ゲーテとの対話 (中) (岩波文庫)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (417ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003240922

感想・レビュー・書評

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  • 上巻の続きからゲーテの臨終まで。
    とりあえず継続して読んでみたら、と思ったが、うーん、前作よりは幾分共感できる箇所はあったけど、タイミングなのか、まだまだ今の自分には難しいのかもしれない。
    234冊目読了。

  • ゲーテの慧眼が冴え渡った良書。

    「真理は絶えず反復されなければならない。」

  • ゲーテとの対話(上)を読み終わってから、半年以上が経ってしまった。
    文章を読むことも、咀嚼して理解することも、時間がかかるけれど、時間をかけ、何度も読まなければ、到底理解できない。その上、何度読めば、どのような経験を積めば理解できるのかもわからない程、かなり高次な著書である、、ということは理解できる。

    続けて(下)を読み、再度(上)から読んでいき、どのように理解や感じ方の変化があるのか楽しみ。


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    (前略)
    もともと人間は小さなことにしか向いていない。そしてただ、自分でよく知っているものを理解し、喜んでいるにすぎないのである。すぐれた有識者は絵を理解することができ、いろいろな部分を、自分で精通している普遍的なものにむすびつけることを知っている。絵全体も、各部分も、彼にとってはいきいきと理解できるのである。彼はまた、一つ一つの部分についてもまったく偏愛をもたず、顔が醜いとか美しいとか、ある箇所が明るいとか暗いとか、は問題にしない。彼が問題とするのは、すべてのものがあるべきところにあり、規則的で、正しいかどうかということである。しかし、もし半可通な者に多少とも大きな絵をみせるとすると、全体がわからずに、眩惑され、それぞれの部分部分に心惹かれたり、反発したりして、結局、自分によくわかっている、まったく取るにたりないことにかまけてしまうのである。(後略)

  • 12/2

  • 一八二八年

    一八二九年

    一八三〇年

    一八三一年

    一八三二年

  • 2004/07/14読了

  • 対話が爆音で脳裡を圧倒して爆発する喜びがある。
    自身が読み、聞き、論じられるようになったのは、数知れない影響の恩恵を蒙っているからである。が、教養の源泉を探り出すには、何層にも重なった経験/情報/想像作用の有機的な結合をほぐすことが必要で、それは複雑な手続きになる。ゆえにゲーテは《大事なことは、真実を愛する魂、真実を見出したらそれを摂取するだけの魂を持っていることだよ。》と助言する。芸術作品に多重の興味を持ち、無知の知だけではなく知の知を持って、何層にも心臓に根を張った血の血にすべきだ、とわたしは解釈した。

  • 岩波文庫 ゲーテとの対話 

    1828年〜1832年のゲーテの言葉。

    中巻はゲーテが死んで終わる。下巻はどうなるのか?


    ゲーテの晩年は 自然から人間を見る傾向が強くなっている。生命と自然が一体になっている感じが 死生観へつながっている。


    自然科学的な著書「色彩論」が評価されていない点について 納得していない様子。色彩論に関してはニュートンすら誤っており、真実を知っているのは 自分だけとする論調。上巻で大作に要注意と言いながらも、ゲーテ自身 大作の罠にはまっている気もする


    ゲーテ「一人で仕事をするのはよくない。何事か成し遂げようと思ったら、他人の協力と刺激が必要」は御意。

    ゲーテ「自分自身を知るのは、楽しんでいるか、悩んでいるときだけ。悩みと喜びを通してのみ、自分が何を求め何を避けるべきか教えられる」は なるほどと思う。


    デーモンやデモーニッシュという言葉が繰り返し出てくる。同じ意味なのか?神性に近いのか、悟性に近いのかわからなかった。
    *人間は高級であるほど、デーモンの影響を受ける
    *デーモンは、人間をからかったり、馬鹿にしたりするために〜誰も到達できない人物を作る

  • 中巻読了。読みながら註のところを引いて本文に戻ってまた読むというやり方にも慣れてきた。しおりをを2つ挟みながら読むのはなかなか面倒くさいが当時のことをゲーテ側から見た視点とエッカーマン側から見た視点で微妙な食い違いがあるのが面白い。同じ現場で同じことを体験したとてこんなにも見え方が違っているものか。それは主観(というフィルター)を通して見るからだろう。自分と猫が同じ様に見えているとは限らない。同じ人間だからと一括りにするのはあまりに雑過ぎる場合もある。以下読みながらメモしたところを中略かつ要約して。「私の作品は世にもてはやされるようなことはなかろう。そんなことを考えてみたり、そのために憂身をやつしたりする人間は間違っているよ。私の作品は大衆のために書いたものではなく、同じようなものを好んだり求めたり、同じような傾向をとろうとしているほんの一握りの人たちのためのものなのだ。世界と人類を奥の奥まで究めつくそうとして、彼のあとにつづこうとする観察者のためにあるのだ。心の喜びと悲しみを詩人のうちに探し求める情熱的な享受者のためにあるのだ。どのように表現し、どのように素材を芸術的に処理すればよいかを学びとろうとしている若い詩人たちのためにあるのだ。どんな原理にもとづいて判断すべきか、評論をどのように興味と風格のあるものにつくりあげたら、喜んで読んでくれるか、とういう模範を汲みとろうとする批評家たちのためにあるのだ。一般的にいえば、精神を啓発され、特殊的にいえば、どういう素材が芸術的意義を持ち、従って何を描けばいいか、何を描いてはいけないのかを学びとることができるのだから、美術家のためにあるものだ。それはまた自然研究者のためにあるものだ。」「およそ偉大なものはすべて、われわれがそれに気づきさえすれば、必ず人間形成に役立つものだ」「熟達と才能、良い作品にはこの両方が必要である」「ひとかどのものを作るためには、自分もひとかどのものになることが必要だ。」「われわれは、外界の事物の奴隷にすぎず、事物がわれわれを萎縮させるか、のびのびさせるかに応じて、われわれは、つまらない人間にも見えれば、偉い人間にも見えるのだよ。」「才能があるというだけでは、十分とはいえない。利口になるには、それ以上のものが必要なのだ。大きな社会の中に生活してみることも必要だし、当代一流の士のカルタ遊びを見たり、自分も勝負に加わってみることも必要だね。」「ナポレオンが偉大だった点は、いつも同じ人間であったということだよ。戦闘の前だろうと、戦闘のさなかだろうと、勝利の後だろうと、敗北の後だろうと、彼は断固としてたじろがず、つねに、何をなすべきかをはっきりわきまえていて、つねに自分にふさわしい環境に身を置き、いついかなる瞬間、いかなる状態に臨んでも、それに対処できた。ちょうどフンメルにとってはピアノを弾きこなすようなものだ、アダジオだろうがアレグロだろうがバスだろうがディスカントだろうが演奏に変わりがなかった。平和な芸術においても、戦争の技術においても、真の才能の行くところ、可ならざるはなしだ」「デーモンというものは、人間をからかったり馬鹿にしたりするために、誰もが努力目標にするほど魅力に富んでいてしかも誰にも到達できないほど偉大な人物を時たま作ってみせるのだ、という風に考えざるをえないのだよ。」「とかく人間は、自己を天地創造の目的と考え、他のいっさいのものはただ自己との関係において、またそれが自己に奉仕し、役に立つときに限って認めようとしがちだ。どんな取るに足らぬ雑草でも、人間のために存在しているのではないと考えてもみないのだ。」「そもそも人は、いつも驚嘆するものだけを読むべきだ」ザッと書いただけでもこんなに量がありその一つ一つが示唆に富む含蓄のある言葉の数々。まさか中巻でゲーテが死ぬとは思わんかったけども。下巻も読もう。あと、水木しげるのゲゲゲのゲーテってのがあると知った、読んでみよ。

  • 持っているのは古い版みたい。ISBNコードがついてなかった。

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