不如帰 (岩波文庫)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003101513

感想・レビュー・書評

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  • 候文の心地よさに酔いしれる。明治時代、1902年生まれの祖父にもらった手紙を思い出す。祖父の手紙は現代語であったが、候文のかおりがしていた。今は使われていない漢字で表現する情景や心情のきめ細やかさや美しさにもはっとする。読み進めるのに多少難はあるが、内容はまるで毎朝の連続テレビ小説を楽しみにするかのような、メロドラマ的なテンポ良い展開があって飽きない。
    一文を引いてみよう。
    「枕辺近き小鳥の声に呼び醒まされて、武男は眼を開きぬ。床の上より手を伸ばして、窓帷(まどかけ)引き退くれば、今向う山を離れし朝日花やかに玻璃窓(はりそう)にさし込みつ。山は朝露なお白けれど、秋の空はすでに蒼々と澄み渡りて、窓前一樹染むるが如く紅なる桜の梢を鮮やかに襯し出しぬ。梢に両三羽の小鳥あり、相語りつつ枝より枝に踊れるが、ふといい合わしたるように玻璃窓の内を覗き、半身を擡げたる武男と顔合わし、驚き起って飛び去りし羽風に、黄なる桜の一葉ぱらりと散りぬ。われを呼び醒ませし朝の使いは彼なりけるよと、武男は含笑み(ほほえみ)つつ、中略、朝静かにして、耳を擾わす(わずらわす)響(おと)なし。鶏鳴き、欸乃(ふなうた)遠く聞ゆ。」

  • なんと救われないことか…。
    浪子がひたすらに可哀想で不条理が過ぎる。
    逗子が舞台の一つとは知らなかった。
    文体は滑らか、綺麗、古典的。美しい文章という印象。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/701271

  • 片岡中将の娘、浪子は10歳で実母に死に別れ継母のもと辛抱と忍耐の日を送る。川島武男という好青年と縁付き伊香保で蕨摘みを楽しむ。幸せも束の間結核を患い、逗子で療養する。
    戦地に赴き留守がちな夫。義母と武男に横恋慕した山木豊を娘に持つ山木の策略で離縁されてしまう。
    父の深い愛や信心深い婦人の助けの甲斐もなく、失意のうちに儚い生を終えるのであった。

  • 明治を生きる夫婦の悲哀。時代に翻弄された男女の切なく悲しき物語。映画化すると、こんな感じのキャッチコピーになるだろうか。プロットを辿るとそんな感じだ。確かに読んでて涙溢れた。浪さんが自殺しようとするあたりとか小川さんの語りとか。
    深い考察は解説を読んでなるほど、と思った。あんなに深い読解力があれば楽しいだろうな。。

    もうおんななんぞにうまれはしない。。。
    この作品で最も有名な浪子の臨終間際のセリフ。
    自分の不幸が女に生まれてしまったことに起因することを嘆いての言葉。
    明治時代、お家の慣習が根強い男性中心の文化。
    浪子と離縁を薦める母に対して、武男が逆の立場(武男が結核)で向こうから離縁されては嫌だろうと問うも、母は男と女では違う、と。
    売り言葉に買いことば的な発言なのだろうが、一体何が違うのだろうか?女の親はそもそもそんなことはしないということ?それとも男が肺病だったら離縁されても問題ないということ?
    現代を生きる自分にとっては、なんて世界だ!?となるものの、数十年数百年後には当然に考えている今の常識が、なんて世界だって!?って思われるようなことがきっといっぱいあるんだろうな。

  •  1900(明治33)年刊。
     明治期の日本文学の名作としてよく知られた作品ながら、地の文が文語調であるために私は敬遠してこれまで読まなかったようだ。
     本作について、たぶん日本的な微妙な情緒のたゆたう芸術性の高いもの、と勝手に予想していたのだが、どうもそのニュアンスとは異なり、むしろ尾崎紅葉に近い、骨太なストーリー性の強い、ドラマチックな物語であった。
     文章はもちろん今風のものと比べれば、文語体なだけに格調は高いようだが、さほど「芸術的」とも思えなかった。当時の読者にとっては平易な文章だったのではないか。完了の助動詞「つ」がやたら出てくるのが気になった。ただの過去形で良さそうなのだが・・・・・・。
     本作のおおまかな筋は徳冨蘆花が人から聞いた話に由来するらしい。
     女主人公浪子は、新婚ホヤホヤで配偶者と相思相愛のアツアツな関係にあって幸福だったのが、結核に罹患したことから、結核は家族にうつるから家を滅ぼす、という考えにより、悪者の讒言にそそのかされた夫の母親に、夫の不在時に勝手に離縁させられ、どん底に落ちて病が嵩じ、やがて死んでゆく、という悲劇である。
     本作が明治期最大のベストセラーとなったのは、このようなメロドラマ的な大枠と、非常に分かりやすい(たぶんあまり深みの無い)心理描写とが相まって、多くの人びとの感涙を誘ったのだろう。
     何と、数カ国語に訳されたらしい。が、海外での評価は結局どうであったのだろうか。本人たちの、独立した個人としての意志の自由を否定して、当時の家族制度の頑迷さに甘んじ、どんなに辛くても「仕方がない」となってしまう、あまりにも日本人的な不自由さは、欧米人に理解されたのだろうか。
     あまりにも類型的な悪者が登場するなど非近代的な面もあったが、まあ、江戸の読本や坪内逍遙の『当世書生気質』(1885)に比べればはるかに写実的で近代小説らしくはあるし、とりあえず印象深い物語ではあった。
     ただ、やはり芸術性ということで言うなら徳田秋声『あらくれ』(1915)のような情緒には劣っている(このコンポジションを欠いたような小説を日本的な美の良さと捉えるならば)と感じる。
     本作の良さはほどよい通俗性・感傷性が多くの一般読者を魅了したことにみられるような「わかりやすさ」の点だろう。
     ちなみに、この文庫本の巻末には作者の略年譜が載っている。カトリック信者だったようだが、1919(大正8)年に妻の愛子とともに「第二のアダムとイブであるとの自覚を得、新紀元第1年を宣言して世界一周の旅に出る」との記述がある。何だそれは。もしかしてアブナイ人?との疑問が湧いた。

  • この時代の読んだことがある作家は↓彼らだということを覚えておきたい。
    1867年 夏目漱石
    1868年 徳冨蘆花
    1872年 徳田秋声

    柄谷行人の『倫理21』に、昔の人、同時代の人、未来の人、を他者と想定すると書いてあった。
    本を読むと、紀元前のプラトン、1867年の夏目漱石、1868年の徳冨蘆花など、遠い昔の人を感じることができる。
    遠い昔の人の中で、”その人“を感じられるのは、ほんの一握りの高等教育を受けた優秀な人のみだ。
    少し昔の人では、遠い昔の人ほど選りすぐりではなく、音が残っていれば歌手が、映像が残っていればパフォーマンスする歌手や講演をする学者が、文章を書く教育が広く行き届いたことで増えた書き手、他者の多様性が増える。
    同時代の他者は、昔の他者のように一握りの人ではなく、学校で親しくなった友達や、先生や、職場の人や、アーティストや学者、sns普及による会ったこともない人々の日記や意見。
    未来の人については、よく分からない。
    書物を読む事で遠い昔の人の事を想っている時間が
    かなり多い。

    姑がどんな人物かを紹介したのところまで読んだあたりで、この本に関係なく心身乱れてこういう小説を読む気になれない。
    ずっと前から知っていたアオイヤマダのinstagramを見返して光の見えないどこにも行く道がないような心がだんだん明るくなりかけて、vogue danceを練習し始めて、身体も元気になりかけた。
    私の心を明るくさせたのは、アオイヤマダが旅先のオブジェや切り株の上や公園の遊具や電車の中でアコーディオンを演奏する男の子や交通整理の蛍光色の人や畑仕事をするおじさんや自分の祖母と餅つきしたり弟の勉強の邪魔をしたりしながら、そうしてモノや状況や人と関係してダンスする表現に惹かれたからだ。
    彼女の表現は、型を覚えていくダンススクールのダンスでもなく、アイドルダンスでもなければ、観客と交流しないダンスでもない。
    何か一つの憧れの存在に憧れて、多くの人が競い合うものが多い中で、そうではないやり方で、素敵な人になっている。
    既にある道をなぞらず、本当に開拓したような、それでいて開拓を誇らない。
    ダンスと生活が共存している。
    いろいろ書いたが、インタビューも読みすごくグッときた。
    今、私は、読書は小説ではなく植物の専門書のようなものを読んだほうがいいと思う。
    アオイヤマダはダンスと畑や料理やダンスや旅先の風景と関係を持ったことに面白みがあったから、私も植物をもっと掘り下げてみようと思った。
    そして、散歩とダンスの練習。
    以上のような心境により、この本は返却してしまった。
    少し落ち着いた頃にまた会おう蘆花!
    昔の人でも、人間の描写は時代に関係ないのだなと思う描写があった。
    子供が父親の部屋に遊びに来るシーン。


    【捷径】しょうけい
    早道、近道
    転じて、ある物事に通達する、手っ取り早い方法。

    【婀娜めく】あだ
    女がなまめかしく色っぽく見える。色めいた感じを与える。

    【轡】くつわ
    《口輪の意》手綱 (たづな) をつけるため、馬の口にかませる金具。

    【日傭取り】ひよう
    日雇いで働くこと。また、その人。

    【落款】らっかん
    書画が完成したとき、作者が署名し、または押印すること。また、その署名や印。

    【莞爾】かんじ
    にっこりと笑うさま。ほほえむさま。

  • 明治時代の人権意識、こんなに低かったのか。あ然とするばかり。

  • 浪子さんと同じ歳の時に読んでほろりと涙が出た。蘆花自身が言うように王道かつドラマチックだが、だからこそ後世に残る作品となったと思う。

  • ●幸にして純粋な愛情を分かち合った武男と浪子。武男の母親や従兄弟らが勝手に膨らました嫉妬や私利私欲が、時の家族制度と世間体、仕事や戦争などに乗っかり、二人の間は意思とは反対に引き裂かれてしまう。武男は結核を理由に浪子との離縁を推し進めた母親に異議を唱えるも、その行動自体は、親と仕事への忠義を、妻への愛より優先させたことになる。外界なる家・親・仕事と、個人の意思とのパワーバランスが、この小説ではテーマの一つなのだろう。時代は令和となり、明治より多少は個人を優先できる世の中になってきているようだが、まだまだ滅私他者優先が盤石な時代であることは否めない。否、意思を主張する自由と術とは別もので、相変わらず後者を持たぬ持たせぬ本質的な奴隷制度から抜け出せないことへのねじれ歪みは、また別の問題を引き起こし、マグマ塊のようにいびつなモノに姿を変えた自己表現がエスケープ先を求めている。抜けたい、抜け出せないジレンマを認知しつつも、旧態依然を続ける優柔不断で無気力な時代へのアンチテーゼである。
    ●文語体の文章を久しぶりに読んだが、滋養高き十穀米のように歯応えがあり、読後に残る質感がいい。

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