破戒 (岩波文庫 緑 23-2)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (460ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003102329

作品紹介・あらすじ

新しい思想を持ち、人間主義の教育によって不合理な社会を変えて行こうとする被差別部落出身の小学校教師瀬川丑松は、ついに父の戒めを破って自らの出自を告白する。丑松の烈しい苦悩を通して、藤村は四民平等は名目だけの明治文明に鋭く迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 穢多の存在は知っていたが、差別の中身については初めて知った。穢多であると告白するかしないか、それは自分とは何者なのかを告白することである。主人公がぐるぐる考え続ける薄暗い作品だった。

  • 勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言うのだね。は丶丶丶丶。僕は今まで、君もあの先生も、同じ人間だとばかり思っていた。

    丑松のこのセリフ。ダイレクトで強烈なメッセージだ。生い立ち、身分、性別、老若、貧富、障害の有無。
    全ての差別(差別意識)が馬鹿らしく思えて来る。
    人としての根幹を問われた気がした。
    そして、この差別社会の中で、ひたすら周囲に出生を隠し、自身までをも欺き通す苦悩。
    丑松自身、清廉であるが故にこの苦しみは耐え難かっただろう。終盤、彼のこぼした涙が胸を抉る様だった。

  • 恥ずかしいことに、この小説を初めて読んだ。
    私はとても良い作品を読めたと感じた。
    まず、山々や、山間の村の様子など、自然や風景の描写が美しかった。島崎藤村はやはり詩人でもあるのだと感じる。むしろ登場する人々やその内面の表現よりも、丑松が故郷への旅をする場面や、いよいよ告白をする直前、雪の飯山の町の光景などが、私には美しく表現されていると思われた。
    それは藤村自身が、信州の風景を、深い山と雪の風景を愛しているからではないだろうかと思う。また、作品の中には、「北信州の人は…」という言い回しも多用される。彼は地元の人々の人となりにも愛着を感じていないはずがない。私は信州ではないが、地理的には近く、連峰を常に眺めながら育ったという点では、どちらかというと藤村に共感できるように思った。つまり、読んでいて自分自身、故郷とその山々、家族が思い出され、心動かされた。
    次に、丑松の苦悩する様子も、こちらまで苦しくなってくるような心持がするほど、心に迫ってくるものがあった。実際、読んでいる途中、夜中に苦しい悪夢を見たが、どうも本書に関係しているようだった。。
    巻末の野間宏の解説では、本書の欠点として、部落の問題を本質的に解決できていないことや、藤村が丑松に自身の内面を投影したに過ぎないと述べている。確かに、その通りであると思う。丑松は、なぜ謝る必要があったのかと私も疑問に思ったし、最後の場面も、単に都合主義的に国外へ逃れることで問題に向き合っていないようにも思う。
    ただ、確かに、部落問題という重要な具体的なテーマを仮託するにはこの小説が機能不全だったとしても、例えば、丑松が被差別部落民だったというのは、ある一つの場合であり、例であって、例えば別のものであってもいいのではないかとも考えてみた。今から見れば全く狂気としか思えないような偏見で、不当に差別を受け、それが当たり前の状況になっている社会。現代では、何が被差別の対象になるかは、ネットがあるのでころころ変わるが、カミングアウトの内容はそれこそLGBTに関連することでもいい。それに置き換えて考えてみても、言わない方が波風を立てずにうまくやっていける可能性も高い。それでも・・と苦悩する様は、明治のころから、この小説と大きく枠組み自体は変わっていないと考えさせられるようにも思った。現代から見て本書は、そういう読み方もできるのではないかとも思った。

    (思うだけなら人には自由がある(ただそれを、発信?してはいけない?)。
    だからこのブクログの記事は、もともと、自分の記録用と断っている。)

    確かに、根本的な具体の問題解決にはなっていないが、そこまでをこの小説で求めるというのもなかなか厳しいのではないかとも思う。
    また、丑松が作者の内面をただ投影しているにしても、それであっても、私は例えば、猪子先生に告白をしようとして、できずにいたり、著作を処分してしまうような様子に、共感できるような場面は、誰しもにあるのではないかとも思う。

  • 破戒
    (和書)2009年02月12日 21:00
    2002 岩波書店 島崎 藤村


    以前から読もうと思っていて、でもなんだか怖く難解な本ではないかと思いながらなかなか読まずにいました。思っていたより読み易く内容的にも怖い話ではなかった。

    「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅おうと決してそれとは自白けるな、一旦の憤怒悲哀にこの戒め忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え。」

    この戒めを破ることを「破戒」といっている。主人公、丑松が破戒を決意し実践する場面では読んでいて目に涙を浮かべてしまいました。

    ただ文学としてそれが思想・世界思想・文学として成立するには宗教の批判(マルクス)というものが必要になると思うのでこの階級闘争には普遍性があるのだろうと思う。大西巨人の作品にもこれらを扱った作品があったしこの作品に触れたものもあったと記憶している。なかなか読まずにいたので読み終わってすっきりしました。

  • 穢多の差別をテーマにしているわりに、「信州の女は皆気丈だ」みたいな文章を平気で書く。ポジティブなバイアスは問題視されない時代

  • 実は読んだことがなかった作品。

    主人公が先輩と仰ぐ人が高柳に対していう言葉に「あれ?」と思い「なんでテキサスに行くわけ!?」と思ったのだが、解説によるとなるほどそこが本作品の弱点であるのだと。

    とはいえ、「真に近代日本文学史上最高の記念碑」、その通りだと思う。

  •  なんという苦悩だろうか。自分では選べない出自によって、人並みの生活が送れないほどの差別を必然的に受けることになるとは。

     主人公は瀬川丑松、24歳、信州で小学校教師をしています。父親から「隠せ」と厳しく戒められてきたとおり、自分が被差別部落出身の穢多であることをひた隠しにしています。

     入院していた病院で穢多であることが広まり追い出され、戻された下宿でも「不浄だ」と罵られ追い出される富豪の大日向や、「我は穢多なり」の一文で始まる『懺悔録』を書いた著述家猪子蓮太郎といった人々を目の当たりにし、丑松は〈同じ人間でありながら、自分らばかりそんなに軽蔑される道理がない、という烈しい意気込を持〉ちつつも、友人知人、恋心を抱く相手や、慕ってくる生徒たちのことを思うと、自分が穢多であるとは言えず、苦しみは増すばかり。

     信州の長く厳しい冬の描写が、丑松の不安に同調し、読んでいる者の心も鬱々とさせます。しかし、ある出来事をきっかけに丑松が目覚めてからは、なんとまあハッキリしっかりくっきり、冬の朝日のまぶしいこと。

     ラストは、そう来ましたか藤村さん、という感じ。瀬川丑松の再スタートとして、新たな人生への旅立ちとして、素晴らしいラストだと思います。ただ個人的には、こうなって欲しかったな、こうなったところを見てみたかったな、という思いもあります。ま、想像と違っていたというか、想像を超えたラストだった、と書いておきましょう。

     全体的に文章のリズムが良くて、声に出して読みたくなりました。

     読書力養成読書、12冊目。

  • 予想以上に夢中になって読んでいた。えたひにん(漢字はあてたくない)に対する世間からの目を容赦なく描いていた。発表当時はかなりの問題作だったことは容易に考えられる。令和のこの時代であっても部落差別はなくなっていないけれど、差別の激しかった当時も丑松の教え子達やお志保のように身分に囚われない考え方をする人もいたのだと、希望を残した終わり方ではあったのかなと思った。

  • 世間が作り上げた軛があまりにも大きすぎて、自らもそれを打ち破れない。
    自分を認めるというそのことですら、自分の価値を認めるという意味とは全く違う。
    そして、その軛に苦しむ彼らですら、「女は」とまた別の差別を当然のように行う。
    それが当時の世間が作り上げた「普通」で、それから外れることは難しく、また考えもつかない事であった。
    今を生きる私たちは、それが軛であることも、普通ではないことも知っている。
    知っているが、ではその軛から完全に開放されたのかと言えばそうではない。
    昔話だと笑える時代にはなっていない。
    いつかこの小説が、時代背景の解説なしに読めないような時代が来るのであろうか。

  • 英語でniggerという言葉を読んでも、その言葉の持つインパクトは伝わってこないが、日本語では普通使われることない差別的な蔑称が堂々と出てくると、さすがにたじろいでしまう。アメリカ人がトムソーヤーとかハックルベリーフィンとか読むときに感じる、その中で使われている用語に対する抵抗感というのは、こんな感じなのかもしれない。

    日本の自然主義文学の先陣を切った作品として、この作品が日本文学史に占める位置は高く、誰でもその名前は知っている。
    知っているけれども、テーマが重たいので、これまで敬遠してきた。

    読んでみると、それほど難しい話ではなく、最初は単語にとまどうけれども、そんなに抵抗感なくすらすら読める。
    タイトルが戒めを破るという意味であるというのも、読んでみて初めて知った(なんとなく破壊だと思っていたた)。

    ただし、その限界は明確である。
    被差別部落出身の主人公を描く作家の姿勢は、差別がおかしいという批判はしていても中途半端で、しかたがないのだと半分以上肯定しているようにしかとれない。だからこそ最後の教室のシーンで、丑松が生徒に跪いて詫びるのだが、いくらなんでもあんまりだ。水平社宣言が出るのが1922年、それからわずか15年しか経ておらず、時代的な思想上の制約はあるとしても、その感覚は批判を免れない。

    島崎藤村は才能あふれる文学者であることは間違いないが、こうした題材をとりあげて、あえてこのような展開にしてしまうというのは、どこか欠落を感じさせる。われわれは作家に道徳家を求めているわけではなく、トルストイやドストエフスキーといった人々も別に人格者でもなんでもなく、個人生活ではかなり悪辣なところもあったはずだが、こと作品世界においては、人間の尊厳に対する感覚は信頼できる。そこのところが少し、いやずいぶん違うと思う。

  • "部落差別について、その不条理、心情、世間の風、などを知ることのできる小説。文学。
    生まれた場所で、村で差別をしていたこと。脈々と紡いだ歴史の中でそれが積み重ねられ、明治、大正、昭和にかけても名残があったことを知る。"

  • ただただ「根が深い」という感覚を覚えた。
    同和問題は西日本で主に語られる、という印象でいたが、舞台は長野である。

    主人公の瀬川丑松が段々と追い詰められる様は読み応えがあった。「川の向こう・・・」という表現が、本当に出てきた表現であり、戦後であれそれは存在した表現であるそうだ。
    そして、彼が独白するシーンの後、生徒が校長室に直談判をしにいく、その様も感動的であった。

    最終的に彼は厄介払いのように扱われてしまう。

    同和問題は今にも尾を引く問題である。大阪符豊中市の森友学園の場所は、関西では公然の秘密のように語られる場所であるそうだ。今後どうなっていくのか。問いかけられている気がした。

  • 被差別部落を出自に持つ瀬川丑松は、「たとえいかなる目を見ようと、決してそれは打ち明けるな」「隠せ」という父の戒を守り、師範校を卒業し小学教員となったが、同じく被差別部落出身の思想家猪子蓮太郎との出会い、厳格だった父の死、同僚の猜疑などから、ついに戒を破るという話。
    被差別部落、いわゆる穢多非人を題材とした話ですが、単純な「差別はいけない」という内容ではないです。
    社会問題を題材としていますが、作中にそのアンサーはなく、丑松はラストで自身が卑しい穢多であることを詫び、教師を辞職します。

    私自身出身が大阪のミナミ出身なため部落は大変身近な存在だったのですが、本作中の部落の人々の振舞には違和感を覚えました。
    それもそのはずで、調べたところ本作中の穢多は、仏教や神道を信奉してきた日本において忌み嫌われてきた鳥獣の血肉に携わる仕事、革製品であったり屠殺であったりを古くから生業としてきた人々で、限定された技術から保護されていた時代もあったが、いつの頃からか差別を受けてきたそうで、私の知る部落とは微妙にポジションが異なる様子です。
    もっとアウトローな話かと思ったのですが、そういうわけではなく、出自による謂れのない差別を受けている部落民の話でした。
    ただ、主人公は被差別部落の出身ですが、学問を立て、身分を隠しながらも教師という職について月給をいただいている身のため、作中に差別を受けながら生きる姿は無く、ただ戒を守りひた隠しに隠す話となっています。

    本作は日本の自然主義文学の走りというべき作品です。
    ある状況下に主人公を行動させてみてそれを写実する。自然科学的な考えから人間の思想が普遍的であるという証明を本作によって成そうとしたのですが、本作においては実はそれは失敗だったというのが、巻末解説の野間宏の言葉。
    本作が自然主義文学としてどうかという部分はさておき、本書の結末については人間のリアリティーを追求した結果として相違ないと私は思います。要するに、「人間は本質的に、周りが皆差別すると差別が当然と考える」と。
    不勉強ながらゾラもルソーも読んだことがないのですが、私的には自然主義文学としては本作のラストはまさに理にかなっているのではないかと思いました。

    文語体ではなくため、大変読みやすかったです。
    散々文語体を読んでいたので、言論一致体がこれほど読みやすいとはと感動しました。
    有名な作品なので、改版していくうちに修正が行われた結果ということもあるのでしょうが、今まで格闘してきた文語体の作品に比べると読みやすさは段違いでした。
    中学生くらいでも十分に読める内容だと思います。
    また、とても面白かったです。結構、長い作品なのですが、あっという間に読んでしまいました。
    単純に面白い小説が読みたいという人にもおすすめです。

  • 明治になっても差別は残っていた。
    長野の雪深い土地が舞台です。穢多であった主人公が素性を隠して生きてきたがひょんなことから噂が立ちました。でも、教えてきた教え子たちにはそんな事は関係ない。主人公は人柄が良い人だったのでしょう。

  • 穢多非人に対する日本内での人種差別の物語。日本には人種差別はもはや存在しないと考えたが、滅相もない。空気読むなど、周りの反応に合わせる日本人は実際見た目、内面が異なる人間を精神的に迫害することが今でも行われてるじゃないか!とハッと気付かされた。

  • 島崎藤村の『破戒』は明治39年(1906)刊行。

    士農工商の封建社会の身分制度が、「解放令」(1871)によって崩壊するかに見えた時代に書かれた作品で、自然主義文学の先駆と呼ばれる。しかし、この法令によってそれまでの身分社会が急速に変わることはなく、主人公の丑松をはじめとした苦しむ人々が登場する。結局、人の中に刷り込まれた差別意識は簡単に変わらない。
    自信が穢多であることを床に顔をつけて告白する丑松。彼が穢多であることと、彼自身の人物性との間に穢多であることがどう関係するというのか。事実、彼は学校では生徒から絶大な人望を寄せられている。銀之助、お志保など、彼の素性を知ってなお彼を支えようとする素晴らしい仲間に恵まれている。どこの生まれであるか、それだけで人物評価を下す、あまりに残酷な世の中にはぞっとさせられる。
    今日の社会はグローバル化を迎えた。どこの国の出身か、そのようなことで人を区別し判断する社会であっては、本当の自由で平等は社会の発展は望めない。

  • 旧字で書かれた古い文庫版で読みました。文章の美しさはさすが。内容も思ったよりずっと読みやすく、好きな西洋文学を読んでいる感覚でした。終盤の展開は、私はもっと悪い事態を予想していたので、救いのある展開にいくらか安堵しました。とはいえ、悲惨な話であることにかわりはありませんが…。

    この作品には、「差別の問題を取り上げているようでいて実は藤村自身の内面を描いているに過ぎない」という批判がある、という解説を読みましたが、「夜明け前」にも似たような批判があったような…。こうした批判の当否はともかく、社会の抱えた闇に切り込んでいこうとする藤村の姿勢には好感が持てました。

    差別の問題って根が深いですね。
    今も、この時代のようなあからさまな差別は減っているとは思いますが、無くなってはいないし、特定の出自の人間を差別する代わりに、いじめだったり、パワハラだったり、家庭内暴力だったり…。
    どうも人間は自分の属する社会において「自分より上の人間」「自分と同じ程度の人間」「自分より下の人間」を決めたがる傾向があるらしい。
    人間という社会的動物の闇の部分をまざまざと見せつけられたような気がして、何ともいえない気分になりました。
    一度は読んでおきたい名作だと思います。

  • これからは四民平等の時代ですよ、と言われても、差別が急になくなるわけじゃない。
    車が急に止まれないのと一緒で、世の中の人の考え方も急には変われないのだな、と感じた作品。
    主人公の心の葛藤と話の終盤にやりきれない気持ちになった。

  • 破戒 のように、タイトルから何がおこるのかが分かっていて、それに向かって今か今かと思いながら進む話は、独特に好きです。
    (タイトルからではないけれど、「春琴抄」や「金閣寺」のように何がおこるのかが有名で既に知っているものとか。)
    あとは松本清張「砂の器」を連想しました。(読んだことがある人には分かるとおもう)

    主題がとても興味深い。"破戒"の直前の気迫に満ちた雰囲気なども、とても良かったのですが、結末はすこし物足りなく感じた。
    島崎藤村、文章や雰囲気は嫌いじゃないのでまた他のものを読んでみたいです。

  • 読了までに時間を要した。考えながら、考えさせられながら一文一文を読んだ。これほどまでの『差別』を今の時代に経験する事はないかもしれないが、謂れ無い差別はなくなっていないのだ。人が人を蔑むその思いは、何故起こるのだろうか。

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著者プロフィール

1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。本名島崎春樹(しまざきはるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。明治学院普通科卒業。卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。『一葉舟』『夏草』と続刊。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。日本の自然主義文学を代表する作家となる。

「2023年 『女声合唱とピアノのための 銀の笛 みどりの月影』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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