- Amazon.co.jp ・本 (431ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003101100
感想・レビュー・書評
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後期三部作『彼岸過迄』と『こころ』の間を埋めるニ作目。
『行人(こうじん)』は、道を行く人=旅人という意味。読み終わってみると、物語の終盤を暗示しているタイトルかな。
前作『彼岸過迄』同様に、「友達」「兄」「帰ってから」「塵労(じんろう)」の四篇から構成されていますが、「帰ってから」と最後の「塵労」との間が半年近く空いています。これは、胃潰瘍の再発のせいですが、中断する前後で話しの構成が変化しています。語り手が変わるところなどは、後の『こころ』に繋がるプロットが、この『行人』で試みられたのかなと思いました。
内容は、語り手である次男が、兄から「はたして妻はじぶんを愛しているのだろうか」という疑問を投げかけられたことから、本筋が動き出します。
そんな事には頓着しない嫂のクールなところが、激しやすい兄と真逆ゆえに、話しがもつれながら進んでいきます。
終盤には、禅問答の『無門関』第二十三則が後半に出てくるなど、頭が良すぎる兄の苦悩が描かれて、はっきりとした結末が示されないまま、静かに幕を閉じます。ただ、どうにもならない結末ともいえ、これで良かったのかもと思いました。
余談ですが、読書家の坂本龍一さんが、亡くなる数年前に読んでいた本に『行人』が入っていたとのこと。『無門関』も読まれていたようです(『婦人画報』2023年11月号の巻頭特集記事)。
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本当は裏でこう思っているのではないか。そう疑い始めたら、人付き合いは苦しくて仕方ない。普段そういうことを考えない習慣を自然と身に付けているんだろう。一郎のように突き詰めたいという衝動とそれに向かって行けば行くほど幸福から遠ざかる。ではどこまで妥協すればいいのか。どこまで見て見ぬ振り、意識的な「思い込み」をすればいいのかー。そういう煩悶を共感してくれる者もいない。ただ、三沢という受け止めてくれる人がいてくれたことが、ものすごく救いになってるように思えた。
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弟の二郎と妻お直との仲を疑う、学者である兄の一郎の苦悩を綴った作品。
高校時代の国語教師は「漱石は女を不可解な存在と感じていた」と論じたのを覚えている。
本作や「彼岸過迄」を読むと、漱石が「不可解」だったのはおそらく、女のみならず全ての他者、特に、最も近しいはずの身内ですら、その「不可解」の対象だったのではないかとすら感じる。
他の方のレビューに目を通すと、その感想には、概して一郎へ共感したかどうかの分かれ目があるように思える。
だがそれは、他の方々が一郎へ共感したかどうかを重要視したのではなく、個人的には、はたして他人は一郎のような苦悩を抱えたことがあるのかどうか、が気にかかったのだ。
正直に記せば、子どものころからぼんやりと、大人となったいまではより明確に、本作の一郎や「彼岸過迄」の須永のような苦悩を感じることがたびたびある。
ただ、その苦悩の原因はおそらく、他人に受け入れてもらえないということではなく、他人を受け入れない性質のせいか、どこか他人も自らを受け入れないのではないかという懐疑を基にしているではないかと、最近つくづく思う。
本作や他の漱石作品から感じられるのは、自らと同様に、彼自身もそのような苦痛を抱えていたんだろうということ。
そしてそれは、「近代人の苦悩」と簡単な言葉で片付けられるほどではなく、彼自身とともに自らもいまだ苛まれている重要な命題なのだと思う。
また、自分自身にとっては、明治の世から自らと同じ悩みにとらわれている人間がいたことを慰みとするわけでもなく、結局、これから先も、この苦悩を抱えていくしかないことに気づかされたに過ぎないのかもしれない。
10年以上前、学生のころ読んだのだが、最近、青空文庫のものを再読した。
なので本来は再読かもしれないが、以前読破してからだいぶ月日が経つので、改めてこちらに感想を記した。 -
終盤に急にやる気を出した感じ。
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漱石が好んで描く夫婦のいろいろが、今作も明瞭に出ているなー。最後には夫婦に収まらず、自分と他人、自分の考えている真実と、自分が感じる真実の間で悩み苦しむ一郎を、丁寧に描いている。
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漱石の最高傑作だと思います。高く行くほど、次第に狂気じみていくのが人間なのだと思います。
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p.1990/5/3
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後期三部作の2作目。
後期三部作は話としてつながるように意図された作品ではなく、各作品で方向性は違うのですが共通のテーマを持った作品となっています。
彼岸過迄では、須永がその気もない女性であるはずの千代子に縁談が上がるや否や嫉妬の炎に身を燃やすというエゴイズムと、そんな己の感情に苦しめられる様が描かれていましたが、本作においても自分と外界のギャップを許容できず苦しむ男が描かれています。
彼岸過迄では須永がコントロールできない感情からエゴにまみれた嫉妬をしてしまう話でしたが、本作は彼岸過迄よりテーマとしてはもう少し昇華していると感じました。
主人公の兄・長野一郎は学者で、何事も深く考える性質があり、聡明さ故に不器用で、頭ではわかっているが受け入れることができない、現代においても持ちうる悩みを持っています。
考えさせられると同時にまた、自分は他者とは異なるという当然の事実を再認識させられるような作品でした。
内容は4つの短編に別れています。
彼岸過迄とは違い、各短編によって主人公が異なるということはなく、主人公は同一です。
ただ、実際的には長野一郎に関する物語であり、主人公である長野二郎は狂言回し的なポジションとなっています。
一章では、「長野二郎」が友人の三沢と落ち合う約束をし、大阪を訪れる。親戚の岡田の元に身を寄せて三沢を待つのですが、なかなか連絡が来ない、そんなある日、三沢が大阪の病院に入院しているという手紙を受け取るという話。
一章は導入としてのようなストーリーで、二章より長野一郎が登場します。
二章は長野二郎とその兄「長野一郎」、二人の母、そして嫂の「直」が大阪に訪れる。自分に対する態度とは違い、二郎に親しげな直を信用できない一郎は、二郎に直と二人で一泊して貞操を試してほしいと頼むという話。
以降は一郎がメインキャラとして描かれており、一郎の性質、苦悩にスポットされた展開となっています。
感情の起伏が比較的激しい一郎と異なり、嫂の直はクールなキャラクターとして描かれていて、二郎もまた感情を読みにくい彼女に翻弄されるのですが、個人的にはそこが楽しかったです。
直はクールですが傲慢さはなく、神秘性の高い女性として描かれており、私的には、恐らく夏目先生も予期しなかった艶っぽさのようなものを感じました。
一郎は端的にいうと面倒な性格で、人が感じていながらもうまくやっていく部分を許容できずに狂ってしまうのですが、本作中にはそのアンサーのようなものはなく、物語は静かに終幕します。
結局のところその問に答えはなく、深く考えることをどこかで放棄するしかないのですが、その終わらない問を投げかけてくるような作品でした。 -
著者:夏目漱石(1867-1916、新宿区、小説家)