- Amazon.co.jp ・本 (493ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003230817
作品紹介・あらすじ
「モービィ・ディック」と呼ばれる巨大な白い鯨をめぐって繰り広げられる、メルヴィル(一八一九‐一八九一)の最高傑作。海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない法外なスケールと独自のスタイルを誇る、象徴性に満ちた「知的ごった煮」。新訳。
感想・レビュー・書評
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児童用の簡易訳は読んだ。グレゴリー・ペックの映画も観た。「スナック モビー・ディック」と「スターバックスコーヒー」が向かいに建っていてどっちが勝つんだとか思ったこともある。(「モビー・ディック」が先に閉店した)
しかし今まで手を出せなかったのは、
この作品は小説でなくて捕鯨の論文だとか、
いや小説や論文といったジャンルですらなく「白鯨」というジャンルだ、とか、
キリスト教の隠喩が多いとか、
難解だ~、
などという噂ばかりを聞いてちょっと手を出しづらくて。
しかしいつまでも恐れていてもしょうがない、今こそついにと手を出してみた。
冒頭は主要人物紹介で誰がどうやって死ぬとかネタバレ状態、その次は航路や捕鯨船の船体説明、本編が始まったら鯨についての多くの資料からの引用集。
これは確かに特殊な小説形式だと思っていましたが話が始まってみたら、私が比喩隠喩論文を理解していないだけかもしれませんが、小説部分はごく普通に楽しめる、そんなに身構えずに素直に読書体験を楽しめる一品でした。
なお本文中では鯨を旧約聖書に登場する悪魔的な海の怪物”レヴィヤタン(Leviathan)”と訳されていることが多い。
これは英語の”WHALE”で感じるようなただ大きな海の生物というだけでなく、もっと強い力を感じる生物として人間がどのように捉えてきたか…という象徴でもあるのか。
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私を「イシュメール」と呼んでもらおう。
語り手は、陸の生活が嫌になると海に出る生活を送るという若者。数年前に捕鯨船に乗った時の体験を語る。読んでゆくうちにイシュメールの乗った捕鯨船は、彼以外の乗組員と共に沈んだのだと分かる。
イシュメールは海に出る前に、南太平洋の”人喰い人種”クイークェグと知り合った。
クイークェグは南海の島(ポリネシア?)の大酋長の息子で世界を見るためにキリスト教徒の国で暮らしている。イシュメールは、全身の入れ墨を施し、干し首を売って歩き、先祖代々祀ってきた神に祈りを捧げるこの異教徒の中に、高貴なる野蛮人の姿を見出し好意を持つ。そして彼らは真の友情を誓い合う。
…えーーーっとね、船乗りにとってはよくある友情表現なんなのかどうなのか、このイシュメールとクイークェグとの友情表記が
「額をくっつけ合って『これで私達は夫婦だ』と儀式を行った。夫婦と言っても心の友という意味であり、必要とも有らば相手のために喜んで死ぬという関係」
「同じベットで和み愛し合うペアーとして心の蜜月を過ごした」
「ベッドの中ほど心を打ち解けて話せる場所はない」
「クイークェグは彼の足を私の足に絡ませたり…」
「白人(イシュメール)と野蛮人(クィークエグ)が並んで仲良く歩くのは珍しがられたが私は気にしなかった」
「クイークェグの勇敢な姿を見た私は、フジツボのように彼から離れなかった。…彼が海に沈むまで」
などという記述が続くんですが、これは死と隣り合わせの船員なら当たり前の友情の示し方なのか…(--?)
この実に濃い友情表現のため、私が読む前に勝手に敬遠していたこの作品へのハードルは一気に下がった(笑)
さて、彼らが乗ることにした船は、エイハブ船長の指揮するピークオッド号。乗船前に浮浪者といった態のエライジャという男が現れて不吉な予言をよこす。
船長のエイハブは片足を義足として船板の孔に固定して命令を下すような初老の男。エイハブの片足を奪ったのは、捕鯨船の船員たちにとっても象徴的な存在であり”モビー・ディック”という固有名(洗礼名)を付けられた巨大な白い鯨だった。話が進むにつれ、エイハブが白鯨モビー・ディックに寄せる偏狭的な復讐心が明かされてゆく。
巻末の解説によると、そもそも旧約聖書における「イシュメール」という名前は、歯向かう者、追放者などの意味があり、純粋なキリスト教徒に名付けられたり自ら名乗ったりする名前ではない…ということ。
また「エイハブ船長」などの人名や「ピークオッド号」という名称は聖書やアメリカの歴史からつけられたもので、不吉な名前であったり何かを引喩していたりするとのこと。
そんな不吉さを纏って捕鯨船ピークオッド号は出港し、船乗りたちそれぞれの想いが語られる。
一等航海士のスターバックは、家族も捕鯨船員で敬虔なクエーカー教徒。真面目で冷静な部分もあるが狂信的で向こう見ずな面も持つ。彼を生き延びさせたのは鯨を恐れる気持ちがあるからであり、それは正しい恐れ方だった。
二等航海士は陽気なスタッブ。いつも手放さないパイプは最早体の一部だ。
三等航海士のフラスクは小柄で頑丈で現実的。
彼ら航海士達が指揮を取る鯨獲りのボートには、それぞれ銛打ちと船員たちが乗る。
スターバックの船の銛打ちはクイークェグで、となると当然語り手イシュメールもこの船に乗っかっている。
スタッブの銛打ちは、インディアンのタシュテーゴ。
フラスクの銛打ちは、アフリカ人のダグー。(巨大なダグーと小柄なフラスクの取り合わせ)
ピークオッド号が航海中に起きたことの小説としての書き方がなかなか面白い。
船員たちが甲板で陽気にそれぞれの仕事を行う様子はミュージカル調に書かれ、
船長室に閉じこもり思いを巡らすエイハブ船長と、エイハブの狂気に対するスターバックの憂いは演劇調に描かれる。
”わたし”という一人称で語られる割には目線は実に自由奔放。
さらにピークオッド号の”物語”と同時に語られるのは膨大な鯨薀蓄と鯨考察。捕鯨の歴史、鯨の習性、鯨の種別など。
この「白鯨」では鯨の種別は大きさで分けていて、イルカは一番小さな鯨としている。そして鯨は魚に分類されています。鯨とはなんぞや、とは、作者メルヴィルの時代にもかなり論争されていたようですね。
そして捕鯨者たちには有名な白い凶暴な鯨、”モビー・ディック”について語られて、上巻は終わる。
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「白鯨」の話は二つの流れが混じりあいます。
①イシュメールの乗った捕鯨船ピークオッド号の物語。
⇒巨大な白鯨モビー・ディック、エイハブ船長の妄執、乗組員たち、航海中に出会った他の捕鯨船の話。
一人称”わたし”で基本的にイシュメール目線だが、イシュメールがいない場面も書かれる。
②鯨談義
⇒鯨と人間についての色々。
一人称”わたし”だが、作者のメルヴィル自身がイシュメールに交じってるような状態。(「ピークオッド号から数年後のイシュメール」という可能性もあるが)
①の物語は、登場人物たちがそれぞれ個性的で楽しく、
②の論文のほうは学術的に正しいのかどうかは全く不明ですが、論文とも小説とも言い切れず、「話の面白い人に、その人が拘っていることをひたすらしゃべらせた」みたいな感じで理解はできていないが文章として面白い。
後書の解説はかなり丁寧。後書と言うか調査研究。
聖書などの隠喩、捕鯨に対する歴史解説、出てきた名前の意味、作者のメルヴィルの状況などなど。
このピークオッド号が沈むことはイシュメールの語りや不吉な予言や隠喩により示唆されているが、
作者は語り手を通して「人間は醜い面や弱い面を見せることもあるけれど、本来は高貴な面も持っている。だから自分はその高貴な面を語りたい」と書いている。そのためか散々不吉不吉~と仄めかしてる割には流れは決して暗くはない。
本格的に捕鯨が始まるであろう中巻に続く~~。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
壮大で長大で長大(大切なことなので2回言う)な物語の序章。この物語を読むときには栞を2本用意しよう!本編用と注釈用の2本だ!油断していくとメルヴィルの鯨油のように滑らかな蘊蓄に呑み込まれるぜ!
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★評価は読了まで一応保留。
学生の時に図書館で借りて読んだという事実しか記憶になく、事実上の初読。
凄い、何だろうこの雄大に歩を進めるともいうべき内容は。ストーリーがどうとかいう次元を超えた正に世界の名著。
読み手である当方の教養の無さによりおそらくはこの本の真の意味を見逃しているであろうという厳然たる(そして悲しい)事実を差し引いても十二分に面白い。
次巻以降が非常に楽しみ。 -
序盤以外は語り手が定まらず、視点がふわふわと漂って海の上に浮かんでいるように感じる。その頃には物語も海の上で、うまい具合に誘導されていると感じた。聖書や歴史からの引用や比喩がふんだんで、わかりにくいことも多いが、それがかえって丁寧に読ませる。もっと冒険物語かと思ったが、人間の内面を掘り下げたり哲学的なところもある。モービィ・ディックはまだ姿を現さないが、その伝説が好奇心をそそる。さらにエイハブ船長の未来が気になる。それにしても、長い長い序章である。
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難しくて読むのに時間がかかった。
中巻下巻読み切れるのいつになるんだろうか。
和訳とはいえ表現の多さにびっくりした。 -
現在手に入れることができるのは、講談・新潮・角川・岩波になる。
訳・挿絵・注釈・図解どれをとっても岩波が秀でている。
値段を見ると新潮・角川に流れたくもなるが、ぜひ岩波版を手に取ってみて欲しい。 -
白鯨モービィ・ディックを狩りに行く海洋冒険小説であり、長い航海を再現する為の蘊蓄が多いのも特徴。エイハブ船長の執念が凄まじい。余談として、航海士スターバックは某コーヒーチェーン店の名前の由来にもなっている。
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名作なので教養として読んでおきたい一冊。
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もっと堅い小説かと思ってた。ちょっと寓話的な物語?
語り手の饒舌さに頭がくらくらする。特に第三二章「鯨学」の鯨の分類は、主観と感情に満ち溢れる記述で笑ってしまう。
セビレ鯨は鯨嫌い。カミソリ鯨のことは誰も知らない。イオウバラ鯨は水遁の術を用いて遁走する。可笑しい。
ここまではほぼ、捕鯨への情熱と人物紹介といったところ。退屈さ半分、面白さ半分で読んできたが、乗組みたちのこの先が気になるくらいに愛着がわいてしまったので、もう最後まで読むしかないのです。