- Amazon.co.jp ・本 (80ページ)
- / ISBN・EAN: 9784002708850
作品紹介・あらすじ
橋下現象とは何だったのか。安倍自民党の「圧勝」で進行する「熱狂なきファシズム」とは-。政治への無関心が社会を覆う中で、民主主義そのものが崖に向かって行進している。いま必要なことは、当たり前に享受してきた「自由」や「権利」の意味を私たちが自ら問い直すことではないか。『選挙』『精神』などのドキュメンタリー作品で注目を集める気鋭の映画作家が、日本社会の直面する危機を鋭く描出する。
感想・レビュー・書評
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想田和弘さんはドキュメンタリー映画を“観察映画”として数々世に出している映像作家で、私も当時の口コミを聞きつけて映画館で「選挙」を見たクチだ。
その手法はナレーションやBGMを排して映された事実を映像として再構成することで主題を“料理”しており、したがってタイトルも想田監督のスタイルとして「選挙」「精神」など、余分な情報を削ぎ落しているのだと理解していた。ところがこの本のタイトルは、読者に直接的に問いかけるかのような、?まで20文字もある疑問文だ。それは想田さんの映画タイトルのつけ方とは異なるもので、正直びっくりした。
でも本をよく読むと、その内容は「民主主義」や「基本的人権」をテーマに、映像のときと同様に多角的かつ複層的にファクターを積み上げ、無理のない論理構成に“仕上げ”られている。
しかし言語は映像と異なり、言語化された時点から書き手の意思を直接伝えるコミュニケーションツールである以上、映像のように鑑賞者が想像力を駆使して想田さんの意図を読み取るというのでなく、想田さん自身の心中が言語によって直接読み手に訴えかけられている。
その最重要なものとして、想田さんは現在日本を取り巻く政治的潮流を「主権者である国民の消費者化」と表現している。しかし私はあえてそれに加えて、今の日本では「国民総ポイント制病」が蔓延していると思っている。
つまり今の日本国民は、ポイントがつかないことを自分からしようとしない。投票しかり献血しかり。
いや、正確に言えば、投票は目先で考えるとポイントに結びつかないが、将来を考えると有意的にポイントへとつながる。それは冷静に考えればわかることだ。
ただ、現在の日本国民が民主主義や平和を「当然あるもの」と考えてしまい、そこからプラスの価値であるポイントを得ようとする、あるいは、ポイントにならない行動を「カッコ悪い」「意味ない」と短絡思考してしまう風潮がはびこってしまっている。私はあえて「病」と書いたが、想田さんは(すでに抗体をもっていたのか)病気に感染する前に気づいたのかもしれない。
今の日本では多勢に無勢(いや、D.トランプの台頭でもわかるように世界的に見ても同じ)かもしれないが、今はまさに、がん細胞に勝つか負けてしまうかの瀬戸際に日本は立っているのでは?という想田さんの問題意識(と私は思っている)は伝わった。
でも私も正直なところ、日々の生活で忙殺されて想田さんのような問題意識は日常ではほどんど持っていない。そういう私ももしかしたらウイルスに侵入されてしまっているかもしれない。
では自分に今何ができるのか?子どもたちの寝顔を見ながら、前よりも一歩進んでそのことを考えてみるようになった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
安倍政権が目指す新しい日本は「国民の基本的人権が制限され、個人の自由がなく、国家権力がやりたい放題できる全体主義の国」。少なくとも自民党改憲案に民主主義は存在しない。民主主義を保つには、我々国民一人ひとりが政治に関心を持ち、情報を集め、分析、選択できる能力を維持しなければならない。一生勉強である。そんなのやってられない。みんな無知でいいんだ。首相も無知だし。その方が「楽」だと言う幼稚な安倍支持派と選挙にすら行かない派が民主主義を捨てようとしているのではないか。
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この本で指摘された「小さな不戦敗」に思い当たることがある。「見て見ぬふり」という形で消極的に自分自身が加担していたこともあるかもしれない。そう思うと不勉強だった自分が恥ずかしくなる。この本が出版された2013年から2年、「不戦敗」も、「わーわー騒ぐ」人も見えてきた。あとは一人ひとりの「不断の努力」本当にその通りだ。
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つん友(積読の友)・文ちゃんの「備忘録」に釣られてぽちって手に入れてからしばらく「積読」モードにあったのですが、一気に読了しました…といってもごく短いブックレットです。だからひとりでも多くの人に読んでいただきたいな、と思います。
第1章の大阪市長橋本市に関する論考、第2章の安倍晋三自由民主党総裁に関する論考を読んでいて、ここまでは僕も(精細さはともかく)概ね同じようなことを考えていて、今の政治情勢、社会的風潮について、どうしてこんな状況になってしまったのだろう、と悩ましく思っていました。
だけど、第3章の「消費者民主主義」という言葉にあたって、ああ、そうだったのか、そうか、こんな大きな間違いをしてきたのか…と合点がいきました。
僕らは政治の、自治の、国の統治の恩恵をこうむる「消費者=被支配者」ではないのだ。主権者とは消費者ではなく当事者なのですね。サービスを受けてあたりまえだとか、良いサービスを施してもらえなければ(まさに恵んでもらえなければ!)関心はない=投票に行かない、というのがそもそも間違っていたのだと、改めて気付かされました。
そして最後に取り上げられた日比谷図書館事件の総括として取り上げられた憲法第十二条の「不断の努力によって」という文言に込められた深い意味を改めて実感させられました。
この憲法が施行されたのが昭和22年(1947年)年5月3日、今から67年前のことです。でもこの憲法は、去年の参議院議員選挙前に起こった「日比谷図書館事件」を予見したかのように、それまでにもたくさんあったであろう主権の行使に対する不当な侵害を予見したかのように「不断の努力によって」という文言をきちんと入れていたことを思うと、この憲法が時代に合っていない、などというのは全くの言いがかりであると思うのです。なぜなら、今まさに起こっている「消費者民主主義(おまかせ民主主義)」に対して、「不断の努力」を積み上げて民主主義を主権者たる国民の手に取り戻さなければならないと気持ちをあらたにさせてくれる、生きた言葉に支えられているからです。
最後まで読んでも79ページしかありません。遅読の僕ですらごく短い時間で読み切ることの出来る、わかりやすい表現で書かれた民主主義再興のための啓発書として、是非多くの方に読んでいただきたいと心から思います。
最後に、憲法第十二条の全文を記しておきます。
日本国憲法第十二条【人権の本質】
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。 -
この衝撃的なタイトルは著者からの強烈な皮肉でもある。民主主義や政治に対して現代人は、主権者ではなく消費者だ。このことは自由とそれに伴う責任の放棄でもある。この本は、安倍晋三、自民党、そして世論について自分が前からもやもやしてた部分を突いてくれた。やっぱり安倍さんが自民党総裁になったあたりからおかしいよ。タイトルに対してふーんて思う人にこそ読んで欲しい。
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・熱狂なきファシズム
・消費者民主主義という病
このブックレットが出た2013年から登場人物がほぼ変わっていない恐ろしさ -
私は民主主義の責任を放棄していた
消費者じゃない。勉強しなくては -
短時間で一気に読んだ。
現代を覆っているものを「消費者民主主義」と同定し、なぜそれが生まれたのかという背景、そして対抗策を記している。
主権者として生きるとはどういうことか、ぼくもぼくなりに「普段の努力」をして、民主主義が機能する日本にするために行動しなきゃ、だ。 -
秘密情報保護法案というまさに「民主主義を終わらせること」が目的ではないかと思われる法案が可決されようとしている最中に読んだ。
今の日本は「消費者民主主義」という指摘は改めて、そうかナルホドと思った。
「お客様は神様」だという誤解(最もその発言をした三波春夫は真意とは違うけれど、そういう風に解釈されても構わないと言っていたが)のもと、「自分はお客様(消費者)である。サービスを受ける側であって、する側ではない。神様なのでどんな文句であろうと受け入れられる」というのがいまの日本社会の根底にあるのではないか。資本主義経済の社会において、一方的に消費者だけであるなんてありえないのに。誰しもサービスの提供者であり、受益者である(第一次産業、第二次産業、第三次作業などとは関係なく)。
<blockquote>このようなことをツイッターでつぶやいたら「私たちはもっと賢い消費者にならなくてはならないですね」という返信がありました。心底、ガックリきました。あまりに消費主義的発送につかってしまって、自らの存在をもはや「消費者」としかイメージできないひとたちがいるのです。(P.58)</blockquote>
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を引き合いに出して、「日本国憲法」の元"自由"である圧力に耐えかねて、無意識であるにせよそこから"逃走"しようとしているのではないかという意見にもナルホドという思いを抱かされた。
小泉純一郎や橋下徹のワンフレーズ政策はわかりやすい。論理ではなく(大衆の)感情に訴求するものがあるのだろう。
いまの日本社会は浅慮社会だと思う。深く考えず(多くの場合は口当たりのよい)結論に賛同し、事実を基に思考を重ねて論理的に考えるということをしない社会だと思う。いわゆる"放射脳"(この言葉は下衆で嫌い)もネトウヨもヘサヨも、そういう意味で同じところに根があると思う。オルテガ・ガゼットの言う「大衆社会」の結果だとしたら根が深い。
音楽ライター/編集者である三田格さんが『それまでは「こんなことも知らないの?」だったのに、00年代以降は「そんなの知るかよ(笑)」と嘲笑するような風潮になった(象徴的なのが「トリビアの泉」の無駄知識というキャッチコピー)と10年以上前に指摘していたけれど、その傾向はますます強くなっていると感じる。
アンタがバカなことはアンタの勝手だし、好きなようにやってくれと思うけど、せめて威張らないでくれ。 -
MediaMarkerの「近代の呪い」からのamazonでの「自発的隷従」からの関連本。