- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003106235
作品紹介・あらすじ
東京から北越の温泉に出かけた「私」は、ふとしたことから、「繁華な美しい町」に足を踏みいれる。すると、そこに突如人間の姿をした猫の大集団が…。詩集『青猫』の感覚と詩情をもって書かれたこの「猫町」(1935)をはじめ、幼想風の短篇、散文詩、随筆18篇を収録。前衛詩人としての朔太郎(1886‐1942)の面目が遺憾なく発揮された小品集。
感想・レビュー・書評
-
再読。小説らしい小説は「猫町」と「ウォーソン夫人の黒猫」のみで、あとは数ページのエッセイのようなものだったり、散文詩のようだったり、ショートショートのようだったり。「猫町」はやはり圧倒的に面白い。「ウォーソン夫人の黒猫」も元ネタがあるからか、翻訳もののゴースト譚っぽい面白さ。
大人になって読み返すと「老年と人生」がかなり身に沁みました。〝自分は少年の時、二十七、八歳まで生きていて、三十歳になったら死のうと思った。だがいよいよ三十歳になったら、せめて四十歳までは生きたいと思った。それが既に四十歳を過ぎた今となっても、いまだ死なずにいる自分を見ると、我ながら浅ましい思いがすると、堀口大学君がその随筆集『季節と詩心』の中で書いているが、僕も全く同じことを考えながら、今日の日まで生き延びて来た。”・・・自分もまったく同じ感じでずるずる生きてます。
※収録作品
「猫町」「ウォーソン夫人の黒猫」「日清戦争異聞」「田舎の時計」「墓」「郵便局」「海」「自殺の恐ろしさ」「群集の中に居て」「詩人の死ぬや悲し」「虫」「虚無の歌」「貸家札」「この手に限るよ」「坂」「大井町」「秋と漫歩」「老年と人生」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
視点で世界は変わるということ。
そう思うと、この世界は一つだけではないように思える。
自分がそう認識しているだけで、見方によって世界はその表情を変えていく。
異なるものと変容していく。
絶対的なものなどない。
恐ろしくあり、不可解な世界。 -
最盛期の詩とはまた手触りが違う、短編集。
眩むような白昼夢に、
独特な妖艶さが漂う『猫町』
騒がしいはずなのに音がない、
ホッパーの絵画を彷彿とさせる『郵便局』
車谷長吉の強迫観念のような『虫』
あたりがお気に入りです。 -
萩原朔太郎は、普通なら文章に表せないような曖昧な感覚を掬い上げるのがほんとうに上手な人だ。
「月に吠える」の序で彼は次のように述べていた。
「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。」
彼の散文にも同じ「詩のにほひ」が漂っている。感覚の芯のところをしっかりと掴んでそれを言葉にできる、これが詩人の力なのだなぁ。
以下に気に入ったものを取り上げてみる。
「群衆の中に居て」
中学生の頃に一度読んだことがあったのだが、上京して初めてこの作品の意味するところを諒解した気がする。人が本当に孤独を感じるのは一人きりの時ではなく、街でたくさんの他人に囲まれている時だ。とはよく聞く話だ。都会の群衆の中には孤独がある。その孤独の素晴らしさや楽しさをここまで上手く表現してくれた朔太郎には喝采を送りたい。
「虫」
鉄筋コンクリートという単語の「本当の意味」を探す。実は私もたまにこのようなことを考えてしまうのだが、これって異常なのだろうか?芥川龍之介「歯車」梶井基次郎「檸檬」と並んで、精神状態が悪いときの私が共感する短編の一つ(笑)
「詩人の死ぬや悲し」
「著作?名声?そんなものが何になる!」と芥川龍之介。一方、「余は祖国に対する義務を果たした。」と満足して死んだネルソン。このネルソンの臨終の言葉は有名だけれど、聞くたびに私は心の中でかすかな反発を覚えていた。そのもやもやの正体がここにきてはっきりした。欺瞞だ。
萩原朔太郎。感性の塊みたいな男だ。 -
表題作より、それ以外の方を面白く読んだかもしれない。虫、なり郵便局なり、モノから得た着想を、詩に限らずエッセイとしてでも小説としてでもとにかく語りたい人なのだと思う。また「老年と〜」では作者の青年時代の苦悩が正直に吐露されていて、それもまた面白く読んだ。
-
草津へのお供に。
-
表題、猫町は不可解な現象が自身の精神に由来するものである、という設定がいい。猫の出現に不穏なものがあるのがよい。猫は愛らしいものとされることが多いが、猫町では不気味、幻を象徴していて面白い
散文詩もいい。紅茶に角砂糖を入れるだけの行為を細かく観察して美しく描写している。
田舎が永遠を守ろうとする、という意見も納得する。田舎は変わらないことを強制する。日本の古区からの精神のようなものを感じた。いいものとは限らない。帰省中に読むことができてよかった。田舎と都会では洗練度というものがやはり違うのか、と考えた。三四郎では主人公三四郎が、北の海では友人金江が、似たようなことを言っていた。
難しくて読んでない部分もあるが解説もいい。古くからの魔術、との比較も面白い -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/701574 -
今の自分にとって、まさに出会いたい本だっという印象。僥倖の邂逅。巡り合わせ、ある種の救い。不明確な不安の行く先をこの小説が全て受け止めてくれたような気がする。ウォーソン夫人の黒猫は単に自分が感じた違和感を他者が分かってくれないことを示しているのではなく、その不安定な存在を少なくとも主観的に見ると確実に存在している世界そのものに対する嫌悪を認めてくれるメタファーのように思われる。萩原はそれをしっかり掴み取り、言語化してくれた。同じ苦しみを持つ者としてはこれを救いと言わず別の法で呼ぶ由はない。