- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003243237
作品紹介・あらすじ
『ドゥイノの悲歌』は、『オルフォイスに寄せるソネット』と並ぶリルケ(1875‐1926)畢生の大作である。「ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?」と書き始められた調べの高いこの悲歌は、全10篇の完成に実に10年もの歳月を要した。作品の理解を深めるための詳細な註解を付す。
感想・レビュー・書評
-
言語という「表しえるもの」をもちいて、「表しえないもの」の実存を浮き彫りにせんと腐心している、類なき悲歌。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
マッシモ・カッチャーリの『必要なる天使』にこの悲歌がしばしば引用されているのに示唆を受け、あらためて繙くが、この世界に生きること自体への深い嘆きを表明するこの悲歌は、詩としても、そこに込められた思想もきわめて密度が高い。天使についていくつか興味深い詩句が見られるとともに、ベンヤミンの歴史哲学につながる発想も感じさせる。動物を語る詩句も興味深いが、少々感情移入が過ぎるようにも思われる。手塚富雄の自己弁明はなくもがなのような気がする。
-
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/707138 -
訳が美しく、註解も読解の大きな助けになる。純粋で悲痛な詩人の叫びが響く。時を飛び越して響く、生の叫び。
-
最初に通読した際には、何やら手掛かりのないような心地で読み終えた。これは、全体の構造と構想を意識しつつ、メッセージや意味を捉えようとしたためだったかもしれない。
そのあと、註解に目を通した際、歌全体でなく、一節くらいのコンパクトな単位でいくつかの一部分を受け止めた。すると、なんとも、いかしたしびれる表現のフレーズの数々を再発見。
そのあと、再び、全十歌を再読したのであった。
( 例えば… ↓ )
***
「なぜなら美は怖るべきものの始めにほかならぬだから。」<一>
「おお、いつの日か死者の列に加わり、これらの星をきわまりなく知りえんことを。」
「思ってはいけない、運命は幼い日の密度よりゆたかだと。」<七>
「ああ、いつの日か怖るべき認識の果てに立って、」
<十>
などなど…。
なんともかっこよいではないか。
### -
これは本当に凄い本。
詩句自体が美しく、実存思想としても価値があるのは言わずもがなだが、何よりも註解の懇切丁寧さに舌を巻く。 -
詩中の「天使」は、現実と関わりをもたず天上と戯れる天使ではなく、人間が地上=現実と関わり続けるのを後押しする天使だと思います。僕は初読のときは、前者のように解釈しましたが、再読し、解説もある程度読んで、後者のように解釈しました。現実と関わりを持ちながら、非現実的世界を表現するのが大事だと思います。たしか大江さんが以下のようなことをエッセイで書いていました。
地上にいる自分=現実が、糸で繋がったもう一人の自分を非現実世界に潜行させて、再び自分=現実の元に呼び寄せる。そのとき非現実世界に潜ったもう一人の自分は、現実に戻ってくるさいに多くの収穫=創作の源泉を取り寄せて戻ってくる。これは近代以降では無意識とよばれる活動の一つだと思います。けれど、地上にいる自分=現実の「力」が強くなければ、糸で繋がったもう一人の自分を支えている糸が切れてしまい、もう一人の自分は非現実世界を永遠に彷徨い、地上に残った自分は、精神がなくなった木偶の坊になってしまう。
地上=現実に自分を踏みとどまらせる力は大切なものだと思います。『ドゥイノの悲歌』でも、作中人物は天上世界に憧れていますが、しかし地上世界で生き続けなければいけないと訴えています(直接的な表現ではありません)。
『海辺のカフカ』で物語終盤、主人公は天上世界=聖なる森=非現実世界に入りますが、地上=現実に戻ってきて、生き続けることを選択していました。おそらく主人公が恋した女性も、昔主人公と同じように天上世界=聖なる森=非現実世界に入ったのだと思います。違いは、女性はその世界から出てこようとする「力」が弱かったことだと思います。村上さんはこのような人を物語世界で、「影が半分ない人」と表現しています。 -
18/03/25。
-
リルケの生命が注ぎ込まれた10の悲歌。
ことばという存在を目の前に、ただ黙りこむより他ないというのに、果敢にもそれを歌い上げた。哀しいのは、その存在に触れられぬことではない。すでにどういうわけか存在してしまっているという、この恐ろしいまでの不思議に憑りつかれてしまったからだ。
人間ははじまりや存在しないということを考えられないようにできてしまっている。なのに、それを考えることができてしまう。これは一体なんだというのだ。自分という存在からすべてが生まれているのに、どうして「こちら」であって「あちら」ではなかったのか。
神さまではなくて、天使ということばを用いたことは、書き出すまでにかなり悩んだに違いない。天使は天の使い、神さまであって、神さまではない。これほど存在の不思議を言い当てたことばはなかったと思う。
第九の悲歌で叫んでいるように、存在に触れるとき、そのことばはただ名前を呼ぶだけしかできない。小林秀雄がどこかで言っていた。おとぎ話にならざるを得ない。たぶんそんな感じなのだと思う。
死を想って悲しいのではない。その死がただのことばにすぎないと気付いてしまったからこそ、その先を知りたいくなってしまったのだ。嘆きのその先へ。不滅の存在のその先へ。リルケの精神が世界へ、空へ、宇宙へ突き抜けていく。そして、目を開けば、今自分が大地に立っていることを知る。生きている。このことを知ること以上にどんな幸せがあるというのか。大地がこんな精神で満ちあふれているなんて。無限という絶対。
ただ示すだけでその高みへと歩んでいける。悲しみは自分のものでしかないけれど、そこになにがしか在る、その一点だけは、存在するこのわれわれすべてに共通する。詩の力はここへ精神を還してくれる。
抽象的でシュールな世界では決してない。リルケは今生きて在るというこの事実に真っ向から取り組んだ。男だとか女だとかそんなの関係ない。それ以前に自分が在るのだから。
運命とは向き合っていること。リルケは言う。自分というこの存在に立ち返るその時はじめて、自分ではないものの存在に驚く。それは素朴なことばでしか言い表せないものだ。しかし、そこには無限の先への足掛かりがある。愛とは、手を取り合うことではなく、手を取り合うことでしか分かちあえないこの乾いた孤独だったのだ。 -
何度も唸っております。
○以下引用
なぜなら美は恐るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことをとるに足らぬこととしているからだ。
そして、さかしい動物たちは、わたしたちが世界の説き明しをこころみながら そこにそれほどしっかりと根をおろしていないことを よく見抜いている
丘のなぞえのひともとの樹、昨日歩いたあの道、または犬のように馴れついて離れぬ何かの習慣 これならわたしたちのもとに居ついて満足している
過去の日の大浪がおまえに寄せてきたではないか、または開かれた窓のほとりをすぎたとき、提琴の音がおまえに身をゆだねてきたではないか。それらすべては委託だったのだ。しかしおまえはその委託をなしとげたか
ちょうど張りつめた弦に堪えぬいた矢をあつめて飛び立つとき矢以上のものとなるように、まことに定住はいずこにもないのだ。
声がする、声が。聴け、わが心よ、かつてただ聖者だけが聴いたような聴きかたで。
静寂からつくられる絶ゆることないあの音信を。あれこそあの若い死者たちから来るおまえへの呼びかけだ。
もとよりただならぬことである。地上の宿りははや捨てて、学び覚えたばかりの世の慣習をもはや行うこともなく、バラの花、さてはその他の希望多いさまざまの物に、人の世の未来の意義をあたえぬことは。
天使たちは(言いつたえによれば)しばしば生者たちのあいだにあると、死者たちのあいだにあるとの別に気づかぬという。永劫の流れは生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代を拉し、それらすべてをその轟音のうちに呑みこむのだ。
あの妙なる顫動に移ったという。その顫動こどいまもわれわれの魂をうばい、なぐさめ、そして力を添えてくれるのだ
人間的な世界を見出すことができるなら!奔流と岸壁とのあいだに
一筋のわれらの耕作の地を見出すことができるなら!いつもいつもわれら自身の心情がわれらを超えて高まることは
おんみら至純なものに由来するのではなかったか。かれが彼女のきよらかな顔を心をこめて見入るのは、あの清らかな星辰からの贈りものではな
かったか
愛したのだかれは、おのが内部を、おのが内部の荒野を、
その鬱林を。そこには崩れ落ちた声なき岩塊がらいらいとしてよこたわり、
かれの心の若木は、その亀裂からうす緑して頭をのぞかしてふるえているだけだった。愛したのだ、この風景を。しかもそこからかれはさらに進んだ、おのれ自身の根に沿い、さらにそれを突き抜けて
かれ自身の小さい生誕を遠く超えた強大な起源の場に入る
その怪獣は、胎児のかれを浮べている液体にすでに溶け込んでいるのですから。見よ、われわれは野の花のように、たった一年のいのちから
そしておんみも、みずからは知らぬまに―。おんみを愛する若者の内部に、太古をいざない揺り起こしたのだ。すでにこの世を去った
人々の感情がどんなに激しくほとばしり出たことだろう。
園ちかくかれをみちびけ、暗黒の夜々の重みに
打ち克つ力をかれにあたえよ
おお生命の樹々よ、おお 冬さるるはいつ?
われら人間は大いなるものと一つに結ばれていない、渡り鳥にも劣って、
それとの心の通いがない。追い抜かれて時を失して、
われわれは唐突に風を押し乗ろうとし、
そしてよそよそしい地へ落ち込む。
開花する、凋落する、この二つは同時にわれらの意識に宿る
いまも獅子らは原野を闊歩し
天使と人形、そのときついに演劇は現前する
そのとき、たえずわれらがわれらの存在そのものによって
分裂させていたものが合体する。そのとき、
われら人間に四季のめぐりは、はじめて
全き運行の円環となって結ばれる。われわれの頭上高く
その時天使は演技する
われらがこの世でしとげるすべてのことは、
いかに仮託にいちているかを、われらは思い知るべきではないか。
そこではいっさいがそれみずからではない。
けれど、わたしたちがひとりで道を行くときには
過去も未来もない持続をたのしみ、世界と玩具とのあいだにある中間地帯の太初から純粋なありかたのためにもうけられたひとつの場所に立ったのだ
だがいったいこれはなにものなのだ、この渡り歩きの者たちは、わたしたち自身よりなおすこし果敢ないこの一むれは?一つの意志が、早くから
つかみかかってかれらを揉む、それはたれに、いったいたれに仕えてか、
けっして満ち足りることのない意志。満ち足りることなくその意志は、かれらを揉む。ねじる、からみあわす、ふりまわす、投げ上げては受け止める。油じみてすべすべした宙空から、擦り切れた毛氈に落ちくるかれら
と、突然、このたどたどしい「どこでもない場所」のなかに、突然、言いようもない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少が解しがたく変容して―あの空無の夥多へと急転する。桁数の多い計算が数をのこさず割り切れる
天使よ、わたしたちの知らぬ一つの広場があるのであろう、そこでは、
名状しがたい毛氈の上で、現実の世界で自分の行為を技能化することのない愛人同士が、その心情の躍動の敢為な、たけ高い形姿を、
歓びできずかれた尖塔を、
地面をはなれた宙空にいつまでもただたがいに
支え合っているだけの二つの梯子を、おののきながら現ずることだろう。
遅疑することなく決意した果実のなkへ、
世の声高い賞賛もうけず、おんみの清純な秘密を凝集することか。
噴水の管にも似ておんみのしなやかな枝枝は、
樹液を下へ、上へと送り、それはほとんど醒めることなしに、
眠りの中から甘美な事業の幸福へおどり入る。
ああ、われらには花咲くことが光栄なのだ。
そしてやっと最後に期を逸し意図に反してとぼしい果実の内部に入り込む
花咲くことへのいざないが、匂やかな夜の微風のように
若いひとびとの唇やまぶたを撫でるとき、
しかと足を踏みしめて、みなぎる心情が熾烈な火花を発する程に
勁い行為のうながしに充たされるものは極めてまれだ。
無数の生命が胎内で湧き立ち、かれたらんとした。
しかし見よ、かれだけが取るべきを取り 捨つるべきを捨てた―選んだ、なしえた。
そして後にかれは列柱を打ち挫いたが、おんみの胎内の世界から
より狭い世界へと踊り出たとき、すでにかれはその事業にひとしいことをおこなっていたのではないか。
高まりゆく春の季節が空高く抱き取るあの鳥のように、
そのように懐をひらいて迎えるとき、
この季節はほとんど忘れている。その鳥が労苦をになった生きものであることを。
また、それが晴れやかな大気、情愛深い天空開放されたひたすらに純一な魂ではないことを。その鳥の叫びと同様に、
いやそれにおとらず、おまえの声も、やはり愛の応答を求める叫びなのではないか
遠くひろく、きよらかな肯う春日はしずもりわたる
と、その沈黙はやぶられて、大階段を、叫びの大階段を、まっしぐらに歌声は駆けのぼり―未来の 夢の殿堂の扉をたたく―と音の噴水、
吹き上げ吹き散り、高まる水は早くも落下を予感し、
落下は新しいほとばしりを約束する…そして水面には早くもただよう夏のけはい
おお、そこに含まれるかぎりない万象の予感。まず夏の朝のさわやかさ
しだいに明けすすみ、きょうの一日を前に晴れてかがやく
ただそれだけではなく、やがて昼 それは花々をつつんでは繊細に、
そばたつ巨樹をめぐっては勢威をほこる。
展開しきったこれらの力の深い静もり、
だがそれだけではなく、ようやく傾く日差しの中の道々、牧場、
たそがれ近い雷雨の後にしばし息づく明るいひととき、
やがて夕べ、ちかづく眠り、ものおもい…
だがそれだけではなく、それにつづく夜夜、あの空高い
夏の夜夜。さらには星々、地上の星々。
どこにも世界は存在すまい、内部に存在するほかは
このわれわれの時空を、施与するそれらをゆるがせにしたのではなかったのだ。 -
またも岩波さんの良い仕事らしいので、そのうちにぜひ。
-
『マルテの手記』とともに、これはリルケの代表作と言っていいのでしょうね。この岩波文庫、本編よりも註解のほうが頁数が多い!訳註が多い翻訳ものには、批判もありましょう。が、本編を原文によって(文学的に)訳し、読者に対する註をできる限り詳しく附す(可能ならば別立てで)というのは、とても誠実な在り方だ、とも思うのです(訳註を付けずにお茶を濁して逃げるという卑怯な手もある、と、ご存じでしょう?)。少なくともこの註解は、独立した「『ドゥイノの悲歌』研究」と言えるほどのものです。これを参照しながら読めば、本編の読解は深まることでしょう。けれど、註解を参照せずとも、本文だけでも純粋に文学として読むことができます、これが大事。もちろん少し古い日本語ではありますが、リルケほどの人による凝縮された十の悲歌、「平易」なだけの日本語では、かえってその格調が失われるというものです。ときどき読み返したい「日本語」です。