本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (352ページ) / ISBN・EAN: 9784003114810
みんなの感想まとめ
自然との深い対話を促すエッセイ集で、山や登山をテーマにした随想や紀行文、哲学的な考察が織り交ぜられています。著者の独特な視点が、山の魅力を余すことなく伝え、読者を自然の中へと誘います。特に、山歩きの中...
感想・レビュー・書評
-
哲学者串田孫一が山・登山について書いたものから自選した随筆集。ABCの3部構成で、Aは山歩きについての随想、Bは山名地名を明記した紀行文、Cはかなり哲学的随想。
若菜晃子さんの『街と山のあいだ』から流れ着いた本書なので、A〜Bはすっと読めたし、山の気持ち良い空気感もあった。Cは宮沢賢治の詩なども引用されていて、内容が深いとともにだいぶ哲学的な感じで、自分には少し難解だった。でも全体としてとても良い本だったので、折に触れ読み返すことになると思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私たちの心と体の世界との繋がりかたは、コンディションに左右される。街中で見かけてもただの石コロとしか感じないものも、独り山を歩き、ふと腰を下ろして手に取ると、なんとも味わい深いその肌理が、大自然の一部として語りかけてくるようなときがある。この本は、そんな世界に向かって拓かれたエッセイである。興味深いが、刺激が多く慌ただしい日常の中で、グイグイ読ませる吸引力があるわけではない。自然と向き合い、自己と向き合う内省的な時間のなかで紡がれた文章には違いないが、それを日常生活者向けにアレンジして味付けするような忖度をしていない。あくまでその世界のなかで、その世界の言葉で語っている。
たまには、この本をゆっくり味わえるような時間を持ちたい。なんなら、自分で自然の中に出かけていって、こういう時間を過ごしたい。そこでエッセイやスケッチでも書けたら、他に何も言うことはないという気がする。 -
読むのは何度めかなのですが、いつも頭に入ってくるのはごく一部です。イメージとしては、すこしはなれたところでぼそぼそとひとりごとを言っている串田さんの話を、なにか別のことをしながらうん、うん、と聞きながしている感じです。
でもそれでもいいのかもしれません。心地よい本です。
さいきんわたしも、小鳥や木に、友人のように親しみを感じることがあります。今回あらたに注目したのは、串田さんは岩にもかなり親近感を抱いていることです。こんど岩にお会いしたらわたしもそういう目線で見てみようかな、と思いました。なんだか頼もしい友人になってくれそうです。
-
たまには岩波文庫で知識人ぶりたい。ただ青色は無知には骨が折れる......。緑にしよう。と不純な理由で手に取った本書。一冊丸々、山について書かれている。
スルッと飲み込めない読みづらさはあるが「霧が青味を帯び、岩がどんどんかわいて、引きむしるように晴れ渡った。」など、様々な山の描写に惚れ惚れした。 -
大学生以来の再読です。改めていい本だなぁ。筆者と同じように感じる事が沢山あります。それがどれとは枚挙にいとまがなく、ネタバレにもなるので割愛しますが、確かに、自然と接して、1日に幾つかの驚きと出会い、心に暫く持続し、僕を形作る一部になる。そんな一日は最高です。
僕は山には登りませんが、毛鉤で渓流を釣り上がって、車に戻りながら1日を振り返ったとき、こんな経験をできた日は、本当に最高です。 -
A章の「山村の秋」、「山の夜風」が好き
B章のリアルな山行の様子に追体験してるような感覚を覚えた
C章は精神描写が多くて抽象的な山だったり、机上の山で難しかった
鳥や花や虫の名前をいっぱい知ってて私も詳しくなりたいなって思った
鳥の鳴き声だけで分かるのすごい
それだけ山に登ったんだなぁ
-
どんどん読みたくなる。面白い。何が違うんだ。山そのものより、心の有り様を描いてあるからか。山での体験は、多少違いがあっても、同様。しかし、思いは異なる。それを丹念に綴ってあるからか。参りました。
-
電車で登山者姿を見かけると、ある種のあこがれと不思議さが同居した思いがなぜか沸き上がる。
亡父が山の写真を見るのが好きで、飽きもせず何時間も写真集を眺めていたのを思い出しますが、登山もしない父がなぜそれほどこだわっていたのかという肝心な理由は聞きそびれたままでした。また、昔の友達に冬場の過酷な山登りにばかり挑戦していた人間がいました。
私も富士山にチャレンジしたことがありますが、8合目で軽い高山病の症状がでるというヤワさに、結局登山の楽しみを見出せず、なぜ登山家があえて不便で疲れる環境に身を置きたがるのかという疑問が解消できないまま時ばかりが経ってしまいました。
本書から解答が得られたかと言えばノーですが、ヒントはありました。
筆者がなぜ冬山に登るのか問われ、
「自ら求めて苦しみの中に入る愚かさ。それも、人間社会でもみくちゃになる苦しみではなく、相手は大きな自然、人間の行動に対して何の手心も加えることのない強烈な力と差し向いになって、体力やその場その場での正しい判断、我慢強さ、そういうものを自分から進んで試そうとする愚かな行為が、実に尊い行為に思える」(P100)
「自分の前に両手を広げて立ちふさがるような困難が、それを乗り切れる自信が湧いてきたとき、どれほど胸を騒がせ、高鳴らせるものか。私は、秘かにそういう機会に巡り合うことを願って山に出かけているような気さえする」(P232)
命を懸けて困難を乗り越えた「達成感」と「自然との一体感」なのか!?
未だ、山で食べる弁当は好きだが、だからといって山に登りたいとは思わない私には永遠の謎です。
1995年の本書は、「山のパンセⅠ~Ⅲ」までを筆者が厳選して編集しなおしたものです。筆者は10年後の2005年90歳で亡くなっています、合掌。 -
あとがきに中学時代の串田さんが登山を好んでいた理由が書いてあるが、ここが一番自分が登山を好む本質をはっきりと文章化してくれているように思い、大きくうなずきながら読んだ。
内容はABCと3つのパートに分かれているが、私は特にAの山を歩きながら思ったこと、の部分が気に入っている。 -
-
読み始めてから、ちまちまと読み進め気付けば10年以上過ぎてしまった。歳を重ね各エッセイから受ける印象も随分と変わったように思う。読み始めの頃は時折山に出かけたが最近は随分足が遠のいている。これをきっかけにまた山に行ってみようかな。
-
山のパンセシリーズから自選で一冊にまとめた文庫本。A.B.Cに別れていて、Aは山と人、山の素直な描写が多く、Cは想念的なものが多かった。岩についての考察が良い。言われてみれば、人間は、死んでも他人を縛りつけてしまうもんなぁ。山もスキーも私には殆ど縁がないけど、たまに自然に関する文章が読みたくなる。
-
エーデルワイスのまあきれいだこと、
-
期待して読みましたが、文体が自分には合いませんでした。
-
《 その頃私は、物そのものよりも、色や光の組み合わせによって風景を見て、またそういう印象を強く残そうとしていたためなのか、西に廻った太陽からのやわらかな橙色の陽光による、あたり一面の、かすかにほてるような、あるいは恥しさのための赤らみのような、その色合いが私に何か物語をきかせているようだった。
それは改めて私から人に語れるような筋を持ったものではなく、私をその場所で深く包み込んで行くような物語だった。》(「山村の村」より)
串田孫一さんの文章は気持ちがいい。好き。
自然は美しい。だから、自然の中に身を置いて語る串田さんの文章も当然美しい。
自分の前に自然が広がっているような気持ちになる圧倒的な自然の姿がある。
最近、私は自然の描写が(太陽の光や空や木々などの色彩の描写が)好きなんだと気付いた。
そういう文章を読んでいると幸福な心持ちになって、生きていく力が湧く。
生きていく力なんて大袈裟な!と言われるかもしれないが、事実私はほんとうに生きていく力をもらう。
::::::::: ::: ::::::::: ::: ::::::::: ::: ::::::::: ::: ::::::::: ::: ::::::::: ::: ::::::::: :::
後半にいくとちょっと内容が変わる。
それまでは実際の山に居る串田さんと眼の前に在る自然の様子が描かれているのに、詩のような擬人化された山の様子を描いた文章になる。
自然に対して、作者自身の心に対して、随想的な感じになる。
私は本来そのような文章が好きだからそれはそれでいいのだけれど、山登りをしている日記のような前半が結構気に入っていたので後半の方はちょっと残念な気持ちもした。
もちろん慣れてくればそういう文章はそういう文章でいいのだけど。
作者の串田さんのプロフィールには詩人、哲学者とある。
後半は、私がイメージする詩人や哲学者というものにぴったりと合う文章。
たとえば、
《 岩は、人間の測定の能力からも想像からも遥かに超えた力の死骸である。宇宙を駆けめぐっていた一つの力は分裂し、呼び合ったりはじき返されたりしていたが、いつしか消え落ちる火花のように、他の一層強烈な力に組み伏せられて失神し、そのまま動きを止め、次々に重なり合った、そういう力の死骸である。》(「岩の沈黙」より)
これなんかは哲学的だし、
《 電灯を消して、寝床に入ると、外で蛙が鳴いていた。激しい鳴き方ではなく、途切れ途切れに絶望的な、溜息のような声だった。どうしてまたこの一匹だけが、それも狂ったように鳴くならばとも角、まるでこの世界の空しさを、こぼれるように嘆く声が私には変に気になった。》(「堆積」より)
こちらはちょっと詩的。
《 岩山ま少しずつ崩れ、春の雪崩とともに、表面の石を落として行く。大気は山の緑をうるおすが、岩を風化させ、僅かずつ亀裂を大きくし、あたかもそれが不要な部分となったもののように、大きな岩塊を谷に落とす。それは山の全体の姿を変えなかったようにも見える。
しかし岩山は次第にやせ細って行く病めるもののように焦燥をおぼえることもある。その岩稜は皮膚のないむき出しの骨である。その胸壁も、もうこれ以上落ちるものもない一枚の骨である。》(「崇拝と礼賛」より)
串田さんはこういう風に山を見る。
私はたぶんこれから山を見る目が変わってしまう。
『私の、山についての非体系的地理学も少しは進んだつもりなのだが、この口調は人を眠らせる要素が強すぎる。』
と、串田さんは書いているけれど、そんなことはない。
確かに何ページにも渡って続くとキツいかも知れないが、串田さんの文章は何しろ短い。数ページで終るものばかりだから眠くなったり飽きたりしない。その短さがいい。
とてもいい本だった。 -
山登りをするひとってみんな詩人なのかな。でも、山登りは心情より、ファクトのほうが詩なんじゃないかという気がする。
-
有名な山随筆の自選ベスト版。
50年近く前にかかれているのに、描写される風景は変わらない。また著者はバリバリ山屋なのに、ちょっぴり及び腰な気分も書いてあり、かえって親しみを覚えた。 -
名文。何度も読み返したい。
-
生活からはまったく離れたところで、我関せずのふうで、山はある。
-
34867
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
串田孫一の作品
本棚登録 :
感想 :
