- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003106617
感想・レビュー・書評
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詩人だった室生犀星(1889-1962)がものした自伝的小説三部作、いずれも1919年の作。
「幼年時代」
他家に遣られた子どもの、生母や姉への愛しさや寂しさや哀しさが、その子どもの透明ささながらに、淡々と静謐な文体で描かれている。主人公に子どもの無邪気さで仲良しになったお孝さんという女の子と知り合っても、
"私はお孝さんと姉とは別々に考えていた。お孝さんには姉さんと異なったものがあった。つまり「可愛さ」があって姉さんにはかえって「可愛がられたさ」があった。"
胎違いであるということとは全く無関係のところにある、姉への思慕の深さ。その憧憬が、孤独なこの子の全てを支えているかのようだ。姉と一緒で、一つの全体でいられる。姉の純朴な優しさも静かに美しい。
"私はときどき隣の母の家へ行くと、きっと姉の室へ這入って見なければ気が済まなかった。いつも黙って、静かにお針をしている傍に寝そべっていた私自身の姿をも、そこでは姉の姿と一しょに思い浮かべることが出来るのであった。その室には、いつも姉のそばへよると一種の匂いがしたように、何かしら懐かしい温かな姉のからだから沁みでるような匂いが、姉のいなくなったこの頃でも、室の中にふわりと花の香のように漂うていた。"
"姉なしには私の少年としての生活は続けられなかったかもしれない。"
なお、思慮深く感受性のある子どもが「男の子」になってしまうときに覚える苦味も、そっと挿し込まれている。それを包んでくれるのも、姉だった。姉が嫁き、主人公の少年時代は終わる。
三篇中の白眉と云える詩人の処女小説。小説というのはこうでなくては、と思わせる。
「性に目覚める頃」
賽銭泥棒を犯す若い女に性欲の昂揚を覚える主人公。男のセクシュアリティのエゴイズムにとって障壁となる女の主体性を物化すると同時に、近くて遠い性の小宇宙を換喩(メトニミー)で剥製品にして陳列棚へと手繰り寄せるのがフェティシズムと云う暴力の魔術か。
"何ということなしに、その雪駄の上にそっと自分の足を・・・のせれば、まるで彼女の全身の温味を感じられるように思われた・・・。私は子どものときから姉の雪駄をはいてよく叱られたものであるが、それよりも、もっと強い烈しい秘密な擽ぐったいような快さが、きっと私が雪駄に足をふれさせた瞬間から、私の全身を伝ってくるにちがいない。ちょうど、踵からだんだん膝や胸をのぼってきて、これまで覚えたこともない美しいうっとりした心になるにちがいないと、私は雪駄を恨めしく眺めたのであった。"
肺病で死んだ友人の女がもたらす嫉妬。エロティシズムは、日常でありながら非日常、凡庸でありながら秘境的、見えていながら隠されている、すぐそこに在りふれていながら隔絶されている、空間を同じくしながら全く異なる世界に並行している、一方の側の全員がそれを平等にもっていながら同時に全員がそれを可視的に不可視化する作法をも併せもっており、実際は可視的でありながらさも不可視であるかの如く相互に振舞うことを暗黙裡に強いられる、そんな微妙な薄い被膜のあちらへ向かわんとするこちらの狂態。
"そして私はすぐに表[主人公の友人]と彼女との関係が目まぐるしいほどの迅さで、二つの脣の結ぼれているさまを目にうかべた。あの美しい詩のような心で眺めた二人を、これまでいちども感じなかった或る汚さを交えて考えるようになって、妬みまでが烈しくずきずきと加わって行った。今ここで真面目な顔をして話をしていながら、いろいろな形を亡き友に開いて見せたかと思うと、あの執拗な病気がすっかり彼女の胸に食い入っていることも当然のように思えるし、また何かしら可憐な気持ちをも起させてくれるのであった。"
「或る少女の死まで」
都会の・大人の・生活の醜悪かつ卑小で散文的な現実の泥濘に塗れた詩人の魂を浄化したのは、屈託も邪気も無い瑞々しい九歳の少女だった。そしてこの"小さな救い主"は題名の通り死んでしまう。もはや「救い主」に、決して永遠が約束され得ない、いつだって予め仮初の「救い主」でしか在り得ない、という現代的な暗示が感じられた。主人公たる犀星は、この作品を発表後、四十年以上も生きることになる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今夏は暑さと疲労でぐったりしていた。そんな時ページを開くと、そっとあたたかいお茶を差し出されるようなおだやかな気持ちになった。純粋に沁みた。親しいひとは世界から奪られてゆく、と感じていた室生犀星。虚脱感が通奏低音のように鳴りひびく。寺に住み、いつも室で詩を創作しているようなもろく繊細な心の持ち主が、時にひとを憎悪し激情にかられる。その二面性に共感した。風景描写や心理描写がちりばめられた自叙伝。いずれ詩集も読もうと思う。さあ、ひとつ、秋の楽しみができた。
p58
私はだんだん自分の親しいものが、この世界から奪られてゆくのを感じた。しまいに魂までが裸にされるような寒さを今は自分のすべての感覚にさえかんじていた。 -
「幼年時代」「性に眼覚める頃」「或る少女の死まで」という、犀星の自伝的中編3作品が時系列で並んだ文庫でした。
「幼年時代」では、実の家族と引き離されて義姉に寄り添って成長していく健気な少年の視点で故郷の生活や自然が描かれていて、端正で美しい佳品。
「性に眼覚める頃」は、自意識とか疚しさとかにおっかなびっくり向き合っていく感じが良い。詩仲間の友人やその恋人への感情の描写は瑞々しかった。
「或る少女の死まで」では、最初の上京の終盤から帰郷を思い立つまでの生活が書かれている。この時に20歳ちょっと。都会での人間関係や貧窮などで少し汚れていく詩人の生活、そんな自分が許せないという若い潔癖さゆえの葛藤。文筆家になりたいというストイックな気持ちはいいのだが、作品の中の「私」は潔癖すぎてポキリと折れるんじゃないかとやや心配になる。
しかし犀星は、食べていくために詩から小説へ仕事を広げたり、帰郷した後も何度も再上京して文筆を続け、後世に名を残す作家になったわけで、実際なかなか逞しい。生まれつき繊細な性質の少年が、酒乱の養母に苛められたり小卒で働かされたりする運命に負けなかったから、結果として心身を強く鍛えられたのかも、と思った。 -
「ここの寺は室生犀星が育った寺だよ」という父の一言。
その寺は、高校時代いつも遊びに行っていた片町へ行くときに通る「犀川」にかかる橋のすそにひっそりと佇んでいた。
何度も何度も通った道なのにこの小さな橋のへりにある寺に、金沢の有名人がかつて住んでいたなんて!
とちょっと嬉しい気持ちがしたのと、ちょっと室生犀星さんと近くなった気持ちがしたので、読んでみた。
時代は違うけど、同じ場所を行き来していたのか。ほほ、今でもどこかそこらへんを歩いてるのではないかしらん。
小説自体は最初の方がおもしろかった。この人、大切な人を失いすぎだろっとつっこみたくなるくらいぽんぽん人が死んでいった。数奇で孤独な人生だったのかな。
「××××年×月×日、わたしは第一の都落ちをした。」
って言葉が1番おもしろくてこころに残ったな。。。w
実際は
「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の有名な詩句があるようにに、ほとんど金沢に帰らずにいたらしい。 -
うつくしくてせつない。しんとした空気。思い出しては読みたくなるけど、読み終わった後のかなしさがどうにも思い出されて、なかなか再読できない。
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森茉莉の小説(?)に師匠として出てきたので。詩は儲からないらしい。
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或る少女の死まで
半分ちょい読んでやめた
時代を超えた面白さは感じられなかった -
幼少の頃の思い出は、美化するには容易であり葛藤を描くには複雑すぎる。
その中間で自身の幼少期を私小説化したのが本書にある三作である。
他者の経験にもかかわらず、どこか懐かしい感覚を否定できない。
いまだ自身にとっての世界の真理を知らず、これから自身を確立しようとするとば口に立つ者の瑞々しい感覚が懐かしいのだろう。
著者プロフィール
室生犀星の作品





