- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784001141344
感想・レビュー・書評
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ノルウェイの山間の村にあるランゲリュード(長革)農場には四人の子どもたちがいました。
お兄ちゃんは10歳のオーラ、弟のエイナールは8歳、その下にインゲリドとマルタという妹たちがいます。
農場には四頭の牝牛がいました。ボスはスヴェルタはオーラのもの、次のクヴィータはエイナールのもの、ユルガースはインゲリド、スチュルナはマルタのものです。
でも男の子たちは、他のものと牛とをしょっちゅう取替っこしていたので、もうスヴェルタとクヴィータの持ち主がどっちなのかはわからなくなっているくらいです。
オーラは物事を考えて計画的を立てて行動します。弟や妹たちに威張るところもありますが、本が好きで空想にふけることも大好きです。
それに対してエイナールは明日のことなんか考えない!無茶もしょっちゅうするけれど、周りの人たちを楽しくしくなるさせるようなこともあります。
さて、ランゲリュード農場は小さい農場ですが、山のずっと上にとても立派な牧場を持っていました。毎年春になるとその牧場に村中の人たちが牛を預けに来ます。一家は牛たちを連れて秋まで牧場で過ごします。
そしてこの牛たちの世話を任されているのがオーラとエイナールです。秋に牛を飼い主に戻したときにもらえるお礼が一家の収入であり大切なお小遣いでもあるんです。
今年もやっと雪が溶けて遅い春がやってきました。一家はいよいよ必要なものを馬に乗せて山の上の牧場まで長い長い道を歩きます。
名前は聞いていたけれど読むのは初めて。
大自給自足を送る一家の素朴かつ力強い物語です。
一家は大人も子供も動物たちもちゃんと役割があります。
お父さんは家を直したり生活に必要なのを作ったり、お母さんは料理や家事をして、オーラとエイナールは毎日交代で牛追いに出るか、お父さんとお母さんの仕事を手伝います。インゲリドとマルタはお母さんとキイチゴやコケモモを摘んでお料理に出します。そして家畜と言うよりはペットであるブタのイノシシ(脱走して走り回ったので”イノシシ”と命名された)だって一家と一緒に過ごしたり迷子の女の子たちを迎えに行ったりします。
まだ10歳を先頭にした子供たちですが、何十頭もの牛や羊や山羊の世話を一人します。今日はどこに連れて行こうとか、雨が降ったら避難するとか、その都度自分で考えて行動します。牛が迷子になってしまったときは、牛追いを任された自分たち一家の恥ずかしいことだとして、何十キロも離れた別の牧場に野宿しながら探しにゆきます。親たちも失敗があっても責めることはなくしかし山で野宿の旅に子供たちを送り出します。
そのため男の子たちは実に逞しく、牛追いをしながら木のヤニ(メープルシロップみたいなもの?)を集めて後で売ったり、沼で釣りをするから夕食は任せて!と勇ましく出かけたり、雨でびしょ濡れになっても牛に乗って振り落とされたりしても、毎日元気に飛び出してゆきます。
しかし相手にちょっと複雑な思いもあり、特に兄のオーラは自分がこっそりと恋したインゲルという女の子が、とっくにエイナールと知り合いだったと知って面白くない思いを持ったりします。それでも協力して迷子牛を探したり、一緒に稼いだお金は家族に収めます。
作者のマリー・ハムズンは、自分の子供たちをモデルにこのお話を書いたそうです。するとこのおおらかに子供を見守る姿は自分とその夫の姿なのでしょうか。(夫は、ノーベル文学賞受賞のクヌート・ハムスン氏)
そして翻訳の石井桃子さんの言葉がとても良いのです。確かに古かったり不自然な言葉はありますが(通貨を日本円にして「牛追いのお金として180円もらいました」とか、甘い樹液を木のヤニと言われるとイマイチ美味しそうでないとか、役僧さんってどんな役職なんだろうとか)、登場人物たちに愛情の目を向け、読者に優しく彼らを紹介する。読者は石井桃子さんを信頼して読んでいけばこの良いお話の雰囲気をずっと楽しんでいられます。
あとがきは中川李枝子さん。ご自身が15歳で、戦後で外国のお話に飢えていた頃に出会ったこと「小さい牛追い」がどんなに生活を豊かにしてくれたかを語ります。
石井桃子さん、中川李枝子さんの言葉は本当に温かいのですが、現在の日本の子供とは状況が違いすぎるので、そのまま心に響かせるのはちょっと難しいのかも…とも思ってしまいます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
161028読了。
中川李枝子さんの『子どもはみんな問題児。』を読んで知った児童書です。
舞台はノルウェー、男の子2人と女の子2人の4きょうだいと両親の生活が描かれています。
大草原の小さな家ともトム・ソーヤの冒険とも少し違う、のどかで可愛らしいお話です。
中でも目を引くのが、男の子のきょうだいオーラとエイナールの冒険、取り引き、心理の描写です。
それぞれの性格がいきいきと描かれていて、自分がこどもだったらわくわくしたに違いないけれど、今やお母さん目線で見てしまう私はハラハラしてしまいました。
でも彼らのお母さんは暖かくやさしく、おおむね遠くでだまっています。素敵です。
日本語訳も、やさしいことばで丁寧に訳されているのが伝わりました。 -
日々の生活の尊さ。子ども時代に自然の中で過ごすことの尊さ。
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「ノルウェーの農場に住む4人兄弟は、両親と一緒に村中の牛をあずかり、山の牧場で夏を過ごします。豊かな自然の中で学び、働き、のびのびと生きる子どもたちの素朴な日常を温かく描く。」
山の小さな農場に、男ふたり、女ふたりの元気なきょうだいがいる。めいめい自分も牛をもっていて、早く牛追いの仕事がしたくてたまらない。だって、お金がもうかるんだもの。
(『キラキラ子どもブックトーク』玉川大学出版部より紹介)
・続編に『牛追いの冬』がある
「大人になって読んだ本で、もっと早く子どもの時に出会っていれば、という後悔を感じたことがほとんどないんですね。大人になって読んでよかった、取っておいてよかった、そして、子どもの頃だったr、ここまではじかに触れられなかっただろうっておもったりするんです。」江國香織(「特集 江國香織少女の時間」より、江國さんが選んだおすすめの子どもの本。) -
1950年、岩波少年文庫創刊時に刊行されたのは、『宝島』、『あしながおじさん』、『クリスマス・キャロル』、『ふたりのロッテ』、そして『小さい牛追い』の5冊。ほかの4冊にくらべると、知名度が低いのですが、それでも創刊時のラインナップに選ばれたなりの魅力があるのだろうと気になってました。
原書は1933年刊行の『ノルウェーの農場』。長さの関係で『小さい牛追い』の『牛追いの冬』の2冊に分けられています。
オーラとエイナール、インゲリドとマルタ、4人の兄妹たちが、6月から9月の終わりまで、山の牧場に牛とヤギを連れて夏を過ごす話が前半の『小さい牛追い』。
「小さい」牛追いは本当に小さく、オーラは10歳、エイナールは8歳。男の子たちはひとりで牧場に牛を連れて行き、ひとりで連れ帰ってきます。
オーラはお兄さんだけど、年の近いエイナールにライバル心というか、こいつがいなかったらもっと楽なのにという気持ちを持っていて、そこがむしろ共感できます。
インゲリドとマルタの姉妹はただもうかわいい。イノシシと名付けたブタをかわいがったかと思えば、お気に入りの人形を食べられそうになって「もう友だちじゃない」とブタに向かって言ってみたり。
エルザ・ジェムによる挿し絵も、乳しぼりをするお母さんの横で牛のシッポを持っている様子など、女の子たちがほんとにかわいい。
地味な物語ではありますが、四季の移り変わりと、牧場での暮らし、子どもたちのキャラクターがすばらしく、後半も楽しみです。
以下、引用。
オーラはたいてい、そういう小さいカエルを、もとの堀へつれてかえってやります。動物をいじめるのは、罪だから、と、オーラはいいます。
「それで、おとうとをいじめるのは、罪だと思わないのね?」と、おかあさんがききました。
「イラクサ。」と、アンナは、小さい声でいいました。
「イラクサーでも、なぜさ?」
アンナは、また足をもじもじさせて、
「とてもみっともないから。」
これをきいて、みんなが反対しました。オーラがやさしく、白ユリというのが、アンナにうってつけの名まえだろうといいました。
「イエス。」と、エイナールは、英語でこたえました。
エイナールは、すこし英語を知っていて、重大、厳粛な場合にだけ使いました。
もちろん、インゲリドやマルタは、まい年、一つずつ大きくなりました。けれども、子ヤギや子牛たちは、いつもまえの年とおんなじでした。
たぶん、このシラカバの木は、ラグンヒルド女王の時代にも生きていて、しかもこれからさき、オーラや、いま生きている人たちが、みんないなくなっても、その高いこずえを林の上にゆすっているかもしれません。そう考えると、とてもふしぎな気がしました。
三キロほどさきにある材木小屋を、みんなは「メキシコ」とよんでいるのです。
もちろん、ふたりは、そんなことでぐちはこぼしませんーじょうぶで勇気のある少年なら、どんなわるいお天気だって、がんばれないということはないのです。
オーラは、友だちのことを考えました。その子たちは、だれも牛追いをしたことがありません。だから、こういう火が、どんなに美しく、すばらしいものか、ほんとにわかりはしないのです。かわいそうなものです。
マルタは、六つというのは、たいした年だと考え、そのうち、インゲリドにおいつけるのだと思っていました。
「どうか、あしたお天気にしてください。できたら、どうぞ。」
ところが、神さまには、できました。
ほんとの詩人というものは、きっとほかの人が、ふつう、まい日のことばで話すとおなじように、詩で話せるにちがいありません。
そして、ある朝、子どもたちがおきてみると、草原は霜でまっ白になっていました。なるほど、その霜は、日があたると、すぐとけました。けれども、子どもたちは、夏がおわったのだな、と気づいたのです。
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オーラ10歳、エイナール8歳、インゲリド7歳、マルタ5歳。
春、山の雪が融けて、夏草が生い茂るようになったら、彼らは両親と一緒に山の上にある牧場に移動します。
ちょっとやそっとでは行き来できない山の上には、生活必需品を持てる限り持って行かなくてはなりません。
そして連れて行くのは、村の人たちから預かった牛やヤギ、自分の家の豚や馬など。
牛やヤギを美味しい草のあるところに毎日連れて行くのが、オーラとエイナールの仕事。
ふたりは交互に牛を追い、そうでない日は両親の手伝いをします。
彼らは、出来ることを手伝い、身近にあるもので遊びます。
毎日が生きる喜びにあふれたような生活ですが、したたかに金儲けも考えています。
大きな木が川から流れてきたら、大人相手に売買の駆け引きをし、釘や綺麗な石やマッチなどを拾って集めては、売ったり交換したりして自分の財産(宝物)を増やしていきます。
オーラは本を読むのが好きで、計算も得意。
そしていつも弟から価値のあるものをだまし取ってやろうと考えるようなところがあります。
対してエイナールは、頭で考えるよりも体が先に動くタイプで、自分の宝物も気前よく妹たちに上げたりするようなところがあります。
オーラは、決して悪い子ではないのですが、お母さんもみんなもエイナールの方を可愛く思っているのだろうと思うと悲しくなります。
お母さんは、けっしてそんなことはないと言うのですが、オーラはそう思うのです。
一番上の子は、どうしても甘えるのが下手ですし、オーラの気持ちは私にも痛いほどわかります。
オーラの横暴に対して、下の3人が反撃に出たのですが、それが傑作。
ちいさい子たちにまんまとしてやられるオーラは、まだたったの10歳ですからね。
秋になり、山の草も枯れてしまう頃、家族は下の村に戻ってきます。
解説が「ぐりとぐら」の作者、中川李枝子さんでした。
彼女がこの本を最初に読んだのは中学生の時。
中学生が読むには少し内容が幼いでしょう。
けれど戦争中、子どもの本なんてものはなかったのです。
戦争が終わり、子ども向けの本を買ってもらった時の喜び!
中学生の中川さんと、物語の中の4人の兄弟の笑顔が重なるような気がしました。 -
読む度に前よりも面白いような、本!
ノルウェーの農場を舞台に、
四人のきょうだいが主人公の物語。
一番年上のオーラは十歳、
弟のエイナールは八歳。
喧嘩ばかりしているようで仲良しのようで…。
この年齢で、
兄弟でかわりばんこ、一日置きに
牛追いの仕事をまかされ、それをこなす。
となりの農場のアンナとヤコブ、
白樺の皮の作品作り名人のおじいさんや
山小屋で出会った女の子、
コーヒー好きのおばさん、など、
出てくる人みんな面白い。
また、お父さん、お母さんが優しくって
子供の気持ちをよく思いやってくれて嬉しくなってしまう。
作者が自分が若い母親だったとき、
自分の子供たちをモデルにこの作品
(と、もう一つ『牛追いの冬』)を書いた、とのこと。
つまり、お母さんはすべて、御見通し、ってこと!
『大草原の小さな家』シリーズや
ニェムツォヴァーの『おばあさん』が好きな人は、
是非是非。 -
恐らくこの本は、イマドキの都会の早熟な子供たちにはつまらない本なんじゃないかと思います。 「ハイジ」に似ているところもあるんだけど、ハイジの場合は「アルプスの山の上」と「フランクフルトという大都会」を経験している分、都会暮らしの自分に引き寄せて読むことができる「とっかかり」みたいなものがあるんだけど、この物語で描かれている子供たちの世界っていうのはイマドキの都会育ちの子供たちには想像するだに難しい「遊びの世界」なんじゃないかと思うんですよね。 牛に振り落とされたり、ボタンのお金で交換したり、沼地で壊れかけた筏に乗って釣りをしていたら漂流しかかったり・・・・・・。 モノで遊んでいなかった時代の子供たちの姿が瑞々しく描かれています。
でもね、昨年の夏、Lothlórien_山小舎に親戚が泊りがけで遊びに来たんだけど、その子供たち(小学生と幼稚園児)はこんな山の中だと何をして遊んでいいのかわからないみたいだったんですよね。 で、結局、家の中で KiKi の Nintendo DS でゲーム三昧の時間を過ごしていたわけだけど、KiKi の子供時代であれば山の木が基地に見立てられたり、水の中を泳ぐ小さな虫や蛙が妖精にも悪魔にも化けたりして飽きることがなかったことを思うと、そういう経験をしたことのない子供にはこの物語に出てくる四人きょうだいの他愛もない遊びは全くと言っていいほど理解できないんじゃないかと思うんです。
で、そういう遊び(と言いつつも、彼らにとってはそれが単なる遊びの範疇を超え、現代的に言うならば夏休みのアルバイトを兼ねていて、そこには労働が伴っている)の中で彼らは彼らなりの大冒険を経験しているんだけど、昨今の物語に多いCG使いまくりのハリウッド映画的な冒険と比較するとどうしても地味な感じは否めません。 その地味さ加減が KiKi なんかの世代には懐かしくもあり羨ましくもあったりするんですけどねぇ・・・・・・・(苦笑)
この物語の凄い所は、子供が持っている愛らしさと残酷さ、優しさと冷たさが余計な装飾なしに素直に、でもちゃんと両立して描かれているところだと思います。 勉強好きで物静かでどちらかというと思索家タイプのお兄ちゃんが勉強嫌いで人当たりがよくお調子者の弟を疎ましく思う気持ち、逆にそんな弟がどうしても頭の上がらないお兄ちゃんを暴君のように思う気持ち、命を落としかねない肺炎を患い家族中の心配を一身に集め、甘やかされているうちに、それが当然と思うようになってしまった末っ子の気持ち。 そのどれもが KiKi 自身にも身に覚えがないわけじゃない感情で、読んでいてちょっぴり切なくなってみたりもして・・・・・・(笑)
(全文はブログにて)