小説神髄 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2010年6月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784003100417

みんなの感想まとめ

言葉の美しさと複雑さを探求する本作は、日本の近代文学の源流を知るための貴重な一冊です。書き言葉の論理的思考を通じて人間理解を深める手法が示され、文学が持つ芸術性の重要性が強調されています。著者は小説を...

感想・レビュー・書評

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  •  流れては消えていき、無限に広がって変化していくように思える話し言葉ではなく、書き言葉として論理的思考をつなぎとめておくため、地の文の在り方が初めて世に問われた。日本人はこうして人間を理解する方法をひとつ増やしたのだと思う。
     以下は小説神髄とともに収録された『詩歌の改良』より引用。読み仮名、句点は筆者。
    「美術は国家の花ともいふべく実学は其葉其枝(そのはそのえだ)なり。桜の枝葉を培養するは四月の爛燦(らんさん)を愛すればなり。花を観るの日を俟(ま)てばなりけり。」
     福沢諭吉は小説なんぞとの態度であったようだが、現在の国語の教科書に夏目、芥川、中島が載っているのは坪内逍遥が小説に芸術性を見出そうとしたから。実学実益も当然あった方がよいが、実益だけの世の中なんて、ツラいわ!!
     

  • 日本の近代文学の源流に触れたいと思い購入。

    小説を最高の美術と捉え、小説は人情をかけと説く

    言われてみれば小説とは、言葉という変幻で無定型なものを使い、千差万別の人の気持ちを描くという、なんとも骨の折れる事だと思う。

    脈絡通徹、悲哀は軽やかに、性格を行動で描写するなど、ふむふむとなるところも多かったが、なんせ読みにくかった。

  • 難しそうで読もうと思ってもなかなか読めなかった本です。とうとう読みましたが、昔の書き方で完璧に内容を理解するのは難しかったです。ただ、現代の創作にも繋がるところはあったので、その点は今も昔も変わらないのだと思いました。

  • 読みにくく、疲れる。
    小説とはなにか、が書かれています。

  • 2014/1/25読了。
    近世の戯作文芸のあり方を否定し、近代の新しい文芸として人間を描く「小説」の概念を日本文学に導入した、歴史的な文芸評論とされる。『八犬伝』の主人公たちを「仁義八行の化物」などと評しているくだりが有名だ。
    学生時代に初読したときにはこの世評を真に受けて読んだものだが、そんなマニフェストのような単純な本でもないと今回気づいた。自分を育てた愛する江戸戯作を踏み台にしないと新時代が開けないという、著者の潔い覚悟が感じられる。儒教を否定した福澤諭吉にも通じる、明治の知識人の姿勢だ。

    今回読んで一番感じたのは、なんと若さ溢れる本だろう、ということだ。物事を主観たっぷりに単純化する気味があって、旧弊な権威に対して挑戦的、かつ上から目線の断定口調。でもそんなこと気にしないでひたすら「これからの小説とは!」を高らかに論じる。元気があってよろしい(笑)。この辺が近代文学マニフェストっぽく見える所以だろう。
    逍遥先生23歳の時に着手された著と知って納得した。著者も、また日本も若かったのだ。この若さを味わうところに今回の再読の楽しみがあった。

    以下は余談。
    学生時代の初読時には江戸戯作の関連資料として読んだのだが、いまそこから離れ、最近気になっている「ラノベとは何か」というテーマに引きつけて読むと、割と有用な気付きが得られた。ラノベは逍遥先生いうところの「小説」よりは、むしろそれ以前の江戸の戯作に近い。
    登場人物は人間のリアルな描写の結果ではなく、属性の権化であるキャラクターとして造形される。しばしば先行作品世界を二次創作的に焼き直しながら書かれる。文章だけでなく絵も内容の表現に不可欠である。SFやファンタジーなど非現実の世界観(奇異譚)と親和性が高い。婦幼の玩物もしくは通人の楽屋オチ的な商用娯楽フィクションである、等々。本書で近代的な小説と対置される前近代的な戯作文芸の要素は、ラノベに当てはまることが割と多いような気がする。逍遥先生いま在れば何と評するだろうか。

  •  1885(明治18)年刊。
     日本文学史上の重要書とされるものだが文語体なので敬遠して読んでいなかった本。読めないことはない程度で、ときどき古語辞典も引いた。
    「小説」なる語のシニフィエとして、逍遙は西洋近代小説(主にイギリス?)をイメージしており、源氏物語以降の日本の物語群から草紙系に至るものも広義の「小説」として扱ってはいるが、里見八犬伝に代表され、その後明治の初め頃まで似たようなものが乱発されていたらしい「勧善懲悪」的な物語を、逍遙は批判している。例えば「善」側のモデルとして描かれる人物はみな完璧なタイプに過ぎず、欲望や情動に揺れる人間性(人情)が写し出されていない。この批判テーマが有名な
    「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」
    というモットーになる。
     確かに、バニヤンの『遍路歴程』のような、人物が寓意に過ぎず作者が外側に明示されその意志で人形を操るように物語を進めるような書き方は、あまりにも硬直していて面白さを感じない。私の考えで言えば、それは物語内の諸要素が、それ自体の自己組織化に任せていないために作品世界が有機性を欠くためだ。逍遙が言うように主人公らの「人情」を重視して、その性質の自然な推移に任せて動かしていった方が面白いだろう、ということは分かる。
     もっとも、坪内逍遙のこの考え方自体も恣意的であって、「まあ、この人はこう考えたんだな」という程度ではある。物語をどのように評価するかということは、文化上のもろもろのコンテクストに委ねられているので、その定位の仕方は交換可能なものだろう。
     が、本書が以降の日本近代文学に与えた影響の大きさは、きっと決定的なものだったのだろうとは考えることが出来る。
     さまざまな江戸文学に触れられている中で、私が頗る高く評価し、西洋の近代文学に比すべきものとさえ考えている上田秋成の『雨月物語』(1776)については、何故かまったく言及がない。怪異ものについては語ることさえ無駄と逍遙は思ったのかもしれない。
     あと、小説は「美術」の一つ、と頻りに言っていて、この美術はこんにちでは「芸術」と言われていることなのだろうが、芸術という語はこの頃まだ使われておらず、美術は視覚芸術に限られていなかったようだということが気になった。確かにartを訳せば、芸術も美術も同じことになる。では、現在の意味で芸術・美術という語が定着したのはいつ頃のことなのだろう?

  • 美術が何であるかを知りたいと思っていたおり、手に取ったこの本の目次に総論として「美術とはいかなるものなりやといふ事につきての論」と書いてあったので読み始めました。逍遥先生の考えでは
    ・ナイフを作るときは「切れること」を目的としてものを作るよね
    ・じゃあ美術は「人文発育」を目的に作るのかな?
    ・それは副作用にすぎないよね
    ・美術とはその妙が神に通じて見る人を知らず知らず「神飛び魂馳するが如き幽趣佳境を感ぜしむる」ものだよね
    ・だから美術からは目的の2文字を除いた上で、見た人の心目が悦んで気格が高尚になるものとすればよいのでは?
    とのこと。なるほど!これからはそういう目線で考えてみよう!

  • それまでの荒唐無稽な「戯作」から脱却し「小説(ノベル)」を書くべし!と謳う上巻。では実際にその「小説」を書くにはどうすれば良いかという細かい考えを述べる下巻という構成。

    上巻の「総論」、「変遷」と読んでてひしひしと感じるのは、坪内逍遙、近世の戯作が大好きだし、演劇・芝居・浄瑠璃その他エンタメ大好きでしょう(笑)と。
    八犬伝などをダメな例の引き合いに出してはいますが、「このままではこの国の文学はダメなんだ」的な使命感溢れた結果からの引き合いなので、作品や作者に対する悪意や軽蔑は全くない。
    そして、逍遙の読書範囲と読書量の多さに驚き。主に英語圏の文学作品になりますが、メジャー作品を押さえており、一方で国内は源氏物語(もちろん本居宣長の研究本も含めてね)にはじまり、西鶴、一九、馬琴、草双紙の数々と挙げていくときりが無いですが、この海外の文学作品群と、国内の(それまでの流行である、戯作的な)文学作品とを比較して、両方に触れた逍遙だからこそ、あふれ出た想いなんだろうなぁというのが凄く伝わってくる。
    今の時代に読むと、主張している内容には視野が狭い部分もありますが、あの時代のこの若さ(26、7歳ぐらいか)の逍遙だと考えるとその気概がすごい。なにはともあれ、あれだけたくさんの文学・芝居・演劇含めた知識のバックグラウンドがあったからこそ書けた本だと。

    これ読むまでは、坪内逍遙というと演劇好きの私の中ではシェークスピアを全作翻訳した人のイメージが強かったですが、これがベースにあっての活動なんだな、というのが判りました。

  • 馬琴好き過ぎ!

    改めて読んで、馬琴の勧善懲悪を否定、とは全く言えんことが分かりました。

  • 貸出状況はこちらから確認してください↓
    https://libopac.kamakura-u.ac.jp/webopac/BB00224182

    【6月22日:小説家・坪内逍遥誕生日(1859-1935)】

  • 小説とは何か?からはじまり、その後は小説家へのアドバイスになってた。

    感想を一言で言えば、つまらない。
    教科書のような本で、たくさんの本を読んだ人には退屈に思える。

    ただ、小説家を目指している人・目指す人は一度読む方が良いとオススメする。

  • 戯作から小説への転換点となった本ということで初読。最初は比較的読みやすい本だと思って読み進めていたが、下巻あたりから難しくなり、理解度も低下。

    p53 偶人師の姿も見え、機関の工合もいとよく知られて、興味索然たらざるを得ず。小説もまた之れにひとしく、作者が人物の背後にありて、屡々糸をひく様子のあらはに人物の挙動に見えなば、たちまに興味を失ふべし。

    この一節は自分が本を読むときに、あー神の手が働いたなあと冷める部分なのでわかるなあと。

  • 緒言でいきなり笑かしよる。ちゃんとした小説というものをこれから教えてやるから変な小説ばかり書いたり読んだりするなと、なんかいきなり癇癪を暴発させてますな。今日のラノベやミステリーのためのミステリーものに対して文句を言っている人たちとなんかおんなじ感じがして可笑しい。本論に入ると、まずスペンサーの進化論を準用して文学の歴史を直線的に発展させてそれまでの文学を否定的に評価したうえで小説(ノベル)をこれから登場させなければならないとしている。時代の制約と言ってしまえばそうだけど、あまりにも一方的で独善的な論であり、女性子供蔑視がまともに出ている用語を頻繁に使用している点に嫌悪感を覚えてしまう。とは言え、ここでやり玉に挙げられている馬琴や春水の戯作に対しては、その自ら批判している欠点をどこか庇っているようなニュアンスというか行間があるのが否めないのはおもしろい。また、「詩歌の改良」篇では、現在の実利偏向(工学系重視傾向)で人文軽視傾向の世相への明治期からの批判であるように思われるのも面白い。曰く美術は国家の花ともいふべく実学は其葉其枝なり。漢文訓読調て言わんとするところを見事に要約強調しているところがすごいな。

  •  
    ── 坪内 逍遥《小説神髄 1885-1886 20100616 岩波書店》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003100417
     
     小説神髄(=正/誤=)小節神髄
     
    ── 坪内 逍遥《当世書生気質 188506‥-188601‥第1-17号 晩青堂 20060414 岩波文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003100425
     
     Tsubouchi, Shouyou  18590622 岐阜 東京 19350228 75 /安政 6.0522
     Tanizaki, Jun'ichirou 18860724 東京 湯河原19650730 79 /
    ♀Tanabe Seiko     19280327 大阪 神戸 20190606 91 /“おせいさん”
     
    …… 1885‐86年刊。上巻は小説の原理論,下巻はその技法論を論じて
    いる。従来日本の小説は,戯作の名のもとに漢詩文や和歌よりも品格の
    劣るものと見なされてきたが,これに対し文明社会では,文学の諸ジャ
    ンルの中でもっとも進化した形態とされ,芸術として重んじられていた。
    西洋におけるこうした小説の役割を基準に,日本の小説は改良されなけ
    ればならないとして提唱されるのが,人情及び世態・風俗の模写,すな
    わち写実主義の理論である。── コトバンク
    https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E7%A5%9E%E9%AB%84-79441
     
    (20210306)(20231126)

  • 解説:柳田泉
    小説神髄◆逍遥先生初期文藝論鈔

  • 今日からみれば見方が狭い。

  • 9784003100417 276p 2010・6・16 改版1刷

  • ※メモ。
    「小説神髄」坪内逍遥

    -----
    「小説総論」二葉亭四迷

    人の善悪⇔小説の是非
    観念的⇔定義的

    基本のキを解くことに不粋?を感じるけれども、ベースとなるものだから、「御辛抱を願うになん。」

    -----
    意は形に依って見われ形は意に依って存す
    意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。

    批評家としてのベリンスキーは、ヘーゲル哲学の影響を受けた、ドイツ・ロマン派の弟子として、「詩はそれを越える目的を持たない。それ自体が目的である」と言い、芸術の機能に関する〈教訓的・功利主義的〉見解をとらなかった。偉大な古典作品は、それが自立して自発的に生み出されたものならば、世界そのものの真の諸関係をあらわし、その読者の道徳・政治への見方を変化させることによって、あらゆる諸問題を解決するであろう、と考えていた。

    四迷も、あながちこれもいいすぎではあるまい、という立場。
    ※うがった読をせずとも、小説から受けるそのものがまさに小説の存在義で、

    形←物→事 = 形⇔事
    物に意が出ている、これを物の持ち前という。つまり…?
    アフォーダンスとは関係ある?
    同じく、事の持ち前もある。

    若し此の如く我感ずる所を以て之を物に負わすれば、豈に天下に意なきの事物あらんや。
    我々が感ずる所を物に投影しているがゆえ、だからこそ意なきの事物がありえることはない。
    人間の眼(意識)を通した、世界の在り方。

    んで、何某の事物にその意が全て出てるとは思っちゃあいけない。
    して見れば張三も李四も人は人に相違なけれど、是れ人の一種にして真の人にあらず。
    イデアを思う。

    易らざる者は以て当にすべし、常ならざる者豈当にならんや。
    意はそうそう変わるものではない、かわらざるものは意在りと信じて当てにすべし。

    清元は意気で常磐津は身がある
    清元節、常磐津節。それぞれ三味線音楽の流行した流派で、浄瑠璃の一種。歌舞伎の伴奏として広く聞かれていたらしい。

    富婁那…釈迦十大弟子の一。弁舌巧妙。

    是れ物の意保合の中に見われしものというべき乎。※保合=もちあい。継続安定。
    結局百聞は一見に如かずとあり、
    知識から云々するより手っ取り早く感ずる方が解る。インスピレーションを得る。

    意は遍く宇宙に存在し、混淆し、容易に顕現せず。だから芸術は凄いんだ。解るように形をつける。
    インスピレーションの連鎖。
    宇宙→芸術家→尋常の人
    故曰、美術は感情を以て意を穿鑿するものなり。

    小説もそう。宇宙のインスピレーションを伝え解らせるためには、リアリズムによって感得できる形になっていなきゃならない。嘘くさい作りものは、小説の名を借りた説教である、と。

    摸写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり。
    これが小説の神髄だ!
    つまり、世界の有様、宇宙の模様を模写しながら、そこに文体言いまわし表現からの穿鑿を与えることで、意を顕にする。仏像みたいなもんだな。
    んで、そのためには活き活きとした文章が必要です。かたっ苦しい言いまわしと、情動を端折った物語りで、意を汲み取ることはできないでしょう、と。

    浮世の形のみを写して其意を写さざるものは下手の作なり。写して意形を全備するものは上手の作なり。意形を全備して活たる如きものは名人の作なり。

  • 古文難しい。分類分析はおもしろかったけど、結局西洋かぶれっつーか和魂洋才文明開化の時代の本だなぁ。という感じ。
    ただ自分の好きな八犬伝をボロボロにいうあたりにはさすがに気概を感じた。

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