M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫 緑197-2)

  • 岩波書店 (2014年9月17日発売)
4.03
  • (14)
  • (18)
  • (5)
  • (1)
  • (2)
本棚登録 : 274
感想 : 25
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (448ページ) / ISBN・EAN: 9784003119723

みんなの感想まとめ

不思議な神話と歴史が交錯する村の物語は、読者を独特の世界観へと誘います。大江健三郎の作品を彷彿とさせるこの物語は、読み終えた後に強い達成感をもたらし、再読を促す魅力を持っています。村のリーダーたちの知...

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「同時代ゲーム」を少し読みやすくした感じ。大江健三郎さんの長編は読み終わったあとの達成感が半端ではない。
    また、しばらくするとほとんど内容を忘れてしまうので、また読みたくなってしまうというループに陥ってしまう。

  • この本は、「ある森の中の村のフシギな物語」です。
    とても不思議な神話、昔話のような世界観に入っていけて良かったです。
    ぜひぜひ読んでみて下さい。

  • 面白く、拍子抜けさせられ、びっくりした本。

    共同体の年代記が好きなのと、学生時代なんとなく大江の長編を読んでいた時期があったのをふと思い出して読んでみた。神話と歴史が入り混じる村の物語はときおりとても都合がよいが、神話パートの奇想天外と歴史パートの村のリーダーたちの知恵の使い方が小気味よい。

    村の歴史を語り直したら「僕」は何かを始めるのかと待っていたのだが、特に何もしなかったのが拍子抜け。ただ彼は彼の世代での役割を受け入れたということで、何かを負わされることに大きな回答はもたらされないということなのかもしれない。そのとき負わされた課題に取り組むことが必要で、なぜ自分が、という問いを追求することは重要ではないのかもしれない。

    愛媛の言葉なのか、「僕」の祖母や母の話し方は、世界と自分と心とがぴったりくっついているような実の詰まった安定感がある。あのように話せたら、自分が世界の一部であることに迷わないで生きられるのではないかと感じた。祖母と孫の会話も本質的で心にしみる。ただそこは大江が全力で泣かせようとしてきているという気もした。上手です。

    びっくりしたというのは(かなり個人的なこととは思うのだが)、終盤に「魂をみがく」という言葉が何の説明もなく語られ、自分にはそれがどういうことなのかさっぱりわからなかったこと。本書でのこの言葉の現れ方をみるに、魂をみがくとはどういうことなのか、自然に感得できる環境の人もいるのだろう。なにか良いことのような気がする、でもそのような言葉で何か特定の姿勢を維持しようと思ったこともなければ、所属する集団にそれを要請されたこともない。これから自分はおりおりに「魂をみがく」ことを考えていくだろう。考える手掛かりが自分の中にない概念を目の前にどさっと落としてきたという点で、本書とは良い出会いをしたと思う。

  • 中盤までは「同時代ゲーム」とほぼ同一。迫力があって刺激的。終盤は、「同時代ゲーム」が一貫して神話的であるのに対し、本書は神話から家族に収斂されていく。自分につながる先人達に想いを馳せたくなる壮大さがある。

  • 『同時代ゲーム』ではSF的な処理が施された箇所にも現実的な裏づけを与えるようにして書き直されたといえる作品。再生・未来へのつながりということが新しい要素としてけっこう露骨にあらわれている。解説の女性的という指摘はなるほどと感じた。


  • 『同時代ゲーム』で挫折した人にも安心(?)して読んで貰える。内容はほぼ同じだが、かなり易化しており読みやすい。
    著者の故郷の逸話や土着信仰から、ここまでスケールを広げた物語に出来る事に、純粋に驚愕する。
    作者の拘る大江流神話の完成系。

  • 大江作品群の基準点のような立ち位置に佇む、大切な作品です。この作品で語られた四国の谷間の村の逸話を、以降の作品で形を変え、幾度も語られていきます。そういう意味で、大江のセルフオマージュの基準点です。

    中盤までは、谷間の村の史実と大江の個人的な体験が、(大江の晦渋な他の中期の作品とは異なり)柔らかな文体で語られています。巻末の小野正嗣の解説での、「受容的・女性器的な文体」という表現がピッタリ当たっています。

    終盤、史実の語りに少々マンネリしてきたところへ、ここにきて大江作品らしい生々しさのある事件が起こります。そして主人公の母から神秘的な「森のフシギ」が語られるのです…。
    歴史の途方もない循環性に対して、しかし個々人の人生の価値をも保証してくれる、美しい語り。
    さらに後期の作品『取り替え子』や『晩年様式集』にも通ずる、まだ生まれてこない次の世代に想いを馳せる語り。

    ノーベル賞の受賞理由作品である所以がよく分かりました。
    比較的易しい文体であるため、それこそ将来の僕の、まだ生まれてこない子供に読んでもらいたいと、前向きな想いを馳せています。

  • 語り手(≒大江健三郎)が生まれ育った四国の「森」に伝わる奇想天外な歴史が、読みやすい文体で語られる。他の作品ともリンクしているので、大江の作品に初めて触れる人/挫折した人に、ぜひ手に取ってほしい一冊。

  • 第1章から語られる、森に囲まれた盆地の村に伝わる神話や歴史は幻想的でありながら微細なところまでリアリティに描かれている。しかしこの壮大な神話がどんなことを表現しようとしているのかが割と後半に差し掛かるまで掴めず、序章で示されていた人間の生涯を語り尽くすのには話が大きくなりすぎて解釈が難しくなるのではと心配になった。しかし話が後半に差し掛かるにつれ、語られる話は神話から歴史へと転換する。その歴史の中でも神話は死ぬ事なく寧ろ生き続け、膨張すらして村人たちに影響を及ぼす。やがて語っている現代まで帰還しても神話が色濃く根付きながら村は保たれている。そして最終的に語られるのは領域が一気に狭まり、家族についてになる。神話や歴史を語るのは当然人であり、それを聞くのも人である。この物語では語り継ぐという行為が今に伝わることがどれほど愛おしく、人間愛に溢れているかが分かる。そして、それは先祖やそれに関わる神話、歴史そして土地を愛することで今を生きる一個人を愛することにつながっている。先祖や土地の姿というのは時間に逆らうことは不可能で、目に見えなくなるなり、失われてしまうが、人々はそれらを語り継ぐという尊い行為ができ、その行為が消滅から救い、愛を育むことができる。人間は何処に行ってしまおうとこの行為ができれば幸せであるのかもしれない。読み終わってみると、初めは理解できなかったこの小説の人物たちが思う「懐かしさ」というものの片鱗が理解できる気がする。例え全く人生で経験してないことであっても代々先祖が語り継いだ人間の血が自分に巡っていれば何か抽象的な懐かしさを感じることもあるのかもしれない。これは科学的な域を出ているようであるが、人が語るということは遥かにそういう域を超えるやんごとないことであると思えば、我々の存在はなんと壮大で素晴らしいことであろう。柄にもなくそんなことを思わせてくれる作品であった。

    追記
    そういえば人は度々個人への愛を語る時にさへ大仰なことを考えたくなる。身近なとこで言えば月が綺麗だとか、歌でも自身のちっぽけさを俯瞰したりするし、自分がここにいることは先祖代々からの行動一つ一つがもたらした奇跡と捉えることはよくある。この感覚を文学で芸術にまで進化させたのがこの作品かもしれない。

  • 大江健三郎を愛読してるのだけど、四国の森の中の村の神話と歴史に関する話は正直苦手に思っていた。それは20年前、大江健三郎の初読が「同時代ゲーム」で、これを読むのに大変難儀した(足掛け2年はかかった。内容はほとんど理解出来なかったと思うが、読了後はやたら感動した記憶。)からだと思う。それに比べると「M/T」は非常にすっきりして読み易い。同時代ゲームも20年かかってようやく、再読してみようという気になってきた。
    とはいえ、この小説の最も感動的な部分は神話と歴史の部分よりも第5章にあると思う。(それはあまりに見事な小野正嗣さんの解説にある通り)
    大江の作品どれもだけど、社会、人類、歴史、過去の作品が自分事に接続された時にこそはっとなり、心に深く刻まれる。
    あと、個人的に気になるのはこの小説が書かれるまでの困難について。「小説のたくらみ、知の楽しみ」では「女族長とトリックスター」が幻の小説となったことが書かれ、それが短編、中編に再構成され「いかに木を殺すか」になったとある。では、この小説は?

  • 同時代ゲームの方が、全然面白かった。

  • 『同時代ゲーム』を元に『語り直された』と言うべき長篇。
    手法としては矢張りマジックリアリズムに属しているが、『同時代ゲーム』にあったSF的なものは薄れ、南米文学の影響がよりはっきり感じられる。
    ただ、SF的なものが薄れたと同時に、『同時代ゲーム』にあったエネルギー、勢いのようなものも薄れてしまったのが残念。
    ほぼ同じ主題を扱っているので、どちらが好きかは読者の好みだろうが、個人的にはあのよく解らないエネルギーが迸っていた『同時代ゲーム』を推したい。

  • 大江がノーベル賞を受賞したのはこの作品であったのかもしれないと思わせるような小説である。他の短篇は多く読んでいるが、この本は今まで読まなかった気がする。何しろ序だけで55ページであり、たった5章ではあるが450ページという長編である。この四国の土地がインバウンドの観光名所になったことは聞いたことがないので、海外の人にとっては難しいのかもしれない。

  • 同時代ゲームと同じように圧倒的な!想像力と壮大な話をまとめる技術、同時代ゲームと比べて個々の話のトリックスター的要素は薄れ、かなりスリムになったものの、それでも重厚な語り口は変わらず、そこに新しい要素(M)が加わり寓話性が一気に高まってる!

  •  本作において、象徴的に描かれているのが「大日本帝国」と「谷間の村」の対比である。天皇に象徴される大日本帝国や、M/Tに象徴される谷間の村は、どちらもハラリのいうところの宗教的な虚構に裏打ちされた共同主観的秩序を有する共同体である。一方で、近代的な個人主義と、原始的な集団主義という二項対立でもある。物語の中では、これらが単に対立するだけでなく、最終的には両者の止揚が描かれる。

     作者は、村の神話や歴史を持ち出してきて何を語りたかったのか。それは、作中のアイルランド人の劇作家の台詞に集約される。村の神話と歴史を聞いた者(つまり「僕」や読者ら)は、自分らの持つ歴史として、「明治の維新をめぐる様ざまな内戦」よりも、谷間の村と大日本帝国との間にかわされた戦争の方に、ずっとリアリティーを感じるに至るのだ。このリアリティーは、「懐かしい」という言葉で何度も表現される。
     この「懐かしさ」というのは、「それも自分が直接にかつて経験したことのよみがえり」ではなく、「この森のなかの谷間で、はるかな昔に幾度も幾度も起ったことだから」感じるものなのだ。つまりリアリティーと言っても、必ずしも事実(リアル)である必要はなく、それがはるか昔に幾度も起ったことと感じられる事が重要なのだ。

     個人主義的な価値観においては、「僕」が生まれながらに(厳密には違うが)村の神話と歴史を書き記す太安万侶的役割を与えられることは、恐ろしいこととされる。農家の息子は農家でなければならないというような、生まれながらの役割を否定するのが個人主義だからだ。実際、現代という個人主義社会で暮らしている「僕」はそれを重荷に感じ、消極的ながら自殺企図するに至る。しかし本作ではむしろ、最終的にその役割が肯定的に描かれるのだ。そしてそれは神話上の登場人物のM(メイトリアーク)やT(トリックスター)という役割と重ねられていく。
     なぜ肯定的に描かれるのか。それは冒頭の「あるひとりの人間がこの世に生まれ出ることは、単にかれひとりの生と死ということにとどまらないはずです。かれがふくみこまれている人びとの輪の、大きな翳のなかに生まれてきて、そして死んだあともなんらかの、続いてゆくものがあるはずだからです」という文章に集約される。ひとりの人間は、単に個人でなく全体の一部として、役割が与えられているという見取り図が提示されているからである。これは、事実ではなく、やはり共同主観的な虚構だろう。しかしそれは「懐かしさ」というリアリティーに満ちた虚構なのである。

     そして、それは個人主義と両立しうることが第五章で、「森のフシギ」と関連付けて語られる。「森のフシギ」とは「この土地で私らが生まれ育って、生きて死ぬ、いわばそのおおもと」であり、村の死生観において重要な役割を示す。そして、「僕」の母親曰く、「『森のフシギ』のなかにあった時には、それぞれ個々の いのち でありながら、しかもひとつ」であったという。まさしくここに個人主義と集団主義(というより統一的一者への融合)の両立が示唆されている。(そして、一見無意味に思える個々のいのちの流転に、「森のフシギに還れるように魂を磨くため」という意味が与えられる。)
     第五章ではそのとおりに、「僕」が谷間の村で生まれながらに与えられた太安万侶的・トリックスター的役割が、「僕」という個人に関わる問題(生の意味や息子や母親との関係)に肯定的に作用する様が描かれる。メイトリアーク的役割を担った「僕」の母親も同様だ。病を患いながら、「病気は確かに私の身体のことであるが、しかも私の いのち のことではないような、よそよそしい気持」を感じ、「自分としてはもうわずかしかない日にちの間、 魂 のことをしようと思いましたが!」と決意する。そして「僕」との関係が恢復するのである。
     こうした肯定的な作用をもたらしたのは、森のフシギを含む村の神話と歴史である。つまり虚実入り混じるものなのだ。母親が「在」を高みから見下ろした際、「まことに小さな、狭い場所でしたが! こういうところを全世界のように思いなして、生きてきたなあと、そして死んでゆこうとしておるなあと、滑稽なような、腹立たしいような気持」を感じたことからも、それが分かる。しかし、そうした虚実が入り混じるものから、肯定的な作用が齎されるものほど、小説的なものもないと思う。故に、「あったか無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ」のだ。

  • わけわからん
    この世界をわかりやすいサーガに改めた村上春樹の偉大さを知る

  • 同時代ゲームは未読。どんな風に解釈すべきなのか、読みながら考えてしまうと進めなさそうに見えたので、まずは神話のような物語として読み進んだ。
    読みながらようやく理解が進み始めたのは第2章。著者は「何種類もの話され方を一つの物語に重ねて聞く、それをのびのびと自由に聞き取るという習慣こそ、祖母に教育された最も良いことであったかもしれない」と書く。ああ、なるほど、と、ここから俄然面白くなった。第二次大戦をはさんで極端な価値転換を実体験として持つ著者が、時の流れの中で何が起きたのかについて考える時に、この自由な思考回路に救われ、公に書かれた歴史だけでなく、個々人の語る実体験をもとにした厚みのある歴史を自分の軸にして語る力を得たのかもしれないと思う。だからこそ、最終章で現在のご子息やお母さまとの話につながっていったのが自然な流れで読めた。

    静かで壮大な、神話のような物語。森の、自然の中で、その力に守られて生きた時代、生と死の境界線があいまいで、目に見えないものを理解し、想像し、信じる能力を持っていた時代。そういう世界をつぶしていく愚かさと、その愚かさの理不尽な強さ。そのうち「同時代ゲーム」に再挑戦しようかと。

  • わたしはこの作品が好き。

  • 神秘の森とその谷間の神話と魂の回帰。
    神話から歴史、そして現在に繋がる繰り返す挿話。すべてが不思議な森の力によって一つに繋がっている。小さな宇宙がそこにあるようだ。
    文章が面白いだけでなく、自分という小さな器から心が解放されるような気持ちになれる物語です。

  • M/T・生涯の地図の記号
    「壊す人」
    オシコメ、「復古運動」
    「自由時代」の終わり
    五十日戦争
    「森のフシギ」の音楽

    著者:大江健三郎(1935-、愛媛県内子町、小説家)
    解説:小野正嗣(1970-、佐伯市、小説家)

全22件中 1 - 20件を表示

著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

大江健三郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×