カインの末裔/クララの出家 (岩波文庫 緑 36-4)

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  • Amazon.co.jp ・本 (104ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003103647

感想・レビュー・書評

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  • 「カインの末裔」
    北海道の農場で、小作人として働く男
    その名を仁右衛門という
    身体が大きく、また非常に乱暴で
    しかも何かと僻みがましい男だった
    なにかあったら平気で人のせいにして逆恨みするような奴だ
    農場の規則などまるっきり無視
    人の親身な忠告にも耳をかさない
    隣の女房と姦通する
    弱いものに八つ当たりもする
    まあ早い話、巨体まかせで生きてこれたために精神が未熟なのだ
    いつか自分の土地を持つ夢もあるが
    そんな調子で物事が上手くいくはずはない
    いろいろやって追い込まれた挙げ句
    他の小作人にいいかっこ見せようと、地主の屋敷に直談判へ向かう
    しかしそこで
    想像をはるかに超えた地主の暮らしぶりに打ちのめされた彼は
    その結果、ほんの少しの謙虚な心を手に入れ
    いずこへともなく逃げてゆくのだった

    「クララの出家」
    クララは裕福な家の娘で
    道を歩けば誰もがふりかえる美少女である
    しかし、いつもわけのわからない憂鬱に悩まされていた
    その憂鬱はある日
    路上にて発狂した青年を目撃したことから始まったのだ
    しかし青年は後に、聖職者となって人々の尊敬を集めるようになった
    そんな彼の姿を見ようと、教会に赴くクララだったが
    全裸で説教するそのスタイルに衝撃を受けて
    そのまま懺悔室までついていき
    そこで、神の花嫁になることを命じられてしまう
    …どういうつもりで書かれたものかよくわからないんだけど
    とてつもなく淫靡な話のようにも思える
    有島武郎がアナーキズムに興味を示していたのは確かなことだが

  • 【Impression】
    アカン、タイトルから勝手に色々想像しすぎてしまった。
    誰が死ぬんやろうとかそればっかり考えて読んでた。

    もしくは冒頭での様子から既にその行為を犯していたか。

    タイトルとの関連があるとするなら、地主の家に行き「自分が人間なら向こうは人間ではないし、向こうが人間ならこっちが人間ではない」と考えて、馬を殺したところ。

    人間だから馬を殺して生き残ろうという行為は普通なのか、人間ではないから馬を殺す行為は生存のためには普通の行動なのか。

    それとも夢を断たれたんやろうか。

    どっちともとれるが、「小作」という職業に関して言えば、社長の居ない会社みたい。
    株主と労働者のみ。


    【Synopsis】 
    ●どこからか訳ありな様子で一組の夫婦が放浪している。どうやら「農場」を目指しているようで、そこで小作人として働く手はずとなっていた
    ●このような生活には慣れているのか、到着の翌日から黙々と働く。男にはひそかに独立の夢を持っており、それに向かいお金を貯めるという予定を立てている
    ●しかし、一向に暮らし向きはよくならない。悪天候に見舞われ不作。男はルールを無視し利益を上げたが、赤ん坊が死ぬ、飼っていた馬が競馬によって骨折する、村の犯罪の犯人と疑われる。普段から「まだか」と呼ばれ、その風貌と性質から恐れられており、小作内においてもうまく関係を構築できていなかった。ある一家とは、確執が積み重なっていた
    ●そんな折、現状を打開しようと地主に対し、小作料の引き下げを願い出ることを決める。小作との関係改善と自身の境遇を良くするために。しかし、いざ函館に出、地主の生活を見て絶望する。
    ●帰宅した男は役に立たなくなった馬を、一時は躊躇っていた馬の殺害を実行し、皮を剥ぐ。そして小屋を捨て放浪へ向かう。

  • カインの末裔、生きる喜び・目的って何だろう?と考えさせられた。なぜ仁右衛門夫婦は力強く生きる力があるのか?
    クララの出家、クララのその後が知りたい。乙女の一時的な感情の高ぶりではないと言えるのか?

  • プロレタリアっぽくないプロレタリア。舞台が村ってのがいっすねー。いつの時代も村はこうあって欲しい。村と言う言葉を形容詞として使い続けるためにも。カインの末裔と言えばベイオウルフのグレンデルなんだけど、たぶん関係ないのよね??

  • カインの末裔/釧路湿原で見かけた開拓の跡とか、資料館で読むような郷土史とかには、たしかにこんな生活が詰まっていたようだった。物語的にどうというより、そっちに気が向いてしまって、一気に読み終わった。

    クララの出家/こういう信仰は自分の中にないなぁと思う。何かの"ついで"には出てくるかもしれないけど、信仰こそが人生、にはならない。

  • タイトル「カインの末裔」が全てを物語っている。

    人間は生まれながらに無知で、無知ゆえに罪深い。
    だから、信仰深く生きなさいってことかな。

    言いたいことはそれだけじゃないだろうけど、ちょっと私の知識不足。
    「生まれいづる悩み」とかはメッセージが分かりやすくて読みやすかったけど、
    これははっきりしたメッセージが読み取れなかった。

    小作農の描写が生々しい。

  • 1917

  • 探したら見つかった。
    それも値段も御手軽だった。
    読んだよ、
    うん、


    「ダミアン」を読んで読まなければと考えた作品だった。
    初有島武郎。
    感想は、ナンだろうな、文が肉々しいというのが一番の感想。
    小説自体は、突如荒野に現れた無骨者、といった感じだったな。



    労働者階級の生活の閉塞感とくすんだ、というよりかは”でいる”情景をリアリティーを書いている。
    私のような現代の恵まれた、自由の会得に奔走せずに享受している存在にとっては参ってしまうような描写。
    この生々しさはえぐいぐらいだ。
    しかしこういう時代背景において人間は、それ以上の世界を知らない、夢にも思わないという、境界線をしっかり持っている。
    それはある意味幸せなのだろう。
    でも文学は、自身の客観性を持ってその境界線に簡単に切り込みを入れてくる。
    幸か不幸か、でもそれが本来の啓蒙としての文学の役割だったのだろうね。
    いや、話がずれた。
    有島はこのリアリティーを持って労働者階級の生活の飢えを描写しているというのに、それを生んだ社会への批判や哀愁にはあまり興味がないときている。
    育ちに即さないお上手さなのに、
    では、なにを描こうとしたのか。



    カインとは”人類初の身内殺し”の代名詞と現代ではされている。
    カインとアベルが神にと捧げ物をした際、神はアベルの供物を喜び、カインの供物は受け取らなかった。
    嫉妬にかられたカインはアベルを殺してしまい、エデンの東にあるノドの地に追放されたというのが話の大筋だが、キリスト教にも教義や解釈は様々にあり、カインに対する捉え方も分かれるためその言及はしないが、
    そうして追いやられたカインの血筋から人に暴力やねたみという感情がもたらされたといわれている。
    そうした”カイン”という代名詞を持ってしての今回の主人公の仁右衛門。
    暴力的で粗雑な彼をして有島はキリスト教の教義に関係がないものにも、”カインの末裔”としての定めが巡ることを描いたのだろう。
    カインが神に突きつけられた罪を、仁右衛門の無骨さや凶暴さから来る解説に記されていた「自然とも人間とも相容れないという重荷」に置き換えて背負わさせている。
    なるほど、この置き換えはわかりやすい。
    だが、どうだろうか、聖書で言う神のカインに嫉妬を呼び起こした拒絶には、一種の不条理があるのではないのだろうか。
    それは天使の血を酌んだという彼の先天的な”罪の存在”とされる宿命に終始するのだと有島は考えていたのだろうか。
    たしかに「カインの末裔」とされた仁右衛門にも”相容れない”という定めはおいているが、しかしそれは生まれから来る先天的なものとして考えられないように私には思えた。
    ならば、この物語はカインにまつわる狭義の物語ではないのかもしれない。
    その不条理、
    いやそんな解釈は加えてはいないな。
    ただ、「廻るのだ」。
    形や環境をかえても私たちはそれを背負わされる、と説かれている。




    「カインの末裔」として流浪と暴力の血筋を背負わされた者には、果たして救いはなにのだろうか。
    何たって私たちもカインの末裔だからね。
    仮に、それを改める話になると、もう信仰に向かうしかないのだろうな。
    原罪ね、
    芳醇なる果実を口にしたことといい私たちには罪が多いことだ。
    とは思うが、私はコタツでお茶を飲む。
    そんなモンで、いいのか。
    どうだか。

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