- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003100318
作品紹介・あらすじ
旗本の娘お露の死霊が、灯篭を提げカランコロンと下駄を鳴らして恋人新三郎のもとに通うという有名な怪異談を、名人円朝の口演そのままに伝える。人情噺に長じた三遊亭円朝が、「伽婢子」中にある一篇に、天保年間牛込の旗本の家に起こった事実譚を加えて創作した。改版。
感想・レビュー・書評
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カランコロン カランコロン
下駄の音を響かせ旗本の娘の亡霊が愛しい男の元へと通う。
先導する女中の亡霊の手には牡丹燈籠、ぼんやり光る。
三遊亭円朝の口演を速記で写した本です。
読者としては、本を読みながら江戸時代の登場人物像を頭に描くとともに、
円朝の口演を寄席で聞いているように各登場人物の声色や状況説明を噺家の声で想像するという、二重に想像できる楽しみが。
さらに速記術というものの記録としても興味深いですね。たまに矛盾がある(登場人物の年齢とか)は、速記のための記載ミスか?と思われるとか。
「牡丹燈籠」といえば、恋人に冷たくされ死んだ女の亡霊が男の元に通い祟り殺す、
…というような認識だったのですが、通しで読んでみると随分印象が違いましたね。
大元の話である中国の「牡丹燈記」を円朝が江戸時代を舞台に膨らませたもので、主従の忠義あり、仇討あり、人情あり、裏切りあり、母子再会ありと盛りだくさん、幽霊話はほんの一部、しかも実は…という、本当に怖いのは人間だねえというお話。裏切りやら殺傷沙汰やらには、これは相当悲惨な終わり方か?!と覚悟したけれど一応因果応報と言うか悪行には報いが下り、忠義の心は報われるという幕引きでありました。全体的に女は報われないな~。f(^^;)
物語の舞台が地図上で分かる範囲で、地名が出てくるとどうやって移動したのかな?など想像しながら読みました。
舞台の旗本屋敷って私の会社の近くみたいです。旗本屋敷の地名が出てきたときには笑ってしまった(笑)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
千年読書会、2014年10月の課題本でした。。
落語の名人、三遊亭円朝による創作落語、
明治時代の時、最新技術であった速記で記録されたもの。
意外なほどに“怪談”要素は薄く、
どちらかというと“仇討”が主な要素でしょうか。
圧巻なのは、劇中の登場人物の多さと、
彼らの関連性の複雑さ、“奇縁”とはよくいったもの。
意外な所で意外な人物がつながり、
“因果応報”をも考えさせてくれる内容。
江戸時代の“匂い”も十分に漂っていて、
かの有名な“カランコロン”の雰囲気もなかなか。
そんな中、一番“怖かった”と感じるのは、、
“生きている人間の悪意”、なんて風に。
最後は大団円となるのが救いですが、、
幽霊の方がよほど“純粋”だとも感じました。
よくもまぁ、これだけの悪意が集まるものです。
江戸の匂いが豊かに残っていたであろう明治、
これは“生”でも聴いてみたかったですねぇ、、
落語、未だに経験はありませんが、是非試したくなりました。 -
当時、外国から入った速記によって書かれた圓朝作の怪談噺。二葉亭四迷らの言文一致運動に影響を与え、小泉八雲が訳した初の日本語の怪談となった。
前半は、新三郎とお露の幽霊譚とお露の父である飯島平左衛門家の騒動が交互に語られ、後半、ふたつの物語が出合い仇討へとつながる。
「語り」のうまさは、続きが気になり、一気に読ませてしまう面白さ。この引っ張り方は、ひとむかし前の「ジェットコースタードラマ」のよう。
怪談というが、幽霊が出るのはお露が出てくる有名な「お札はがし」の場面のみ。
しかも、それも、後で半蔵が、
「実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろ/\訳があって皆みんな私わっちが拵こしらえた事」と告白・・・。
え?幽霊はでっち上げ?
スカッとする復讐劇かというと、最後に孝助が源次郎、お國を仇討する場面、「…なぶり殺しにするから左様心得ろ」と顔を縦横にズタズタに切る。凄惨で非道く後味は悪い。
今回再読して気がついたのが、新三郎のところへ、お露の幽霊があらわれるシーンの下駄の音。
最初の登場では、「カラコン/\」。次に登場するシーンでは、「カランコロン/\」。
最初、お露が幽霊だとはわからないために軽く、お露が幽霊だと気付いた後には重たい。
落語で聴いたときは、違いあったかなぁ・・と、youtubeで円生、志ん生、小朝らの噺を確認すると特にそこで違いを出してはいない。これは、「幽霊噺」として聴き手も了承しているので「カラーン、コローン」と陰にこもった音での表現するしかないのだろう。
岡本綺堂が14歳のころ、速記本で読んで、そんなにこわくない、と高をくくって寄席に圓朝の噺を聴きにいったら、「円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。」で、終わった後、「暗い夜道を逃げるように帰った」という圓朝の語り、聞いてみたいものだ。 -
複雑なプロット。昔の聴衆は、こんな複雑な筋を追うことができたのだろうか。
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これはすごいな。小説じゃなくて口述したものを速記したという内容だから。この噺を連続ドラマみたいに口演したんだと思うにつけすごい。牡丹灯籠がでてくるのはちょっとだけだし足がないのに駒下駄の音をならしてやってくる幽霊がでてくるのもちょっとだけなんだけどとても怖い。ものすごくて怖い。
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NDC 913.7
[旗本の娘お露の死霊が、灯篭を提げカランコロンと下駄を鳴らして恋人新三郎のもとに通うという有名な怪異談を、名人円朝の口演そのままに伝える。人情噺に長じた三遊亭円朝が、「伽婢子」中にある一篇に、天保年間牛込の旗本の家に起こった事実譚を加えて創作した。改版。]
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松井今朝子・選 三遊亭円朝
①『怪談 牡丹灯籠』(岩波文庫)
②『円朝全集 全13巻』(鈴木行三編/世界文庫)
③『三遊亭円朝』(永井啓夫著/青蛙房)
「双葉亭四迷が日本初の近代小説『浮雲』を書くに当たって、先輩の坪内逍遙は、三遊亭円朝の人情噺を参考に言文一致を目指すようアドバイスした。江戸時代の文芸は、戯作のごく一部を除いて口語体とは無縁だし、歌舞伎の台本も幕末に至ってほぼ七五調に整えられたから、当時ふつうの話し言葉に最も近いのは落語だったというわけだろう。
彼の口演は西洋に倣って考案されたばかりの速記術をもって活字になっている。今に残る『怪談 牡丹灯籠』は明治十七年の口演に拠るもので、幽霊に好かれる二枚目の萩原新三郎が時に「君」「僕」といった明治調のしゃべり方をするのは面白い。ストーリー自体は江戸中期の設定で、幽霊の件は中国小説を翻訳した浅井了意の「牡丹灯籠」を借り、後半には近松半二の浄瑠璃を彷彿とさせる趣向が見られる。これに限らず円朝の人情噺には旧劇の焼き直しが多々あるが、鋭い人間観察と入念な調査に基づいた細部の描写によって、登場人物が類型を脱し、リアルに立ち上がっているので、逍遙らの鼻をくすぐった近代文芸の香がするのは確かだ。散らかした筋を丹念に紡いで、きっちり辻褄を合わせた結末に導く手腕も実にみごとで、そこには粘着気質の几帳面さといったものがうかがえる。」
(『作家が選ぶ名著名作 わたしのベスト3』毎日新聞出版 p86より) -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/701201 -
映画も秀逸ですが、これが原作。
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落語家円朝が幕末1861-1864年頃に、中国の小説などを元ネタとして作った物語で、1884(明治17)年にこれを速記した本が出版されている。話し言葉による物語なので、これはまさに「言文一致」である。
読んでみると現代文とさほど変わらず、意外に読みやすいし、面白いからどんどん読めてしまう。そして物語は非常に複雑だ。登場人物も多くサブストーリーが錯綜し、おおきな物語を形成している。これを読んで「小説ではない」と断ずる理由は無い。西洋の近代小説と比較しても大変面白い、まさに小説作品なのである。もっとも私は上田秋成の『雨月物語』も見事な近代小説だと思っているので、逆に明治以降、そんなにヨーロッパ文学に注目した「小説」をことさら作り始めようとする必要があったのかな、と疑問に思う。
本作、「怪談」と呼ぶにふさわしいのは、武士新三郎を恋い焦がれるあまりに死んだお露が、お付きの女とともに幽霊となって現れ、新三郎のもとを毎夜訪れるという、有名な話だ。これを映画化した古いものを以前観たが、いかにもおどろおどろしい雰囲気を作っていた。が、この本を読むとそんなにおどろおどろしいわけでもない。単に「死者の幽霊が出る」というコトへの恐怖が描かれているだけで、もともと恨んで出た霊ではないから害は無さそうではあるけれども、毎夜霊と会い続ける新三郎が次第に痩せ衰え、顔に死相が現れる、という点がまがまがしい。幽霊なるものがケガレ(気枯れ)と捉えられているために、常人がそれに触れると災厄を負う、という民間の思想が呈示されている。
が、この幽霊談はごく一部だけで、後半はそれとは直接つながらないストーリーで、別の青年が主人の仇討ちを果たす活劇となっている。複数の物語を取り込んだ複合体としての物語なのだ。
後半の主人公の善なる資質の表れとして、主人への「忠義」がしきりに強調されている。まあ、江戸時代の武士階級の常識なのだが、どうもこの「忠義至上主義」というものは、その流れが現在の日本にもひそかに受け継がれており、良い部分もあろうけれども、悪い思想ともなっていて、忠義だけに生きるゆえに、今や社畜などという経済奴隷が日本中に生まれそのストレスからしばしば凶事を行い、また、安倍晋三への忠誠から中央のエリート官僚が公文書を改ざんするなどという社会-悪に結実しているような気がする。上のもの=お上にひたすら尽くし、そのお上の行いの善悪については全く問わず、つまりひたすら隷従することにおいて下っ端は善悪等の判断を捨て去ってしまう。こう考えてみると、忠義そのものが善悪の一般倫理より上に来てしまうと、ロクなことにならないのではないか。
まあしかし、「忠義」に関する日本文化の「病」については、本書のレビューとは直接関係ないから、追い追い考えていこう。
本作は、幕末に生まれた豊かな小説作品として、多くの人を楽しませることが出来るだろう。速記による話し言葉のエクリチュール化が、このような奇跡的な結晶を実現してくれたのだ。