- Amazon.co.jp ・本 (420ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003118238
作品紹介・あらすじ
安吾、安吾、安吾-安吾とはいったい誰か。坂口炳五はいかにして安吾になったのか。"求道者・安吾"、"落伍者・安吾"、そして何よりも"作家・安吾"。冷徹に現実を見つめる"鬼の目"、そして"いたわりの視線"。安吾にとって、自伝的作品を書くことは、自分の思想や生き方と自分の過去との全面的対決であった。
感想・レビュー・書評
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再読。10年ぶり。舞台が下北沢から代田橋だったことを忘れていた。
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https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/686825 -
世田谷
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文学史で戦後文学に「無頼派」がある。「無頼」とは、辞書によれば「正業に就かず、無法な行いをする者、またはその行為」とある。つまり、きわめて反社会的な価値観である。
しかし、「青年期」は、ゲーテが「疾風怒濤の時代」と呼んだように、内面の葛藤の時期。その時期に、善良で社会規範に合う人間像だけを求めるのは、大人の側の身勝手だ。青年を成長させるのは、無数の宿題よりも、全き一人旅であり、燃える恋であり、慣れぬ社会での労働だ。「無頼」の精神は、自己を模索する青年期にこそふさわしい。
坂口安吾は、新潟市出身。私は以前、同地の海浜にある彼の文学碑を訪れた。そこは、彼が中学校時代に学校をさぼって空を眺めた場所。そこに立つ、日本海を臨む石碑には「ふるさとは、語ることなし」とある。
「無頼」のもう一つの意味は、文字通り「たよるべきところのないこと」。「無頼派」の作家たちの身を削る人生とその創作は、何者にも頼らず、己だけを頼みにした者たちの壮絶さそのものだ。
いや、それも違うかもしれない。「私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから」(「私は海を抱きしめていたい」)。
自分自身の言葉を「虚偽」であり、生活も「虚偽」であるとする「私」は、「無償の行為」を想い続ける。しかし、息をひそめ、耳を澄ましても、私自身が何者かは見つからない。「いずこへ?いずこへ?私はすべてがわからなかった」(「いずこへ」)。(K)
「紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉」2011年6月号より。 -
自伝的小説を集めたもの。『オモチャ箱』の主人公・牧野信一の作品を読みたくなった。
この作品群を読んだ後に、巻末の年譜を読むのがまた面白い。 -
語れば語るほど自分の言葉になるような。然し、表面だけの偽善的な言葉のようにも思える。
もっと、思考に対する時間的密度が必要なのか。
そして、時間を経てものになった言葉たちは果たして真実のものなのか。
前を向き後ろを向き、右、左、さてここは何処か。私は何処へ向かっているのか。
考えれば考えるほど暗い。
ただ然し、暗いこと、思い悩むこと、分からなくイライラすること、そんな類のものは何か次に進むための兆候があるのだろうと考え、希望は捨てず考え耽る。
ある時、顧みると人間に近づいているのかなという自分。
そしてまた考える。
坂口安吾、自己との全面対決。
その決意が読み進めると伝染し、結果そうなっている。
もっと、もっと自分を知りたい。
僕にとってそんな思いが強くなる本でした。 -
成るべくしてかれは物を書く者に成ったんだなぁ、と。
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安吾は語る,私とは。
自伝的作品ということで,その背景も知りながら読んだ方がよかったのかな。無頼派,あまり詳しいことは知らない。ここに描かれているのが,安吾の姿なのだろうか。真面目で,適当に世の中を生きていくのは難しい。だからいい人の振りをしてみたり,そんな自分を客観的に眺めたり。自伝的に物語りつつ,創作しているというところが,自分さえ外側から眺められるほどの真面目さを感じさせた。 -
坂口安吾の中にはまるで湖があるみたい
深く透明に澄んでいて怪物が住んでいる
溺れてしまうかもしれない
捕らわれてしまうかもしれない
でも、悲しみを知っている人に
遣る瀬無く惹かれてしまうものが
あるのです -
20160403 日本経済新聞 リーダーの本棚 松本 大氏
「私は海をだきしめていたい」
著者プロフィール
坂口安吾の作品






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