- Amazon.co.jp ・本 (160ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003010013
感想・レビュー・書評
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岩波文庫の『方丈記』、まず表紙が良い。年月の経過を感じさせる上品な色合い、大昔の人が書き写した筆文字の上に印で押したような堂々とした「岩波文庫」。他の出版社とくらべても抜群に洒落ている。誰もが知る古典を倉庫の肥やしにせず、かといって変に安っぽく現代風に改変して台無しにするでもなく、しっかり現代に活かす絶妙なデザインではなかろうか。
それに手書き文字を見ていると、活字が発明される以前は本とはずっとこうして人が写して来た物だったのだなとしみじみしてきて、そうなるともう『方丈記』は自分にとって単なる歴史の記録ではなく、かつて自分と同じように、日々起きて寝て食べて、つまらない事にくよくよしたり、好きな事で大いにはしゃいだりしたであろう誰かが愛してきた随筆として、あらためて新鮮に生きてくる気がする。やはり装丁は大事だ。
内容も、鎌倉時代の古典だからと構えて開いたものの、思っていた以上に、すんなり意味が入ってきて面白く読めた。
もちろん1000年近い大昔の文章そのままではなく、現代人が読みやすいような形式にしてあり、全ページに古語や歴史背景の注がついた親切設計だからというのはあるだろう。おかげでちょっと分からなくてもそこを読めば99%普通に読めた。
そしてなんといっても母語なので、慣れ親しんだ表現もあれば、大昔も今も変わらない言葉も多く、言葉のリズムや響きからしてとんでもなく親しみを感じる。そこが大きい。鴨長明の文章と比べると、外国語は本当に外国そのものだ。語順にはめまいを覚えるし、辞書を引いても引いても無限に不明単語とイディオムが出てきて、多少分かるようになってきてもアウェイ感に苛まれる。
『方丈記』の文章が分かりにくいと感じる人たちはおそらく黙読しているのではないかと思う。その昔、読書とは音読だったと聞く。現代人もそれにならい、言葉の響きとリズムを楽しみながら、書かれている情景を思い浮かべ、それこそ鎌倉時代のペースで、ゆっくりゆっくり散歩をするように音読してみれば、見えてくるものは随分違うはずだ。
大地震や大津波等のアポカリプト的大災害が続いている今『方丈記』を読むと、今も昔も変わらない世の中が見えてきて、何があってもそんなに騒いで悲壮感に浸ることもないような気がしてくる。日々滞りないのが一番ではあるが、災害の存在そのものをあってはならない物とみなすのは自然を無視することだ。そもそも造山帯の上にある島国に自然災害が多いのは当たり前であって、温暖湿潤気候という生命豊かな風土と合わせて、自然の恐ろしさとありがたさを観念でなく己の現実として、いわば自然と一体化して生きて来たのがご先祖様たちであったと思う。『方丈記』にも酷い自然災害だけでなく、冒頭だけでも豊かな川の流れや朝露と朝顔の例えのような美しい自然が豊富に現れていて印象深い。なのにその子孫である我々が、自然を完全にコントロールし、征服することで生き延びてきた西洋人たちの思想を明治以降、必死に真似している。それこそ砂漠で履くために作った靴を田んぼで履いているようなもので、国土も人の心も疲弊して当然の話だ。
そこらの自己啓発本やセルフケア本に金を出すより、この600円弱の岩波文庫を買った方が、苛烈な資本主義に無茶苦茶になった現代日本人のメンタルヘルスは回復する。これは間違いない。
ただ、古文の基礎学習を受けていない場合はこれでも難しいかもしれない。国語学習から古文を無くしたら一般庶民はこうした文化の宝にも到達できなくなり、アウェイ感に満ちた舶来物を居心地悪く押しいただくしかない植民地の民になる。やはり基礎教育は国民の意識形成の根幹に関わるものなのだなと思うなどした。
ちなみに解説はあえて読んでいない。人の解釈を読み飛ばして分かった気になるより、直に鴨長明の話を聞いた方が得る物は多いと思う。
美術展覧会などに行っても、目の前にある絵画そっちのけで解説文を読むことばかりに時間をかける人たちがいるが、芸術は鑑賞者が知性や感性でもって作品と感応するという「体験」にこそ価値があるものではないか。古典文学も同じことだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『徒然草』『枕草子』と比べ、ただただ暗いと聞いていた『方丈記』。
震災の人々の気持ちはいつの世も変わらないのか…。
短いので、原文でもなんとか読めました(^_^)v
著者の気持ちもわかるけど、でもこうやって考えちゃったら何も始まらない気もします(^^;;
無常だからこそ与えられた生を精一杯泣いて笑って生きて、全うする…そんな風には考えられないかな?
きっと、人には試練から立ち直れる力を神様が与えてくれているはず。難しいことですが、それでも命を与えられた以上、前に進んで行くしかないでしょう。
原子力問題をはじめ、今の世の中にも間違った進み方をしていることがあまりにも多すぎるけれど。 -
養和ようわの飢饉(1181)。治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱(1180-1185)
死体の額に阿の文字を書く僧侶。阿は真実と求道心、吽は智慧と涅槃。
他人を頼りにすると、我が身は他人の所有物となる。他人をかわいがると、心は愛情のために使わされる。
庵(いおり)の西は見晴らしがよい。西方浄土に思いをはせる。
春は藤の花。紫の雲。
夏はほととぎすの声。冥土の山路の道案内。
秋はひぐらしの声。はかない現世の悲しみ。
冬は雪。積もり消えてゆく罪過。
朝、行き交う船を眺める。水上を船が通過したあとに残る波。桂の木に風が葉を鳴らす夕方。
松風の音に秋風楽(しゅうふうらく・雅楽)を重ねて合奏。水の音に流泉の曲。
つばなを抜き、岩梨を取り、ぬかごをもぎ取り、せりを摘む。
遠く故郷の空を眺める。
石間寺に参拝。
猿丸大夫の墓を探す。
桜の花、紅葉。わらびを折り取る。
木の実を拾い、一つは仏にお供え、一つは家へのみやげ。
静かな夜、窓から差し込む月の光に旧友・故人を懐かしむ。
山の中の景色は、四季折々に応じて尽きない。
静穏であることを望みとし、不安がないのを楽しみとする。
たまに、都に出て、自分が乞食のようになっていることを恥ずかしいと思うけども、帰って一間だけの庵にいるとき、他人が俗世間の煩わしいことに心を向けていることを気の毒に思う。
魚は水に飽きることはない。
鳥は林を願う。
私は、姿は僧であっても、心は煩悩に染まっている。迷った心が窮(きわ)まって自分を狂わせているのか。自問しても分からない。南無阿弥陀仏と二、三回言って、考えるのをやめてしまった。 -
2008年3月9日に一度、通読しています。
今回は、二回目です。
(2012年6月26日)
もうすぐ読み終えます。
これは、2012年にこそ、読むべき本です。
読もう。
(2012年8月6日)
ラストがよいね。
信仰に入りきれないから、文学。
(2012年8月7日) -
下鴨神社に行って帰ってきて読みました(鴨長明の「方丈」がある)。
無常観が貫かれていて、読んでよかったです。
疲れたときにはここに戻ってこればいいんだ、という安心感
いろんなものを捨ててね。
下鴨神社は糺の森の雰囲気と合わせて、高野山に似てました。 -
この薄い本が、800年の歳月を越えて、なぜ、今の世まで生き残ったのか?不思議といえば、是ほど不思議な事はない。
平安末期の世相が落ちつかない不安定な時代に生きた長明は、人生の無常、有為転変の世相から離れ、出家して日野山に方丈の庵を結ぶ。そこで、四季の移り変わりに喜びを見出しつつも、悟りをひらくにはなお妄執があるのではないかと、反省しつつ心にもない念仏を唱える・・・。 -
授業以外で初めて古文?の本を読んだ。本当に何が書いてあるのかわかんなくて読み終わるまで時間がかかったけど、鴨長明の「無常観」は痛いほど伝わった。すぐに移り変わり常に同じものはないこの世に執着する必要はない。今の私は、無常は寂しいと感じる。移り変わるからこそ、変化があるからこそ人は心動かされるし喜怒哀楽を感じる。人は変化することで生を感じる生き物だと思う。何事にも執着せずに悲しんだり嬉しんだりすることがない、真一文字の折れ線グラフのような生活はつまらないと思う。つまり人生ジェットコースター‼️‼️‼️
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鎌倉時代前期に書かれた日本三大随筆の一つ。幼少期に苦労を重ね、様々な災害に見舞われた鴨長明の無常観には共感出来る所がありつつ、時に寂しさを感じたり、葛藤している所に人間味も感じます。
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ゆくかはのながれはたえずして…
あまりに有名な冒頭の数行おわると、割と浅い説教めいたぼやきが続く。こちらの感度が低いのかと思いつつ解説を読み、間違っていなかったことに気付く。
嫉妬心で坊主になった神官の子が、悟りきれずに未練たらたらで振り切れていない感がすごい。 -
有名な冒頭しか知らずに読み出したら、鴨長明にじかに語りかけられているような気がしはじめてぞくぞくっとした。まず思ったのは、今と昔って全然かわってないじゃん、ということ。この感じ、デカルトの『方法序説』を読んだとき意外におぼえた親近感に似ている。
世を拗ねて出家し、隠遁生活に入った鴨長明さん。元はかの有名な鴨一族の生まれであり相当な資産分与も受けているだろう長明さん。ほとんど山男みたいな生活をしているのかと思いきや、下鴨神社で見た彼の庵はけっこうしっかりした造りだった。
竜巻、火事、地震と、災害続きの当時、どうやら大原に隠棲するのが流行っていたらしい。これって、震災後いまの金のある人たちが都市圏を逃れて地方に移り住んだりする動向にそっくりじゃないか。長明さんはさすがにいやになってさらに日野に移住したけれど。
とはいえ長明さんも他の隠遁貴族たちと多かれ少なかれ同じであることにがっかりする同時に、この約800年前を生きた拗ねものに、親しみをおぼえずにはいられなかった。