行人 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (1990年4月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (448ページ) / ISBN・EAN: 9784003101100

みんなの感想まとめ

人間関係の複雑さと内面的な葛藤を描いた作品であり、特に愛や信頼についての深い疑問が物語の中心に据えられています。語り手の次男が兄から投げかけられた「妻は自分を愛しているのか」という疑問が、物語の展開を...

感想・レビュー・書評

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  • 後期三部作『彼岸過迄』と『こころ』の間を埋めるニ作目。

    『行人(こうじん)』は、道を行く人=旅人という意味。読み終わってみると、物語の終盤を暗示しているタイトルかな。

    前作『彼岸過迄』同様に、「友達」「兄」「帰ってから」「塵労(じんろう)」の四篇から構成されていますが、「帰ってから」と最後の「塵労」との間が半年近く空いています。これは、胃潰瘍の再発のせいですが、中断する前後で話しの構成が変化しています。語り手が変わるところなどは、後の『こころ』に繋がるプロットが、この『行人』で試みられたのかなと思いました。

    内容は、語り手である次男が、兄から「はたして妻はじぶんを愛しているのだろうか」という疑問を投げかけられたことから、本筋が動き出します。
    そんな事には頓着しない嫂のクールなところが、激しやすい兄と真逆ゆえに、話しがもつれながら進んでいきます。
    終盤には、禅問答の『無門関』第二十三則が後半に出てくるなど、頭が良すぎる兄の苦悩が描かれて、はっきりとした結末が示されないまま、静かに幕を閉じます。ただ、どうにもならない結末ともいえ、これで良かったのかもと思いました。

    余談ですが、読書家の坂本龍一さんが、亡くなる数年前に読んでいた本に『行人』が入っていたとのこと。『無門関』も読まれていたようです(『婦人画報』2023年11月号の巻頭特集記事)。

  • 終盤に急にやる気を出した感じ。

  • 漱石の手に心臓を掴まれた気がした。
    第四章『塵労』は読んでいて苦しい。

    「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」
    「僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」
    「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
    「僕は迂濶なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」
    「どうかして香厳になりたい」

    ああ、苦しい。
    駄目だ。
    泣く。

  • 本当は裏でこう思っているのではないか。そう疑い始めたら、人付き合いは苦しくて仕方ない。普段そういうことを考えない習慣を自然と身に付けているんだろう。一郎のように突き詰めたいという衝動とそれに向かって行けば行くほど幸福から遠ざかる。ではどこまで妥協すればいいのか。どこまで見て見ぬ振り、意識的な「思い込み」をすればいいのかー。そういう煩悶を共感してくれる者もいない。ただ、三沢という受け止めてくれる人がいてくれたことが、ものすごく救いになってるように思えた。

  • 弟の二郎と妻お直との仲を疑う、学者である兄の一郎の苦悩を綴った作品。

    高校時代の国語教師は「漱石は女を不可解な存在と感じていた」と論じたのを覚えている。
    本作や「彼岸過迄」を読むと、漱石が「不可解」だったのはおそらく、女のみならず全ての他者、特に、最も近しいはずの身内ですら、その「不可解」の対象だったのではないかとすら感じる。

    他の方のレビューに目を通すと、その感想には、概して一郎へ共感したかどうかの分かれ目があるように思える。
    だがそれは、他の方々が一郎へ共感したかどうかを重要視したのではなく、個人的には、はたして他人は一郎のような苦悩を抱えたことがあるのかどうか、が気にかかったのだ。

    正直に記せば、子どものころからぼんやりと、大人となったいまではより明確に、本作の一郎や「彼岸過迄」の須永のような苦悩を感じることがたびたびある。
    ただ、その苦悩の原因はおそらく、他人に受け入れてもらえないということではなく、他人を受け入れない性質のせいか、どこか他人も自らを受け入れないのではないかという懐疑を基にしているではないかと、最近つくづく思う。

    本作や他の漱石作品から感じられるのは、自らと同様に、彼自身もそのような苦痛を抱えていたんだろうということ。
    そしてそれは、「近代人の苦悩」と簡単な言葉で片付けられるほどではなく、彼自身とともに自らもいまだ苛まれている重要な命題なのだと思う。
    また、自分自身にとっては、明治の世から自らと同じ悩みにとらわれている人間がいたことを慰みとするわけでもなく、結局、これから先も、この苦悩を抱えていくしかないことに気づかされたに過ぎないのかもしれない。

    10年以上前、学生のころ読んだのだが、最近、青空文庫のものを再読した。
    なので本来は再読かもしれないが、以前読破してからだいぶ月日が経つので、改めてこちらに感想を記した。

  • 一郎の妻、直のような女性が好きだ。そう思って最後まで読んでいたら、解説で酷くこきおろされていていらっとした。ただ、たしかにそういわれればそうだと納得もした。
    晩年の漱石の小説は、執拗に孤独を、我執を主題として追い求めていく。ただ、それは紹介の帯がいうような「近代知識人の苦悩」に回収されてしまうのだろうか。仮にそうだとしたら、漱石の小説は過去の廃墟にすぎない。廃墟を好きなひとがいるように、それが過去であり、痕跡であるからこそ価値を持つような、そんな代物にすぎない。
    ぼくが漱石を好きなのは、そのような懐古主義からではない。彼の魅力は、彼が本格的に小説を書き始めてから一貫して、三角関係のなかで人間を捉えようとしていたところにある。『行人』では、近代知識人の苦悩ではなく、ひとの心のはかりがたさを、だれしもが共有している。そのつらさを訴えようとすれば、心をはかりがたい当の相手ではなく、第三者に向かうのは必然だ。そうしてかたちどられた三角形が、この物語のなかではいくつも生成し、重なり合って社会を形成している。
    あとひとつ、付け加えておけば、やはり日本語のための日本語は美しい。


  • 「恐れない女と恐れる男」「恐れない詩人と恐れる哲人」という三角関係の構図は、「彼岸過迄」を引き継いでいる


    岩波文庫 夏目漱石 行人


    一人称小説なのに、終盤に別の人に視点が入れ替わる驚きの構成だが、入れ替わることで一気に、エゴイズムが 自己を追い詰めて、狂気の世界に変わる 描写は 見事


    追い詰められて狂気に逃げたというより、あえて救いのない狂気を選んだという感じ













  • 寝る前の文学シリーズ。夏目漱石は比較的読みやすいけど、高尚な一郎ワールドはなかなか理解に苦しむ。他人からみた家族を手紙の中で描くという構成が面白い。

  • 他の夏目先生の作品の主人公に比べてかなり色々なことに巻き込まれる主人公だなと思いました。最後まで一郎さんのことはよくわからなかったです。

  • 漱石が好んで描く夫婦のいろいろが、今作も明瞭に出ているなー。最後には夫婦に収まらず、自分と他人、自分の考えている真実と、自分が感じる真実の間で悩み苦しむ一郎を、丁寧に描いている。

  • 漱石の最高傑作だと思います。高く行くほど、次第に狂気じみていくのが人間なのだと思います。

  • p.1990/5/3

  • 後期三部作の2作目。
    後期三部作は話としてつながるように意図された作品ではなく、各作品で方向性は違うのですが共通のテーマを持った作品となっています。
    彼岸過迄では、須永がその気もない女性であるはずの千代子に縁談が上がるや否や嫉妬の炎に身を燃やすというエゴイズムと、そんな己の感情に苦しめられる様が描かれていましたが、本作においても自分と外界のギャップを許容できず苦しむ男が描かれています。
    彼岸過迄では須永がコントロールできない感情からエゴにまみれた嫉妬をしてしまう話でしたが、本作は彼岸過迄よりテーマとしてはもう少し昇華していると感じました。
    主人公の兄・長野一郎は学者で、何事も深く考える性質があり、聡明さ故に不器用で、頭ではわかっているが受け入れることができない、現代においても持ちうる悩みを持っています。
    考えさせられると同時にまた、自分は他者とは異なるという当然の事実を再認識させられるような作品でした。

    内容は4つの短編に別れています。
    彼岸過迄とは違い、各短編によって主人公が異なるということはなく、主人公は同一です。
    ただ、実際的には長野一郎に関する物語であり、主人公である長野二郎は狂言回し的なポジションとなっています。
    一章では、「長野二郎」が友人の三沢と落ち合う約束をし、大阪を訪れる。親戚の岡田の元に身を寄せて三沢を待つのですが、なかなか連絡が来ない、そんなある日、三沢が大阪の病院に入院しているという手紙を受け取るという話。
    一章は導入としてのようなストーリーで、二章より長野一郎が登場します。
    二章は長野二郎とその兄「長野一郎」、二人の母、そして嫂の「直」が大阪に訪れる。自分に対する態度とは違い、二郎に親しげな直を信用できない一郎は、二郎に直と二人で一泊して貞操を試してほしいと頼むという話。
    以降は一郎がメインキャラとして描かれており、一郎の性質、苦悩にスポットされた展開となっています。

    感情の起伏が比較的激しい一郎と異なり、嫂の直はクールなキャラクターとして描かれていて、二郎もまた感情を読みにくい彼女に翻弄されるのですが、個人的にはそこが楽しかったです。
    直はクールですが傲慢さはなく、神秘性の高い女性として描かれており、私的には、恐らく夏目先生も予期しなかった艶っぽさのようなものを感じました。
    一郎は端的にいうと面倒な性格で、人が感じていながらもうまくやっていく部分を許容できずに狂ってしまうのですが、本作中にはそのアンサーのようなものはなく、物語は静かに終幕します。
    結局のところその問に答えはなく、深く考えることをどこかで放棄するしかないのですが、その終わらない問を投げかけてくるような作品でした。

  • 著者:夏目漱石(1867-1916、新宿区、小説家)

  • 後期三部作の2冊目。修禅寺の大患を挟んで書かれたもの。構成上の問題もあるが、とても難解な印象。とくに嫂の心情が明確に描かれていないことが難解さに拍車をかける。とはいえ止まらない面白さは相変わらず。

  •  前半、物語の舞台は大阪、和歌山。漱石~文京・本郷界隈というイメージがあったため、新鮮に感じる。

    気難しい長兄と、腫れ物に触る如く彼に接する次兄ら家族。自分もそうした向きが無くは無い長兄であるため、身につまされる思いを抱きつつ読み進めた。

    とはいえ、長兄長野一郎の抱える懊悩、悩み苦しみの深さは、想像するに容易でない。後半、一郎の親友H氏の手紙報告を通じて、一郎の苦悩がさらに詳らかにされる。なのだが、それでも、一郎の悩み苦しみは輪郭がはっきりしなかった。

    「肥大した近代知識人の我(自我)」(解説)だという。また、一郎自身の言葉によれば、
    「人間の不安は科学の発展から来る。僕は人間全体の不安を、自分1人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している。」という。
    また、兄さんは「全く多知多解が煩をなしたのだ」、ともある。
    長兄、一郎は、自分の智慧に苦しみ抜いているのだ。
    苦しみの外皮、現れ方はわかるのだが、懊悩の核心はいまひとつ不明瞭のまま読了した。

    後半部はH氏の手紙を通して、一郎の悩み苦しみについて、綿々と書き連ねられる。心理の叙述、論理的対話の応酬が、濃密に積み重ねられ、息が詰まるような思いがした。

    以下余談。
    和歌山の嵐の夜、嫂と2人きりで宿を共にする二郎。
    停電で真暗闇の部屋、衣ずれの音だけが間近から届き、
    嫂が着物を着替えていることを察する。
    独特のエロチシズムが立ち上がる場面であった。

    息苦しいような叙述が続く長編のなかで、この嵐の夜は、ドラマチックな場面として、際立っている。

  • 「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

    漱石の作品にはありがちだが、これも前半はなかなか話が先に進まず、引っ張って引っ張って後半に続いていくタイプの小説。「結論を先延ばしにして読者の興味を引き付ける手法」とも評されるが、せっかちな人は途中で嫌になるかも知れない。けれど、話の全体像がぼんやり見え始めてからはどんどん引き込まれるはず。

    自分が初めてこの作品を読んだのは高校の時だった。今もそうだけれど、当時は本当に主人公の一郎(兄)に共感したものだ。 自分の日頃考えているようなことを的確に代弁してくれていたから。

    こんなことを言うと、「中二病」とか「思春期」なんていう言葉であっさり片付けられてしまいそうだが、その頃は冒頭にかかげた一郎のセリフのような考えを本気でもっていた。だから、同じ意味での孤独に苦しむ一郎には、生まれて初めて自分と同じ生き物を見つけたような親しさを感じられた。その親しさはとりもなおさず作者・漱石に対する親近感でもある。一郎の苦しみは作者自身の苦しみだったのだから。

    最近この作品についていくつかの評論を読んでみたが、そのどれもが作品の主題を「妻を信じられない夫・一郎の苦しみ」としていることに驚いた。自分自身、上記のような共感もあって「知の苦しみ」こそが主題に他ならないと思っていた。『行人』は、途中でいったん執筆を中止して、最終章「塵労」を後から付け加えた作品。だから、途中で主題が変わってしまっている失敗作と言われることもある。けれど、本当にそうなのだろうか。最終章で一気に語られる一郎の「知の苦しみ」が根幹にあって、作品の最初から最後までを一貫してつらぬいているのではないか。妻を信じられないという問題はそこから派生する枝葉にすぎないのでは。

    同じ作者の『彼岸過迄』のようにいくつかの短編をまとめて一つの作品にしている、とも言われるが、それも疑問だ。むしろ各章の話が一直線に「塵労」での一郎の告白へと流れ込んでいるように思われる。

    一番不思議に思うのは、たくさんある批評文の中で最終章「塵労」について詳しく語っているものがあまり見られないこと。この「塵労」こそ漱石の思想が最も現れている部分で、重視しなければいけない部分ではないだろうか。むしろこの部分は、作者の思いを入れすぎてしまったと言える位かもしれない。『行人』という作品を読みとくに、この章を無視しては全く軽いものになってしまうだろう。この章があってこそ、『行人』は、何年たっても頭の中にこびりついてことあるごとに思い出される作品となりうるのだから。

    いろいろと議論の多い作品だけれども、対象としては大学生が読むと思う所の多い作品だと思う。あるいは彼氏・夫が自分にかまってくれないという女性が読んでもいいかもしれない。

  • 「こころ」と同様、最後は不自然なくらい厚い手紙を主人公が受け取り、
    その中身を長々と綴って物語は終わる。
    「行人」は「こころ」の前作であるから、同じ手法を連続で用いて
    幕引きを行ったことになる。漱石にマンネリがあったとは考えにくい。
    一体、そこにはどのような理由があったのだろうか。

    また、登場人物が精神異常になる展開は漱石にとって珍しい。
    ある意味、自殺よりも衝撃的な顛末である。

  • 「死ぬか気違うか、そうでなければ宗教に入るか」

    学問をやりすぎたために、人を信じられず、妻さえも自分を愛していないのでは無いかと疑い出した一郎。
    その弟の二郎は兄や友人、下女など様々な人の使いとして結婚とは何か、愛とは何かの現実を見る。そんななか、どうしようもないほどに精神衰弱な兄の影響を受け、二郎も結婚について疑問を抱き始める。

    この作品の底にあるテーマは結婚に関すること、人を信じること。明治以前の家が関わる旧式の結婚制度、恋愛結婚などなど様々な形で夫婦になり、こどもが生まれ、年をとる。
    そうした、夫婦間の関係について、疑問を投げかける作品です。

    漱石作品として相変わらず、登場人物に起こる出来事に方を付けないで終わりますが、ストーリーとしてもなかなか面白い。一郎の精神衰弱ぶりには辟易する人もいるかも知れませんが、頭の良い人特有の悩みに共感を覚える人も少なくないはずです。


    胃を痛め精神を病みながら漱石が書いただけあり、彼の作品の中でもなかなかの読み応えでした。

  • 2011.08.14.読了

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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