故事新編 (岩波文庫 赤25-4)

  • 岩波書店 (1979年9月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (214ページ) / ISBN・EAN: 9784003202548

感想・レビュー・書評

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  • 中国の故事を題材とした短編集。
    「戦争をやめさせる話」がとても好きで、折に触れて何度も読んでいる。何回読んでも、色あせない妙味がある。
    話の筋は簡単で、宋にいる墨子が楚に戦争をやめるよう説得しに行く話。冒頭から、訪ねてきた論客を「お前には、わしの考えはわからん。」と一蹴し、弟子と二、三言話した後、戦争を止めに行ってくると言って、ぼろ風呂敷をひっさげ、足早に出発する。ちょっと遠出の散歩をしに行くような調子で、戦争をやめさせるという大役を果たしに行く飄々とした感じがたまらない。

    何日もぶっ通しで歩き続け、楚にいる同郷の公輸般を訪ねるのだが、ぼろ風呂敷をひっさげ、粗末な服を着ているため、乞食と間違えられ、門番に追い返されてしまう。しかし、墨子の目つきが気になり、主人の公輸般に変な奴が来たと報告する。
    「風体は?」
    「乞食のようでして。年は三十くらい、背が高くて、顔が真っ黒・・・」
    「アッ!それじゃ墨籊(墨子)だ!」
    ここのシーンもユーモラスで好ましい。常日頃から見た目など気にしない墨子の様子が読み取れる。

    公輸般に楚王に紹介しもらい、戦争をすべきでないと楚王を滔々と諭す。ここでも墨子は超然としていてかっこよい。楚という大国が宋という小国を攻めるのは道理に反する、というだけでなく、仮に攻めてきたとしても、自分と弟子たちが準備しているから攻め落とすことはできないだろうと主張する。「わたしも、どうすればあなたが、わたしに勝てるか知っている」・・「だが、それは言うまい。」

    楚王を説得し、宋への帰る途中、事情を知らない宋の人にボロ風呂敷を義援金と称して寄付させられたり、雨宿りをしようとして城門から宋兵に追ったてられたりと散々な目に合う。戦争をやめさせたのに何の見返りもなく、賞賛もされない。しかし、そんなことは墨子は歯牙にもかけない。

    乞食然とした男が、戦争をやめさせるという大仕事を当然のように果たし、見返りや称賛なんぞ全く求めず、来た時と同じ様にボロをまとって帰ってくる。それがなんとも痛快なのだ。

  • 魯迅晩年の実験的な作品集『故事新編』のなかから、「補天」「理水」「奔月」「非攻」という四篇を取り上げてみたい。

    これらの作品は、古代中国の神話や伝説を現代的に再解釈しながら、同時に新しい神話の可能性を模索する、野心的な試みとなっている。

    まず、各作品の基本的な筋書きを押さえておこう。
    「補天」は、中国神話における女媧の天補いの物語を再構成したものだ。天に穴が開き、世界が混沌に陥る中、女媧は粘土で人を作り、石を溶かして天を繕う。しかし魯迅版の女媧は、超越的な女神というより、むしろ一人の孤独な職人として描かれる。人々は彼女の仕事に無関心で、天の穴を見上げることすらない。
    「理水」は、大禹の治水伝説を題材とする。洪水に苦しむ民を救うため、大禹は文書主義的な官僚たちと戦いながら治水工事を進める。だが皮肉なことに、その事業は民衆からは「迷惑な工事」としか見なされない。伝説の英雄は、ここでは疲れ切った技術官僚として描かれる。
    「奔月」は、后羿と嫦娥の神話を現代的に再構築する。太陽を射落とす英雄だった后羿は、次第に堕落していく。妻の嫦娥は不死の薬を持って月に逃げ、后羿は地上で虚しく彷徨う。魯迅は月への飛翔という神話的モチーフを、奇妙な夫婦喜劇として描き直す。
    「非攻」は、戦国時代の思想家・墨子の説話を基にしている。戦争を止めようと奔走する墨子だが、その真摯な努力は誰にも理解されない。彼の平和主義は空虚な理想論として片付けられ、むしろ嘲笑の的となっていく。
    これら四篇に共通するのは、まず神話の徹底的な「地上化」という手法だ。魯迅は神々や英雄たちを、極めて日常的な存在として描き直す。しかしこれは単なる世俗化ではない。むしろ日常の只中から、新しい神話的な次元を掘り起こす試みだ。
    たとえば「補天」における女媧の粘土こねは、創造という神聖な行為を最も世俗的な労働として提示する。しかしその描写は、かえって労働の中に宿る神秘的な次元を浮かび上がらせる。これは1930年代の中国社会への批評でありながら、同時により普遍的な問いを孕んでいる。人間の営みは、果たして天の崩壊を繕いうるのか。
    「理水」における大禹の疲労は、より直接的に同時代への批評となっている。技術官僚としての大禹は、明らかに1930年代の中国知識人の姿と重なる。しかし魯迅は、その挫折の中に新しい神話的な真実を見出す。「治水」という理想は実現しないかもしれない。だがその不可能性の認識こそが、新たな出発点となる。
    「奔月」で魯迅が創造する新しい神話は、より逆説的だ。月への飛翔という上昇のモチーフは、むしろ「地上への回帰」の物語として再構築される。英雄であることに疲れた后羿、月に逃げる嫦娥。この「下降」の物語は、実は現代における新しい神話の可能性を示唆している。
    「非攻」における墨子の徒労は、おそらく最も魯迅的な主題を形成する。平和を説く者が理解されない状況は、1930年代の切実な現実だった。しかし魯迅は、その理解不可能性そのものを新しい神話として提示する。真理を語る者は必ず孤独である、という逆説。
    これらの物語を貫くユーモアの質も注目に値する。それは決して軽い笑いではない。むしろ諦念と希望が混じり合った、独特の色合いを持つ笑いだ。たとえば「理水」における官僚たちの描写は痛烈な風刺でありながら、同時に不思議な愛情を感じさせる。「奔月」における后羿の堕落も、嘲笑というより深い共感を伴って描かれる。
    このような笑いは、実は新しい神話の重要な要素となっている。伝統的な神話が持つ厳粛さを離れ、笑いを通じて真実を語る。この両立こそ、魯迅が『故事新編』で成し遂げた最大の功績かもしれない。
    現代の私たちが『故事新編』に強く惹かれるのは、おそらくこの新しい神話の可能性のためだろう。古い物語は確かに解体される。しかしその過程で、新しい真実が立ち上がってくる。技術や理想や英雄的行為が、必ずしも世界を救わないかもしれない。しかしその認識そのものが、私たちの新しい出発点となりうる。それが魯迅の示した希望であり、同時に私たちへの挑戦でもあるのだ。

  • カバーなし。焼けあり。

  • 2018/02/01 18:32:45

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著者プロフィール

本名、周樹人。1881年、浙江省紹興生まれ。官僚の家柄であったが、21歳のとき日本へ留学したのち、革新思想に目覚め、清朝による異民族支配を一貫して批判。27歳で帰国し、教職の傍ら、鋭い現実認識と強い民衆愛に基づいた文筆活動を展開。1936年、上海で病死。被圧迫民族の生んだ思想・文学の最高峰としてあまねく評価を得ている。著書に、『狂人日記』『阿Q正伝』『故郷』など多数。

「2018年 『阿Q正伝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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