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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784001141290
みんなの感想まとめ
子どもたちの日常を描いたこの物語は、スウェーデンのやかまし村に住む6人の子供たちの春夏秋冬の冒険を、リーサの視点で楽しむことができます。自然と共に遊ぶ姿や、季節ごとのイベントが織り交ぜられ、読者はその...
感想・レビュー・書評
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やかまし村シリーズの続編。
スウェーデン、やかまし村に住む6人の子供たちの日常を、リーサの語り口にて紹介されていく物語。
リンドグレーンの自伝に近いと言われていて、
子供達のささいな日常に読んでいて本当にワクワクさせられる。
この本は四季のイベントなどもあり、ワクワクもさらに加速w
クリスマスやイースターなどのビッグイベントの他に、私が気に入ったのはリーサとアンナが人を幸せにする話し。
子供たちが思う“人の幸せ”と、大人の感じる幸せのズレや間の悪さw とっても可愛くておかしかった。
巻末に高楼方子さんも解説を書いてくださっていて、それもとても良かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
★4.0
シリーズ2作目。前作と同じく、中屋敷の末っ子・リーサの視点で綴られる、やかまし村の春夏秋冬。夏は湖に浮かぶ島で海賊ごっこ、冬は氷が張った池でスケートと、常に自然とともに遊ぶ子どもたちが、何とも無邪気で本当に可愛らしい。時に「子どもたちだけで大丈夫?」と心配したりもするけれど、私の子ども時代も探検と称して無茶をしていたな、と懐かしく思い出したりも。そして、常に仲良し小好しな6人ではなく、意地悪をしたり喧嘩をしたり、常に自然体な姿を捉えるリンドグレーンの目線が微笑ましい。シャスティンの成長も楽しみ。 -
子ども時間をのびのびと生きる子どもたち。スウェーデンの四季の美しさや生活の様子の描写がたまりません。日本のパパやママや先生には?????の子どもたちの姿かもしれませんね。子どもを変にいじらない大人の姿から、スウェーデンの豊かさが感じられます。帰りたいよ~。
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やかまし村シリーズ第1作。住んでいる6人の子どもたちのうち、8歳になるリーサの視点で書かれている。電子機器のない時代の子どもたちの様子が素敵な挿絵と共に生き生きと描かれ、子ども時代に夢見た生活を思い出させる作品。ゲームやパソコンとにらめっこの今の子どもたちにもぜひ読んでもらいたい。
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これほどまでに分かりやすい四季は、日本だけかと思ったら
そうでもないという事が判明。
いやでも冬がすごいだけ?
また色々食べ物が出てきて美味しそうでした。
そして新しい住人誕生!
こうして人数が増えていくのはいいのですが
ふと別な事に気が付きました。
お手伝いさんは、住み込み? -
北欧ってとても素敵そうなところだ、と思い、いつかやかまし村へ行くと思っていたよ子供の頃。
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よくいじめで人の背中に貼り紙を貼るのがあるけど、それがイースターで許されてる行為と初めて知った。エイプリルフールと同じ感覚だったんだなあ。
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何十年ぶりに読みました。
内容は覚えていませんでしたが、
子供の頃のあのワクワクを思い出しました。
3軒の家の子供部屋が木の枝で繋がっていることがとても羨ましかったですね。
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やかまし村シリーズでこれがいちばん好きかも!季節を感じるできごとがたくさん。大人たちの話もちょっと出てきてよかった✨おじいさんの誕生日の話にはうるうるきてしまった。
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『やかまし村』シリーズ、2冊目。
クリスマス、復活祭などのイベントはありますが、基本的には日常の物語。
なのになんでこんなに楽しいのか。
「平凡な毎日こそが幸せ」というよりは、リーサの視点が「平凡な毎日」をスペシャルにしてるんだと思うんですよね。
リーサとアンナのお買いもののドキドキ感よ。
なんで人間は鬼ごっこなんかするのか、牝牛には、きっとわからないでしょう。といって、よくかんがえてみると、わたしにも、なぜだかはわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
(69ページ)
ラッセとボッセとわたしは、どの卵も、赤や黃や緑にぬっておきました。色つきの卵って、とにかく感じがいいですから、卵にはいつも色をぬっとくといいとおもいます。
(92ページ)
スウェーデンの復活祭は魔女の扮装をするんだとか、ラストの方で語られる戦争から第二次対戦中スウェーデンは中立の立場を通したということを知りました。
屋根裏部屋にいると、とてもいい気もちでした。頭のうえの屋根には、雨がはげしい音をたててぶつかり、軒にある雨どいでは、水がザアザアながれる音がしました。その屋根裏にすわりこんで、カステラをたべて、そして、そとにでなくていいというのは、すてきでした。
(160ページ)
これって少し前に日本でも話題になった「ヒュッゲ」ですよね。(ヒュッゲはデンマーク語ですが。)外が嵐だからこそ満たされる安心感。
やかまし村は3軒しか家がないし、子どもも6人(プラス赤ちゃんひとり)しかいないので、普通に考えるとすごく寂しい村な気がするんですが、物語全体にただようのはこの安心感。
この場面はなんだか泣きそうになりました。
以下、引用。
14
だいたい焼き終わったころ、わたしたちは、めいめいの、すこしずつのこったこね粉をまとめて、大きなかたまりにし、それで優勝クッキーをひとつつくりました。これは、まい年つくるんです。
その日の午後、クッキーをぜんぶ焼きあげてしまうと、わたしたちは、ひとつのびんにエンドウマメを三百二十二個いれ、やかまし村じゅうをねりあるきました。そして、びんのなかにエンドウマメがいくつあるかを、みんなにあてさせました。いちばんうまく数をあてた人が、優勝クッキーをもらうんです。
20
わたしたちは、クリスマス・ツリー用にとっておいた、赤いリンゴを、屋根裏からもってきて、木につるし、わたしたちの焼いた、ショウガ入りクッキーも、だいぶつかいました。わたしたちがおじいさんの部屋でつくった、紙のかごには、ほしブドウと木の実を入れて、枝にさげました。それから、なかに綿をつめた天使たちも、とりつけました。この天使たちは、おかあさんが子どもだったころにも、じぶんのクリスマス・ツリーにつけたものです。もちろん、わたしたちは、たくさんの旗や、ロウソクや、キャンディーもつけました。こうして準備ができあがったクリスマス・ツリーは、まったくきれいでした!
28
わたしは、ひとにクリスマス・プレゼントをあげて、よろこんでもらうのがすきです。それは、じぶんがプレゼントをもらうのとおなじくらい、たのしいんです。
49
わたしたちは、ロウソクをけして、窓のそばにいき、まっくらな夜のやみをながめました。新年がやってくるのが見えるかとおもったんです。でも、なにも見えませんでした。
69
なんで人間は鬼ごっこなんかするのか、牝牛には、きっとわからないでしょう。といって、よくかんがえてみると、わたしにも、なぜだかはわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
90
つぎの聖木曜日の夕がた、わたしたち子どもたちはみんな、復活祭の魔女に変装しました。
91
おとうさんは、うちの庭で、木の葉をもしていました。そして、わたしたち、復活祭の魔女はみんな、火のまわりをはねまわり、もえたりいぶったりしてる、葉っぱの山をとびこえました。わたしたちは、ブロッケン山にいって、魔女のおどりをやってるつもりにしたんです。
92
テーブルには、青いテーブル・クロスをしきましたし、黄色い復活祭用のお皿もならんで、みごとでした。
ラッセとボッセとわたしは、どの卵も、赤や黃や緑にぬっておきました。色つきの卵って、とにかく感じがいいですから、卵にはいつも色をぬっとくといいとおもいます。
120
ええ、水車小屋のあたりって、ほんとにわくわくするような場所です! そこは、とってもきれいです。おまけに、ちょっぴりきみがわるいんです。
126
「でかけていいかなんて、うちの人にきかないほうがいいぜ。……子どもが水の精を見にいきたがると、おとなってものは、まったくおかしなかんがえかたをしやすいんだ。だから、あとになってから、いいのかどうか、きいたほうがいいよ。だって、そのときなら、もう、なんていわれたってだいじょうぶだもの。」
160
屋根裏部屋にいると、とてもいい気もちでした。頭のうえの屋根には、雨がはげしい音をたててぶつかり、軒にある雨どいでは、水がザアザアながれる音がしました。その屋根裏にすわりこんで、カステラをたべて、そして、そとにでなくていいというのは、すてきでした。
171
ラッセは、こういいました。
「われわれは、金もちからぶんどって、貧しい者にあたえるんだ。」
といっても、よくよくかんがえてみますと、わたしたちの知りあいに、金もちはいません。それに、そんなに貧乏な人もいないんです。
200
それに、だいたい、新聞の記事はかなしいことだらけで、「戦争になる」「戦争になる」とばかり書いてあったんです。 -
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こんなに楽しい、のびのびとした子ども時代を送れたら素晴らしいてすね❗
子育てする時に、こんな環境を提供する大切さを大人は頭に置いてもらいたいな。
おじいさんを大事に思う様子に胸を打たれます。 -
のどか。とても。
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【やかまし村の春・夏・秋・冬】
【やかまし村はいつもにぎやか】
アストリッド・リンドグレーン著、大塚勇三訳、岩波書店、2005年、2006年
リンドグレーンの「やかまし村」3部作の2,3冊目。
原作はそれぞれ1949年、1952年に出版されている。
「水の精を見に行きました」
「アンナとわたしは、なにをやってるのか、じぶんでもわかりません・・・」
「賢者の箱」
などの章は、子供向けの本なのに、43歳男性の自分がおもわず笑ってしまう。
本当にいい本だ。
子ども達だけに読ませておくなんて、なんてもったいない!
児童文学者の長谷川摂子が以下の寄稿をしている。
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わたしたちは生き物です。生きているということは身体の奥に生命力の火を燃やしている、ということでしょう。その火の力で体も心も温まってこそ、さまざまの活動に取り組むことができるのではないでしょうか。もちろん、動物にも生命力の火はそなわっています。動物はいつもその火のゆらめきと行動が一体になっています。その一体性を本能と呼んで良いかもしれません。しかし、人間は動物のように本能をむき出しに、無自覚に生きるわけにはいきません。人間はその火をかまどのなかに閉じ込めつつ、燃やさなければならないのです。生産活動のための組織、習慣や制度、さまざまの人間関係をまとめる社会秩序、やくそくごと、そんなかまどで生命の火をじょうずに囲って生きているのです。しかし、その規制があまりにつよくなり、かまどのレンガが二重三重に厚くなったら、もし、酸素をおくるかまど口までふさがれてしまったら、人間はどうなるのでしょうか。心も身体も冷え冷えとし、エネルギーが萎え細り、体調が悪くなったり、無気力になったりし、人生は憂鬱になってきます。生きるということはこの火のぬくもりをかまど越しに、心身の全体にひろげ、エネルギーをしっかり維持する、ということではないでしょうか。
そこで遊びは大切な役割を果たすと、わたしは思うのです。遊びは経済活動や生産とは直接むすびつかない、実質的には意味のないものかもしれません。でも、それだからこそ、遊びは軽やかに生命力と結び付いてくれます。遊びは活発な体の動きや想像力によって、かまどのレンガをうすくしたり、かまどの口をあけて酸素をおくりこんで火をかきたて、生命の火のぬくもりを心にも体にもいっぱいに広げてくれるもの。そんな気がしてならないのです。
ーー
人が育つことの極意がここに書かれているのではないか。
そして、今日、新たな役目を引き受けることになるが、そのスタートにふさわしい文章だ。
遊びは、子どもにも大人にも、いま必要とされている。
わたしたちは、鬼ごっこをやりました。・・・牡牛たちは、目をみはって、わたしたちを見つめていました。なんで人間が鬼ごっこなんかするのか、牡牛には、きっとわからないでしょう。といって、よく考えてみると、わたしにもなぜだかわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
(「やかまし村の春・夏・秋・冬」)
#優読書 -
年明けに"お年玉本"をどうしようかな~と思いながら、読んでみた。リンドグレーンというと、ピッピくらいしか読んでない。読み終わってから気づいたが、シリーズ3冊のうち、これは真ん中の巻で、先に『やかまし村の子どもたち』、あとに『やかまし村はいつもにぎやか』があるらしい。もちろん単独でも読めるけど、他の2冊もまた読んでみたい。
読みはじめた最初は、ラッセ、ボッセ、わたし(リーサ)、オッレ、ブリッタ、アンナ…と出てくる子どもの名前がごっちゃになって、これはどこの誰やったっけ…と最初に戻ったりしたが、だんだん馴染んできた。
スウェーデンの「やかまし村」の6人の子どもたちの日々。6人…というと、学年ごとに出入りはあったけど、学童保育に通うさいごの学年、小3のときに一緒だった「6人」を思い出す。はっきりとは書かれていないが、やかまし村の子どもたちはそれくらいの年頃だろう。
私がおもしろかったのは、「アンナとわたしのお買い物」。
お母さんに入り用なものを頼まれたリーサ。「買う品物を、書いておいたほうがいいわね」とお母さんは言ったが、鉛筆が見当たらなかったので、リーサは「おぼえといて、ちゃんとおもいだすから、だいじょうぶ」と言って、お母さんの並べたてる品物をおぼえた。
リーサが頼まれたのは、イーストを200グラム、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ、ショウガを一袋、針を一袋、イワシの缶詰を一缶、甘いアーモンドを100グラム、酢を一壜。
そこへアンナがいっしょに買い物にいかないかと飛び込んできて、二人はかごを持ってでかける。アンナのほうも買う品物を書いてはいなかった。
アンナが買ってくるものは、石鹸、黒パン一包み、コーヒー500グラム、角砂糖1キロ、ゴムバンド2メートル、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ。
二人はでかける前に、おじいさんにお店で買ってきてほしいものがあるかどうかをたずね、「樟脳と塗り薬を一壜」頼まれた。
でかけようとしたら、オッレのお母さんにも買い物を頼まれた。40番の白糸を一巻き、ヴァニラ入り砂糖を一缶、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ。
買うものを全部おもいだせるか、ちょっと心配したけれど、天気はいいし、道の脇の木はいい香りがしてくるし、二人は腕を組んで、かごをふりまわし、歌いながら歩いた。「あぶりソーセージ、ひとつだよ♪」 「いちばん、いちばん、上等な♪」という具合に。
さてお店について、二人は自分の番が来るまで長ーいこと待って(大人たちは、どんどん前に出てってしまう!)、やっとエーミルおじさんに注文を聞いてもらえた。まずアンナが、自分のお母さんと、おじいさんに買っていく品物を並べたて、計って包みにしてもらった。つぎに、リーサが、自分のお母さんと、オッレのお母さんに買っていくものを並べたて、包んでもらった。
エーミルおじさんにすっぱいドロップをもらって帰途についた二人は、やかまし村への分かれ道のところで買い忘れに気づく。「ねえ、アンナ、わたし、イーストを買ったかどうか、おぼえてる?」(p.108) 包みを全部手で押してみても、イーストらしいのはなく、二人はいやいやながらお店に戻って、イーストを買って、またすっぱいドロップをもらった。
そしてまた分かれ道のところまで帰ってきて、こんどはアンナが叫ぶ。「あら、おじいさんのしょうのうのぬり薬は!」(p.109) 二人はしかたなくお店に戻り、エーミルおじさんの笑ったこと!二人は、ぬり薬をもらって、またすっぱいドロップをもらう。
もういっぺん分かれ道に来たとき、アンナが怖い顔で言った。「わたし、どうかんがえても、お砂糖を買わなかったと思うわ。(p.109)」 かごの中のものを何度も手で押してみたけれど、砂糖らしいのはない。また店へ戻ってきた二人を見て、エーミルおじさんはたまげるばかり。砂糖をもらい、またすっぱいドロップをもらった。
「ね、アンナ、あの分かれ道のとこ、かけてとおるのよ。それしか、方法がないわ。そうしなかったら、買いわすれたものをおもいだすばっかりだわ。」(pp.110-111) それで二人は分かれ道を駆けて通り抜けた。そして、またあのあぶりソーセージの歌をうたおうとしたときに、アンナが言うのだ。
「リーサ!わたしたち、あぶりソーセージを買わなかったわ!」(p.112) 二人はしばらく道の脇に座り込んで、口を利かなかった。だって、もう分かれ道を過ぎて、急な坂を次々にのぼって、そんなところまで帰ってきていたのだ。二人は、いやいやながら道を戻り、お店へ向かった。あぶりソーセージを三つもらって、こんどこそ二人はやかまし村へ帰る。
分かれ道のところで、水車小屋のユーハンが馬に車を引かせてやってくるのが見えた。リーサとアンナは、車に乗せてもらって村まで帰った。リーサはお母さんに「どうしたの。おそろしく時間がかかったのね!」 (p.115)と言われる。そりゃあ時間もかかる。二人はお店まで何度も何度も戻ったのだ。
かごの中から品物をぜんぶとりだしたあとで、お母さんはそんな苦労も知らずにこう言った。「ほんとに、しっかりした子だわ。なにひとつ、わすれてこなかったものね!」(p.116)
二人が「いやいやながら」お店に戻るところや、分かれ道を駆け抜けても、やっぱり買い忘れがあったところに、笑ってしまった。二人がかごをふりまわしながら歌って歩く姿が、挿し絵になっていて、それもまた笑いを誘う。"これからは買い物に行く時は品物を書いていこうと思いました"みたいな、変な教訓話で終わったりしないのもいい。
結局この本は"お年玉本"にはしなかったけど、おもしろかった。
(1/3了) -
おもしろい
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再読。
映画の映像もとてもいいんですよね。
スウェーデンの人にとってはこの作品が一番子供時代を思い出してなつかしくなる話なのだとか -
母は、やっぱりリンドグレーンが好き。特別なことは何も起こらないけれど、それでも楽しいリンドグレーンの世界。日常の幸せをひしひしと感じながら読めることが、何よりも嬉しいのです。娘は、ゲラゲラと笑いながら読んでいました。自分の日常と重ねて楽しめていた様子。娘は、ラッセファン。母は、断然、オッレファンです。
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お母さんが好きです。
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アストリッド・リンドグレーンの作品
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