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Amazon.co.jp ・本 (64ページ) / ISBN・EAN: 9784002708133
感想・レビュー・書評
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林京子に興味をもったきっかけは、平野啓一郎の『文学は何の役に立つのか?』に収録されている「『オッペンハイマー』論」の中で彼女の作品が引用されていたから。
林京子について何も知らなかったので、とっかかりとしてこのブックレットを手に取った。
わずか64ページで、対談形式で書かれているため、すぐに読み終わった。
対談の収録は2011年4月18日。福島の原発事故からひと月後のタイミングだ。
林京子。1930年、長崎市生まれ。
幼少期を上海で送る。
戦況が悪化してきた1945年3月、父を上海に残して家族とともに帰国する。
同5月、学徒動員令に基づき、長崎市の三菱兵器製作所大橋工場に動員される。
同8月9日、動員先の大橋工場で被爆する。
結婚・出産のあと、同人誌での執筆を経て、1975年に『祭りの場』で群像新人賞と芥川賞を受賞する。
その後も原爆や戦争、8月9日、上海、家族などをテーマの中心に据えて書き続けた。
↓以下、印象に残った箇所の引用や感想。
■第1章 原点としての上海
この章では、林が14歳までのほとんどを過ごした上海について語られている。
本人の気持ちとしては、「帰国子女」よりも「帰化人」に近いようだ。
1945年3月に帰国し、日本での転校先を探していたときに、地元諫早の女学校の校長に言われた言葉。
校長「あなたたちは上海でいい生活をなさってきて、負けそうになったから日本に帰ってきたんですね。でも日本は食糧難であななたちを受け入れる余裕はないんですよ」
林「(子どものころ)自分では戦勝国の人間として上海に住んでいたという意識はなかったのです。路地裏で中国の子と一緒に遊ぶ子供でしたから。ただ、戦争になって逃げていくのはいつも中国人でした」
林「(1981年に中国を訪れるとき)まず第一に、『侵略者の国の子供』として住んでいた私が行っていいのか、という疑問があったのです。路地の子もいじめましたし。ですから、行くまでには長い時間がかかりました」
林「上海の思い出を書いた『ミッシェルの口紅』が出版された時に、関東学院大学の学長だった岡本正先生が--上海の東亜同文書院にいらした方ですが--、それを読んで、『こんな上海がよく書けたね。林さんは、いい気なものだな』とおっしゃったんです」
■第2章 『祭りの場』『ギヤマン ビードロ』の頃
作家としての立ち位置について。
(文学少女ではなく、作家になる前は芥川龍之介くらいしか知らなかった)
林「何も知らないので、野放図に書けますものね。もし私が文学少女であったら、ささやかな知恵が邪魔して書けなかったでしょう。
白紙の出発ですから、自分で苦労して到達した問題でも、後で偉い方の作品を読んでみると、「何だここでもう解決してるわ」ということは多いですね(笑)。
(略)私は浅いところで悩み、解決し、後で理路整然とした解決をされている高処に気づく--そういうまわり道が私の小説です。結構楽しいです」
中上健次に「原爆ファシスト」と言われたことについて。
林京子と聞き手の島村輝が、両者の文学を比較して、なぜ中上がそのような極端な批評をしたのかと考える。
「原爆文学」「原爆作家」とジャンル分けされることについて。
最初は嫌だったが、ある編集者の発言に影響を受けてからこだわらなくなった。
島村「必ずしも被爆体験を持たなくても、強い文学的想像力を持った方たちは、そういう原爆に対する、あるいは核に対する問題意識を持った作品を生み出してきているのではないかと思います」
林「ヒバクは被爆者の『特権』ではなく、核に対する『意識』の問題だと思います」
(対談が行われたのは2011年4月。福島原発の事故からまだひと月のタイミング)
島村「いまの時点と地続きの問題として原爆文学をとらえる必要があるのではないか」
■第3章 「トリニティからトリニティへ」の思い
1999年、林は原爆実験が行われたトリニティ・サイト(米国ニューメキシコ州)を訪れた。
実験場のフェンス内に入る際、注意事項の書かれたプリントにサインさせられる。「ここから先は州の管轄を離れ、軍の管轄下におかれる」
別の小冊子には、その場所の放射線の線量が書かれていて、そのうえで入るか入らないかは自己責任であると明記されていた。
林は30~40代のころ、長崎の友だちの訃報を多く耳にした。病名はさまざまだが、それらのほとんどは原爆症の認定が却下された。内部被曝は認められなかった。
2011年の原発事故でも「直ちに健康に影響のないレベル」という言葉が使われた。
林は原爆症の認可が必要だと考える。それは経済的な手当の問題だけではない。
林「数字に残されて初めて、原爆と人間のかかわりが明らかになる--そう思っているからなのです」
■第4章 「長い時間をかけた人間の経験」と「希望」
本のタイトル『長い時間を~』について。
島村「被爆とはその瞬間の出来事だけではなく、むしろその後の時間の方が長い」
このタイトルは編集者からの葉書に書かれていた言葉を引用したもの。
「林さんは、長い時間を生きた人間の経験として書かなければいけないのです」
1980年代半ば、米国在住のころ、ワシントン州の大学で8月9日について話した。授業のあとで米国在住の韓国人学生と話した。
学生「私の父と母は日本語がとても上手です。しかし一言も話しません。どうしてですか?」
この子はそのわけを察しているが、日本人の口からそのわけを聞きたかったのではないか、と感じて答える。
林「あなたのお父さんとお母さんは韓国人でありながら、日本語の教育を受けさせられ、日本風の名前に変えさせられた。迫害を受けながら、祖国を否定されながら日本語を習得なさったはずだ。そのことが骨身に染みているお父さんとお母さんにとって、日本語を話さないということは、彼らの意志だと思う」
それに続けて、長崎での被爆の話。
大勢の被爆者が学校の床に寝かされていた。婦人会の人たちが体についたウジをピンセットで取ってあげていた。
ある日本人の若い巡査「おまえたち、朝鮮人は放っておけ、日本人を看ろ」
しかし、林の母は「こういう時に日本人も朝鮮人もない」と返した。婦人会の女性たちはそのままウジを取り続けた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
体験者の言葉は重く深く響く。学ばさせてもらわなければ、という思いを強くする。
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被爆体験を書き続けてきた作家への、フクシマ後に行われたタイムリーなインタビュー。林さんの作品世界を一望するにはうってつけだけど、本のつくりとしはスカスカな感じが否めない。
著者プロフィール
林京子の作品
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