北村透谷選集 (岩波文庫 緑 16-1)

著者 :
制作 : 勝本 清一郎 
  • 岩波書店
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レビュー : 4
  • Amazon.co.jp ・本 (413ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003101612

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  • この人になりたい。本気でそう思った。羨望と嫉妬の入り混じった、あの不遜な憧憬ではなかった。まして私淑などと呼ばれる慎ましやかなものでも決してない。それはもっと熾烈で、過激で、生々しい必然性に満ちた慾望だった。僕は北村透谷に、彼自身になりたかった。

    そこには全てが在った。薄く活字の浮いた紙の面に文藝の奥義を感じた。求めていたものの正体を見た。為すべきことを知り、成るべきものに触れた。最も完全で最も純粋な日本語の響きを、宇宙の中心に懸る大琴の、その荘厳な鳴動を聴いている、そんな思いがした。

    全ての秩序が風情を纏い、調和に漲っていた。漢語の配列、音素の並び、押韻の呼吸や全体の構成に至る全てが正しく配慮され、この上なく精密に作用していた。思索と想像が協奏し、様々な観念が輻輳しながら構築する感覚世界は、まさに洗練の極みである。

    美しかった。文藝的技巧の極北。文章表現の究極。僕にとって彼の存在は、そんな、ある種超越的な意味をもった。以来、透谷の様に書くことこそ、文章の上達に於ける最大の指標となった。透谷への接近こそが、むしろそれだけが、僕が何かを書く意味であった。

    北村透谷という名の何が、当時の僕をそれほどまでに苛烈な衝動に駆り立てたのか。これは一つの謎であった。とにかく夢中で彼を追い、彼の背中に全てを見ていた18歳の僕の中には、そんな俯瞰的な問いが生じる余地は微塵もなかった。しかし今であれば、ある程度の忖度も許されるだろう。きっと、僕は焦っていたのだ。透谷を追う以上に、透谷に追われていたのだ。透谷の、その終焉に、その死に、追われていたのだ。

    思想家・詩人の北村透谷は、25歳でこの世を去った。東京は芝公園。自殺だったという。動機には諸説あるが、自身が信念とする絶対的な平和主義と、時勢に支配的であった帝国主義との対立に葛藤した末の選択である、といった見解が有力とされている。

    俄に信じ難いことだった。最初、その事実を、それが示す意味を理解出来なかった。即ち、あの恬淡たる円熟の境地を、彼は20代で切り拓いたのだ。稲妻に撃たれたような思いがした。『万物の声と詩人』の、『思想の聖殿』の、遥かに霞み揺れる幽玄の聖域に、彼は、透谷は、一人の青年として至ったのである。『頑執妄排の弊』に見られる、壮大にしてどこまでも流麗な文藝の典雅が、透谷弱冠23歳での達成と思うと、やはり驚くべき、真に驚くべき天才である。

    僕を駆り立てた焦燥は、彼の余りにも早過ぎる死に多く依るものであることは間違いない。その若さは、当時の僕に自らの無力と非才を刻み込むに充分であった。浮き彫りにされた遠過ぎる距離を双眸に映して、僕は名状し難い昂揚に包まれ、その中で彼を、透谷を強烈に求めた。それは感銘や衝撃よりずっと強く、ずっと速い、端的な慾望であった。

    今尚、僕は彼の圧倒的な影響力の下に文章を書いている。彼の日本語の力を、人に筆を執らせ、ものを書かせ、世界を考えさせる力を、僕は深く信じる。そしてその熱は、その迸る英気は、やがて多くの志を運ぶだろう。

    北村透谷を読むことは、近代文語文の或る結実を、それ自体として経験することだ。それは日本語圏の人間にとって間違いなく豊かな充実であろう。しかし、彼がその格調高い語りを巧みに操って描いたのは、自身の思索であるはずだ。彼が抱いた気高く麗しい志をこそ、我々は知らなくてはならない。彼を殺した信念の有様をもまた、知らなくてはならない。それは、彼を読むことでしか、彼が遺した言葉の中にしか探すことは出来ない。だから、とにかく読んで欲しい。そして確信して欲しい。天才はいる、ということを。

  • @fiderio さん

    新年一冊目は岩波文庫の北村透谷選集です。みみずのうたが妙にしっくりきました。

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