やかまし村はいつもにぎやか (岩波少年文庫 130)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784001141306

感想・レビュー・書評

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  • ★4.0
    シリーズ3作目。相変わらず、やかまし村の子どもたちが可愛くて、思わず顔が綻んでしまう。中でも、「賢者の箱」「やかまし村の夏」がお気に入り。特に後者は、スウェーデンで行われる夏至祭がとても興味深い。ついつい男子vs女子の構図になるものの、ずっと皆で一緒に居たいと願い、未来の結婚まで考えているリーサたちが微笑ましい限り。また、子ヒツジのポントゥス、カエルの王子様、シャスティンの保母さんになるエピソードも楽しくて面白い。まだまだ子どもたちを見ていたいのに、本書でシリーズが終わってしまうのが本当に残念。

  • 「わたし、やかまし村を読んでないひとは、きのどくだとおもうわ。」

    リーサの真似をしてこう言いたい。リーサたちの毎日はまたにぎやかで楽しそう。この巻の一大イベントは、サクランボ会社を作ったことと、ザリガニを取りに行くことである。子どもの頃に読んで、一番憧れたのがこの2つだった。

    実はザリガニ・パーティーの様子は描かれていない。解説にはやり方が書いてあるので、子どもの頃の私はそれを読んだのだろう。けれど、やかまし村のザリガニ・パーティーの様子が鮮やかに目に浮かぶ。ラッセがこんなことをして、ボッセがこういうことを言って、そして女の子たちはそれに対してこうして、オッレはケルスティンと一緒で、と。

    サクランボ会社と、この本の冒頭の自動車でやってくる母娘のシーンは、大変印象的だ。やかまし村には、ないものも多いが、とても豊かで「なんでもある」ことがわかる。リーサは冒頭で、「ここでたいくつしたり、つまらなくなったりするはずがありません。」と考え、ラストでは「『わたし、やかまし村にすんでないひとは、きのどくだとおもうわ。』」と言っている。子ども時代の輝きを差し引いても、やかまし村は理想郷だ。もちろん退屈したりつまらなくなる暇もないほど、家畜の世話や家事があるのだろうけど、それを差し引いてもやかまし村は楽しそうで、いつもにぎやかだ。

    まだ、やかまし村を読んでいない人は、大変気の毒である。こんなに楽しいことを知らないなんて。

  • 子どもの頃に好きだったシリーズ
    今回は、オッレの歯を抜くところを読んでいただいた
    子どもたちのわいわいした感じや、歯を抜くだけで絶望的に感じてしまったり
    自分の小さい頃は、こんなに楽しかったかなぁ?

  • 【やかまし村の春・夏・秋・冬】
    【やかまし村はいつもにぎやか】
    アストリッド・リンドグレーン著、大塚勇三訳、岩波書店、2005年、2006年

    リンドグレーンの「やかまし村」3部作の2,3冊目。
    原作はそれぞれ1949年、1952年に出版されている。

    「水の精を見に行きました」
    「アンナとわたしは、なにをやってるのか、じぶんでもわかりません・・・」
    「賢者の箱」

    などの章は、子供向けの本なのに、43歳男性の自分がおもわず笑ってしまう。
    本当にいい本だ。

    子ども達だけに読ませておくなんて、なんてもったいない!


    児童文学者の長谷川摂子が以下の寄稿をしている。

    ーー
    わたしたちは生き物です。生きているということは身体の奥に生命力の火を燃やしている、ということでしょう。その火の力で体も心も温まってこそ、さまざまの活動に取り組むことができるのではないでしょうか。もちろん、動物にも生命力の火はそなわっています。動物はいつもその火のゆらめきと行動が一体になっています。その一体性を本能と呼んで良いかもしれません。しかし、人間は動物のように本能をむき出しに、無自覚に生きるわけにはいきません。人間はその火をかまどのなかに閉じ込めつつ、燃やさなければならないのです。生産活動のための組織、習慣や制度、さまざまの人間関係をまとめる社会秩序、やくそくごと、そんなかまどで生命の火をじょうずに囲って生きているのです。しかし、その規制があまりにつよくなり、かまどのレンガが二重三重に厚くなったら、もし、酸素をおくるかまど口までふさがれてしまったら、人間はどうなるのでしょうか。心も身体も冷え冷えとし、エネルギーが萎え細り、体調が悪くなったり、無気力になったりし、人生は憂鬱になってきます。生きるということはこの火のぬくもりをかまど越しに、心身の全体にひろげ、エネルギーをしっかり維持する、ということではないでしょうか。

    そこで遊びは大切な役割を果たすと、わたしは思うのです。遊びは経済活動や生産とは直接むすびつかない、実質的には意味のないものかもしれません。でも、それだからこそ、遊びは軽やかに生命力と結び付いてくれます。遊びは活発な体の動きや想像力によって、かまどのレンガをうすくしたり、かまどの口をあけて酸素をおくりこんで火をかきたて、生命の火のぬくもりを心にも体にもいっぱいに広げてくれるもの。そんな気がしてならないのです。

    ーー

    人が育つことの極意がここに書かれているのではないか。
    そして、今日、新たな役目を引き受けることになるが、そのスタートにふさわしい文章だ。

    遊びは、子どもにも大人にも、いま必要とされている。



     わたしたちは、鬼ごっこをやりました。・・・牡牛たちは、目をみはって、わたしたちを見つめていました。なんで人間が鬼ごっこなんかするのか、牡牛には、きっとわからないでしょう。といって、よく考えてみると、わたしにもなぜだかわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
    (「やかまし村の春・夏・秋・冬」)


    #優読書

  • なぜに感想が投稿できないのだ!

    投稿しても消えてしまうこの現象をどうにかしてーー

  • 時々、語り手が言葉をはさむけど、その部分も徹底的に子どもの目線なのがやかまし村の魅力と思う。(そうでない作品で良いのもあるけど)これは大塚勇三さんの訳のおかげか原文がそうなのかどっちだろう?
     
     ラッセがヒツジを可愛がって学校に連れて行き一騒動あった後に、「じつに、はっきりわかるな。あれはまだ、ガッコウテキレイキじゃないんだよ」という章が好き。ラッセも先生から学校適齢期ではないと言われたけど、それは学校に適応できないことを非難・否定するニュアンスじゃなかった。そのおおらかさがあるから、ラッセも無邪気に大人ぶって、ガッコウテキレイキじゃない、と言える。かわいい。今って現実でも文学でも学校に適応できないことってよく書かれるけど、なかなかこういうおおらかさはないような。

     最後の章で子供たちが森に行く。リーサの体験がいい。ずっと心に残りそうな幼少期の一瞬。←引用欄参照。



    ※梨木香歩 「私の好きな岩波少年文庫」

  • キャンプいいなー

  • 再読。
    スウェーデンの五月祭とザリガニパーティが味わえる旅行に行ってみたいな。

  • 娘と二人、大笑いしながら、やかまし村について色々と話せることが、毎日の楽しみだった数週間。とうとう、最終巻です。「どうしてもうないの?」と娘が、寂しそうに言いました。次は、エーミールとピッピかな・・・と思ったけれど、1年生でないと楽しめない本を読んでから進もうかと思います。

  • やかまし村は、たった3軒の家で構成されている村で、そこで暮らす3人の男の子 & 3人の女の子(その後+1人の赤ちゃん)の日常が描かれています。  その6人の子供達の中の8歳の少女の一人称で語られる「遊びの毎日」は実に生き生きとしていて、少なくとも KiKi ぐらいの年齢の読者には遠く離れた国のお話でありながらも違和感を感じさせない物語なんじゃないかしら?  同じ作者の「ピッピ」のように奇想天外な登場人物が出てくるわけでもなし、「カッレ」のように大きな事件が起こるわけでもない。  でも読んでいて「あった、あった!  こういうこと。  KiKi の子供の時はね・・・・・。」と似たような体験を思い出させる何とも懐かしく、微笑ましい物語の宝庫でした。

    登下校の際に石の上を歩くことを仲間内の決まりとして、万が一何かの拍子で地面に足をつけちゃうようなことがあったら「死んだことにする」な~んていう遊びは KiKi にも覚えがあります。  もっとも KiKi たちの時代は、その遊びには子供なりにちゃんとした(?)本当の理由がありました。  当時は舗装道路と言えば自動車道路限定でした。  そして急増していた「交通事故」から学童自動を守るために通学路は畑の中とか民家の軒先が指定されていて、そこは未舗装だったんですよね。  だから一度雨でも降ろうものならそこかしこに水たまりができちゃって、そこを歩くと靴はドロドロになるし、下手をすると靴下まで泥水が浸み込んで気持ち悪いことこのうえない。  だからどうにかして靴をドロドロにしないために石の上を飛んで歩くというのは必要に迫られていたことでもあったんです。

    でも、それをそのまま口にしちゃったら余りにもつまらないし、まして程よい距離感で都合の良い石があるわけでもなし。  だからそこに遊びの要素を持ち込んで、「石から落ちたら死んじゃうということにしよう!」となったんですよね。  この物語を今回再読するまで、そんなことはすっかり忘れていたんだけど、読み進むにつれて飛び石下校にまつわるアレコレを鮮明に思い出しました。  本来「靴を汚さないため」の飛び石下校だったはずなのに、子供の跳躍力ではとうてい辿りつけない石しか見つけられなかった時に「えいや!」とばかりに飛んでみたら、結局大きな水たまりのど真ん中に落っこちて、挙句そこで足を滑らせて靴はおろか、スカートからブラウスまでドロドロになっちゃって、帰宅するや否や母に叱られたことまで思い出しちゃった・・・・・ ^^;

    さて、このシリーズで描かれる一つ一つの出来事は実際に似たような経験があって懐かしかったり、同じような経験はないものの、そこに流れる子どもらしい「遊びの精神」に共感してノスタルジーに浸ったりすること多し・・・なんですけど、その感覚は必ずしもこの物語に限ったものでもありませんでした。  例えば「小さな牛追い」みたいな物語でもそれに近い感覚は持つことができました。  でも、この物語を読んでいて初めて振り返ることができて、読了後も強く印象に残ったお話がありました。  それは、「乳歯が抜ける」という誰もが体験してきた事件(?)とそれに対しての子供たちの反応の物語でした。

    KiKi 自身は乳歯が抜けきって永久歯にはえ変わって早○十年。  そんな事が自分の人生の中で起こったことさえ忘れていたけれど、今回この物語を読んでいてあの歯のあたりがむずかゆい感じやグラグラし始めた時の頼りなさ。  硬いものを噛んだときにたまたまそれがグラグラしている歯の部分にあたり、「グキッ!」となったような気がしたうえに涙が出そうなほど痛かったこと。  その歯のグラグラが気になって気になって、しょっちゅう口の中に指を入れて弄っていたことなんかをありありと思い出しました。

    最近の子供は抜けちゃった乳歯をどうしているのか知らないけれど、KiKi の子供時代は上の歯が抜けたら縁の下へ、下の歯が抜けたら屋根の上に向かって投げ

    「早く立派な歯がはえますように」

    と唱えるのが決まり事のようになっていました。(← これは地域的な風習だったのかしら?  そのあたりはよく知りません。)  我が家ではこれを子供1人でするのではなく、両親と一緒にするのが「家庭内ルール」だったため、父が帰宅している時で、母の手が空いている時間で、さらに明るい時間帯(つまり夜はありえない)にしなくちゃいけなかったので、歯が抜けてからこの行事が執り行われるまでにはそれなりの時間が空いてねぇ・・・・。  その間はその大切な「抜けた歯」をこの物語の子供達同様、小さな箱(それがどんな箱だったかは覚えていないけど)に入れて、暇さえあれば眺めていました。

    決して眺めていて気持ちの良いものではなかったはずなんだけど、それでも何だか宝物のような気がしていたんですよね~。  あの抜けた歯というヤツは子供時代から大人へ向かうイニシエーションの賜物であり、人生の中で大人への階段の第一歩を示す象徴でもありました。  そんな大切な一大イベントだったはずなのに、人は生きていく中でそんなことがあったことさえ忘れ去っちゃうものなんだと思うと、何気にショックを受けたような気分になりました。

    さて、この物語の中で1つだけ KiKi なんかの子供時代とは大きく違うところがありました。  それはやかまし村の子どもたちが学齢に達しているにも関わらず、学校の同学年のお友達とはほとんど交流していないように感じられることです。  一巻目の「やかまし村の子どもたち」だけならいざ知らず、2巻目に進んでも3巻目に進んでも、ず~っと向こう3軒両隣という狭い社会の中だけで遊んでいるんですよね~。  

    もっとも彼らが通う学校は本当に小さな学校で、クラスだって学年別ではなくて日本でいうところの1年生から6年生までが1つの教室に集っちゃうという状態だから、実は同学年の子供が1人もいない・・・・ということがあったのかもしれません。  さらに言えば、やかまし村から学校まではかなり遠いので KiKi の子供時代のように「一旦うちに帰って、ランドセルを置いたら公園に集合!」とはいかなかっただろうこともわかります。  しかもこの通学路を集団登下校よろしく、常に6人で行き来しているので、「放課後に運動場でかけっこしてから帰ろう!」というのも難しかったのはわかります。  恐らくイマドキの(これは KiKi の子供時代も含め)子供と比較して、家庭内での労働もあったことでしょう。

    でもね、KiKi なんかの感覚では学齢に達するとそれまでは年下の子とも楽しそうに遊んでいた子供であってさえも、知力も体力も自分には及ばない年下の子と遊ぶより同年代の子供と遊ぶことを優先するようになっていくのが普通だと思うんですけど、この「やかまし村の子どもたち」は相変わらず6人の小さなコミュニティの中だけで遊び続けているんですよね~。  だからと言って社会性が育っていないのか?と言えば、そうでもないのがこれまた不思議でねぇ・・・・・(苦笑)  



    さて、最後にこの本(「やかまし村の子どもたち」)の宮崎駿さんの推薦文をご紹介しておきましょう。



    この世界に楽園があるとするならば、やかまし村がそれです。  読んだ子供達は、みんなこの本が好きになり、自分たちもやかまし村に生まれたら良かったのにと思います。  こんな風な楽しさは子供の時にしかありません。
    それなのに、このような村でくらすチャンスはめったにないのです。  それで、「ああ~おもしろかった」と読み終えてから、ちょっぴり残念が気持ちがするのです。

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著者プロフィール

1907年‐2002年。スウェーデンに生まれる。1944年『ブリット‐マリはただいま幸せ』(徳間書店)で、出版社主催の少女小説コンテストの二等賞を得て、デビュー。以後、児童書の編集者として働きながら数多くの作品を発表しつづけた。1958年には国際アンデルセン賞を受賞。「長くつ下のピッピ」「やかまし村の子どもたち」「名探偵カッレくん」のシリーズや、『ミオよ わたしのミオ』(岩波書店)など、世界中で今も愛されている数々の物語を生み出し、「子どもの本の女王」と呼ばれた。

「2018年 『長くつ下のピッピの本 決定版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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