護持院原の敵討―他二篇 岩波文庫 (岩波文庫 緑 6-7)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (106ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003100677

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  • 『護持院原の敵討』
    題目の通り、仇討ちの話。
    暴漢によって父を殺害された武家の一家が、敵である下手人の行方を追って、日本全国ほうぼう歩き回る。
    手がかりはほぼないに等しく、普通に考えれば無謀極まりない旅である。尋常ならざる苦労と歳月を費やす。時に炉銀が尽き果て ものごいまがいのことをし、時に病に倒れ、そしてとうとう、果てのない(かのように思われた)旅を息子は諦め敵討ちを断念してしまう。それでも諦めることなく敵を追い続けた叔父と付き人は、数年かけて、どうやら敵が江戸(犯行現場の近く)に戻っていることを突き止める。そしてとうとう下手人を取り押さえ、見事にかたきをとったのだった。
    という内容。

    なんか、あらすじを書いてしまうと平凡な感じになっちゃうんですが、読んでる間はけっこうわくわくしてました。
    敵討ちは成功するの?しないの?どっち?!みたいな。
    作中、息子君(宇兵)は旅に疲れてドロップアウトしちゃうのですが、このときの彼さぞや内心葛藤したでしょうね(そのへんの描写が、淡々としててあまり無いので、逆に推察するのが楽しくなるんですが)。でも、息子君は意思薄弱者でもなんでもなく、極めて普通というか賢明な判断をしたと思いますよ!というかむしろ、常人よりはるかに堅固な意思をもって長旅に耐えてきたと思いますよ!
    むしろボロボロな状態で、なお旅を強行した叔父のほうが、ファナティックつーかちょっと狂気感じましたね~

    で、結局、下手人を斬ったのは娘(りよ)ちゃんと叔父さんと付き人の三人で、それぞれその功労を讃えられ褒賞まで貰ったわけですが、小説には「宇兵のその後」が一切、書かれてないよね。これってどうなの?この物語は、艱難辛苦に耐えて大願を成就させた家族と、一方で、努力したが報われず表舞台から姿を消してしまった宇兵の、ふたつの対比がシビアな物語でもあるんだな、、と思いましたね。

    『安井夫人』
    幕末の漢学者、安井息軒とその妻、佐代についての歴史小説。
    小説というほど主人公の内面に迫ったり情緒を綴ったりするような内容は少なく、特に表題にもなっている安井(佐代)夫人が息軒に嫁いでからは、あくまでも淡々と事実のみを書いている。史伝というか、史料を口語で書き下した印象である。

    安井息軒は、優秀な頭脳を持ち漢学者として当世一流の名を残したが、色黒、ちび、あばた面、隻眼と、外見はすこぶる醜男。どんな女もこの男との結婚は嫌がるであろうところ、なんと当時評判の美人だったお佐代さんが自らこの男に嫁ぎたいと言い出した。
    で、婚姻をむすび息軒はすばらしい学業を残すが、冨や名誉におぼれず清貧を極めた生活を送る。お佐代さんもそんな夫によく遣え、終生、贅沢とは無縁の生活を送り、51歳でその人生の幕を閉じた。

    内容は、こんなかんじ。さらっと読んでしまえるけれど、「美人であった安井夫人が何故、醜男の息軒に嫁いだのか?」「何を思って夫や子供の世話をし、どのような気持ちでその人生を終えたのか」など、メンタルに迫る記述は(ほとんど)無いので、読者の推量にまかせられる。読み終えたときは本当に不可解だったし、小説といえるほどのストーリーせいもないように思われたので、なんかなーって感じだったが、よくよく考えると、
    「お佐代さんが当時珍しく『自ら望んで人生を切り開いた』(親の言いなりでなく、自分の望む相手と結婚した)」点は、明治期のいわゆる自由主義的なハイカラ女性に通じるものがあるよね、とか
    結婚において何を重視するのか?(ルックスとかお金とかではなく、お佐代さんの場合は、夫の栄達こそが、自分の生き甲斐だったのではないかな、と…。)とかがまぁ、うっすら見えてくるわけです。

    だから、お佐代さんは経済的にも恵まれなかったし夫はイケメンではなかったけれど、
    すばらしい学業を成した夫に遣えることこそが彼女の喜びであり、同時にブサメンであっても学識に富んだ夫のことが誇りであったのだろうな~と。
    実際はどうだったのか知りませんが、彼女の人生は決して不幸ではなかったろうと、(鴎外翁も言ってますが)私もそう思います。

  • 再読。「護持院原の敵討」「安井夫人」は歴史もの。「生田川」は古典を元ネタにした戯曲。父親を殺された家族と忠僕が苦労して仇討をする「護持院原の敵討」は、殉死と同じく仇討の是非について問うようでもあり、しかし孝心や忠心は賛美している面もあり読み手の解釈次第でしょうか。「安井夫人」は不細工な学者・安井息軒に嫁いだ奥さんの話だけれど、彼女の心情について一切描写されていないのでこれまた読者にゆだねられる。どちらも鴎外のいわゆる歴史其儘ってやつですね。

    ※収録作品
    「護持院原の敵討」「安井夫人」「生田川」

  • 私が思う限りだが、近現代でもっとも美しい文章を書く作家は森鴎外だと思う。


    鴎外の感想はいつもこれと同じような出だしになるな。
    文学者でもないくせに何を言うかと言う話かもしれないが、ご愛敬。少なくとも今まで私が読んだ作家の中では、他に対抗馬が思い浮かばないほどに迷いなくそう思う。
    ミシマ好きを公言して憚らない私だが、ミシマの文章は確かに”美しい”が”美文”ではない。
    ミシマは絢爛豪華な目もくらむような美しい表現を駆使した文章を書くが、文章の本来の役割を考えた時にそれが美文であるとはまったく思えない。徒歩三分でいける道中を、景色が美しいからと言う理由で、野を越え山を越えの30分に切り替えることに誰もが賛同するわけがない、と言うことだ。
    文章である以上、美文の定義には機能面にこそ重きが置かれるべきだと思う。
    まずはその点で、鴎外の文章はすばらしい。
    まるで無駄がなく、クセなくすんなりしていて、わかりやすい。あるがまま、と書いたところで志賀直哉もそういや美文家だと言うことを思い出したが、確かに同じように簡潔で、理路整然とした文章を書くが鴎外には及ぶまい。
    私には志賀直哉の文章は少し味気なく思えてしまうのだ。装飾を嫌い、詩的な表現をほぼ廃した文章は機能的にはたしかに完璧だが、やはりあまりに素っ気ないものは心にイマイチ響かない。
    その点が二つ目に上げられる鴎外のすごさだろう。
    簡素な文章の中に時に挟む情景描写が目を見張るほど美しいと感じるときがある。淡々としている中にある質素な美しさ、かな。
    この二つが揃ってしまえば誰も太刀打ちできまい。
    着飾ることはやはり美しい。しかし盛り込まれたものはそれだけ人を目移りさせ、難解にもなる。難しいものを難しいままに伝えるのは意外と簡単だ。しかし優しく簡単に伝えるのは、それを神髄まで理解していないと出来ないものだ。


    と、ここまで賞賛し尽くした鴎外だが、あくまで口語体の時の話である。
    文語体でではからっきし、と言うと鴎外が悪いかのような響きなになるが、私が美しさを感じられるほど文章を読みとけない。
    『舞姫』はまだしも、『澁江抽齋』は1/3ほどで撤退した経験がある。
    あの厚みで文語体を読むのは、私の読解力じゃつらい。何ヶ月かかるかわからないってはなしだ。
    その辺とはまだ和解しきれてないんだよな。
    年内には最低でも『にごりえ』ぐらいは読んどきたい。


    はて話がずれたが、本書はそんな鴎外の口語体での小説。
    たまたま古本屋で見かけて読んでみようと言う気になった。
    あんだけ褒め称えたぐらいだから好きなのだ鴎外先生。
    表題作は江戸を舞台にした題名の通りの仇討ちもの。いや人情ものと言った方がいいかもしれない。
    正直一通り読んだ感じは、相変わらずなすんなりした文章の物語だな、というもの。
    どうってことはない展開のない小説、とも言われてしまうかもしれない。
    そうだな、わたしもどちらかと言えば文章を味わうために読んだようなものだ。
    しかし、解説を読んではっとさせられた。
    鴎外というのは明治の時代にあって西洋化というものに非常に敏感な存在だった。
    ヨーロッパに行ったぐらいだから西洋化推進派かと思えるが、鴎外は本物をみただけに安っぽい西洋化に対して疑問を呈した人だった。
    本編に登場した二人の人物:宇平と文吉はその鴎外のもとに配置された登場人物とはとても思えない。
    みそは封建制度への賞賛だという。
    この考えを中心に据えて物語を読み解くと驚きがある。
    美文でおまけにそんな精神をきれいに吹き込んでいるのだ。
    こっちがただの物語と読み過ごしてしまうほどに重さを持たない。それに関しては是非はあるかもしれない。
    正直私みたいな読解力と知識では鴎外の小説の背景に、気がつける訳もなく、ただ読み進めて、で?、っと思うことも多々ある。あとで偉い先生が言っていることを読んでへーと思う事がほとんど、納得いかないこともなくもない。
    コレは美文の条件たる機能面での”わかりやすさ”に引っかからないかとも思えるが、何も鴎外は難しいことは言っていない。
    何だろう、一種のジレンマだな。
    今のような時代だから特に思うんだろう。小説とは何だろうか、という問にまたしても行き当たりそうだが、よしておこう。
    趣向はそれぞれ、強制されているのではなく選択しているのが読み手当人である限り、作家は自由に書くことが許されるはずだ。
    思い返してみる。昔は鴎外の文章の美しさもまったくわからなかった。まるで何も無い平面のキャンバスを見ているように感じていたのだが、色々と本を読み、時代背景を理解していって、作品を見つめたときに少しずつ何かが浮き出て来るのを感じられるようになった。
    鮮やか、までとは言わないが、惹きつけられるような独特の美。
    もうちょっとしたらどうにかなるって、実は思っている部分があるんだな。



    鴎外も芥川同様著作が減ってきた。
    こうなってくると正直寂しい。
    芥川の全集を見る度に最近心が揺れているのだが気がつかないフリをしていたりする。
    これが恐くてミシマを未だに全て読み切らないでいる。
    我ながらどうかしてるぜって話。

著者プロフィール

森鷗外(1862~1922)
小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。本名は森林太郎。明治中期から大正期にかけて活躍し、近代日本文学において、夏目漱石とともに双璧を成す。代表作は『舞姫』『雁』『阿部一族』など。『高瀬舟』は今も教科書で親しまれている後期の傑作で、そのテーマ性は現在に通じている。『最後の一句』『山椒大夫』も歴史に取材しながら、近代小説の相貌を持つ。

「2022年 『大活字本 高瀬舟』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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