アースシーの風 ― ゲド戦記V

  • 岩波書店
3.64
  • (53)
  • (44)
  • (121)
  • (6)
  • (0)
本棚登録 : 462
感想 : 44
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (349ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784001155709

作品紹介・あらすじ

故郷の島で、妻テナー、幼い時から育てた養女テハヌーと共に静かに余生を楽しむゲド。ふたたび竜が暴れ出し、緊張が高まるアースシー世界を救うのは誰か?待望の最新作。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 第4部から15年後。
    ゲドは完全に魔力を失い、農夫のハイタカ(またはただのタカ)として、妻のテナー、養女のテハヌー(テルー)とともに生きている。ハイタカのところに、まじない師のハンノキが訪ねてくる。ハンノキは最近あの世とこの世の境目の夢を見る。そちら側から死者が手を伸ばして自由にしてくれという。
    かつてゲドと、今はアースシーの王となったレバンネン(アレン)と扉を閉じたあの死者の世界との境界がまた緩んでいるのか…
    ハイタカは、ハンノキに王宮にいくように伝える。そこには今レバンネンに呼ばれてテナーとテハヌーもいる。
    ちょうど今世界では、辺境の土地との戦争の危機にあり、さらに竜たちが人間を襲っていたのだった。


    今まで出てきた、ロークの魔法学園の魔法使いたち、第3部のレバンネンが再登場で、まさに終わりのための再集結って感じの最終巻。
    さらに多くの女性像も登場するのだが、彼女たちはそれぞれ二つの自分を持っている。
     テナーは、40年前は神への大巫女であり召使いであり、そこから飛び出して世界の均衡を取り戻す腕輪を取り戻した伝説的女性。しかしいまでは彼女の心の中心となっているのはハイタカへの愛情で、ハイタカと暮らす農園だ。どんなに高級な扱いを受けても、どんなに立派な仕事があっても、ハイタカとの農場に帰りたい問気持ちがあるからこそ立っていられる。
     養女のテハヌーは、幼いときに酷い虐待を受けて体も焼け爛れて大声も出せない。実は竜の血を引く娘であり、竜の言葉を話し、竜と人間の間に立つ者としての使命もある。だが人間としての意識は、引っ込み思案で自信が持てなくて母のテナーから離れたがらない。
     レバンネンの国と一触即発の辺境の地から一方的に和平の印の妻として送り込まれた王女のセセラク。セセラク本人はわりとふつーの女の子っぽい感じもするんだが、レバンネンとはお互いに言葉も通じないし宗教観も違うし相手を野蛮人種だと思っているし、相手には不審と敵愾心しかない。そこにテナーが橋渡しとなり、双方の頑なな態度がほぐれてゆく。
     人間の娘から、本体である竜になったアイリアンは、竜としての自由と人間としての記憶両方を持つ。

    この女性たちはみんな二つの顔を持ち、それで均衡を保っている。人種も違うので肌の色や習慣や言葉も違う。しかしみんなで集まるとほぼ女子会になるんだよね(笑)、こういうところが女性の柔軟性なんだろう

    男性のほうはもっと堅苦しい。
    レバンネンは良い外交官であり、書かれている施政者としての態度もなかなかよいのだが、女性を警戒していて必要以上の権威を認めないところもある。さらに昔の師匠ゲドを未だに慕うがあまりに一方的な面もある。まあ王様としてはかなり良いと思うんですけどね。外交官として優秀、演説もうまい、政治家としては普通だから議会に任せる、必要以上の華美や贅沢は嫌うなどなど。
    レバンネンの議員たちもなかなか面白い。魔法使い、小国の王子、政治家たち。こんな個性豊かな面々をはじめとして100人での議会がスムーズに開催されていると言うだけですごいよ。「発言は挙手!1人2分まで!時間オーバーは誰であっても認めない!!」という会議回しの場面は社会人として楽しかった、こういうことを自主的にやる人がいる会議って羨ましいよね(笑)

    さて。
    今回はそれぞれの国の宗教観なども説明されていた。
    人は死んだらどうなるか。肉体は滅び、精神は死者の国にいく。そこではただただ魂が彷徨うだけで、人間時代の暖かさも愛も何もかも失う。
    または、しばらくしたら生まれ変わる。
    そのようにそれぞれがバラバラの考えでの人達が、世界の3つの問題、すなわち死者との境が薄れていること、竜が人を襲うこと、人間同士の戦争、これらを解決するために一行は船に乗るというお話。

    第1部の若い頃のゲドの話から、ゲドを中心とした物語の最後としてまとまった!というかんじでした。

  • 帰還同様の感想を持ちました。
    時間が立ち過ぎていて、戻っては来ないなと。
    確かにゲドにもう魔法は戻ってこなくて、それで良いのかもしれない。
    それが正しいのかもしれない。
    大賢人が今は見る影もなくて、しかも既に主役でもない。
    それがあるがままの事実かもしれない。
    ただそれはちょっと、残念なのだ。

    ここまで来ると、宗教的だったり、社会の風刺だったり
    いろんなものが秘められているようで、児童文学とは言えない気がしました。

    レバンネンは好きだけれど、それだけに、なのか
    テナーに対してちょっと苛々した部分も。
    レバンネンの見方は、けして若者の対抗心ではなくて
    一国の王としては正しいのではないかなと思うのですが…。
    はいそうですかと政略結婚して腕輪を渡せるものではないでしよう。
                          
    竜と動物と人との違いっていうのは、興味を惹かれましたが。
    動物は言葉を話せない。人は話せる。だから嘘もつける。
    竜は言葉を話せる動物だが、嘘は吐かない。
    そして動物は、純粋な気持ちで傍にいてくれる。
    その温かさに守られる。
    これはとてもよく分かる。
    傍でほっこりと丸く温かく、柔らかく座ってくれているだけで、
    どれだけ心が癒されるか。それは魔法使いでなくても、よく知っている。
    それでもこの世の中に、それを知らない人のなんと多いことか。

  • 造ることとこわすこと
    始まるものと終わるものと
    誰に見分けのつくものぞ
    われらが知るは戸口のみ
    入りて発つべき戸口のみ

    この世の言葉や文字は事実に基づくこと無く
    自らの価値観に溺れ全体を見失い部分に執着して
    過去や未来について嘘をついたり間違えたり騙したり
    思い込んだり言い逃れしたりホノメカシたり脅したり
    約束したり保証したり噂したり予想したり
    在らぬことを有るがごとくに伝えて
    自分の思いを遂げるための手段でありその道具となる

    何とこの五冊を描き上げるのに30年におよび
    四巻から見ても11年の歳月を要したという
    しかしこの11年の間に「ゲド戦記外伝」があり
    そこに五巻への道筋が在るのだけれども
    日本版での出版は5巻が先となり
    外伝が最後に翻訳された

    龍は自らに問う
    その昔人と龍は同じ真理の言葉を使う同じ種族だった
    そんな中で分裂が起こり人間は
    部分観に特化した言葉を使いだした
    龍は自由自在を選び
    人間は価値観を生み出す善悪というくびきを選んだ
    龍は火と風を選び人間は水と天地を選んだ
    龍は西を選び人間は東を選んだ

    だが龍の中には常に人間たちの選んだ富への羨望があり
    人間の中には龍が持つ自由自在への羨望があった
    そこに奪って所有するという邪な心が入り込んだ
    ここで永遠の自由を選び直さなければ
    自分という存在を失うことになるだろう

    男社会の人間は龍の自由自在をうらやみ
    永遠の世界を半分奪い
    永遠なる魂のためと言いつつ秩序建てた死の世界を作り
    何も実感のない乾いた闇の世界に死んだ魂を閉じ込めた
    この暴力的な矛盾に死んだ魂が
    自由なる生まれ変わりを求めて苦しみ解放を求める
    それに刺激された龍も自由を抵当に
    権利という所有を求めだす

    そして双方の体験と学びによって合議を生み出し
    意識と物質を調和させることで流れを取り戻す

    さて現実の人間社会はこの先大自然の流れと共に
    未来を描き出せるようになれるのだろうか

  • ゲド戦記は「剣と魔法」の物語である。とはいっても、巷に氾濫するファンタジー作品とは、多少毛色が異なっている。魔法使いが中心の物語では、華々しい戦闘が行われたり、ロマンスが語られることもない。冒険の舞台も海の果ての砂州だとか、地下の墓所といった、暗く彩りの乏しい世界が選ばれている。竜は登場するが、敵対者というよりはむしろ協力者として描かれ、使われる魔法も、帆に風をはらませたり、杖を光らせたりという実用的な物ばかりであまりぱっとしない。

    それでは面白くないかというと、これが実に面白い。プロップの「民話の形態学」にある機能を忠実になぞるかのように物語は安定した構造を持つ。しかも、人物造形が的確で、主人公のゲドはいうに及ばず、Ⅱで登場する巫女テナー、Ⅲの王子レバンネン、Ⅳの竜の子テハヌーと、ややもすると類型的になりそうな役柄を担わされていながら、実に強い個性を持たせることに成功している。

    さらに、著名な文化人類学者を両親に持ち、自身もユング心理学の研究者である作者の文化に関する造詣の深さが物語の細部を支え、小さな挿話一つに至るまでゆるがせにできない重みを持つ。実際、登場人物の語る言葉の一言一言が重いのだ。既刊の五巻をあらためて通して読んでみて、二十数年に及ぶシリーズであるのに、それぞれの巻で触れられるちょっとした挿話が、後の或いは前のできごとにいかに深く関わっているかには驚きを禁じ得ない。

    それでも、さすがに歳月の重みは無視できない。一貫した思想に貫かれているように見える『ゲド戦記』にも、作者の思想的な変化は透けて見える。フェミニズム批評を受けて、作家は初期三部作と後記の二作品におけるジェンダーの扱いを変化させた。Ⅳ『帰還』には特にその傾向が強く、ともすれば物語世界を圧し勝ちであったが、十年の歳月は思想の成熟を促し、より魅力的な世界観を携えて多島海世界は読者の前に姿を現した。

    男性中心、観念的、禁欲的であった三部作に比べ、『アースシーの風』は生きることの祝祭的な明るさに溢れている。テナー、テハヌー母娘はもちろん、第五部で新しく登場した、多感で自由奔放な竜の娘アイリアンや新しい世界に勇敢に踏み出してゆくカルガド帝国の王女セセラクという魅力的な女性が物語を動かしていると言っても過言ではない。それは充分に魅力的に思えた三部作の世界が沈鬱なものに見えるほどである。

    物語の狂言回しを務めるのは、亡き妻を愛するあまり、夢で黄泉の国を訪れ、死者に取り憑かれてしまうハンノキである。彼はゲドやその他の魔法使いのように物の真の名に精通しているわけではない。壊れた物を修繕するまじない師であるというのがこの物語の主題を暗示している。魔法は人間に富や権力をもたらすが、それはどこかで世界の均衡を破ってしまう。また「自己」や「所有」への執着は死を恐れさせ「不死」への欲望を募らせる。

    黄泉の国に引きずり込まれそうになるハンノキを守るのが「ヒッパリ」という名の灰色の子猫。体と体が触れ合う温かさこそが大事で「動物たちには命こそ見えていても死は見えていないんだから。犬だって猫だって、ロークの長に劣らぬ力を持ってるんじゃないか」とまで、ゲドは言う。個人的には共感するところだが、魔法が「人工」の極致であるなら、ゲドはなんと遠いところに来てしまったことか。魔法を忘れたゲドはまるで「老荘」的な無為自然に生きる東洋の隠者である。

    あまりに寓意的な解釈はこの優れて豊穣な物語世界を貧しいものにする虞れがあるので慎みたいが、近代社会を支配してきた西洋中心の科学的進歩主義、言語中心主義、キリスト教的二元論等々を相対化し、言葉や宗教、文化的価値観のちがいを認めあうことこそが均衡を保持するという思想がここにはある。「死生観」という、根元的な問いを物語の中心に据え、ある面では非常に今日的なテーマを描きながら、『アースシーの風』は、多様な登場人物が力を合わせて障害を乗り越えるという、希望に満ちた結末を提示して終わる。現実の世界もこうありたいものだ。

  • 最後の旅なんだけど、今までみたいなドキドキ感はなかったかなー。

  • なんだか表紙が一気に現代的に・・・
    ゲドも年取る訳だな~~~・・・

  • 【配置場所】特集コーナー【請求記号】933||G||5
    【資料ID】10403448

  •  アーシュラ・K・ル・グィンの『ゲド戦記』の第1巻『影との戦い』は宮崎駿の息子さんによってアニメ化されて有名になりました。この物語は「行きて還りし物語」の構造を持っていることでも知られています。また「成長小説」としての側面を併せ持っていると言われます。学生諸君が夏休みに時間を掛けて読むのに持って来いの物語だと思います。ぜひ実際に手に取って一読してみてください。
    1.影との戦い:4001106841、2.こわれた腕環:400110685X、3.さいはての島へ:4001106868、4.帰還:400115529X、5.アースシーの風:4001155702、6.ゲド戦記外伝:4001155729
    越谷OPAC : http://kopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1000451969

    文学部 T.Y

    越谷OPAC : http://kopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1000371966

  • ちょっと難しかったです。読むのに時間が沢山かかりました。だけど、大事な所の本筋は掴めたように思います。ゲドがあまり動かないのは、物足りないけど楽しかったです。

  • 翻訳版ではこの3作も児童書として扱われているが、メリケンでは子供図書館では借りられない。Ⅲまでは少年少女が外の世界に足を踏み出し成長していくという内容だが、Ⅳからはフェミニズムを主要テーマにし内容も大人向けである。みんなの憧れで正しいものの象徴のように扱われていたローク島もフェミニズムの刃でざくざく斬られている。成長した主人公たち個人個人は男女が比べあい、貶めあって暮らすことが(作者は男性の非を多く書いてはいるが)どれだけ人生を貧しくむなしいものにしているかに気づいてお互いを認め合うようなエンディングを迎えているけれど、社会全体は本を閉じた後の現実社会と一緒で、この問題は個々では解決しても社会システムとしては永遠に変わらないのだと思わさせる。とても児童書ではないなぁ。シェリ・S・テッパーの「女の国の門」を髣髴とさせる話であった。

全44件中 1 - 10件を表示

アーシュラ・K・ル=グウィンの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
アーシュラ・K・...
荻原 規子
アーシュラ・K....
梨木 香歩
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×