- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003100417
作品紹介・あらすじ
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」小説を書くために、まず小説とは何かを知らなければならなかった時代。江戸戯作に親しみ西洋文学を渉猟した若き文学士逍遥(1859‐1935)が明治の世に問うた、日本近代文学史の黎明に名を刻む最初の体系的文学論。他に、初期評論5篇を収録。
感想・レビュー・書評
-
流れては消えていき、無限に広がって変化していくように思える話し言葉ではなく、書き言葉として論理的思考をつなぎとめておくため、地の文の在り方が初めて世に問われた。日本人はこうして人間を理解する方法をひとつ増やしたのだと思う。
以下は小説神髄とともに収録された『詩歌の改良』より引用。読み仮名、句点は筆者。
「美術は国家の花ともいふべく実学は其葉其枝(そのはそのえだ)なり。桜の枝葉を培養するは四月の爛燦(らんさん)を愛すればなり。花を観るの日を俟(ま)てばなりけり。」
福沢諭吉は小説なんぞとの態度であったようだが、現在の国語の教科書に夏目、芥川、中島が載っているのは坪内逍遥が小説に芸術性を見出そうとしたから。実学実益も当然あった方がよいが、実益だけの世の中なんて、ツラいわ!!
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2014/1/25読了。
近世の戯作文芸のあり方を否定し、近代の新しい文芸として人間を描く「小説」の概念を日本文学に導入した、歴史的な文芸評論とされる。『八犬伝』の主人公たちを「仁義八行の化物」などと評しているくだりが有名だ。
学生時代に初読したときにはこの世評を真に受けて読んだものだが、そんなマニフェストのような単純な本でもないと今回気づいた。自分を育てた愛する江戸戯作を踏み台にしないと新時代が開けないという、著者の潔い覚悟が感じられる。儒教を否定した福澤諭吉にも通じる、明治の知識人の姿勢だ。
今回読んで一番感じたのは、なんと若さ溢れる本だろう、ということだ。物事を主観たっぷりに単純化する気味があって、旧弊な権威に対して挑戦的、かつ上から目線の断定口調。でもそんなこと気にしないでひたすら「これからの小説とは!」を高らかに論じる。元気があってよろしい(笑)。この辺が近代文学マニフェストっぽく見える所以だろう。
逍遥先生23歳の時に着手された著と知って納得した。著者も、また日本も若かったのだ。この若さを味わうところに今回の再読の楽しみがあった。
以下は余談。
学生時代の初読時には江戸戯作の関連資料として読んだのだが、いまそこから離れ、最近気になっている「ラノベとは何か」というテーマに引きつけて読むと、割と有用な気付きが得られた。ラノベは逍遥先生いうところの「小説」よりは、むしろそれ以前の江戸の戯作に近い。
登場人物は人間のリアルな描写の結果ではなく、属性の権化であるキャラクターとして造形される。しばしば先行作品世界を二次創作的に焼き直しながら書かれる。文章だけでなく絵も内容の表現に不可欠である。SFやファンタジーなど非現実の世界観(奇異譚)と親和性が高い。婦幼の玩物もしくは通人の楽屋オチ的な商用娯楽フィクションである、等々。本書で近代的な小説と対置される前近代的な戯作文芸の要素は、ラノベに当てはまることが割と多いような気がする。逍遥先生いま在れば何と評するだろうか。 -
美術が何であるかを知りたいと思っていたおり、手に取ったこの本の目次に総論として「美術とはいかなるものなりやといふ事につきての論」と書いてあったので読み始めました。逍遥先生の考えでは
・ナイフを作るときは「切れること」を目的としてものを作るよね
・じゃあ美術は「人文発育」を目的に作るのかな?
・それは副作用にすぎないよね
・美術とはその妙が神に通じて見る人を知らず知らず「神飛び魂馳するが如き幽趣佳境を感ぜしむる」ものだよね
・だから美術からは目的の2文字を除いた上で、見た人の心目が悦んで気格が高尚になるものとすればよいのでは?
とのこと。なるほど!これからはそういう目線で考えてみよう! -
それまでの荒唐無稽な「戯作」から脱却し「小説(ノベル)」を書くべし!と謳う上巻。では実際にその「小説」を書くにはどうすれば良いかという細かい考えを述べる下巻という構成。
上巻の「総論」、「変遷」と読んでてひしひしと感じるのは、坪内逍遙、近世の戯作が大好きだし、演劇・芝居・浄瑠璃その他エンタメ大好きでしょう(笑)と。
八犬伝などをダメな例の引き合いに出してはいますが、「このままではこの国の文学はダメなんだ」的な使命感溢れた結果からの引き合いなので、作品や作者に対する悪意や軽蔑は全くない。
そして、逍遙の読書範囲と読書量の多さに驚き。主に英語圏の文学作品になりますが、メジャー作品を押さえており、一方で国内は源氏物語(もちろん本居宣長の研究本も含めてね)にはじまり、西鶴、一九、馬琴、草双紙の数々と挙げていくときりが無いですが、この海外の文学作品群と、国内の(それまでの流行である、戯作的な)文学作品とを比較して、両方に触れた逍遙だからこそ、あふれ出た想いなんだろうなぁというのが凄く伝わってくる。
今の時代に読むと、主張している内容には視野が狭い部分もありますが、あの時代のこの若さ(26、7歳ぐらいか)の逍遙だと考えるとその気概がすごい。なにはともあれ、あれだけたくさんの文学・芝居・演劇含めた知識のバックグラウンドがあったからこそ書けた本だと。
これ読むまでは、坪内逍遙というと演劇好きの私の中ではシェークスピアを全作翻訳した人のイメージが強かったですが、これがベースにあっての活動なんだな、というのが判りました。 -
馬琴好き過ぎ!
改めて読んで、馬琴の勧善懲悪を否定、とは全く言えんことが分かりました。 -
1885(明治18)年刊。
日本文学史上の重要書とされるものだが文語体なので敬遠して読んでいなかった本。読めないことはない程度で、ときどき古語辞典も引いた。
「小説」なる語のシニフィエとして、逍遙は西洋近代小説(主にイギリス?)をイメージしており、源氏物語以降の日本の物語群から草紙系に至るものも広義の「小説」として扱ってはいるが、里見八犬伝に代表され、その後明治の初め頃まで似たようなものが乱発されていたらしい「勧善懲悪」的な物語を、逍遙は批判している。例えば「善」側のモデルとして描かれる人物はみな完璧なタイプに過ぎず、欲望や情動に揺れる人間性(人情)が写し出されていない。この批判テーマが有名な
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」
というモットーになる。
確かに、バニヤンの『遍路歴程』のような、人物が寓意に過ぎず作者が外側に明示されその意志で人形を操るように物語を進めるような書き方は、あまりにも硬直していて面白さを感じない。私の考えで言えば、それは物語内の諸要素が、それ自体の自己組織化に任せていないために作品世界が有機性を欠くためだ。逍遙が言うように主人公らの「人情」を重視して、その性質の自然な推移に任せて動かしていった方が面白いだろう、ということは分かる。
もっとも、坪内逍遙のこの考え方自体も恣意的であって、「まあ、この人はこう考えたんだな」という程度ではある。物語をどのように評価するかということは、文化上のもろもろのコンテクストに委ねられているので、その定位の仕方は交換可能なものだろう。
が、本書が以降の日本近代文学に与えた影響の大きさは、きっと決定的なものだったのだろうとは考えることが出来る。
さまざまな江戸文学に触れられている中で、私が頗る高く評価し、西洋の近代文学に比すべきものとさえ考えている上田秋成の『雨月物語』(1776)については、何故かまったく言及がない。怪異ものについては語ることさえ無駄と逍遙は思ったのかもしれない。
あと、小説は「美術」の一つ、と頻りに言っていて、この美術はこんにちでは「芸術」と言われていることなのだろうが、芸術という語はこの頃まだ使われておらず、美術は視覚芸術に限られていなかったようだということが気になった。確かにartを訳せば、芸術も美術も同じことになる。では、現在の意味で芸術・美術という語が定着したのはいつ頃のことなのだろう? -
解説:柳田泉
小説神髄◆逍遥先生初期文藝論鈔 -
今日からみれば見方が狭い。
-
9784003100417 276p 2010・6・16 改版1刷