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Amazon.co.jp ・本 (214ページ) / ISBN・EAN: 9784003202548
感想・レビュー・書評
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魯迅晩年の実験的な作品集『故事新編』のなかから、「補天」「理水」「奔月」「非攻」という四篇を取り上げてみたい。
これらの作品は、古代中国の神話や伝説を現代的に再解釈しながら、同時に新しい神話の可能性を模索する、野心的な試みとなっている。
まず、各作品の基本的な筋書きを押さえておこう。
「補天」は、中国神話における女媧の天補いの物語を再構成したものだ。天に穴が開き、世界が混沌に陥る中、女媧は粘土で人を作り、石を溶かして天を繕う。しかし魯迅版の女媧は、超越的な女神というより、むしろ一人の孤独な職人として描かれる。人々は彼女の仕事に無関心で、天の穴を見上げることすらない。
「理水」は、大禹の治水伝説を題材とする。洪水に苦しむ民を救うため、大禹は文書主義的な官僚たちと戦いながら治水工事を進める。だが皮肉なことに、その事業は民衆からは「迷惑な工事」としか見なされない。伝説の英雄は、ここでは疲れ切った技術官僚として描かれる。
「奔月」は、后羿と嫦娥の神話を現代的に再構築する。太陽を射落とす英雄だった后羿は、次第に堕落していく。妻の嫦娥は不死の薬を持って月に逃げ、后羿は地上で虚しく彷徨う。魯迅は月への飛翔という神話的モチーフを、奇妙な夫婦喜劇として描き直す。
「非攻」は、戦国時代の思想家・墨子の説話を基にしている。戦争を止めようと奔走する墨子だが、その真摯な努力は誰にも理解されない。彼の平和主義は空虚な理想論として片付けられ、むしろ嘲笑の的となっていく。
これら四篇に共通するのは、まず神話の徹底的な「地上化」という手法だ。魯迅は神々や英雄たちを、極めて日常的な存在として描き直す。しかしこれは単なる世俗化ではない。むしろ日常の只中から、新しい神話的な次元を掘り起こす試みだ。
たとえば「補天」における女媧の粘土こねは、創造という神聖な行為を最も世俗的な労働として提示する。しかしその描写は、かえって労働の中に宿る神秘的な次元を浮かび上がらせる。これは1930年代の中国社会への批評でありながら、同時により普遍的な問いを孕んでいる。人間の営みは、果たして天の崩壊を繕いうるのか。
「理水」における大禹の疲労は、より直接的に同時代への批評となっている。技術官僚としての大禹は、明らかに1930年代の中国知識人の姿と重なる。しかし魯迅は、その挫折の中に新しい神話的な真実を見出す。「治水」という理想は実現しないかもしれない。だがその不可能性の認識こそが、新たな出発点となる。
「奔月」で魯迅が創造する新しい神話は、より逆説的だ。月への飛翔という上昇のモチーフは、むしろ「地上への回帰」の物語として再構築される。英雄であることに疲れた后羿、月に逃げる嫦娥。この「下降」の物語は、実は現代における新しい神話の可能性を示唆している。
「非攻」における墨子の徒労は、おそらく最も魯迅的な主題を形成する。平和を説く者が理解されない状況は、1930年代の切実な現実だった。しかし魯迅は、その理解不可能性そのものを新しい神話として提示する。真理を語る者は必ず孤独である、という逆説。
これらの物語を貫くユーモアの質も注目に値する。それは決して軽い笑いではない。むしろ諦念と希望が混じり合った、独特の色合いを持つ笑いだ。たとえば「理水」における官僚たちの描写は痛烈な風刺でありながら、同時に不思議な愛情を感じさせる。「奔月」における后羿の堕落も、嘲笑というより深い共感を伴って描かれる。
このような笑いは、実は新しい神話の重要な要素となっている。伝統的な神話が持つ厳粛さを離れ、笑いを通じて真実を語る。この両立こそ、魯迅が『故事新編』で成し遂げた最大の功績かもしれない。
現代の私たちが『故事新編』に強く惹かれるのは、おそらくこの新しい神話の可能性のためだろう。古い物語は確かに解体される。しかしその過程で、新しい真実が立ち上がってくる。技術や理想や英雄的行為が、必ずしも世界を救わないかもしれない。しかしその認識そのものが、私たちの新しい出発点となりうる。それが魯迅の示した希望であり、同時に私たちへの挑戦でもあるのだ。 -
カバーなし。焼けあり。
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2018/02/01 18:32:45
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