右大臣実朝 他一篇 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2022年8月12日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784003109076

作品紹介・あらすじ

『右大臣実朝』は、戦時下に書かれた太宰治((1909-48))の歴史小説。破滅に突き進む同時代への想いは、中世の動乱期に悲劇的な最期を遂げた歌人にして為政者・源実朝の生涯を通して語られる。歴史文献『吾妻鏡』と幽美な文を交錯させて語られる。本作創作の経緯と同時代批判を伝える随想「鉄面皮」を併載(解説=安藤宏)。

みんなの感想まとめ

歴史小説として描かれるこの作品は、源実朝の生涯を通じて、戦時下の人々の心情や時代背景を巧みに映し出しています。特に、実朝を崇拝する近習の視点から語られる物語は、彼の透明感や超越者的な存在感を際立たせま...

感想・レビュー・書評

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  • <アカルイ「滅亡」の物語>
    (1)太宰の歴史小説
    『右大臣実朝』は、太宰治唯一の歴史小説。
    歴史小説?
    でも大丈夫。
    <太宰らしさ>がそこかしこに溢れている。
    しかし、<太宰らしさ>が蔓延し過ぎていない。
    <太宰らしさ>にドップリと浸りたい人にはとっつきにくいかもしれないが、<太宰らしさ>に食傷した人でも、この作品は十分読み応えがある。
    若い頃太宰にハマってのめり込んだが、パッタリと読めなくなった人は多い(私もその口)。
    しかし、この作品だけは、いつまで経っても色褪せず、それも<太宰らしい作品>として、何度でも愛読してしまう。
    そんな素晴らしい作品。

    (2)太宰と吉本
    源実朝を愛した文学者は多い。
    筆頭は、吉本ばななの父親である吉本隆明。
    彼の『源実朝』は傑作評論だ。
    これも何度も読み返した。
    吉本の難解な理論書『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』は、『源実朝』という作品を書くための理論的前提作業だったのだ、と納得したものだ。
    そして、吉本のこの著作を読むと、太宰の『右大臣実朝』を読み返したくなる。
    そんな読書連鎖体験を繰り返してきた。

    思想家の吉本隆明と太宰治。
    およそ水と油と思われがちな二人は、根っこのところでは繋がっている。
    吉本隆明は、詩人だった。
    その詩的感性は、太宰と同根で、その同根の感性は、源実朝という稀有な詩人が同じ根を持つことを知ったのだ。
    だから、吉本の読者にもこの太宰作品は響くと思う。

    (3)ランボーの先駆
    吉本に次いで小林秀雄。
    小林の『実朝』は、いかにも小林らしい鋭さと繊細さをもった実朝詩論だ。
    小林が実朝に惹かれたのはその稀有な孤独感にある。
    だが、それだけではない。

    『金塊和歌集』で、後鳥羽院、藤原定家、鴨長明らを瞠目させたとき、実朝は22歳。
    そしてこの天才歌人は22歳で歌を捨てている!
    22歳で歌を捨てる実朝は、20歳で詩を捨てたアルチュール•ランボーの先駆と言える。
    ランボーに感動•震撼させられた小林秀雄が、実朝を格別に評価したのも宜なるかな、だ。

    (4)ユニークな登場人物たち
    『吾妻鏡』に登場する著名人を太宰は生き生きと蘇らせている。
    中でも、鴨長明と将軍実朝とのやり取りがとても面白い。
    京から出てきた有名な歌人鴨長明は、野心丸出しな俗なる老人。
    太宰は間違いなく、自分に取り入ろうした下心丸出しの老人をモデルにして、長明を描いている。
    だから、描かれる長明は、聖人でも大人(たいじん)でもないが、生臭い老人として、実に生き生きとしている。
    この下品そうな太った大家の老人の項を読むと、太宰の師に当たる井伏鱒二の姿が浮かんできて仕方がない。
    (ソーリー!井伏さん)

    鴨長明と並んで印象深い人物は、陳和卿。
    例の、宋に渡る巨大な船を建造したが、浅い鎌倉の港には浮かべることのできずに失敗した中国の自称名工。
    その俗物性は、年取ったかつての名工ならさもありなんと思わせる描写だ。
    人気の出た太宰に取り入ろうとするこうした自称かつての名工は多くいたのだろう。
    見てきたような描写は、実際にそのモデルとなる人物を見たから書けたのだと思う。
    この小説を読んでヒヤッとした者たちがいたはずだ。

    (5)公暁
    この小説で、実朝と並んで異彩を放つのは、公暁。
    実朝を暗殺する公暁は、実朝の実の甥。
    母を同じくする兄である二代将軍頼家の忘形見。
    尼御台(あまみだい)北条政子は、頼朝亡き後、二人の息子を将軍とするが、長子頼家を修善寺で死に追いやっている。
    次男実朝を寵愛するが、一方で頼家の息子、政子にとっては孫の公暁も可愛くて仕方がない。
    京で僧侶の修行をさせていた公暁を鎌倉に呼び戻したのも孫恋しさの政子のなせる業だ。
    その公暁に対する太宰の描写は情け容赦ない。
    その描写は、源家の嫡流の血を受け継ぎながらも何やら卑しいものを秘めたこの男の暗く歪んだ姿を深く印象付けるが、この描写が彷彿とさせるのは、『人間失格』の主人公葉蔵だ。
    葉蔵は太宰そのものだ。
    だとしたら、当然、公暁も太宰だということになる。
    聖なる実朝に対して、俗を代表する公暁。
    その公暁の実朝への屈折した思いは、日頃太宰が腹に溜め込んだ不満のようで、さればこそスラスラとあからさまに表出されるし、その結論は「死ぬ」ところにある。
    そして、聖なる実朝の結論も「死ぬ」ことを受け入れることにある。
    太宰は、自己の理想化された姿を実朝に、自己の卑下した姿を公暁に投影したと言える。
    光と影は片方だけでは成り立ち得ない。
    そうした悲哀を太宰は真正面から語る。

    因みに、政子にとっては、目の前で、孫が息子を惨殺する事件を目撃することになった。
    将軍であった二人の息子を殺され、孫たちも悉く殺されたこの北条家の女性は、自らが将軍となり(尼将軍)、権力の頂点を極める。
    この尼将軍の心の闇も深い。
    そして、いずれは、「アカルイ」京(後鳥羽院)を滅ぼしてみせる。
    天皇一族に矢を引くなどということは、誰もなし得なかったことだ。
    弟の義時も、義時を継ぐ泰時でも出来なかった。
    それをこの尼将軍だけが、やれ!と命じたのだ。
    そして、天皇家を軍門に降らせて、「暗イ」北条家が日本を支配していく。

    (6)白痴
    この作品では、実朝の発言だけが、カタカナで書かれて、彼が現実の人間の発言とは異なることを強調して印象的だ。
    小説の中でも、実朝の発言だけが、光って見える。
    カタカナで描かれる実朝の発言は、新約聖書に描かれるイエスの発言の如くであり、実朝の尊崇する厩戸皇子の発言の如くだ。
    人間の発言とは思えない。
    イエスは刑死し、厩戸皇子の一族は絶滅させられている。
    そうした歴史的な悲劇的な聖人と同じ次元で実朝を位置付けているということだ。
    だから、政子や義時や広元といった日本史の中で傑出した政治家であっても、実朝には対抗出来ない。
    そもそも生きている次元が異なるのだから。

    実朝がイエス?と訝る向きもあるかもしれない。
    しかし、そのヒントは公暁が尼御台、祖母に当たる政子から聞いた言葉にある。
    「あの子は、生まれつき白痴だったのです」
    「白痴」!
    政子の口から唐突に漏らされる予想外の単語。
    それこそ、現代にイエスを希求したドストエフスキーが辿り着いた結論ではないか。
    現代のイエスたるムイシュキン侯爵は「白痴」だ。
    太宰が、実朝とイエスを重ねていることはもはや疑う余地がない。

    鎌倉時代に、「白痴」などという単語は存在しない。
    あったとしても「愚」や「狂」という表現だろう。
    「白痴」は明治時代に精神分析学用語であるidiotの翻訳として作られた単語だ。
    ドストエフスキーの「idiot」は「白痴」と訳された。
    だから、太宰はここで政子に「白痴」と言わせたのだ。

    『人間失格』において、太宰は主人公葉蔵を「MC」と呼んでいる。
    これを「マイ•コメディアン」と茶化しながら、「マイ•クライスト」(マイ•キリスト)を意味していることは周知の事実だ。
    だから、太宰は、自己の分身である実朝のことをわざわざ「白痴」と呼んだのだ。

    (7)アカルイ」滅亡
    本書における実朝の有名な発言は、
    「京ハ、アカルクテヨイ。」
    「平家ハ、アカルイ。」
    「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。
    人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」
    だろう。
    こんな印象的な警句は、「新約聖書」にしか見つかりそうにない。

    実朝は、「暗イ」鎌倉を「アカルク」するために、「アカルイ」京より妃を迎え、鎌倉に京文化を導入しようとする。
    「アカルサハ、ホロビノ姿」だというのであれば、「滅亡セヌ」暗い鎌倉に「アカルサ」を導入することは、源家を「アカルサ」の中で滅んだ平家に倣おうと行為のようではないか。
    実朝は、義経や那須与一などの源家の「暗イ」活躍を嫌悪し、壇ノ浦の戦闘の最中にも「アカルサ」を貫いた平家を愛した。
    実朝は、源家を平家と同じように「アカルサ」の中で滅亡させることで、「暗い」北条執権政権の世の中に対して拒否の姿勢を示した、と言える。
    行事や仏事を、賑々しく行い、外観の華美を求めるようになる将軍家(実朝)の姿は、滅亡を求めるあまり、アカルサを極めようとしているかのようで切ない。
    ほとんど「蕩尽」し尽くして滅亡するという強い意志を読み取ることができる。
    消える前の灯火の最後の輝き。

    源家は平家と同じように、「アカルサ」の中で滅んだ。
    残されたのは、「暗イ」北条家だけだ。
    「暗イウチハマダ滅亡セヌ。」
    なかなか「滅亡せぬ」北条が滅亡するのは、源家が滅亡してから124年後のことだった。

    (8)結末
    右大臣昇進のお礼参りの記述が『吾妻鏡』より長々と引用されて、『吾妻鏡』からの引用は終わる。
    続いて『承久軍記』による実朝暗殺の経緯が語られ、最後に一文『増鏡』が引用され、蝋燭の火がフッと消えるように溶暗。
    それに関する太宰の「物語」は語られない。
    歴史書を以て、後は読者自らが考えてみるが良い、という太宰のメッセージだろう。
    これは、図らずも、小林秀雄の『ゴッホの手紙』の手法と一致している。
    『ゴッホの手紙』を読みながら、それに小林はコメントを付して来たのだが、途中から小林はゴッホを読むことに集中して、コメントを放棄してしまうのだ。

    『吾妻鏡』は、お礼参りに実朝に付き従う、眉目秀麗の選ばれた鎌倉武士たちの名前を列挙して終わる。
    「アカルサ」だけを描いて、その滅びは暗示するだけだ。
    実朝暗殺を描くのは、鎌倉幕府の正史ではない『承久軍物語』だ。
    それは、鎌倉でこの異変を知った人々が、この事件をどのように理解したのかを示している。
    大江広元が将軍の死を知っていたこと、執権北条義時が参賀を直前に欠席し、代わりに源仲章が将軍に供奉して将軍ともども惨殺されたことを語り、そして、将軍自身も自分の死を知っていたかのように辞世の歌を残していたことを伝える(こんなことがあるか!)。
    そして、「アカルイ」京の人々はどう思ったのか?
    「ただ、あきれたるよりほかの事なし、京にもきこしめしおどろく、世のなか、ふっと火を消したるさまなり」(『増鏡』)
    「アカルイ』鎌倉は、実朝と共に消え去った。
    残されたのは、北条政権の支配する、火の消えたように「暗イ」鎌倉だ。

    (9)昭和18年の実朝
    太宰が『右大臣実朝』を物凄い熱意で書いたのは1943年、昭和18年。
    前年、ミッドウェイ海戦で日本軍が敗北したことから、太平洋戦争は局面が変わり、1943年には、ガダルカナル敗北、アッツ島玉砕、山本五十六戦死、学徒出陣、と敗北に向かって一直線の時期となる。
    日本国の滅亡という悲劇がヒタヒタと迫る中に、太宰は、源家の「アカルイ」滅亡を描いたのだ。
    その意味で、現実の破滅、滅亡を希求する太宰にとっては、自己の想いを投影する対象として実朝は最適だったのだ。
    そして、そのことを証明するかのように、小林秀雄が『実朝』を書いたのも同じ昭和18年。
    太宰も小林も、日本の行く末を見据えた時に、思い起こされたのが源家最後の将軍の姿だったのだ。

    そうしてみると、陳和卿の失敗した渡宋大型船が、何の役目も果たさず、沖縄沖に沈んだ戦艦大和とダブって見えてくる。
    太宰は、連合艦隊旗艦大型戦艦大和の運命を察していたのかもしれない。





  • ちょうど大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で今やってるあたりなので、まんまと乗せられて読んでみる。おかげで人間関係がほぼ把握できているので楽ちん。登場人物も「これが小栗旬で、こっちが山本耕史ね」とイメージしながら読めた。わりと大河のキャラと太宰のキャラ造形にズレがない。

    それにしても太宰が歴史小説を書いていたこと自体がそもそも意外でした。解説読んでると実朝モチーフで小説書いてる作家(歴史小説家ではなく)は結構いたみたいで、実朝って作家に人気あったんですね(笑)個人的には、やはり昔やった大河ドラマでの温和なイケメン、悲劇の貴公子のイメージが強く、そういうところが義経とはまた違う意味で後世の同情を誘うのでしょうか。

    本書の実朝も、あまりにも透明感がありすぎて、人間離れした超越者のようなイメージです。語り手は実朝に少年時代から仕えた近習で、実朝を崇拝していた彼の視点で語られるから余計にそうなのかもしれない。実朝のセリフたけが常にカタカナで書かれているのも、実朝の一種人間離れした無垢さをよく表していて効果的。

    鴨長明や、実朝を暗殺することになる公暁の、俗物ぽいキャラクターが太宰らしくて秀逸。とくに公暁が蟹を食べるエピソードは強く印象に残る。自分の死期すら察知しており、神か仏のように達観している実朝との対比が見事。同時期に太宰が本作について自ら解説したエッセイ「鉄面皮」も収録。

  • 太宰治の鎌倉史観がわかる歴史小説。吾妻鏡の引用と交互になって実朝の近習が語ります。優しく、さらさら流れるような文章。実朝に対する尊敬の眼差しがみてとれるし、大河ドラマの内容ともぴったりで楽しく読めた。

  • 2025.11.10
    実朝の浮世離れしたような存在をあの書き方で表現するのは天才的だと思う
    聖徳太子の存在もでかかったように感じる

  • こういう形式の小説もありなんだと素直に驚いた。
    歴史書の淡々とした記述を
    肉付けしながら物語を生み出していく。

    実朝を崇拝する近習の視点が推しが尊い、という現代的感性と重なって面白い。

    平家ハ、アカルイ
    アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ
    人モ家モ暗イウチハマダ滅亡セヌ

    カタカナで書かれる実朝の
    人ならぬ存在感が印象に残る

  •  山川出版社の『詳説日本史研究』は、実朝について、北条氏のまったくの傀儡であるという従来の見方を否定するとともに、「実朝の武士に似つかわしくないこうした行動(和歌や蹴鞠を愛好し、官位の昇進を望んだこと)は、彼のおかれた過酷な環境と関係があったのかもしれない」としている。ちょうどこの記述に出会った時期と『右大臣実朝』を読んだ時期が重なったということもあって、実朝の宿命にいっそう想いを馳せることとなった。
     物語の後半で実朝は遊興に耽り、政治への関心を失っていく。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」という言葉が示すように、民の状況を顧みない華やかな儀式を行い、その後鶴岡八幡宮で公暁に殺される。その有様を見ていると、実朝とは、人物というよりも、私達には及びもつかない火そのものという感じがして、火がとつぜん明るさを増し、次の瞬間には消えているというような、自然的な何かを思い起こさせる。これが解説で述べられていた「へだたり」ということなのだろうか。
     公暁によると、実朝は、京に染まろうとして染まれなかった人物である。一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では「あずまえびす」という言葉が使われていたが、京の人間にはまさにそのような認識があったのかもしれない(と実朝は思っているのだろうか)。
     「過酷な環境」の中で実朝が京の真似事に楽しみを見出すことと、そこで発揮された彼の才覚について、私は自らと実朝を切り離して読もうと努めてはいたが、公暁の語りによって、京と私のあいだで実朝の「わかりやすさ」が揺らいでいくようで、理解できそうで手が届かない微妙な描き方をしているところが素晴らしいと思った。

  • ――

     鉄仮面も熱くなってきた
     って、名言。


     ちょっと趣向を変えて、太宰治の歴史小説など。こういうのも嗜みます。にしても太宰治というひとは本当に多彩で驚く。最近偏った読書ばかりしているのでもっといろいろ読まなきゃなぁ、と思いました。はうつー本とか馬鹿にしてるんですが、この歳になってすべての本には何かしらのHow toがあるのでは? と思うようになっている。何に使うねん、というHow toだとしても。
     想像力次第である。牛刀しか無ければそれで鶏を割くだろう? と。

     歴史小説の面白さは、史実と虚構のバランス感覚というか、文献からのふくらみやキャラクタ造形がどれくらいリアルか、に大きく左右されると思うんだけれど、そのリアルさというのは実際のリアリティとは少し違っていて。というか、よく小説に対して「リアリティが無い」とかって批評をすることがあるけれどそんなもの、大隈重信の銅像にこれ生きてないね、って云うようなものだと思う。
     その点この作品の、虚構も併せ呑んだ造形は見事だなぁと感じた。矛盾も破綻も含めた、いかにもありそう、な登場人物達が段々愛おしくなってくる。

     ストレンジリアル、と云う言葉はもっと広まっていいと思うのだけれど、それが昨今蔓延るなんだか歴史上の人物を擬人化しただけ、みたいな歴史モノとの大きな差であるように感じた。


     勿論エンタメとしてもばっちり。
     読み甲斐ありました。☆3.5


  • 読みにくい本ではあるが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を全部見たのですんなりと入ってきてとても面白かった。実朝が神秘的に描かれており、とても魅力的な人に感じ、どんどんと読み進んでいけました。
    初見で読むには少し難しい印象。

  • 馬鹿の真似をする奴は馬鹿である。

    前に読んだ新ハムレットは西洋古典を基にした小説だけれど、実朝や御伽草子みたいに日本の古典を基にした小説のほうが好き。

    太宰の日本語の美しさよ。もっとたくさん書いてもらってもいいくらい。谷崎が源氏物語の現代語訳をしたみたいに王朝文学、というより、吾妻鏡のような想像の余地のある歴史書の方が相性良くないですか。
    こんなこと言ったら失礼だけど、陰謀とファンタジーがほどよく混ざった吾妻鏡は源氏物語よりずっと面白い。
    太宰は面白い物語を発掘する天才。

    言葉が綺麗すぎて、語り手が男の人か女の人かしばらくわからなかった。宋行きに加えられたり、公暁様に会いに行ったところでようやくわかったくらい。

    鎌倉殿の13人は観ていないですが、この本で言うところの相州様が主人公であればきっととても面白かったんだろう。観ればよかった。
    この文庫本の出版年が2022年だから、大河ドラマに合わせたのかもしれない。

    源平藤橘とはいえ、子供の頃は源氏は勝ち組、平氏は負け組、勝った者が正しい、という印象でした。
    大人になってから、平氏は美形が多く、宮中はイケメンパラダイスだったとか聞いたことがあるし、実朝でも平氏は明るい、源氏は暗いとか書いありますね。授業じゃ歴史の面白さがわからない。

    あと、源氏は同じ一族で殺し合いしすぎ。歴史の授業でも、実の兄の命で殺された義経の話がひどすぎると思ったけれど、それだけじゃなかった。始まりに過ぎなかった。

    九郎判官義経を隠語にする、という噺をこの前寄席で誰かかけていたな。漢字はこう書くのか。

    あとは、うた恋いでお馴染みの定家様。こんな時期の人なんですね。平安末期かと思いきや、がっつり鎌倉時代。

    平民にしたらいつだって苦しいばかりかもしれませんが、幕府があるのにこんなに合戦起こしたり、やりたい放題で、のんびりした時代でなんかいいな、と思いました。
    徳川時代に士農工商、がちがちの身分制度で平和と引き換えに自由を失う前の人たちの話。職業にしても、政府への反乱にしても。
    政府の脆弱性、とも言えますが。

    反乱といえば、前に隼別王子の叛乱が悲しすぎて読み進められなかったので、今度読もうかな。女鳥の姫のところで挫折だから半分も読んでない。

    本人は本気でしんどいんだろうけれど、私は太宰とフィッツジェラルドの自虐が好きです。グランドキャニオンの崩壊。
    自虐なんて言うとモテないから、SNSで明るいところ発信していきましょなんて、よくない兆候だと思う。大事なのは、そんなことないよ、って言わないこと。私もたいがいだけど、あなたも相当ですね、って笑ってあげればいい。

  • 図書館で借りた。
    太宰治の歴史小説。鎌倉時代の源実朝を描いた作品。出版日から、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で文庫化されたと思われる。私も影響されたので借りた。
    大河ドラマのスピンオフ的に楽しむことができた。
    近臣の目線から描かれており、実朝の神秘さといった人となりが強調されている。実朝のセリフのみカナ文字なのが特徴的。実朝が振り回されたり、それでも落ち着いて語られたり…。
    大河ドラマほど毎度まいどの戦や嵌合のドロドロさは出て来ないが、それが小説として丁度良い塩梅になっているように感じた。

    ”他一篇”として収録されているのは「鉄面皮」で、こちらは「右大臣実朝」の予告編的な存在で、太宰の右大臣実朝に対する心境などが描かれている。Wikipediaによると、戦後GHQの検閲に掛かったようだが、内容ではなく「敵国」という単語が入っていただけの理由かな、と感じた。

  • 前半は星5、中盤以降は星3。
    肝心なところを描かず終わったのには落胆させられた。
    もっと熟成させて、もっと長生きして書いてほしかった。

  • 鎌倉殿。

  • 鎌倉殿の13人を見ていたらタイミング良く発売されたので。

    吾妻鏡をベースに、実朝の近習による語りで物語が進んでいく。谷崎潤一郎の『盲目物語』を思い出す。じわじわと空気感が重くなる中で、公暁の登場によってガラリと雰囲気が変わる。公暁も実朝も、太宰自身なのか。解説には戦時下に書かれたことによる苦心や表現の仕方について、なるほど書かれた時代背景をしっかり知っておくと深く楽しめると感じた。

  • 実朝を、斎藤茂吉は万葉歌人にみたて、小林秀雄は煩悶青年とみなし、吉本隆明は自分の死と重ねた。そういう意味では実朝万能説を私は常日頃から唱えている。
    そして、太宰治に至ってはなんとイエスキリスト。実朝はキリストになってしまう。やりすぎでしょ。いくらなんでも実朝、万能すぎ。
    太宰はイデア、それもどこか現実くさいイデアを実朝像に込めている。イエスもこうやって避け得ない死を感じながら十字架にかけられたんだろうなと思わせる。実朝を西洋風にアレンジしたら、こうなりますよという例。
    最後の吾妻鏡からの引用の和歌が、実朝のセリフのようになっているのは秀逸。

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著者プロフィール

太宰 治(だざい・おさむ):1909年、青森県北津軽郡金木村生まれ。中学の頃より同人誌に習作を発表。旧制弘前高校から東京帝国大学仏文科へ進学、中退。1933年、太宰治の筆名で「列車」を発表。「二十世紀旗手」「女生徒」「富嶽百景」「お伽草子」「ヴィヨンの妻」「斜陽」ほか代表作多数。1948年、筑摩書房の雑誌「展望」にて「人間失格」連載。同年6月、同作最終回の掲載をみることなく、玉川上水に投身。

「2025年 『人間失格』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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