカートからブラウスまでドロドロになっちゃって、帰宅するや否や母に叱られたことまで思い出しちゃった・・・・・ ^^;

    さて、このシリーズで描かれる一つ一つの出来事は実際に似たような経験があって懐かしかったり、同じような経験はないものの、そこに流れる子どもらしい「遊びの精神」に共感してノスタルジーに浸ったりすること多し・・・なんですけど、その感覚は必ずしもこの物語に限ったものでもありませんでした。  例えば「小さな牛追い」みたいな物語でもそれに近い感覚は持つことができました。  でも、この物語を読んでいて初めて振り返ることができて、読了後も強く印象に残ったお話がありました。  それは、「乳歯が抜ける」という誰もが体験してきた事件(?)とそれに対しての子供たちの反応の物語でした。

    KiKi 自身は乳歯が抜けきって永久歯にはえ変わって早○十年。  そんな事が自分の人生の中で起こったことさえ忘れていたけれど、今回この物語を読んでいてあの歯のあたりがむずかゆい感じやグラグラし始めた時の頼りなさ。  硬いものを噛んだときにたまたまそれがグラグラしている歯の部分にあたり、「グキッ!」となったような気がしたうえに涙が出そうなほど痛かったこと。  その歯のグラグラが気になって気になって、しょっちゅう口の中に指を入れて弄っていたことなんかをありありと思い出しました。

    最近の子供は抜けちゃった乳歯をどうしているのか知らないけれど、KiKi の子供時代は上の歯が抜けたら縁の下へ、下の歯が抜けたら屋根の上に向かって投げ

    「早く立派な歯がはえますように」

    と唱えるのが決まり事のようになっていました。(← これは地域的な風習だったのかしら?  そのあたりはよく知りません。)  我が家ではこれを子供1人でするのではなく、両親と一緒にするのが「家庭内ルール」だったため、父が帰宅している時で、母の手が空いている時間で、さらに明るい時間帯(つまり夜はありえない)にしなくちゃいけなかったので、歯が抜けてからこの行事が執り行われるまでにはそれなりの時間が空いてねぇ・・・・。  その間はその大切な「抜けた歯」をこの物語の子供達同様、小さな箱(それがどんな箱だったかは覚えていないけど)に入れて、暇さえあれば眺めていました。

    決して眺めていて気持ちの良いものではなかったはずなんだけど、それでも何だか宝物のような気がしていたんですよね~。  あの抜けた歯というヤツは子供時代から大人へ向かうイニシエーションの賜物であり、人生の中で大人への階段の第一歩を示す象徴でもありました。  そんな大切な一大イベントだったはずなのに、人は生きていく中でそんなことがあったことさえ忘れ去っちゃうものなんだと思うと、何気にショックを受けたような気分になりました。

    さて、この物語の中で1つだけ KiKi なんかの子供時代とは大きく違うところがありました。  それはやかまし村の子どもたちが学齢に達しているにも関わらず、学校の同学年のお友達とはほとんど交流していないように感じられることです。  一巻目の「やかまし村の子どもたち」だけならいざ知らず、2巻目に進んでも3巻目に進んでも、ず~っと向こう3軒両隣という狭い社会の中だけで遊んでいるんですよね~。  

    もっとも彼らが通う学校は本当に小さな学校で、クラスだって学年別ではなくて日本でいうところの1年生から6年生までが1つの教室に集っちゃうという状態だから、実は同学年の子供が1人もいない・・・・ということがあったのかもしれません。  さらに言えば、やかまし村から学校まではかなり遠いので KiKi の子供時代のように「一旦うちに帰って、ランドセルを置いたら公園に集合!」とはいかなかっただろうこともわかります。  しかもこの通学路を集団登下校よろしく、常に6人で行き来しているので、「放課後に運動場でかけっこしてから帰ろう!」というのも難しかったのはわかります。  恐らくイマドキの(これは KiKi の子供時代も含め)子供と比較して、家庭内での労働もあったことでしょう。

    でもね、KiKi なんかの感覚では学齢に達するとそれまでは年下の子とも楽しそうに遊んでいた子供であってさえも、知力も体力も自分には及ばない年下の子と遊ぶより同年代の子供と遊ぶことを優先するようになっていくのが普通だと思うんですけど、この「やかまし村の子どもたち」は相変わらず6人の小さなコミュニティの中だけで遊び続けているんですよね~。  だからと言って社会性が育っていないのか?と言えば、そうでもないのがこれまた不思議でねぇ・・・・・(苦笑)  



    さて、最後にこの本(「やかまし村の子どもたち」)の宮崎駿さんの推薦文をご紹介しておきましょう。



    この世界に楽園があるとするならば、やかまし村がそれです。  読んだ子供達は、みんなこの本が好きになり、自分たちもやかまし村に生まれたら良かったのにと思います。  こんな風な楽しさは子供の時にしかありません。
    それなのに、このような村でくらすチャンスはめったにないのです。  それで、「ああ~おもしろかった」と読み終えてから、ちょっぴり残念が気持ちがするのです。

  • お母さんが好きです。

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著者プロフィール

1907年‐2002年。スウェーデンに生まれる。1944年『ブリット‐マリはただいま幸せ』(徳間書店)で、出版社主催の少女小説コンテストの二等賞を得て、デビュー。以後、児童書の編集者として働きながら数多くの作品を発表しつづけた。1958年には国際アンデルセン賞を受賞。「長くつ下のピッピ」「やかまし村の子どもたち」「名探偵カッレくん」のシリーズや、『ミオよ わたしのミオ』(岩波書店)など、世界中で今も愛されている数々の物語を生み出し、「子どもの本の女王」と呼ばれた。

「2018年 『長くつ下のピッピの本 決定版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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