- Amazon.co.jp ・本 (64ページ)
- / ISBN・EAN: 9784002709222
作品紹介・あらすじ
間違った方向で進めると、公教育の信頼失墜、格差の固定や疎外感を抱く子どもの増加にもつながりかねない英語教育改革。グローバル化に踊らされず、多言語・多文化社会で本当に必要とされる力を育む授業とはどのようなものか。英語力ではなく、子どもを育てるのだということに立ち返りつつ、小学校から高等教育につながる英語教育のあるべき姿を保護者や教師と一緒に考える。
感想・レビュー・書評
-
本書の読書層は
1保護者及び一般市民
2英語を専門としてこなかった小学校教師
3中高大の英語教育関係者
を想定して書かれている。
本書では、英語教育の現状として、
引用ゲームやトレーニング的要素の強い授業が行われていること(意味もなく、例文を書き写すことも含む)
を挙げている。
そして、
数値目標管理だけでは、教師も子どもも育たないこと
(TOEICの得点を気にするなど)
グローバル化とは、単に英語だけを学ぶことではなく、多文化多言語の中で生きる姿勢を育てること
にも留意する必要があると述べている、
その上で、
身体実感を伴う英語教育を提案している。
それはいわゆる必要感のある学びで、
こころとからだが揺さぶられて
あたまにも入るというもの。
そうした学びは子どもの表情も生き生きとするとある。
NHKのわくわく授業での紹介にもあったが、
ぶんぶんごまを作る実践
(こまのかたちを英語で言う→三角、四角、正方形、五角形、六角形など
こまの色をペンで塗る→必要な色を英語で言う)
などは面白そうだと思った。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昭和女子小学校の小泉氏の名前があったので、もっと実践やカリキュラム内容の記述が多いのかと想定していたが、理論的な文書が多かった。興味の強い分野であるし、それはそれで面白かったが、言語と思考について書くなら、ヴィゴツキーは当たってほしかった。
「こころ」に直結する身体感覚の伴った学習の必要性の指摘は、自分の実感に合い、かつ、説得的だ。「あたま」だけで、覚えた単語リストは、何の感情も引き起こさず、クイズに答えることはできても、使うことはできない。やはり、インタラクションは必要なのだ。
ここまでは良いが、喋りたいと児童が思うような必然性を伴った場面を作れば、ギャップも飛び越えられるという、文脈万能主義は同意できない。関連して、英語の能力よりも、指導力が大事であって、ALTや英語話者はいらないという指摘にも、インタラクションを持続させるときの年長者の役割の大きさとの矛盾が感じられる。
最後に、聞き慣れたCLILとイマージョンの違いに関連して思ったことがある。
CLILは教授学習の提供の仕組みに重きが置かれ、ややもすると学校全体から見たら、ほんの一部のコースの話に限定される傾向があるように思われ、当然、小学校6年間で何千時間の英語に触れると、このくらいの英語力というような話にならない。
一方、イマージョンはまずは、目標言語の%や総時数をどのくらい確保できるのか、それでどのくらい英語の力がつくのかという管理者的なマクロの話から入る。成功への指標は、総時数であり、細部やメカニズムの話は後回しになる。
結論として、双方は私には同じことを違う方向から議論しているように思われる。実践家はCLIL、学校経営者や管理者はイマージョンから二言語教育に入っているのではないか。 -
グローバル化と教育を安易に結びつけることにより教育現場で何が起こるかを考察したもの。グローバル社会の中で日本が日本国民がどう生きていくかが問われている。日本が持つ,文化,言語,歴史がグローバル化による平準化にどのように取り込まれ,独自性を持つようになるのか現象としては面白い。たぶんこ世界史にヒントがあるだろう。
-
英語教育の現状は「引用ゲーム」。身体性とは無関係に文法・語彙を学び引用する。うまく引用することで「点数」はアップする。しかしそれでは、コミュニケーション能力は身につけることはできないと言う。
著者たちは読者として保護者及び一般市民、小学校教師、中高大の英語教育関係者を想定しているが、英語によるコミュニケーション力を身につけたい大学生にもお勧め。どういう教育を受けてきたのか、何が問題なのか、どうあるべきか、大学生であればそれに自覚的であることが、これからの学びには必要だろう。遠回りしたかもしれないが、自覚的であれば、今からいくらでも学び直せる。