古事記伝 4 (岩波文庫 黄 219-9)

制作 : 本居 宣長 
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (419ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003021996

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  • 第一巻は去年の一月に読みはじめたので二年で読み終えたことに。読み終えたと言っても、じつは岩波文庫の四冊は古事記伝全44巻のうちの巻17まで、古事記の上巻、神代にあたる部分までしか収録されてない。奥付にはしれっと(全四冊)とあって、一巻の凡例見ると勇ましく「最終巻に詳細な索引を加える」と書いてあるのだが、四巻は尻切れトンボである。18巻以降読むなら全集だけど、この調子でみっちり読んで追いかけてくのはちょっとつらいかも。

    さて四冊を読みながらつらつら考えたのは、国学国学と言うけれど、宣長はどの程度まで思想家と言えるのかということ。古語の使われ方への考察で目から鱗の落ちるようなことをいったりもするのだけれど、じつは宣長は古代の日本人の信仰とか思想とかについて「こうであった」というようなことはほとんど言わないのである。

    古事記伝というのは古事記の注釈書で、その主たる関心はあくまで「古事記の漢字文の読み下しかた」にある。何々という漢字語はなんと読む、その理由は、書記にこういう例がある、祝詞にこう書いてある、万葉集にこういう歌がある、そこから考えるにこの読みかたしかありえない、こういう解説をひたすら、古事記本文の全単語に対して、本文十行につき十数ページみたいな濃度で延々と書いている。

    宣長は古代の言葉を知れば古代の人の心がわかるという。しかし同時に宣長は「古代人の思想を表現するには古代の言葉を使わなければ不可能である」と考えているようにも見える。宣長にとっては、心と言葉とがただまっすぐに繋がっている不可分の状態こそが「直き心」のありさまであり、頭を働かせてそこから解釈を抽出するような作業は儒教仏教が陥りがちな「さかしら」なのである。

    (振り返ってみれば、源氏物語を教訓と見るような読解を拒否し、心のままに感じたことを伝えたいという気持ちがあるだけで書くことに善も悪もないという近代小説的な読解を打ち立てた『紫文要領』も、じつはこれと同じ信条から生まれていたことがわかる。)

    それで宣長に言わせれば、直き心が実現していたから古代の日本人は偉くて唐天竺はダメだということになるのだが、それは同時に解釈とか思想のエッセンスを抽出するとかの、理性の作業を拒否することにもつながる。もし「古語↔直き心」なのだとすると、当の宣長は得た知識を古典文学についての執筆なり詠む歌なりに還元すればそれで大満足だろうが、それは国文学の外にいるものにはとりつく島のない世界である。思想というのは少なからずアクチュアリティというものがないと機能しないと思うのだけれど、そこを考えると宣長のしている「仕事」は思想と言えるのかどうか。

    「日本人の思想」について話を聞きたい人が宣長のもとに来たとして、それで宣長が「日本人の思想」について語っているように見えるとき、じつは彼は「古代の日本語」についてしか語っていない、あるいはその逆、というようなすれ違いの生まれる余地が、彼の学問の自己完結性には存在している。

    近代はその自己完結性あるいは「透明さ」につけこんで、彼の「思想」を「代弁」した。宣長の危うさというのはその思想ではなく、むしろその思想についての無頓着さにあるのではなかろうか。

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