灯台へ (岩波文庫 赤 291-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003229118

作品紹介・あらすじ

スコットランドの孤島の別荘。哲学者ラムジー氏の妻と末息子は、闇夜に神秘的に明滅する灯台への旅を夢に描き、若い女性画家はそんな母子の姿をキャンバスに捉えようとするのだが-第一次大戦を背景に、微妙な意識の交錯と澄明なリリシズムを湛えた文体によって繊細に織り上げられた、去りゆく時代への清冽なレクイエム。

感想・レビュー・書評

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  • V・ウルフ『灯台へ』が描く平穏(畠山研) 何もない朝に目覚めたい|秋田魁新報電子版
    https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20231027AK0018&pak

    灯台へ - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/book/b247462.html

  • 十年の時間を隔てて、ラムジー一家と招待客たちがラムジー家の別荘で過ごす、それぞれの一日を描いた小説。三部構成で約400ページ。ラムジー夫人を中心として第一部で描かれる一日のあと、第二部では訪れる者もなく老朽化する別荘宅を背景に、十年間でラムジー家に起きた主な出来事が足早に知らされる。第一部の十年後を描く第三部では、再び別荘地に戻ったラムジー家と招待客たちの様子を描く。
    (以降はネタバレを気にせずに記述します。)

    第一部の時点での主な登場人物と、わかる範囲での年齢は以下の通り。
    「ラムジー家」
    ラムジー氏、哲学者、61歳。
    ラムジー夫人、美しく行動的で家庭を大事にしている女性、50歳。
    夫妻には八人の子供がいる。
    ジェイムズ、末っ子で夫人のお気に入り、6歳。
    キャム、お転婆な7歳の女の子。
    他の子供たちは、アンドリュー(長男)、プルー(長女)、ナンシー、ローズ、ジャスパー(あと一人は不明)。
    「招待客」
    リリー・ブリスコウ、独身の女性画家、34歳。全体を通して、夫人と並んで内面が描かれる機会が最も多い。
    チャールズ・タンズリー、ラムジー氏を崇拝する若者だが協調性がなくて皮肉っぽく、他の家族は嫌う。
    ウィリアム・バンクス、ラムジー氏とは古くからの友人の植物学者。独身。
    オーガスタス・カーマイケル、詩作をする物静かな老人。夫人を苦手としている様子。65歳。
    24歳のミンタ・ドイルとポール・レイリー、夫人が結婚させたがっている若い男女。

    第一部で中心的に描かれるのは、ラムジー家を実質的に支えているラムジー夫人だ。子供たちや夫であるラムジー氏はもちろん、彼女に憧れるバンクス氏や、夫人から目が離せない女性画家のリリーも含め、別荘地の一家と招待客の中心には常にラムジー夫人がいる。冒頭は翌日に舟で灯台に行けることを期待する幼いジェイムズに対し、天気が悪いから翌日の灯台行きは無理だろうと無下に突き放すラムジー氏、そんなラムジー氏に腹立たしさを覚える夫人との会話から始まる。その後、主にラムジー夫人、リリー、タンズリー、バンクス氏などの意識を通して、晩餐の後に解散するまでの一日が描かれる。

    第二部は約40ページと作品のなかでもっとも短いパートであり、訪れる者のいなかった十年間の別荘地を描写する。その期間の重要な出来事として、第一部で中心人物だったラムジー夫人、長女プルー、長男アンドリューの死を伝える。それぞれの死因は、ラムジー夫人が急死、プルーは出産に関わる病気での死、アンドリューはフランスでの戦死とされている。プルートアンドリューはラムジー夫人の後を追うように次々と亡くなった。

    第三部は第一部からの十年後、久しぶりに別荘を訪れたラムジー一家と招待客の午前中が描かれる。そこではラムジー氏が気の進まないキャムとジェイムズを連れて、十年前には叶わなかった舟での灯台行きを決行する。一方、別荘に残るリリーは灯台へと向かう舟を見守りつつ、ラムジー夫人の思い出に浸る。ここでの意識の描写の主な対象となるのはリリーであり、灯台へと向かう船上では、成長したキャムとジェイムズの、同行の父親を強く意識した心理が描かれる。

    作中ではほとんど目立った出来事が起こらないタイプの小説で、リリーやラムジー夫人をはじめとした長い内面の独白や空想、彼らから見た外界が長く綴られる。逆に、ラムジー家の三人の死のような重大事は短い第二部のなかで突然あっさりと明かされたり、回想として触れられるにとどまる。

    有名な小説家の代表作なので一度くらいは読んでおこう、というぐらいの動機の読書だった。ラムジー夫人のような女性を現実に思い当たる方も多いのではないだろうか。とても現実的な人物描写だと感じた。それだけに唐突な死と十年の期間が、夫人の印象をなおさら強くし、第三部でのリリーによる夫人の回想は共通の知人の思い出にふけっているような気持ちになった。
    総じて、個人的には特別に感じる作品ではなかった。当面は著者の他作品に触れる機会はないかもしれない。

  • 灯台の見える別荘での半日と、その10年後の数時間。それだけなのに400ページ、まったく飽きさせない。登場人物は少なくないからろくに名前を覚えないまま読み進めてしまったのだけれど、彼らの思ったことがゆるゆる流れていくばかりなのに、だれがどういう人なのかはっきりわかる。植物や海の描写も細やかで美しくて、うっとりする。自分が体験したこともこういう風に書いて残しておけたら、どんなにいいだろうと思う。

    タブッキの『レクイエム』でもそうだったけれど、いずれ取り戻せなくなるであろうものごとを想わざるをえず、読み終わってからしばらくぼんやりしてしまった。今大切に思っている、人とか関心とか場とかひっくるめた状況は、いつか必ず失われてしまう。外側が変わるだけではなくて、自分だって変わってしまう。もうそのことを知ってはいるのだけれど、次に何かが消えてしまうときはどんな喪失感が待っているのだろう。適当なことをして後悔したくないから、眼を開いて、耳をすませているしかないのだけれど。

    • なつめさん
      baudelaireさん こんにちは。ウルフはもったいなくて続けて読めない作家なのです。次は『ダロウェイ夫人』にしようかななどと考えています...
      baudelaireさん こんにちは。ウルフはもったいなくて続けて読めない作家なのです。次は『ダロウェイ夫人』にしようかななどと考えています。
      2016/12/08
  • 第一次世界大戦というそれまでの歴史に類を見ない惨劇が世に暗い闇を落とし、そのことが当時の人々の中に道徳的な葛藤や、生きることへの哲学的な思索を促したであろうことは想像にかたくない。そうした闇のような世界の中で「灯台へ」というタイトルはとてもシンボリックであり、実際darknessとlightningは本書に繰り返し用いられるフレーズで、作品の重要なテーマのひとつとなっている。
    本来、人が人のことを理解することは容易な作業ではなく、どこまでいっても推測の域を出ないものである。それは例えると、自己と他者の間には常に暗闇があるようなもので、とくにここでは、戦争という時代背景がその闇をさらに深くしているようである。本書の登場人物たちは、その闇に照らされる灯台の光を探し求めるかのように、想像力を膨らませ、思考を重ね、相手の実像を捉えようとする。その思考の機微、それらが織り成す細やかなビジョンがとてもリリカルで豊かに描き出されているのが、本書の大きな魅力である。なにか共感や物語世界への自己投影を読書の楽しみとする場合には本書はオススメはできない。しかし私としては、今のこの世の中も、人が生きる倫理観や意味合いを問われるような、深い闇が広がっていると思うし、時代の転換点に私たちは生きていると思う。その意味でヴァージニア・ウルフが本書でみせた生きることへの透徹な思索は、現代を生きる私たちにも大きく訴えるものがあると感じる。
    訳文の巧さもあると思うが、文章がとても美しく、この点も楽しめる作品だと思う。

  • 小説を書くときには一人称にするか三人称にするかを決めること。文章中で観察者の視点がブレると、読みづらい文章になるのでやめること……こういった『小説作法』がいかにいい加減なものか、この小説を読むと良く分かる。

    ――「ええ大丈夫です、ありがとうございます」とリリーはおずおずと答えた。だめだわ、やっぱりわたしにはできない。本来なら広がる同情の波に乗って、思い切りよく漕ぎ出すべきで、そう仕向ける圧力も甚大だったのに。ところが彼女はかたまったようにじっとしていた。きまずい間があった。二人とも海の方をじっと見ていた。いったいどうして、と氏は思う、ここにわしがいるというのに、彼女は海など眺めているんだろう? 灯台に無事たどり着けるぐらい、海が穏やかだといいですね、とリリーが言う。灯台だって! 灯台だって! それが何の関係があるんだ、といらいらしながら彼は考えた。

    これは『灯台』が実験的に書かれた小説であるということではなくて、むしろ言葉への深い信頼があってのことだと私は思う。ビジネス作法のような決まり事を守らなくても、作家に明確なヴィジョンが見えていれば、小説は成立するのだ。

    ――極度の疲れの中で絵筆をおきながら、彼女は思った、そう、わたしは自分の見方(ヴィジョン)をつかんだわ。

    小説中、あらゆるシーンで、この「ヴィジョン」というルビがふられた言葉が出てくる。この小説における「ヴィジョン」は観察した表象であり、また表現の技法なのか、あるいはその間にあるもののように思える。

    ――言葉なら思いつくし、ヴィジョンも浮かんでくる。それなりに美しい光景だし、美しい言葉だとも思う。だが本当につかみたいのは、神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体なのだ。

    テキストとして見ると、浮かぶ感想はこんなものだが、それだけではない深い情感がある。登場人物から登場人物へと移り変わる心理描写は、ウルフの深い人間観照を思わせる。重厚に描かれる風景は非常にたくみで、先ほど挙げた観察者が存在しないシーンもある。冷たく観察しても、暖かく眺めても、たっぷりと楽しめる素晴らしい小説だった。

  • フォローしているある読書家さんの
    素敵に面白いツイートを読んで
    心惹かれ、買ってきて本棚に置いたままになっていた
    こちらを読んでみた。

    マンスフィールドの、大好きな短篇、
    「湾の一日」に似ている気がした。

    神様は、こうやって時折、
    地球の色々な人の気持ちをのぞいては
    楽しんでいるのではないかな?
    そんな風なことを思った。

    途中で、私としては最高に吃驚することが起こった!
    何かの「例え」なのかと思ったら
    本当にそれが起こったのだった!

    でもその後、しばらく読み続けていくと、
    「そうか、そういうことか…」と至極腑に落ちる不思議。

    この世のすべては万物流転なんですものね。

    長きにわたり、愛読し続けている方が
    多くおられることに納得。

    私もずっとずっと大事に何度も読みたい!

  •  ヴァージニア・ウルフというイギリス人女性作家を、わたしはシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』のなかで知った。ボーヴォワールが引用するウルフの文章に惹かれ、とりあえず図書館ですぐみつけることのできた本書を読みはじめた。
     本書の特徴は、小説であって詩のような、あるいは小説でなくて詩でもないような、「前衛的」といえばそれまでなのだが、その新しさにあるように思う。作者自身、「小説(ノヴェル)にかわる新しい名前を考案したい・・・でも何と?エレジー?」と述べている。
     たとえば、第一部と最終譚である第三部との間に第二部が時として「嵐のように」過ぎるという構成は、作品にある種の断絶をもたらす。実際、第一部と第三部では趣が180度変わってしまっている。しかし、いくつかの言葉や詩の一節「我らは滅びぬ、おのおの一人にて」がさまざまな人たちの口から、あるいは心から溢れ繰り返されることによって、ひとつの大きなテーマのもとに事象のひとつひとつが繋がって連鎖して、物語が織られていくようである。
     水のなかで空を見上げたときのような、ウルフの文章には静かな美しさが宿っている。第一部にある人間の描写、第二部にある風の描写、第三部にある死と美の描写、すべてがわたしの心に甘く鈍い痛みをもたらす。静寂のなかを無秩序に漂う悲しみであったり希望であったり、そういったものを拾い上げ束ねてくれる。
     ある批評家は、「時間と死、芸術の永続性についての声明」とこの作品を評価する。さまざまな言葉がひとつの象徴として音をなし、ひとつのハーモニーを成す。ウルフが試みたのは、小説という絵であったり、音楽であったり。芸術そのものなのかもしれない。
     ずっと手元におきたい作品である。

  • ラムジー夫妻にファーストネームが無い事に注目すべし。
    他の長編の主役には必ずフルネームがあったという事は、意図的なものと考えるべき。つまり個でありながらも、象徴的役割が強く与えられている。母性父性の雛形的な。(だから私の両親やあなたの妻、あなたの上司にこんなにも似ている)。

    それはある家庭の一日を描きつつ、創造神話的なジェンダー論、という層を持つ事を示している。
    だから夫人は典型的な「男尊女子」。
    ラムジー夫人は近視でラムジー氏は遠視、という象徴的な設定が凄い。つまり夫人は遠くが見えず、氏は近くが見えない。

    で、安全な殻に守られた家族の原風景として和んでいる内に、そこへ闇が侵入し、天照大御神は隠れ、その子らは切り離された混沌の世界、エデンの東へ投げ出されるが、やはり人はそれぞれに光を目指して進む。
    その繋がったばらばら感こそが著者が既存の信仰を超えている所だと感じる。人の生、というものは間違っていたり正しかったりするものではないのだ。

    何かひとつの答えが有るわけではない。我々がひとりずつそれぞれ、灯台へ何を持っていくか、考えるのだ。灯台へ何をもっていこうか、、それこそが生きるということである。そしてその紙包みのあつまるところ、、、、それが灯台である。(言ってしまおう、、、アカシック・レコードのイメージに近い)

    父性・母性、その超え難さや暴力性、或いは有機的な力に身を委ねる事の安心感。それを否定的にも肯定的にも、優しさ甘さと厳しさ残酷さを持って描いている。少なくとも、そこにある大切なものも描いている事は確かだ。
    (そして、本作での著者の立場・視点への反動として、性差や家庭から自由に解き放たれる為に「オーランドー」は創造されたのだろう。)

    ボートに乗り、青い空の下、象徴的に彼岸へ渡って行く。その心地よさ。そして、何故か、その記憶が私の中のどこかにある。いつか私はキャムだったのではないか?

    (で、また霊は地上へと受肉し、受肉したての目から観た世界、という「波」の冒頭へと見事に繋がっていくのだ!)

    *追記/
    最後リリーが舟の3人を思うあたり、どう考えてもあれは野辺の送りの心境である。著者は明らかに3人を象徴的に殺している。
    では何故そんな事をしたのか?と暫く考えていた。
    著者の2つの側面を分割したのがリリーとキャムである。
    意思を持って古い価値観と向き合い、決別し、新しい世界を選び取っていく側面、つまりリリーを此岸に残し、古い世界をノスタルジーと共に彼岸へ渡してしまおう。と、そういう意図だったのではないかと思う。

    • 日曜日さん
      おはようございます。斑猫様のツイートを拝見し、こちらの本をすぐ読み出しました。とてもとても素晴らしい読書体験でした!きっかけを有難うございま...
      おはようございます。斑猫様のツイートを拝見し、こちらの本をすぐ読み出しました。とてもとても素晴らしい読書体験でした!きっかけを有難うございました。
      2018/03/22
    • 斑猫さん
      日曜日さん、こんにちは。コメント戴いてすごく嬉しいです。いつも日曜日さんの感想、楽しく読んでいるのですよ。私も「湾の一日」が大好きです。
      日曜日さん、こんにちは。コメント戴いてすごく嬉しいです。いつも日曜日さんの感想、楽しく読んでいるのですよ。私も「湾の一日」が大好きです。
      2018/03/22
  • 今年(2016年)最後のレビュー。

    アレハンドロ・イニャリトゥの映画「バードマン」のレビューで、ヴァージニア・ウルフの"意識の流れ"を感じさせると批評した人がいて、はて?誰だ?とそのとき思った。それからヴァージニア・ウルフの名が頭にこびり付いた。今回初めて読んでみた。なるほど。本作を読んで納得。ウルフの小説技法を視覚表現すれば、確かに2時間長回しのワンカットの映画ができる。


    哲学者ラムジー一家と画家リリーを軸に、灯台が見える別荘での1日と10年後の数時間。たったこれだけ。なのに最後まで読んでしまった。人物たちの視点は絶えず移りゆき、主客が転倒し、見る者が見られる者になり、思われる人が思う人になり、切れ目なく人も物も風景も、風さえも移ろいゆく万物がまさしく意識が流れるよう書き留められ抒情的に綴られていく。
    その過程は静謐で美しい。さらに、原文ではこの小説の美しさはどのように変化あるいは輝きが増すのか、と読後に想像してしまった。特に第二部「時はゆく」において、風の小隊が室内へと歩む様は、もし原文を英語を母語とする人が音読したら、言葉の韻と音のリズムは耳朶に心地よく響くのではないか、と妄想してしまう。

    過ぎ去った時間。滅びた物。消え去った人たち。喪失を抱え生きる人も、やがてはこの世から去る。万物は流転する。生々流転という日本語がある。誰が言ったか知らないが、なんであれ言い残した本人は流転した。が「生々流転」という言葉は流転しなかった。リリーが最後に見つけたのは流転する人と世界の在りようのなかで、なお残るささやかなもの(それは言葉や絵かもしれない)だったのではないか。読後にしばらく余韻に浸るいい作品だった。素晴らしい

  • 非日常を書く作家は数多くいるが、なんでもない日常を書く作家は少ない。
    事実を書いた作品は山ほどあるが、心を書いた作品は少ない。
    これはなんでもない日常、その場にいた心を書いた作品。ウルフさんまじ半端ねぇ。

    いつもと違う物語を読みたいという方へ。

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著者プロフィール

1882年―1941年、イキリスのロンドンに生まれる。父レズリーは高名な批評家で、子ども時代から文化的な環境のもとで育つ。兄や兄の友人たちを含む「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれる文化集団の一員として青春を過ごし、グループのひとり、レナード・ウルフと結婚。30代なかばで作家デビューし、レナードと出版社「ホガース・プレス」を立ち上げ、「意識の流れ」の手法を使った作品を次々と発表していく。代表作に『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『波』など、短篇集に『月曜日か火曜日』『憑かれた家』、評論に『自分ひとりの部屋』などがある。

「2022年 『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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