- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003230640
作品紹介・あらすじ
「散文詩」と銘打たれたポオ(1809‐1849)最晩年の詩的宇宙論。物理的精神的両面から宇宙を論じて、その本質、その起原、その創造、その現状、その宿命を壮大に謳う。宇宙は「引力」と「斥力」の働きで変化し続け、創造と破壊の過程が永遠に繰り返される-ポオはこのプロセスを「神の心臓の鼓動」と詩的に表現した。
感想・レビュー・書評
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科学用語が大量なので左脳が働きそうになるが、これは「詩」なので、右脳を働かせながら読まねば…と自分に言い聞かせながら読んだ。結構しんどい。万人向けとは言い難いものの、現代宇宙論へあらためて興味を抱かせてくれる。ポオの他の作品を読み返したら面白い発見がありそう。
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宇宙について書かれたポオの散文詩は、いくつか読んだことがあるポオの小説よりも、スケールを感じて面白く読めた気がする。内容はさっぱり分からないけど、解説にも難解な散文詩と書かれてあったので、僕が内容を理解出来なくても気にしないことにする。
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ポオの遺作は彼のもう一つの顔、詩人としての作品であった。
人類最大の命題、「宇宙」の神秘をポオ独自の散文詩を土台にオリジナリティ溢れる方法論で解き明かしていく。
極限にまで高められ凝縮された知識、理論は自己の中に綺羅星の如き輝きを放ち、それに少しの濁りや偽りが無いのならば永遠に後世の人々の心にも刻まれていくだろう。
ここでいうポオのこの作品はまさしくこれに当て嵌るものであり、私の中では何かある度に読み返すであろう宝物の様な作品。
幾星霜積み重ねられてきた知識は、鉱山の奥深くに眠っている美しい宝石の原石の様なもので、それを読者が少しずつ大事に読み解いていく事によって、カッティングよろしく実在の宝石程の眩い輝きを放つのだ。
宇宙を独自の全く新しくも美しい文学、哲学的表現で表す事に、ここまで執着したポオはポオであってもそれまでの彼に非らず。
そしてこの作品から漂うロマンチシズムとナルシシズム、そして際立った独自性は正に作品の中に“ポオの宇宙”とも言えるものを内包する程のスケールであった。
2009年5月読了 -
なんとも不思議な本でした。19世紀の前半に生きた哲学者?が宇宙論を展開し、神(汎神論かも知れませんが?)の存在をその背後に主張しています。そして、アインシュタインの相対性理論を髣髴とさせる文章がその中に登場するのです。宇宙論が決して自然科学ではなく、むしろ哲学、文学の領域に近いということを痛感します。約150年前に既にこのようなことが分かっていたということは驚きの面もあります。もしかするとアインシュタインや優れた科学者たちもこのような「想像力」の力が大きいんでしょうね。
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「私は死なねばならないのです。『ユリイカ』を為し終えてしまったので、私はもう生きてゆく意欲がありません。もう何も、成し遂げられそうにありません…」
我発見せり。上の科白は、歓喜と諦念を多分に孕んだ熱狂の叫びをその表題と掲げる本書を上梓して、エドガー・アラン・ポーが義母に宛てた手記の断片である。その頽廃的で耽美な文体でボードレールを創り上げ、欧州の象徴派を牽引し、やがて世界文学史に燦然と煌めく大いなる遺産となった彼から漏れるこの悲壮な告白には、名状し難い緊張が漲っている。
散文詩と銘打たれた本書を、しかし、通俗的な詩、我々が通常経験し、想定する詩として読むことは極めて困難であり、限りなく不可能に近い試みであると言える。冒頭に付された序に於けるいじらしい程に慎重な語り口からも了解される通り、素朴な読みが本書の内容ないし文体を詩的と見做すことはむしろ不自然である。
それは、詩と呼ぶにはあまりにも厳格であり、あまりにも構築的であり、あまりにも硬質である。自然科学の術語が散らばり、解釈の余地は限定され、形而上学的な観念がその隙間を縫う様に配置された文章は、もちろん随所に彼独特の文藝的美意識が散見されるにせよ、詩と形容するにはあまりに無機質であるように見える。
ゆえに殆どの読者は本書を、ある種の論考として、形而上的な伝統を汲む一つの論文として経験することになるだろう。しかし、本書を論文、論考として読むことは、やはり重大な誤謬であるとの謗りを免れない。まず、ポーが如何に当時の自然科学に造詣が深かったとはいえ、そこには明らかな誤解や論理的飛躍が溢れている。実際、本書に関して論壇からの専門的で具体的な指摘や攻撃は当時から枚挙に暇がない。また、人文学の見地から考えても、論拠論証ともに脆弱極まりなく、全く科学的ではない。頻出する観念の操作も、学術的なそれとは程遠いもので、評価に値しないだろう。
しかし、これらの讒言は、この作品の素晴らしさを、ポーのあまりにも壮大な文学的達成を損なうものでは全くない。本書は詩である。緻密に、厳密に、細心の注意と強靭な論理で編まれた散文詩である。文藝作品である。
ここでポーが論じるのは、否、謳い上げるのは、"宇宙"である。それは通俗的な"星の宇宙"とは一線を画する、森羅万象の不可分な全体であり、物理現象と精神世界を同じくする臨界域だ。帰納によっても演繹によっても把持され得ない包括的な、揺らめく無限としての宇宙である。
アリストテレス形而上学、新プラトン主義的な流出論、ライプニッツのモナトロジー、ニュートンの万有引力、デカルト由来の分析と綜合、そして氾濫する天文学の固有名詞。それらはポーにとって、微塵も学術的な意味を持たない、純粋で完全な詩の言語であり、詩の実践なのだ。
ポーは宇宙を思考し、無限を志向した。物質的でも精神的でもない宇宙を。あらゆる有限を排斥するような宇宙を。認識の彼方へと超越した宇宙を。全ての法則から自由な宇宙を。全ての論理から逃れてゆく宇宙を。そう、未だかつて一度も、誰によっても語られたことのない、一で全なる絶対の宇宙をこそ、彼は語ろうとした。
その美しい観念へ向けて、まるで恋文のように、持ち得る直観を、現象を、知識を全て捧げて編み上げたことばの宇宙、彼にとっての真理の極北、神の秘境にほど近い途方もない高み。そこに至って、その荘厳なパノラマを純然たる全一として捉え尽くしたとき、その起源に自らを見出したとき、きっと彼は叫んだのだ。
EUREKA!! ( 我発見せり!) -
ポオ自身は、これを詩として読めと言ってるんですが、哲学的というかなんというか、ちょっと難解でした。
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宇宙の膨張と反比例しながら人間の科学技術は発展する。それが最善の手であるかはひとまずおいとくとして、宇宙の不思議という使い古された用語は次第に廃れていくのだろう。SFにおける疑似科学発展のように、宇宙と地球の歴史は相関関係の欠片もないのかあるのか。――宇宙は文字である。
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「真」かな?
と、感じた。 -
あぁ、エドガー・アラン・ポオは宇宙を手に入れたなぁと感心してしまった。
天啓ってのは大事だと思う。