サイラス・マーナー (岩波文庫 赤236-1)

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  • 岩波書店 (1988年8月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (368ページ) / ISBN・EAN: 9784003223611

感想・レビュー・書評

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  • この作品をサイラス・マーナーというひとりの人間の物語であると同時に、架空の共同体ラヴィロウの物語として読みました。

    19世紀初頭を扱った『サイラス・マーナー』が書かれたのは1861年、大英帝国の繁栄がもたらした落とし穴というか、繁栄の結果露呈したマンネリズムというか、そんなマイナス面が少しずつ明らかになっていった時代。

    この時代、日々のささやかな糧を得ようと働く貧しい人々が多くを占める共同体では、神籤で「サイラス・マーナーが罪人であることを決定」(p.25)したり、教会に行くことで「天国で神の恩寵を得、近所の者たちよりいっそうすぐれた特権にあずかろうという欲深さを示す」(p.147)安易な宗教観や道徳観が存在していたのですね。

    本来、人の暮らしの基盤であるべきそうした共同体の危うさは、イコール人々の内面の虚実の象徴でもあります。裏切りと信頼、人の心の崩壊と再生 ――それらが多様な、けれども誰もが共同体の一部である住人たちの毎日の生活のなかで多層的に重なりあいながら、共同体全体を描きだしているように感じました。

    著者はサイラス・マーナーが真の光を手に入れる終盤までに、ずいぶんいろんなエピソードを盛りこんでいます。正直なところ、ちょっと長いなと思うときもありましたが、それもこれも著者の単なる寄り道ではなく、サイラス・マーナーひいては共同体すべてを描くために欠かせないことだったのですね。

    19世紀初頭という時代を表すために少々古めかしい訳語が使われています。多少とっつきにくいかもしれませんが、読み進めると著者がこの作品で描こうとしたものが見えてきます。興味のあるかたはぜひご一読を。

  • 清く美しい、お説教にでも使えそうな一冊である。しかししゃちほこばった教訓臭すぎるところはなく、当時の庶民の生活があたたかく描かれている。

  • 何かにつけて微に入り細に入るエリオットにしては随分と省力してしまう(例えば、エピーが成長する16年間)部分が多くて少し驚いた。そして、この作品はどう読めばいいのだろう。サイラスが最後には幸せになった物語と言われてもピンとこない(例えば、ディケンズの『クリスマス・キャロル』と比較しても)。エピーのシンデレラ物語でもない。ダンスタンの因果応報譚でもない。一番しっくりくるのはゴドフリーの不作為による因果応報物語とすることだが、そうだとするとなんかテーマ的に矮小なような気がする。つまり、結局誰が幸せになったの(or 得したの)かを追うことができない。それがそれほど文学的な雰囲気を醸し出しているようでもないような気がするし。ちょっと不良消化気味。

  • 355P

    ジョージ・エリオット George Eliot
    生年:1819年
    没年:1880年
    英国ヴィクトリア朝を代表する小説家。本名メアリ・アン・エヴァンズ。中部の土地差配人の家に生まれ、寄宿学校で教育を受けた後、自宅で外国語などさまざまな学問を独学で学び、30歳で評論雑誌の編集者補佐に。1857年、男性名「ジョージ・エリオット」で小説を発表(翌年『牧師たちの物語』として書籍化)。以降、『アダム・ビード』、『フロス河の水車場』、『サイラス・マーナー』、『ロモラ』、『ダニエル・デロンダ』などの小説を次々と発表し、成功を収める。'71年~'72年に分冊刊行された『ミドルマーチ』はヴァージニア・ウルフをはじめとする後世の作家たちに賞賛され、現代でも英国小説の最高峰との呼び声が高い。

    サイラス・マーナー (光文社古典新訳文庫)
    by ジョージ・エリオット、小尾 芙佐
    遠い遠い地からやってきた者たちには、たとえこの地に根をおろしても、隣人たちの不信の目がいつまでも注がれており、長年、落ち度ひとつなく暮らしていたにせよ、いったん過ちを犯そうものなら、たちまち、そらみたことかと 謗られる。とりわけ賢いとか、手先がかくべつ器用だとかいう評判がたつと、たちまち白い目で見られる。舌を器用に操るとか、村人には不慣れな技に 長けていたりすると、いっそう胡散くさそうな視線が浴びせられた。

    氏素性がはっきりしている純朴な村人たちは、それほど賢くもないし利発でもない──せいぜい天候の兆しがわかるくらいの智恵しかない。それゆえ機織りのような手先の器用さを求められる仕事は、村人たちから見ると魔法としかおもえなかった。  こういう次第で、いまは村のあちこちに住みついている亜麻布の機織りたち、遠い町から村に入りこんできた渡り者たちは、純朴な村人にいつまでもよそもの扱いにされ、そのためにおおかたが孤独な暮らしを強いられていた。

    サイラス・マーナーがラヴィロー村にやってきてからもう十五年になる。来た当時は、青白い顔をした若者だった。茶色の目は近視で飛び出していた。世間並みの教養や経験を積んだものたちからみれば、別に奇人というわけではなかったが、かれが居を定めた近隣のひとびとの目には、その珍しい 生業 と、 北っ方 と呼ばれる、だれも知るもののない地方の出身ということが重なって、いかにも曰くありげな奇人に見えた。その暮らしぶりも同様だった。村びとたちに寄っていけと声をかけることもなく、村に出かけて居酒屋の虹屋で一杯やったり、車大工の店に立ち寄って世間話をしたりすることもない。商いの用事があるとか、日常欠かせないものを仕入れにいくときのほかは、だれともつきあうことはなかった。相手に気がないのに結婚をせまるような男でないことも、ラヴィローの娘たちのあいだにはすぐに知れた──甦った死人みたいな男とはぜったい結婚しないと、娘たちがきっぱりというのが、かれに聞こえたとでもいうようだった。

    マーナーが、奇人だという理由で、世間から 除けものにされることがなかったのは、こうした漠然とした恐れの気持ちがみなにあったからだが、ターリーという隣の教区に住む年老いた機織りが死んだというのも理由のひとつだった。マーナーの機織りとしての腕は、この土地の小金のある主婦たちや、年の末に亜麻糸の蓄えが少々あるつましい農夫たちには重宝な存在だった。とにかくそういう思いが、嫌悪感だの疑惑だのを跳ね返したし、マーナーの織る反物は、尺や質もターリーの機屋に劣ることはなかった。

    学ぶことによって、さまざまな生き方をしてきたひとたちでも、見知らぬ土地にいきなり移されて、こちらの素性も知らぬ、分かちあうものもないひとびとに囲まれたらどうだろう。これまでの人生観や、神への信仰も貫くことができなくなる、いやそれどころか、過去の悦びも悲しみも現実味を失ってしまうだろう──そのように、これまでの信仰や愛情を失ってしまったひとは、〝忘却の河〟ともいうべき、この流浪の生活を求めるだろう。そこでは母なる大地は見覚えのない 懐 を広げ、そこに住むひとびとの暮らしも、自分たちの魂が育まれたところの暮らしとはまったく違っている。そこでは過去は形を失い、またいかなる記憶ともつながらぬ、夢のようにぼんやりと捉えどころのないものになるだろう。

    だがそうした経験をもつひとびとも、サイラス・マーナーのような純朴な機織り職人が、故郷を去り、親しいひとたちのもとを去って、ラヴィロー村に移り住んだとき、どんな思いをしたか、想像もつかないだろう。広々とした丘陵にかこまれた風景のなかにあった生まれ故郷とはなにもかもが違う。ここは樹木が鬱蒼と生い茂る低地、人目をさえぎる木々や生け垣に、天空を仰ぎ見ることさえ 阻まれるような土地だった。ここにはなにもなかった。早朝の静けさのなか、起き上がって外を眺めても、そこにあるのは露でぬれた野いばらの茂みか、伸び放題の草むらが広がっているばかりで、ランタン・ヤードの中心で営まれていたあの暮らしとは別世界だった。ランタン・ヤードはかれにとって天から授けられた祭壇だった。白い塗り壁、小さな腰掛け、顔馴染みのひとたちが、かすかな 衣 ずれの音をたてながら教会堂にひっそりと入ってくる。そして聞き慣れた声が最初のひと声を発し、そしてつぎつぎと声がくわわり、祈りの言葉が流れていき、あの神秘的な楽句が発せられる、胸につけられた護符のように。説教壇では牧師さまがあくまでも正しい教義を説き、半身を前後に揺すりながら慣れたしぐさで聖書を手にされる。聖歌が二行ずつ読みあげられ、切れ目ごとに歌声が響きわたる──こうしたことはマーナーにとって、信仰心を育む場だった──かれらはキリスト教徒であり、そこは地上における神の王国だった。機屋には、聖歌集のなかのむずかしい言葉の意味はまったくわからない。 幼子 が親の愛情などは知らずに、ただその顔や 膝 を覚えていて、慰めと食べ物を求めて両手を伸ばすようなものだった。

    マーナーは十枚の金貨がやがては十倍になり、さらに何倍にもなるのを願っていた。金貨を貯めること、それだけで満足なはずだが、さらに新しい欲望がめざめる。この奇妙な世界、マーナーにとっては絶望的な、謎でしかない世界にあって、かれがもしもっと弱気な性格であったなら、ただ機の前にすわって、ひたすら織りつづけたことだろう──織物の紋様が仕上がっていくのを、布が織り上がっていくのを、ただ眺めていたことだろう。だが金が入ってきて、仕事にひと区切りがつく。そうして金は増えていき、かれの手もとに残る。金は、機のようにわたしの存在を感じているのではなかろうかとかれは考えるようになる。この金貨をほかの貨幣に替えようとはおもわない。いまでは自分の親しい友なのだ。ほかの貨幣はどれも見馴れぬ顔だった。マーナーは金貨をその手で慈しみ、数をかぞえ、その形や色は、かれの渇きを癒してくれた。

    わたしが父さまをとりしきっているのは、ちゃんとした理由があるの」とプリシラがいった。「そうでもしなきゃ、父さまは、そのうちにリュウマチで命をおとすことになるもの。それから農場のことだけれど、なにかうまくいかないことがあると、自分ばかり責める人間は、早死にするんですよ、こんなご時世だから、うまくいかなくても仕方ないのにね。ご主人さまはね、下のものに仕事はまかせて、小言だけしっかりいってやればいいんです。それでどれだけ大勢の人間が卒中にやられずにすむことか、わたしはそうおもうわね」

    メアリ・アン(エリオットの本名) は教育熱心な両親によって、九歳の時ナニートンの、一三歳の時コヴェントリーの寄宿学校に入学し、中産階級として可能な限りの教育を受けた。母の病のため一六歳で実家に帰って以降は、家事に忙殺されながらも、父の勤務先であるアーベリー・ホールの図書室の使用を許可され古典を読み漁るなど、知識の吸収に努めている。  ところで、エリオットの人生を概観する時、自己実現を追求していく過程の要所要所で、より広い世界へと導いてくれた人脈に恵まれた幸運を感じずにはいられない。彼女の知的発展に画期的に寄与したのは、時代の先端を行く自由な精神の友人たちである。

    神にも人間にも絶望し、故郷も過去も捨て、人間社会と絶縁するサイラスを救済したのは何か? 一九世紀初頭のイングランド農村という設定のもとで、「人間の孤独を救うものは何か?」という永遠のテーマが展開する。異郷の地で村人との接触を断ち、ひたすら機を織って得た金貨を眺めるのを唯一の愉しみとするサイラスの荒涼たる孤独が冒頭二章で淡々と綴られる。

    金銭に執着し、ただ貯めるだけに熱心な人を守銭奴というが、サイラスには守銭奴に特有の非人間的な 吝嗇 は全く見られない。金貨を貯めるのは、「その感触を愉しみ、輝きを目で愉しむため」、「金貨と交わるため」であり、彼が求めるのは触れ合いなのだ。「金貨は自分の親友」「渇きを癒してくれる存在」、「赤子のように愛しい」とあるように、彼にとって金貨はモノ以上の存在、金貨の形をした人間の代替物、握手する友なのだ。人間に絶望しコミュニティーから隔絶するサイラスだが、人間に背を向けつつ、人間を追い求めずにはいられない。

    使い慣れた茶色の壺への愛着など具体的なエピソードを挙げて、語り手は絆を求めずにいられないサイラスの痛々しい孤独を語るが、二章の終盤に「彼より賢い者であろうと、信頼と愛情を断ち切られたら、同じような道をたどるだろう」と一般論で述べ、これは彼だけのことではなく、もし同様の立場になれば、誰しも同じような状況に陥るだろうと示唆する。サイラスはいわば、ひとしく孤独の苦しみを抱え持つ人間全ての代表なのだ。

    こうして、人間の孤立を救うものは何か、という普遍的根源的なテーマが、当時流行の 田園小説 の枠組の中で追求され、愛の思想が寓話風に称揚される。この作品が書かれた社会的背景を見てみよう。

    一方、ラヴィロー村には大きな教会はあるが、人々は信仰にルーズで教義に縛られず、礼拝の時間に居酒屋へ寄る者すらいる。だが、この一見信仰心の薄い田園にこそ、キリスト教の本質である愛と哀れみの精神が大らかに実践されていた。金貨の盗難事件を契機に村人たちにサイラスへの同情が湧きあがり慰めと励ましが始まる。サイラスは金貨を失うことにより、多くの友を得たのだ。更にエピーの養育をめぐって主婦たちが助言や支援を惜しまない。

    物語の前半を読んだブラックウッドが「少し陰気ではないか」(『書簡集』三巻三八二) と感想を述べたところ、エリオットは「この作品は純粋で自然な人間関係の持つ救済力に光を当てたものなので、全体としてみると少しも悲しい物語ではありません」と答えている。ドリーたちの素朴な優しさがサイラスの心を開き血の通った交流が生まれる過程は幸せな雰囲気に満ちており、ラヴィローは愛に結ばれた理想の場となっている。

    一方、プリシラは結婚の実態を見据えた上で、「家庭の天使」になることを潔く放棄し、独自の生き方を貫いている。当時の時代精神の一環として、男性はあらゆる点で女性より優れていることが「自然の法則」として認められており、無力な女性は男性に庇護される代わりに服従と献身を要求され、制約や不公平に甘んじねばならなかった。しかし、こういった考え方は主として中産階級に根付くもので、上流階級はある程度この束縛から免れていた。小規模とはいえ父親が地主のプリシラは、男性優位のこの規範を一蹴している。男性に依存せねば生きていけない中産階級の女性と違って、地主の父を補佐して所領をしっかり切り盛りするプリシラには、結婚のささやかな幸せなど眼中にない。「わたしは男なんてどうでもいいけどね、(中略)〈勝手にせい〉氏が最良の夫だな、そういうやつになら、おとなしく従ってやるわね」(一七七) と言う彼女にとって何より大切なのは物心両面における自由である。

    結婚を決意したのが四月九日、翌一〇日にはチェルシーへ新居を見に行っており、新生活にかけるエリオットの熱意が感じられる。プライオリーの豪邸、サリー州の広大な別荘を持ちながら、更にチェルシーに美しい新居を購入しての再出発。二一歳年下という点を考えただけで、普通なら決意する勇気もないだろうが、ルイスの死より一年半後の一八八〇年五月六日に結婚、その日のうちに新婚旅行へと旅立つ。旅先のヴェローナから親友のバーバラ・ボディションに宛てた「新たに始まった人生を愉しみたい。孤独でいた時よりももっと素晴らしい、もっと愛情深い人間になりたい」(『書簡集』七巻二九一) の文言も前向きだ。残念ながら一〇月以降持病の腎臓発作が続き、新居での生活も短期間しか享受できずに一二月二二日逝去する。名声も富もリスペクタビリティーも得た上でなお、充実した人生を希求するエリオットのヴァイタリティーには脱帽せざるを得ない。

    わたしが、「サイラス・マーナー」に出会ったのは、本当に昔々のことでした。戦争が終わって数年、疎開先だった地方の町で高校生になったわたしは、大学受験のために町の英語塾に通っておりました。そこで一冊のテキストを渡され、それが「サイラス・マーナー」だったのです。

  • 幸せな女は、幸せな国家と同様、歴史をもっていない。『フロス川の水車』

  • 昔、ジュブナイル版で読んですごく感動した本なのです。この岩波文庫を見つけた時は本当に嬉しかったなあ。
    愛した人に裏切られ、お金しか信じなくなってしまったサイラス・マーナー。でも、お金は他人に盗られたらおしまい。そこへ、やはり愛を失った女性の幼子が現れて…。決して裏切らない愛は、ちゃんとこの世に実在するのだと、成長したエッピーは教えてくれたのです。

  •  
    http://homepage1.nifty.com/lostchild/kan_other/o_frame.htm
    ── エリオット/土井 治・訳《サイラス・マーナー 19880816 岩波文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003223616
     
    ── エリオット/木村 ふみ・解説注釈《サイラス・マーナー 195104‥ 研究社小英文叢書18》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4327010189
      
    …… 親友に裏切られて婚約者を奪われ、神も人も信じられなくなり、
    故郷を捨てて遠く離れた村ラヴィロウに移り住んだ織工の青年、サイラ
    ス・マーナー。世捨て人のようになって機を織りつづける彼が慰めを見
    出したものは、金だった。だが苦労してためた金さえ盗まれ、彼は全て
    に絶望する。だがある日、失意の日々を送る彼の元に、幼い女の子が迷
    い込んでくる……。 ── 「海外の文学」……世界の果ての図書館
     
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19610615
     六月病 ~ カンニング入門 ~
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0
     
    (20221015)
     

  • 「書店主フィクリーのものがたり」がこちらのオマージュ要素アリ、と解説に書いてありまして読みました。
    お金が充分になくても幸せになれるということだ。

  • 大人のおとぎ話。人に裏切られ続けた後に天使のようなエピーと暮らすようになって、だんだん心が開いて行くサイラスを、知らず知らず応援していた。

  • 夏目漱石も愛読した古典です。はじめの方はなかなか話が展開せず、またわかりにくい表現が多いので、途中で読むのが辛くなってしまいした。しかし、後半は心温まる話で、最後まで読み切ったときには、感動が心の奥底にじんわりたまっているような心地がしました。

  • 一度人間というものを信じられなくなった人が再び人間を信じられるようになるにはいかなる精神力がいるのだろうか。・・・いや案外簡単なのかもしれない。周りに善人が幾人かいるという条件が必要だけど。・・・逆に周囲に悪人しかいないと「クリスマス・カロル」の爺さんみたいになるのだろうね。人は人を変えてくれるってことか。

  • 「サイラスのような人生、どう思う?」

    ある人に、こう聞かれた。
    私は、はて?と考え込んだ。


    私にはそれは優しい祖父が居た。
    幼い頃はよく、祖父の家で、昔母が子供だった頃に読んでいた、古い児童書を読んでいて、
    そんな時に「エピーのねがい」という題名の児童書とも出会った。
    この本は「サイラス・マーナー」を、少女向けに易しくした本だったのだ、と知った頃には、私は高校を卒業し、もう祖父も亡くなっていた。
    こうすると、おかしな話だが、思い出補正が手伝って、どうしてもサイラスの笑顔と、眼鏡をかけて優しく微笑む祖父の顔とが重なってしまう。
    祖父の布団の横に布団を敷いて、寝る前にオレンジ色のランプの下で、本を読み耽ったあの幸せな時間…


    作中のサイラスは、エピーと出会ってからはとても幸せそう、だと私は思う。
    苦しいこと、辛いことがあっても、サイラスは、彼の人生を全うするまで、穏やかな幸せな人生を送るであろう。…そう願わずにはいられない…。
    サイラスも、エピーも、その他多くのサイラスの周辺の村人も、好きでした。
    また、村人の描写が大変魅力的。

    読了後、それでも、「“サイラスのような人生”は幸せだ!」と、声高らかに言うことは私は出来ない。そもそも、自分にとって、声高らかに言えるようなことなんて、そうそう無い。
    私にとっては、サイラスの姿を思い浮かべた時、彼はそれは幸せそうに微笑みながら、その傍にはエピーが居て、村のみんなが居て…そんなサイラスの姿がどうしても思い浮かべられて…


    私がサイラスだったら、サイラスの人生を幸せに思ったのかは分からないけれど、
    サイラスは、彼自身の人生を幸せに思っていると、やっぱり思う。

  • 後半部分で、サイラスとエピーとの絆を何よりも強く感じた。
    何もかも希望も愛さえも失った男が、偶然が重なることで赤ちゃんを見つける。
    そこで人生の希望の光を発見する。

  • 何かを愛するということ。
    それがお金でも、人でも幸せでいられる。
    その人が幸せだと思えばそれが幸せなのね。
    不幸せになるのと同じくらい
    簡単に人は幸せにもなれるのだとおもう。
    物もお金も人も環境も
    何も関係なくて
    ただ気持ち一つで。

  • なんというか…おとぎ話のように綺麗な話でした。読みやすいっちゃ読みやすい。でもこうゆうの、キライじゃぁない♪

  • 大人のためのおとぎ話☆
    心が洗われます。

  • 展示期間終了後の配架場所は、1階文庫本コーナー 請求記号 933//E46

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