破戒 (岩波文庫 緑 23-2)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (460ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003102329

感想・レビュー・書評

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  • これからは四民平等の時代ですよ、と言われても、差別が急になくなるわけじゃない。
    車が急に止まれないのと一緒で、世の中の人の考え方も急には変われないのだな、と感じた作品。
    主人公の心の葛藤と話の終盤にやりきれない気持ちになった。

  • 破戒 のように、タイトルから何がおこるのかが分かっていて、それに向かって今か今かと思いながら進む話は、独特に好きです。
    (タイトルからではないけれど、「春琴抄」や「金閣寺」のように何がおこるのかが有名で既に知っているものとか。)
    あとは松本清張「砂の器」を連想しました。(読んだことがある人には分かるとおもう)

    主題がとても興味深い。"破戒"の直前の気迫に満ちた雰囲気なども、とても良かったのですが、結末はすこし物足りなく感じた。
    島崎藤村、文章や雰囲気は嫌いじゃないのでまた他のものを読んでみたいです。

  • 途中まで。
    図書館の期限切れにより返却。
    思ったより興味深い、被差別部落出身者の述懐。
    通読したい。

  • 部落問題を扱った小説。
    作者は、人間は平等だという前提でこれを書いた。
    けれど解説にある通り、その根拠が小説中に示されない。
    だから、差別を考える際の根本的な問題「人間は本当に平等か?」という問いには踏み込めていない。問題提起で止まっている。しかも、その根拠を示していないのだから議論で言ったら、文句を言うだけのクレーマーの位置にあたる。

    また、第一章の(三)では、主人公の出自について、外国からの帰化人ではない旨が書いてある。つまり、主人公は穢多として差別される対象でありながら、ナショナリズムによって異邦人を差別する主体でもあったということだ。
    作中では、それは具体的な形では描かれないが作者の念頭にこの差別意識があったのは確かだと思う。

    そしてまた、幾分ご都合主義に思われる点もある。お志保が主人公に好意を持つのは、どうなんだろう。
    そういうこともありえるだろうけど、差別する側にまわることも同じ位の確率でありえると思う。


    と、まあ問題点は沢山あるけれど、読んでいて面白い小説だと思った。根本的には主人公の問題は解決しないが、胸のうちは晴れるから、何とか落ちはついている。読後感は悪くなかった。主人公が真面目だからだろう。

  • のんびりとした自然描写に反して、丑松の心理描写は非常にスリリング。その二つの調和が絶妙。ただ、丑松が部落出身であることを「謝罪」するような展開には疑問を覚えた。

  • 校長


  • 「まだあげ初めし前髪の
     林檎のもとに見えしとき
     前にさしたる花櫛の
     花ある君と思ひけり」



    藤村、と言えばこの詩である。
    初々しい鮮やかな色彩が浮かぶ、控えめなしかし美しい詩である。
    藤村は芸術を求めそれに酔うのではなく、身近にあるもののありのままの美しさを表現する力を持った人だと思う。
    詩人で作家という道筋は文人に多い流れで、かつてヘッセは私にとって詩人であったが、それが彼の著書を読んだことによってがらりと衣替えをしてくれた。
    それに習い、日本人で挑んでみようと思った。
    と言うことでの島崎藤村の『破壊』。
    本当はそれだけが理由ではなくて、こういう定番的な作品は読まなければいけないという意識が私は強い。
    便覧には必ず名前があり、誰もが知っている名著たち。
    本好きならやはりそれを体感しないわけにはいかない。
    だから、”いつか読もうと思っていた”のだ。
    それが行動に移ったのは「赤と黒」で人間に存在する階級的な柵を明示されて、興味が呼び起こされたから。
    つくづく本というのは珠玉つなぎである。



    部落育ちの青年が己のその素性と葛藤する物語。
    ここで描かれるのは、「差別」である。
    現代の、それも都会で生活を送る私にとって、「差別」というのはそれも先天的な生まれによって被る差別というのはとても遠いもののように思えてしまう。
    だからこそ、この本に私は衝撃を受けた。
    この中では主題であるからこそ、「差別」という存在をひとつの要因ではなくて物語の流れの要として大きく描いている。
    現在の私たちにとっては差別的な思考は公言することもはばかられるような一種のタブーとなっている。
    しかしながら、この時代にとってはそういう存在は”当然”なのだ。
    それを抱くこと自体に”悪”と言う要素すらない。
    だから容赦がない。
    けして、細部にまで執拗に描いている生々しさはなく、誇張も比喩もないあっさりとした丁寧な文を藤村は書く。
    それはとても穏やかで、薄いフィルターを通してその現場に居合わせたかのような感じをこちらに与える
    が、それだけにすうっと入り込んでくる現実感がある。
    いわれのないがゆえにその偏見を解くのは重い。
    そして”差別”が悪であると下地から耕さなければいけないというのは私にとって驚くべきものだ。
    今こそ、それは初歩的な考えだが、それすらこうして歩まなければ生まれない思想だったのだ。
    当然と言えば当然だが、社会の成熟が自分の身にもすでに無意識にしみこんでいると思えば感慨深い部分もあるものだ。
    主人公はその差別にひたすら苦悩し、ほんとに情けないぐらいに悩み、みもだえ苦しみ、おびえる。
    「ぼっちゃん」の主人公と比較すると、とても同時代の物とは思えないぐらいで、正直、人によっては丑松にいらだちを感じることもあるだろうが、それこそ現実感なのではないだろうか、と私は感じた。
    後書きで野間宏は、
    「人間の平等を説く小説としては丑松は逃げるのではなく戦うべきであった。
    そして、丑松や猪子はその差別と戦う存在としては己の生まれを卑下しすぎである。」
    と書いているが、私はそれに疑問を持った。
    本当にそういう立場にさらされた存在にとってはその苦しみは絶対になる。
    それは時代をしても言えるだろう。
    彼らが己が卑しい存在であると認識するのは、現実の深さを持たせると思う。
    差別をうち破るヒーロイズムは物語の美化にしか他ならないのではないだろうか。


    『破壊−
    なんという悲しい。壮しい思想だろう。』


    人はそこまで強いのだろうか、
    ”人間は平等である。”
    それはそうだ、区別はあるが差別はあってはならない。
    でもそれはされない存在である私たちが持つことのできる認識であって、それにさらされる存在にとってその恐怖は本当に重い。
    これが現実を知る藤村の限界だったのではないだろうか。
    先ほどとは逆説的になるかもしれないが、包み隠されたとはいえ「差別」は撲滅されていないのだから。



    重い題材の中に、物語のおもしろさをしっかりと持った物語だと思う。
    イメージは湿っぽい退屈な共感をたれる物語、であったが、いざ触れてみると、社会と人の心理を程良く組み込んだバランスの良い物語だと思う。
    読んでよかった、しかし重い、めんどくさいとかではなくて、
    題材がね。


  • 中盤以降がなんだかな。

  • こんな時代があったんだ・・

  • 明治期の部落差別とはどういうものだったのか、と肌で感じるにはいい本かと。随所で違和感はあるが、まあ時代が時代だし仕方ない面もあるのかな(解説で「藤村の限界」といっていたのはその通りとは思うが)。

著者プロフィール

1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。本名島崎春樹(しまざきはるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。明治学院普通科卒業。卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。『一葉舟』『夏草』と続刊。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。日本の自然主義文学を代表する作家となる。

「2023年 『女声合唱とピアノのための 銀の笛 みどりの月影』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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