- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003118214
感想・レビュー・書評
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坂口安吾(1906-1955)の代表的な評論を収録したもの。安吾は「生きる」ということに対して常に誠実であろうとした、という強い印象を受ける。「生きる」ことの根底にある人間の絶対的な孤独や哀しみから眼を逸らそうとする欺瞞的態度に徹底的に抗おうとする、安吾の精力の甚だしさを感じさせる。
□ 無意味
意味には、それを意味として成立させるために、ある特定の方向、傾斜、偏り、限定、則ち文脈が、前提されている。そこには、身体によって条件づけられた存在である人間の下部構造が、反映されているのだろう。この文脈によって、ある特定の目的や効用が方向づけられる。この目的や効用によって、一切は評価され位階化される。金、性、虚栄、道徳といった指標は、こうして意味化された空間における座標の役割を果たす。
無意味とは、こうした一切の文脈、目的、効用、評価、位階化から解放された状態ではないかと思う。つまり、無意味とは一切の肯定のこと。と同時に、無意味は、意味の陰画として実体化=意味化され得ない、意味以前として位相化することもできない、外部にあるとも内部にあるともいえない、そういった如何とも規定し得ない境位であろう。
人間には、ある特定の意味秩序を人間よりも上位においてそれを特権化、普遍化してしまっては決して捕捉しきれない、そういう一切の意味秩序から切断されてもなお残る過剰さがある。安吾のいう「文学のふるさと」というのは、それを指しているのではないかと思う。
「私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか」(p92「文学のふるさと」)。
「この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」(p99同上)。
ここで安吾が言う「ふるさと」とは、逆説的に「ふるさとの不在」のことではないかと思う。家に帰るときほど、自分という存在の所在なさを痛切に思い知らされることはない。通常ならば、家は最も安心できる場所、自分が自分自身に戻れる場所であるかのように思われがちだが、その家こそ自分にとって余所余所しく場違いなところであると知ってしまったら、家だと思っていたところが実は家ではないと気づいてしまったら。孤独であるということ、帰るべき場所などないということ、世界のどこにも根を下ろせないということ、それは人間が決して逃れることのできない存在論的な前提条件であろう。
「「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しみもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる」(p130「日本文化私観」)。
□ 小林秀雄批判
無意味を、一切の接続から解放された単独者として現実の煩わしい意味からの逃走として夢想する私にとって、安吾による小林秀雄批判は耳に痛い。自分が好む文学や芸術も、古典をはじめその作者が既に死んでいる作品がほとんどだ。
「生きている人間なんて仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言いだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(p342「教祖の文学」)。
と「無常といふこと」で書く小林に対して、安吾は次のように書く。
「生きている人間というものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当り、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生れて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ」(p345ー346同上)。
安吾は人間の背後に虚無をはっきり自覚しながらそれでもなお現実のほうを向き、私は現実に背を向けるために虚無に隠棲しているだけなのか。
□ 天皇制という欺瞞
天皇制および天皇制を一貫して保持し続けてしまっている日本の歴史の欺瞞的な実相が、実も蓋もなく描き出されている。
「[略]、天皇制自体は、真理ではなく、また、自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於いて軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、[略]」(p222「堕落論」)。
「天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。/藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分がまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである」(p235「堕落論〔続堕落論〕」)。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1931年から1950年までの間に書かれた坂口安吾のエッセイ24篇が収められている。体面や道徳のような理屈をはぎ取った裸の自分を見つめ、生きることの滑稽さや時にばかばかしさをも受け止めて生きていく姿勢がどの作品からも感じとられ、とても面白かった。
生きることは理屈ではなく生身の人間の弱さや愚かしさ、欲得から逃れられないものである。
坂口安吾の目から見れば、宮本武蔵も死ぬことが怖くて試合に勝つための方法を考え抜き、卑怯と言われるような手を使っても勝ち続けた若き日の姿がすばらしいのであって、老成して『五輪書』を書いた武蔵は、下らないということになる。
評論家として高い評価を得ている小林秀雄についても、回りくどい表現を使って文学や芸術を論じながらも、死んだ人、変化しない芸術しか論じることができない、骨董の鑑定人のようなものだと断じている。生きていれば変節もし、その作品も人間性も変わりうるが、小林秀雄はそのような生をそのまま受け入れることを避け、何か不変の真実のようなものを語ろうとしているところが、だめだということである。
この姿勢は、有名な『堕落論』にも通じており、戦前の価値観と戦後の価値観に何とか折り合いをつけようとしたり、逆に過去をまったく切り捨てて「新しく生まれ変わる」が如くの論を展開しようとする知識人に対して、「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要」だという言葉は、このような安吾の姿勢からしか生まれてこないということがよく分かった。
そして、この本に収められているエッセイを読んで、彼のこのような姿勢が敗戦という時期を挟んでも、驚くほど一貫しているということがとても印象的であった。
本書のエッセイの中では、安吾の文学論も面白かった。『赤ずきん』に始まり、狂言や『伊勢物語』など、古今の物語の中には何らかのモラルや救いがない作品があり、彼はそのような作品こそ、人間の生きることやこの世の中の本当の姿を現しているように感じている。
モラルがないことが一つのモラルであり、救いがないことが救いであると述べており、これこそが「文学のふるさと」であるとまで語っているのが興味深い。
同じように道化という存在や喜劇という作品の形式に高い価値を見出したり、美しさを表現しようという意図がまったくない工場の風景に美を感じるというように、彼にとっての芸術や美に対する価値観が現れているエッセイが多く収録されており、坂口安吾という作家の見ていたものが何だったのかを感じられる作品集になっている。 -
新潮文庫の堕落論はすでに持っていますが、「茶番について」を読みたいがためにこちらも買いました。
荘子や大江健三郎を読んだ影響で、自分が今年に入ってから考え続けている「不合理」の正体について、「茶番について」はひとつの着地点を提示してくれました。
早稲田大の入試にも出たようです。
全体としても大変良いエッセイ集でした。 -
終戦時に書かれた、逆説的で本質的な人間論。
・武士道は人性や本能に対する禁止事項であるため非人間的、反人道的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである。
・堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影に過ぎない気持がする。
生きているから堕ちるんだ。 -
坂口安吾は、日本文学史上の作家として評論が代表作として取り上げられる稀有な作家です。
本作に収録された24篇の作品はすべて氏によって書かれた評論、及びエッセイです。
戦中戦後を通して時代を見通した、本質をついた、あるいは、感情を隠さず書き連ねられた文章が収録されています。
作品数が多いので、一作ずつの感想は難しく、ある程度、複数作品をまとめて感想を書きました。
各作品の感想は以下の通りです。
・ピエロ伝道者 / FARCEに就て...
坂口安吾は1931年評論・"ピエロ伝道者"、翌年"FARCEに就て"を発表し、そこで、「芸術の最高形式はファルスである」と延べます。
そして、1931年6月に、ナンセンス文学『風博士』を発表したことにより、作家として認められるきっかけとなりまた、新進ファルス作家として活動を始めます。
ファルスとは道化的な喜劇的な作品であり、行動原理の説明も犯罪行為の代償もひっくるめて、ある意味で"うやむや"でオチをつけることができる寛大な手法で、それが何故に"最高形式"たるかが述べられています。
ファルスは、坂口安吾を知る上で必須のテーマであり、また、お話を読む上で知っておくことでより深く楽しむことができる考えなので、非常に興味深く読めました。
・ドストエフスキーとバルザック / 意慾的創作文章の形式と方法 / 枯淡の風格を排す / 文章の一形式 ...
坂口安吾は若い頃よりドストエフスキー作品に心頭していて、仲間たちと研究会まで立ち上げました。
"ドストエフスキーとバルザック"はその第一回後に書かれた評論です。
本作以外でも、ドストエフスキー、バルザック、モーパッサン、ゴーゴリなどの作風を比較することで、ただの文章と小説の相違を浮き彫りにすることを試みています。
また、その中で"枯淡の風格を排す"では、徳田秋声氏の「旅日記」という作品を批判しています。
小説として書かれるべきではないという悪例として、具体的な内容を持ち出して書かれている部分があり、驚きも感じましたが、一方でわかりやすいと感じました。
なお、この頃の坂口安吾は、引っ越しを繰り返す流転の日々を送っていて、女性関係でも離別があって、遊びと飲酒に明けた放蕩の時期だったそうです。
・ 茶番に寄せて / 文字と速力と文学 ...
1938年5月、坂口安吾はドフトエフスキーの文学に影響を受けて執筆した長編「吹雪物語」を脱稿しますが、本作は失敗作と評され、自身もそう感じます。
"茶番に寄せて"はその翌年1939年に発表されたエッセイで、執筆意欲のわかない安吾が、編集の北原武夫氏より、思い切って戯作を書いてみないかと提案されたことに端を発して書かれた、道化文学というものに対する感想です。
"文字と速力と文学"も、文字を書くことに関する数ページ程度のエッセイで、深い思想ではなくよしなしごとが書かれています。
作家としての道を模索しながら、ある意味では手探りで文章を書いているように感じました。
・文学のふるさと / 日本文化私観 / 青春論 ...
"文学のふるさと"で坂口安吾は、シャルル・ペロー版の赤ずきんを例に上げ、モラルのないこと自体が文学のモラルであり、それこそが文学のふるさとであるとしています。
平和に生きていた少女が、狼に騙されて頭からムシャムシャと食べられてしまうだけの、なんの教養も無いこの作品こそが、文学の出発点であると考察し、文学はこのふるさとの上に成り立つものでないと信用しない、一方で大人の仕事はふるさとに帰ることではないとしています。
本作を出発として、坂口安吾は次第にヒット作を書き始めます。
表題にもなっている"日本文化私観"は、坂口安吾の代表作で、出生地でありタウトが批判した新潟市を愛し、俗悪な伝統文化を日本的として讃えています。
「美を意識したところから美は生まれない」とし、民族の伝統や文化は、精神がある限り潰えないという名エッセイです。
"青春論"もおもしろいです。
自分の青春論は淪落論であるとし、宮本武蔵の逸話を取り上げて人生の目的を説明しています。
・咢堂小論 / 堕落論 / 堕落論〔続堕落論〕 ...
咢堂は政治家「尾崎行雄」の雅号です。
咢堂小論は戦後に尾崎咢堂によって唱えられた、当時としては革新的な論述に対する安吾の考えを述べたもので、戦前、戦中日本を鑑みてこれから日本は如何なるべきか、何が良くて何を変えるべきかなどを論じた小論となります。
執筆されたのは1945年ですが、1947年に刊行された堕落論に同録されており、堕落論に繋がる持論が垣間見える作品でした。
堕落論、及び続堕落論は、坂口安吾の最も有名な評論で、評論でありながら、日本文学史上代表的作品として取り上げられる名著です。
敗戦後の日本にて暗澹たる実情を見つめ直した結果、書き上げた作品で、レベルは違えど現在苦しいと思っている人にもおすすめしたい内容となっています。
戦場で勇敢に戦った戦士も闇に堕ちてしまったが、それは戦争に負けたから堕ちたのではなく、人間だから堕ちたのである。
人は政治によって変わるのではなく、人であるためには、堕ちるところまで堕ちるべきであるという"堕落"をすすめる書であり、人に勇気を与えてくれる内容と思いました。
・武者ぶるい論 / デカダン文学論 / インチキ文学ボクメツ雑談 ...
"武者ぶるい論"、"インチキ文学ボクメツ雑談"は、過去に発売された全集には未収録の作品です。
それゆえ、本二作を目的に岩波文庫版を手にとった方もいるのではと思います。
執筆時期は異なりますが、両作品とも数ページほどの短い作品で、内容は滅裂に思いました。
特に1951年発表の"武者ぶるい論"は、このころ睡眠薬で中毒発作を起こしたり、共産党批判をしたり、せっかくの収入を博打で全て使い切ったりとやりたい放題していたためか、文体も荒く、妙なテンポの良さを感じましたが論旨がつかめませんでした。
"デカダン文学論"はそんな中ではしっかりした作品で、堕落論の流れにある内容と思います。
・戯作者文学論 / 余はベンメイす / 恋愛論 / 悪妻論 / 教祖の文学 ...
安吾は戦後まもなく流行作家となりますが、戯作者文学論はその初期にあたる時期に書かれた評論で、本作の数カ月後、坂口安吾や太宰治は「新戯作派」と呼ばれ始めます。
"平野謙へ・手紙に代えて"という副題の通り、平野謙からの依頼に対する、日記形式のエッセイです。
戯作者である自身が何を思い書いているかが書かれていて、内容は極めて赤裸々で、くすりとくるものとなっています。
"余はベンメイす"は、その頃「情痴作家」と呼ばれていた安吾が、性をテーマにした取り組みの多さに"ベンメイ"を要求します。
それは善意で、考えを一筆書いて活動しやすくするためと思うのですが、文中の安吾はヒートアップしています。
共に人間性の垣間見える作品と思います。
一方で、恋愛論、悪妻論は、身も蓋もないことが書かれているようにも思いましたが、理論的でわかりやすく、一変して読みやすい作品でした。
同時期に書かれた"教祖の文学"が読みにくい作品で、戯作者文学論から教祖の文学までは全て同年の7ヶ月以内に書かれた作品なのですが、非常にムラを感じました。
・不良少年とキリスト / 百万人の文学 ...
1948年6月、太宰治の入水自殺がありました。
"不良少年とキリスト"は自殺してしまった太宰への怒りに近い内容となっています。
序盤"バカヤロー"から始まり、内面の赤面に魔法の酒で対処してフツカヨイになった、死に損なったら「人間失格」や「グッドバイ」を返上するものを書いていたに違いないと書いています。
また、百万人の文学でも、太宰治が百何年後にも愛読されると書いていて、その文学を絶賛していたことが感じられました。 -
不良少年とキリスト
太宰の死に際しての一文。
「新聞記者のカンチガイが本当であったら、大いに、よかった。一年間ぐらい太宰を隠しておいて、ヒョイと生きかえらせたら、新聞記者や世の良識ある人々はカンカンと怒るか知れないが、たまにはそんなことが有っても、いゝではないか。本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑れたものになったろうと私は思っている。」
なんと愛に溢れる追悼の句であろう!
「不良少年とキリスト」(坂口安吾著)
Day165
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2016.1.31
これまたすごい本に出会った。坂口安吾恐るべし。本著は著者のエッセイ集だが、文学論や芸術論もとより、人生論、人間如何に生きるべきかがここには書かれている。人間、私、これはもうどうやっても他者と交換不可能なものであり、人間みな各々、己を生きている。ではあとか如何に、より己を生きるかである。基準は一切、自己にある。人の人生なんて生きない、人の価値観なんて生きない、ただ己であること、その唯一絶対基準により生きる道を探る。そしてまた己とは人間である。人間とは何か。人間とは欲望存在であり、下手な社会通念や道徳によって覆って誤魔化すのではなく、虚偽にまみれることなく、欲望を直視して生きよという。虚偽にまみれた人生の成れの果て、死という絶対を前にしたその薄っぺらさと後悔は、トルストイのイワン・イリッチの死に描かれている。人間として、虚偽なく、道徳なんて嘘で隠すことなく、人間らしく生きるには堕落が必要だ、人間よ堕落しろ、これが堕落論である。ただひたすら自己に還元し、自分を見つめ、自我に嘘をつかず、正直に、己らしく、人間らしく生きようとした。このような価値観は、私も常日頃考えていることで、非常に参考になったというか、感動した。私なんてまだ嘘まみれな人間だけど、過去にこんな、この茨の道を生きた人がいたのかと思うと、感動する。芸術とは生きることだと岡本太郎さんも言ってたっけ?まさに、芸術家とは何よりも、自己と向き合い、そこから人間を洞察しなければならない。しかし、改めて考える。自己に忠実に生きることが本当に、よく生きると言えるのか。生きることは欲望だ、ならばよく欲望を満たせば、よく生きてると言える、のかもしれない。そして欲望とはまさに私に宿るもの、私の欲望というオリジナルなものである。私の死とあなたと死が全然別のものであるように、私の欲望存在としてのあり方と、あなたのそれもまた違う。己を、人間を生きるとはつまり、他の誰とも変えようのないオリジナルとしての私固有の、欲望存在というあり方を、直視し、誤魔化さず、生きろ、ということだろうか。でも欲望に従えるほど、やろうと思って堕落できるようなものでもない。だって怖い。堕落することも怖い。欲望に忠実にというが、自己を顧みればみるほど欲望はまるで闇鍋みたいにいろんなものがごった返して存在しているものであって、その中には1つに従えば他を捨てる結果になるものもある。欲望に忠実?どの欲望に忠実になれというのだ。従うべき主人が100人いて誰に忠実になればいいのかわからないのと同じだ。自己を自覚し自己を内省すればするほど、何もできない。右に行けば嘘になり、左に行けば嘘になる。結果身動きはとれない。ずっと引き裂かれ、ずっと葛藤。苦しい。もうこんなの嫌だと思う。嘘でもいいからぬるい幸福にすがる。厚顔無恥な道徳を得ようと自己啓発本を読む。でも結局、それもできない。嘘を退け続ける強さもなければ、嘘をつき続ける強さもない。これは私の話だが、これも1つ、人のあり方ではないだろうか。堕落すらできない。人は永遠に満足できず、引き裂かれ続け、苦しみ続ける。これが私なりの、正直な生き方という問いの答えである。救いはない、かな?いや、そんなことはない。この苦しみに嘘はなく、故に己を生きているという実感、その上でたまに手に入る幸福、それを本当にありがたいと思える。また宮本武蔵や勝海舟の親父さんの話も面白かった。人事を尽くして天命を待つ、というか。世界は時に私がいかに生きようと全く関係なく私に幸も不幸も与える。それは天命、変えようのないことだ。しかしならば人事をしてどこまで尽くせるか、これこそ人間の分限であり、ここに生きることの課題がある。この本に書かれていた人生論は、大きく私の今後の指針となるだろう。また読み返したいと思う一冊。下手な自己啓発より、哲学書より、芸術家の書いた人間論や人生論が、私を強く耕してくれるなと思った。生きねば、生きねばならない。その現実、その苦しみと向き合い昇華したものこそが美しい。必要は発明の母という。真善美も、笑も、すべてそうではないか。それ自体として目指すものではない。生きることと向き合うことで、必要を見出さねばならない。必要を見出した人間こそが、真善美も得られるのではないか。 -
エッセーとしてとても面白かった。
共感できる部分が多く、わかるわあ、ってさせられたので、エッセーの文章としてのクオリティが高いんだと思う。
基本的なスタンスとして、自分に正直であれ、曝け出せ、くだらない体裁が一番ゴミだ、っていう感じなので読んでて気持ちいいよね。元気が出る。 -
自己啓発やら有名人の名言やら科学的にどうとやら
上に向かっていこうぜっていう本が多い現代。
それ自体は良いも悪いもないのだが、肉ばかり食ってないで魚も食わないとバランスが悪い。
堕落論には、そうゆう役割もあると思うし、そうでなくとも単純に読み物として面白い。でもどう見ても野菜ではない内容である。
戦争を経験しながら、多くの人とは違う視点で生活してきた著者の魅力が詰まっている。それでいて、これをこの時代に言ったのか。という一言に尽きる。何度も読み返したい。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/686824