- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003108819
感想・レビュー・書評
-
出勤前に読了。
「一九二八・三・一五」が読みたくて岩波文庫で購入。
買って良かった。
「蟹工船」は2度目。1度目よりもどうにも身につまされる気がするのはきっと最近のわりと酷目な仕事の状況のせい。
方言ゴリゴリの台詞を読むのに全く苦労がないのは私も北の方の出身だから。多喜二を読むようになってそっちの出身で良かったなって思った。違和感なく頭に入ってくるのは有難い。
実は角川文庫版も持ってるので少し時間を置いて3度目にいこうと思う。
肝心の「一九二八・三・一五」。わざわざ岩波で買った甲斐はあった。好き。
拷問がまあ酷い。語彙力が貧相だからそれくらいしか言えないけれど本当に酷い。こんなことがまかり通るような時代が今とそれ程隔てなくあったという事実に戦慄する。
時代がそうさせた、という感じがしなくもないけれどよくもまあこんな公権力と闘おうだなんて思えたな、と。そして闘えたな、と。
やっぱり感想は得意じゃない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
蟹工船
-
蟹工船に集められた人たち。
彼らは日雇い労働者のようなもので、かつては土地の開墾や炭鉱で働き、たまたま今回はここに流れ着いた。
淡々と描かれる労働の描写は返って凄惨さを増す。
ひどいの一言では済まない感情が湧く。
炭鉱で働いていた祖父を思う。
昔々の話ではない。まだこのような状況が残っていたに違いないのだ…
戦争だけが祖父母の代の代名詞ではない。
過酷な過去を背負い、生きていくのはどんな心情だったことか。いくら年月が過ぎて幸せを手に入れても、拭いきれない思いがあったはず。
一般的にはプロレタリア文学として知られる本書であるが、個人的にはそんな想いを起こさせる小説だった。 -
かなり政治的なところがあるので今まで遠ざけていたが。思い切って読んでみることにしました。かつて日本にあった理不尽かつ残酷な労働環境の実態がありありと伝わってきました。こういったプロレタリアートの考え方は100%賛成は出来ませんが、そうでなくとも楽しめる(?)作品です。
-
小林多喜二の「蟹工船」と「一九二八・三・一五」を読んだのは約30年前。
30年前も岩波文庫で読んだが、今度はワイド版岩波文庫。
最初に読んだときは、
漁夫たちは寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠れないや!」と、体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」―終いに、そういって、勃起している睾丸を握りながら、裸で起き上がってきた。大きな体の漁夫の、そうするのを見ると、体のしまる、なにか凄惨な気さえした。度肝を抜かれた学生は、目だけで隅の方から、それを見ていた。(蟹工船 p56)
のような強烈な描写に圧倒され、それが小林多喜二の作品のイメージになっていたが、今回読んでみて、特に「一九二八・三・一五」のあちこちで繊細な描写や叙情性とユーモアのある表現に出会って、彼がどれだけ作家としての才能と可能性に恵まれていたかが分かった。
真夜中に警察に踏み込まれ連行される父の姿を、娘の幸子が寝たふりをしながらそっと眺めているシーン。
力一杯に襖が開いて、父が入ってきた。後ろから母がついてきた。五人は次の間に立って、こっちを向いている。
「ズボン。」
父は怒った声で母にいった。母は黙ってズボンを出してやった。父はズボンに片足を入れた。しかし、もう片足を入れるのに、何度も中心を失ってよろけ、しくじった。父の頬が興奮からピクピク動いていた。父はシャツを着たり、ネックタイを結んだりするのにつッかかったり、まごついたりして―殊にネックタイがなかなか結べなかった。それを見て、母が側から手を出した。
「いいいい!」父が邪険にそれを払った。父は妙に周章てていた。(一九二八・三・一五 p148)
ふと―幸子は分った気がした。それもすっかり分った気がした。「レーニンだ!」と思った。これらのことが皆レーニンから来ていることだ、それに気付いた。色々な本の沢山ある父の勉強室に、何枚も貼りつけられている写真のレーニンの顔が、アリアリと幸子に見えた。それは、あの頭の禿げた学校の吉田という小使いさんと、そっくりの顔だった。(同 p149)
娘のことを夢に見る父親。
「お父さんはねえ、学校の人と一緒に旅行に行くんだよ。」
幸子が黒い大きな眼をパッチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。
「おみやに何もってきて?」
彼はグッとこたえた。が、「うんうん、いいもの、どっさり。」
と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり両手で自分の頭を押さえた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アッと、内にこもった叫び声をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の懐を開けてみた。乾葡萄ををつけたような乳房の間に、陶器の皿のような心がついているー見ると、髪の毛のようなひびが、そこに入っているではないか!」(同 p180)
この部分のイメージは、ちょっとありきたりな気がするが、それにしても、警察権力による拷問を内容とする作品にもかかわらず、陰惨な印象はあまりしない。作者の労働運動に対する希望と確信から来るものだろうが、豊かで瑞々しい表現力によるところも大きいと思う。
それだけに最後の二章が編集者の蔵原惟人氏の判断で除かれ、原稿が戦争で消失してしまったことは実に残念。 -
下級労働者達の苦闘のお話。いや、面白かった。後半は実は読めてないんですが、面白かったです。
赤化とはこの様に行われるのかと笑いつつも、恐らく今現在でも通用するであろう悲惨な労働現場で働く方々のお話でした。