ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2010年1月15日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784003243237

みんなの感想まとめ

言語を駆使して「表しえないもの」の実存を探求する作品は、深い嘆きとともに生きることの意味を問いかけます。詩としての美しさだけでなく、込められた思想の密度も際立っており、特に天使や歴史哲学に関する発想が...

感想・レビュー・書評

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  • **人間存在の苦悩と美しさ、そして有限性の中に希望を見出す詩的試み。**

    [読後の印象]

    とまれかくまれ、リルケの詩は甘美な旋律が美しい。

    その芸術性と叙情性は、おそらくあの大彫刻家オーギュスト・ロダンやフランスを代表する詩人ポール・ヴァレリーとの親交とともに深まっていった。

    晩年の代表作「デュイノの悲歌」は20世紀文学の頂点に位置する詩集であり、その文体と思想は、読む者をして存在そのものの崇高さと虚無の間に揺れ動かせる。

    リルケはこの作品を通じて、人間の有限性と超越への渇望を描き出し、その詩的構築は、まさに神殿のような均衡と気高さを湛えている。

    『デュイノの悲歌』の中核には美が苦悩を内包し、苦悩が美に昇華されるという逆説が横たわる。

    第一の悲歌において描かれる天使は、その姿に絶対的な美を宿しつつも、人間には耐え難い畏怖をもたらす存在である。

    それはリルケ自身が言及する「われらを破壊する美」であり、この天使の前に立つ人間は自らの不完全さを痛感し、なおそれを越えんとする意志を示す。

    天使の不可視の羽ばたきは詩の中で読者の心に影を落とし、同時に光をもたらすのだ。

    リルケにとって死は単なる終焉ではない。

    それはむしろ**生命の輝きを際立たせる反照鏡であり、人生のすべてを意味付ける鍵**である。

    第十の悲歌では、死が全存在を包み込む不可避のものとして語られつつも、それとともに生きることでのみ、人間は永遠へと接近し得ると述べられる。

    **この洞察は、ハイデガーの存在論やニーチェの永劫回帰の思想と響き合い、詩的哲学としての深みをさらに加える。**

    リルケの言葉は単なる詩句を超えた旋律を持つ。

    そのリズムは、孤高の作曲家が奏でる交響楽のように読者を未知の領域へと誘う。

    第九の悲歌における鳥のイメージは、世界の儚さを象徴しつつも、永遠へと羽ばたこうとする生命の力強さをも表現する。

    この詩の言葉は読者の目を覚まし、感覚を刺し貫く。

    リルケは、孤独を人生の試金石と見なす。

    **孤独を恐れるのではなく、それを受け入れ、さらにはその中に自身を打ち立てるべきだと説く。**

    この思想は第二の悲歌や第四の悲歌において際立ち、孤独を通じて宇宙との共振を目指すリルケの信念を明らかにする。

    そして人間を「歌う者」として描き、苦悩や絶望を詩や芸術の形に昇華する使命を与える。

    その姿はまるで祭壇に立つ司祭のようである。

    「ドュイノの悲歌」は、**人生の儚さとなおその中に輝きを見出そうとする意思の書で**ある。

    リルケは、存在の苦しみを慈しむような眼差しで見つめ、その上で読者に問いかける。

    答えを提示するのではなく、詩句の中に無限の思索の糸を織り込むことで、彼は一つの宇宙を築いた。

    この詩集に触れることは、まさに**崇高なる祈りの時間に立ち会う**ことであり、それは**人間存在の孤高の冒険**である。

    私たちの置かれた時代は、もちろんリルケの生きた時代とは大きく異なる。

    しかしながら、世界の各地で戦闘が勃発し、無辜の人々が犠牲を強いられている今、再びこの詩集に注目する価値は高い。

  • 言語という「表しえるもの」をもちいて、「表しえないもの」の実存を浮き彫りにせんと腐心している、類なき悲歌。

  •  マッシモ・カッチャーリの『必要なる天使』にこの悲歌がしばしば引用されているのに示唆を受け、あらためて繙くが、この世界に生きること自体への深い嘆きを表明するこの悲歌は、詩としても、そこに込められた思想もきわめて密度が高い。天使についていくつか興味深い詩句が見られるとともに、ベンヤミンの歴史哲学につながる発想も感じさせる。動物を語る詩句も興味深いが、少々感情移入が過ぎるようにも思われる。手塚富雄の自己弁明はなくもがなのような気がする。

  • ふむ

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/707138

  • 訳が美しく、註解も読解の大きな助けになる。純粋で悲痛な詩人の叫びが響く。時を飛び越して響く、生の叫び。

  • 言葉や表現がとっても美しくて、感動で何度も鳥肌が立った。特に天使に対する気持ちはすごく新しい描き方のようで皆が理解出来るタイプのものだと思う。
    註釈はページをべしべしとめくるのが面倒であんまり読んでない。註釈の解釈が自分と合わず、くどい部分もある。
    「言葉を使う」が詩人のことだと思うけど、それが人間の中では一番マシって言い方だったり、死は動物には見えていないとか、傲慢な人間は苦手。他の部分は動物を過大評価しているように見える。
    6〜8辺りが好き。
    一番絶賛されている?9は「大地よ」のあたりから、新興宗教の布教活動を遠目で見てる気分になった。それより前はリルケの生きててよかったって気持ち見てるようでとってもドキドキするし面白かった。

    この詩はこの人の人生なんだと思う。恋人だとか色々。だからその辺もっと知ると面白いのかも。
    何度も読まないと理解できない気がするので、またしばらく時間置いてから読む。

  • 最初に通読した際には、何やら手掛かりのないような心地で読み終えた。これは、全体の構造と構想を意識しつつ、メッセージや意味を捉えようとしたためだったかもしれない。
    そのあと、註解に目を通した際、歌全体でなく、一節くらいのコンパクトな単位でいくつかの一部分を受け止めた。すると、なんとも、いかしたしびれる表現のフレーズの数々を再発見。
    そのあと、再び、全十歌を再読したのであった。
    ( 例えば… ↓ )

    ***

    「なぜなら美は怖るべきものの始めにほかならぬだから。」<一>

    「おお、いつの日か死者の列に加わり、これらの星をきわまりなく知りえんことを。」
    「思ってはいけない、運命は幼い日の密度よりゆたかだと。」<七>

    「ああ、いつの日か怖るべき認識の果てに立って、」
     <十>

    などなど…。
     なんともかっこよいではないか。
    ###

  • 以下のアドレスのブログ記事をお読みください。

    http://sasuke0369.blogstation.jp/archives/36183864.html

  • これは本当に凄い本。
    詩句自体が美しく、実存思想としても価値があるのは言わずもがなだが、何よりも註解の懇切丁寧さに舌を巻く。

  •  詩中の「天使」は、現実と関わりをもたず天上と戯れる天使ではなく、人間が地上=現実と関わり続けるのを後押しする天使だと思います。僕は初読のときは、前者のように解釈しましたが、再読し、解説もある程度読んで、後者のように解釈しました。現実と関わりを持ちながら、非現実的世界を表現するのが大事だと思います。たしか大江さんが以下のようなことをエッセイで書いていました。
     地上にいる自分=現実が、糸で繋がったもう一人の自分を非現実世界に潜行させて、再び自分=現実の元に呼び寄せる。そのとき非現実世界に潜ったもう一人の自分は、現実に戻ってくるさいに多くの収穫=創作の源泉を取り寄せて戻ってくる。これは近代以降では無意識とよばれる活動の一つだと思います。けれど、地上にいる自分=現実の「力」が強くなければ、糸で繋がったもう一人の自分を支えている糸が切れてしまい、もう一人の自分は非現実世界を永遠に彷徨い、地上に残った自分は、精神がなくなった木偶の坊になってしまう。
     地上=現実に自分を踏みとどまらせる力は大切なものだと思います。『ドゥイノの悲歌』でも、作中人物は天上世界に憧れていますが、しかし地上世界で生き続けなければいけないと訴えています(直接的な表現ではありません)。
     『海辺のカフカ』で物語終盤、主人公は天上世界=聖なる森=非現実世界に入りますが、地上=現実に戻ってきて、生き続けることを選択していました。おそらく主人公が恋した女性も、昔主人公と同じように天上世界=聖なる森=非現実世界に入ったのだと思います。違いは、女性はその世界から出てこようとする「力」が弱かったことだと思います。村上さんはこのような人を物語世界で、「影が半分ない人」と表現しています。

  • 18/03/25。

  • リルケの生命が注ぎ込まれた10の悲歌。
    ことばという存在を目の前に、ただ黙りこむより他ないというのに、果敢にもそれを歌い上げた。哀しいのは、その存在に触れられぬことではない。すでにどういうわけか存在してしまっているという、この恐ろしいまでの不思議に憑りつかれてしまったからだ。
    人間ははじまりや存在しないということを考えられないようにできてしまっている。なのに、それを考えることができてしまう。これは一体なんだというのだ。自分という存在からすべてが生まれているのに、どうして「こちら」であって「あちら」ではなかったのか。
    神さまではなくて、天使ということばを用いたことは、書き出すまでにかなり悩んだに違いない。天使は天の使い、神さまであって、神さまではない。これほど存在の不思議を言い当てたことばはなかったと思う。
    第九の悲歌で叫んでいるように、存在に触れるとき、そのことばはただ名前を呼ぶだけしかできない。小林秀雄がどこかで言っていた。おとぎ話にならざるを得ない。たぶんそんな感じなのだと思う。
    死を想って悲しいのではない。その死がただのことばにすぎないと気付いてしまったからこそ、その先を知りたいくなってしまったのだ。嘆きのその先へ。不滅の存在のその先へ。リルケの精神が世界へ、空へ、宇宙へ突き抜けていく。そして、目を開けば、今自分が大地に立っていることを知る。生きている。このことを知ること以上にどんな幸せがあるというのか。大地がこんな精神で満ちあふれているなんて。無限という絶対。
    ただ示すだけでその高みへと歩んでいける。悲しみは自分のものでしかないけれど、そこになにがしか在る、その一点だけは、存在するこのわれわれすべてに共通する。詩の力はここへ精神を還してくれる。
    抽象的でシュールな世界では決してない。リルケは今生きて在るというこの事実に真っ向から取り組んだ。男だとか女だとかそんなの関係ない。それ以前に自分が在るのだから。
    運命とは向き合っていること。リルケは言う。自分というこの存在に立ち返るその時はじめて、自分ではないものの存在に驚く。それは素朴なことばでしか言い表せないものだ。しかし、そこには無限の先への足掛かりがある。愛とは、手を取り合うことではなく、手を取り合うことでしか分かちあえないこの乾いた孤独だったのだ。

  • またも岩波さんの良い仕事らしいので、そのうちにぜひ。

  • 『マルテの手記』とともに、これはリルケの代表作と言っていいのでしょうね。この岩波文庫、本編よりも註解のほうが頁数が多い!訳註が多い翻訳ものには、批判もありましょう。が、本編を原文によって(文学的に)訳し、読者に対する註をできる限り詳しく附す(可能ならば別立てで)というのは、とても誠実な在り方だ、とも思うのです(訳註を付けずにお茶を濁して逃げるという卑怯な手もある、と、ご存じでしょう?)。少なくともこの註解は、独立した「『ドゥイノの悲歌』研究」と言えるほどのものです。これを参照しながら読めば、本編の読解は深まることでしょう。けれど、註解を参照せずとも、本文だけでも純粋に文学として読むことができます、これが大事。もちろん少し古い日本語ではありますが、リルケほどの人による凝縮された十の悲歌、「平易」なだけの日本語では、かえってその格調が失われるというものです。ときどき読み返したい「日本語」です。

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