- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003231111
作品紹介・あらすじ
16世紀のオーストリアの小村に、ある日忽然と美少年が現われた。名をサタンといった。村の3人の少年は、彼の巧みな語り口にのせられて不思議な世界へ入りこむ…。アメリカの楽天主義を代表する作家だといわれる作者が、人間不信とペシミズムに陥りながらも、それをのりこえようと苦闘した晩年の傑作。
感想・レビュー・書評
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マーク・トウェインとは思えないほど、重苦しいはなし。
でも、これからの生き方を変えようと思うほど、考えさせられるものだった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【あらすじ】
ニコラウス、セピ、テオドールの3人の少年は、16世紀のオーストリアの小さな村に暮らしていた。そこにある日不思議な少年が現れた。一見感じの良い美少年の正体はなんと天使だった。その上彼の名前はサタン。3人の少年たちは、サタンの巧みな語り口、魅力的な魔法に誘われ不思議な世界へと惹きこまれていく……人間とは、良心とは何か。善悪、幸福は存在するのか。運命とはどのように決まるのか。人はなぜ戦争をするのか。ニコラウスは天使サタンと過ごすうちに、このような疑問にぶつかる。はたしてその答えは――
【解説】
作者は、『トム・ソーヤの冒険』、『ハックルベリー・フィンの冒険』などの著作で知られるマーク・トウェイン。アメリカの楽天主義を代表する作家だといわれているが、晩年に書かれたこの作品では彼の異なった一面、人間不信とペシミズムが色濃く出ている。ひどく悲観的な物語はしかし奇妙に人を惹きつけて離さない。中野好夫訳。亀井俊介解説。
【感想】
私は、同じくマーク・トウェイン晩年の代表作『人間とは何か』を読み、そのあとがきに本書のことが紹介されており興味をもったのでこの本を手にとった。どちらの本も訴えるメッセージは似たようなものである。『人間とは何か』が青年と老人の問答が終始続くのに対して、本書は構成されたストーリーになっている。 -
先日読了した「十六の話」の一編、「訴えるべき相手がないまま」の中で引用されていたということで早速Bookoffで探したところ、並べて論ぜられていた「人間とは何か」と併せて見つかった。この種の行動力はまだあまり発揮したことがなかったものの、この街に住んでいることの恩恵と素直に認め、行読力とでも名付けようか、ともかく実践してみた。
なるほど当時の人がパニックに陥いりかねない内容とはこういうものだったのかと納得すると共に、彼の没年から100年以上経過したこの21世紀社会において通用する、もしくは的確に言い当てていることが山ほど含まれていたことに驚きは隠せない。果たして人間という生き物は彼が悲観した方向に明らかに突っ走り、それでいて一部は全てはそうではないと否定できるようなものも生み出してきた。シバさんが「いや、自分はこう楽天視したい。」と筋道をたてて説明してくださる下りをよりよく理解するためには、「人間とは何か」に移ってその後は「空海の風景」に移るべきことが必須なような気がしてきた。おっとその間に「訴えるべき相手がないまま」の再読も。
そしてアメリカ楽天主義の部分は原文を目指すかな。できるだろうか? -
『トムソーヤの冒険』と同じ作者の作品とは思えないような暗い作風でした。作者の意外な一面を見れたような気がしました。
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マーク・トウェインってトム・ソーヤーだけの作家ではなかったのね。トム・ソーヤーシリーズは読み通せたことがないけれど、この小説は結構いい。全ては夢だと悟るために一生を費やしたのかという気もするけど。
サタンの人間に対する無関心さが、まさに天使という感じで気に入ってる。 -
サタンの目から見た人間のやることと言ったら、確かにそう、その通り。でもサタンが変えてくれる運命も厳しい。少年たちが見る現実としては大変厳しい物語だった。大人の自分が読んで思うのは、自分以外の人が幸せか不幸かは、その人の一時、ただそれを見ただけでは判断ができないということ。幸せか不幸かは本人しかわからない。ただ、マーク・トウェインが3度も書きながら未完に終わってしまったこの作品との格闘には、「生きる」ということを教えてもらった気がする。しかし、Guardianのコメディー作品は笑えないのが多いなぁ。
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トムソーヤーの冒険書いた人とは思えないほどの暗さ。
バタフライエフェクト的なくだりもありつつ、ひたすらに悲観に満ちた死生観がストーリーを取り巻いている感じ。
思春期に読んだら人間不信になりそう。
ただ、文章は重くなく読んでてストレスは一切なく流れるように読めた。
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早急に生き方を変えたくなる一冊。(変えたくなる止まりだったが…)
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「人生そのものが幻じゃないか」
「あるものは君だけなんだ」
人生や世界が自分自身がつくりだした幻にすぎないとして、それならどうして自分の人生の中身に喜びだけでなく悲しみなどの負の感情が多いのか。そのようなことは決して望んでいないはずだ。もしかしたら、悲しみは決して否定的な要素ではなく、あくまでも喜びを相対化させるために存するだけの要素なのかもしれない。そうすれば自分の作り出した自分の世界の悲しみにも何か積極的な意味を見出せるのかもしれない。というようにあっさりと最終的に自己を肯定してしまって完結していいとは思えず、肯定も否定も全てひっくるめて幻の人生であり、独我論なんだろう。そもそも独我論というカテゴライズされる話ではないという感想もよぎるが、やはりこの小説の最後の主題はキリスト教的な倫理観と鋭く対立する個々の主体を考えさせる独我論だと思った。 -
人間に対する徹底したペシミスティックな視点
「君たち人間の進歩ってやつは、どうもあまり感心しないね。もう一度新たに出直すことだな。」p182
生まれ落ちたが最後なんです。