魔の山 下 (岩波文庫 赤433-7)

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  • 岩波書店 (1988年10月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (690ページ) / ISBN・EAN: 9784003243374

みんなの感想まとめ

時間の感覚が麻痺したサナトリウムでの長期滞在を描く物語は、ハンス・カストルプの成長や葛藤を通じて生と死、社会との関わりを深く探求しています。多様な登場人物との出会いや別れが織りなす人間模様は、単調な日...

感想・レビュー・書評

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  • 上巻に引き続き、サナトリウムで過ごすカストルプ
    いつのまにか従兄弟よりも施設に馴染み、さまざまなことに興味を持ち楽しんで過ごす
    従兄弟のヨーアヒムは、ここの生活、治らない自分に苛立ち、早く普通の生活に戻らなければとあせっていく
    やがて、ヨーアヒムはついに医師の忠告を振り切り、軍隊に帰っていく
    月日がたつにつれ、季節はうつり変わりにそして、カストルプは植物に興味をそそられ
    瞑想にふけり、セテムブリーニやナフタの宗教や、思想に耳を傾け、サナトリウムに溶け込んでいく、怖いくらいに‥
    もうこの世界から抜け出したくない
    抜け出せなくなっていく
    まさに魔の山
    雪山で遊びながら遭難しかけたり、周りの人々との関わりの中でさまざまな感情を捏ね回す
    どんなにあがいても、サナトリウムの中でのこと
    で、守られていることに気がついていたのだろうか
    やがて最愛の従兄弟が帰ってきて、最後の別れとなるあたりから、ますます魔の山に飲み込まれていく
    サナトリウムの壁のような存在になるまでには
    何年もの歳月が必要ではあったけれど
    それは
    「長き間の束の間」

    思想や宗教に関する話にはなかなかついていかれないがそんな話の中にも現実みがないような
    狭い世界での討論に聞こえてせつなくなる
    そして突然迎えるカストルプの転機
    これは、作者の作品の中断にも関わっているのだろうか?
    第一次世界大戦と言う悲惨な歴史の中に主人公を放り投げ、物語もまた投げ上げてしまった
    当時の世界情勢に飲み込まれていくようで
    これもまたせつない

    サナトリウムでの、出来事のあれやこれは
    なんだか楽しく読めたので、満足

  • 30年ぶりの再読。
    ダボスのサナトリウムで思いがけず長い年月をを過ごすカストルプの物語。時間感覚の麻痺、そして停滞と思索の日々。セテムブリーニとナフタの思想的対立、ショーシャ夫人と微妙な関係、ヨーアヒムとの別れやペーペルコルンとの出会い、雪山での幻視—カストルプは様々な経験を「通過」していく。
    彼は成長も破滅もなく、ただ全てを受け身に取り入れていく。そこに現代的な人間の一つの在り方を感じる。
    前半のワルプルギスの夜までの物語的な流れと、後半のテーマごとの深掘りのゴツゴツ感。作品の成立過程を聞くとなるほどなと思う構造の違いも興味深い。
    最後、戦場で菩提樹を歌うカストルプ。ベルクホーフでの経験が彼に何をもたらしたのか。答えは明確ではない。人間は生きている限りその時代を通過していくということか。

  • 長期滞在が続くハンス・カストルプは、ショーシャ夫人との出来事のあとも、様々な出会いと別れを重ねていく。

    まぁ、本を手に取った時点でわかっている話(700ページ近い厚さ)ではあるが、下巻もとにかく長い(汗)。ストーリーそのものだけにしぼればもっと短くできそうなものだが、音楽(レコード)やオカルト(こっくりさん的な降霊術)などにハマる長々とした描写も含め、ダラダラと論争や語りが続くところに意味のある小説なんだと思う。

    上巻以上に重要な出会いと別れが続き、単調であるはずのサナトリウム生活には話題が尽きない。多様な登場人物との触れ合いがこの小説の魅力だ。病いと死に隣り合わせのため、面白おかしいというわけにはいかないが、下界とは一線を画する環境であるゆえの人物描写が独特の味わいをみせている。

    本書最大の山場はおそらく、第六章にある節「雪」だろう。スキーに出た雪山で吹雪におそわれたハンス・カストルプは、幻想的なビジョンを夢で見たあと、対照的な思想を持つセテムブリーニとナフタの論争を超越し、理性に代わって生と死の対立を超える「善意と愛」に目覚めていく。

    後半でハンス・カストルプに大きな影響を及ぼすペーペルコルンが物語に活力を与えている。三角関係のようになってしまうショーシャ夫人との顛末も面白く、素直に楽しめた。

    作中で「人生の厄介息子」と称されるハンス・カストルプの生き様は、現代でいえばニートに類似するものではあるまいか。訪問者が時間の感覚を失って居座ってしまう、この「魔法の山」での生活のなかで、生と死、社会と人生における広範なテーマを模索し学び、長いモラトリアム期間を過ごしたあと、現実に戻っていくというような、青年期におけるイニシエーション的な奥行きがあると思った。

    映像的かつ詩的なラストの描写には大きな感動を覚えた。ああ、そうなるのか、と。
    非情に深い感慨を受けた本作。一読では消化不良の部分もあるため、ぜひともいずれ新潮文庫版も読んでみたい。

  • 主にサナトリウムの小さな世界だけを舞台にした物語なのだが、なんだか果てしない物語への旅を終えたような感じがしている。
    下巻だけで約650頁の大部で読了に2週間超を要した。
    ハンス・カストルプ青年の上をゆきすぎてゆく、諸々の想念、観念、精神の遍歴のヒストリー、である。
    だが、ドイツ観念論と云うのかどうかわからないが、観念や精神についてのドイツ的な思考が、綿々と積み重ねられ、しかも長いので、いま何が語られつつあるのか、少し俯瞰して、その部分の主題を確認しつつ読み進めるのがよいのではないか。読後、振り返ってそう思う。
    なので、本作に関しては、読み始める前に、巻末の解説を読んでから読み始めてもよかったと思う。物語の読み取りかたで、少し難しい面があるからである。

    さて。
    上巻ではセテムブリーニによる濃厚な政治論、神学論のこれでもかという展開に辟易した。その後セテムブリーニは療養所を去り読者としてホッとした心地がしていた。
    がしかし、下巻ではさらなるくせ者、論客ナフタが登場。今度はセテムブリーニVS.ナフタというそれまで以上に激しく、そして不毛な論争が始まる。正直言って、やはりウンザリさせる部分なので、精密にしっかり読み解くことは諦めてその部分は読み流すように読んだ。ちなみに、下巻で初めて明らかになるのだが、近代的な自由主義を標榜するセテムブリーニは、実はフリーメイスンの会員。専制政治や支配のシステムの一部たる教会のありようを肯定するナフタは、なんとイエズス会員なのであった。
    というわけで、時折ではあるのだが、下巻でも政治論・神学論に類する激しい議論が果てしなく続く場面がある。ナフタが登場する節は「さらに一人 」と表題されている。まさに読者の気分としても、厄介なのがまた「 さらに一人 」出て来やがった!という気分であった。

    下巻( 第6章と7章)では、ナフタの登場の他にも大きな動きが出てくる。観念の物語において、それらの場面は、胸に迫る強い印象を刻む。

    *****以下、ネタばれ情報を含む。****

    ・従兄で親友のヨーアヒムは自主退院で「 下山 」〜念願の軍隊入営へ。ヨーアヒムを見送る駅での別離の場面は二人の想いがあふれだして哀切であった。だがヨーアヒムはほどなく病気再発。サナトリウムへ再入院、そして病死する。

    ・ハンス・カストルプが恋焦がれ続けた女性ショーシャ夫人の帰還。だが、ペーペルコルン氏という老齢の大男の同伴者として再訪。ハンス・カストルプのショーシャ夫人への想いが激しく再燃か?と思いきや、ハンス…が夢中になったのは意外にもそのペーペルコルン氏。氏はセテムブリーニらと違って、その弁舌はざっくりしていて、明確な言い切りすらしない独特の話法で語る。それでも人物のスケールを感じさせてハンス…を強く魅了。氏とハンスは、多くの時間を共にする。だが、ある夜突然ペーペルコルン氏は自死してしまう。

    ・ハンス・カストルプは一人雪野原にスキーで出掛けるが、猛吹雪に襲われ死にかける。その時ハンス…はある幻影を見る。夏の海辺に遊ぶ若者達の平和で健康的なポジティブな情景。そして瞬時に一転して現前した、妖婆が人の赤子をむさぼり喰う陰惨な場面、餓鬼の地獄絵。ハンス…はこの2つの幻影、ビジョンから示唆を得る。両者は共存するのだ、と。

    ・ナフタはセテムテムブリーニとの激しい論争のなかで激昂。あろうことか、ナフタは決闘を申し込む。セテムブリーニは拳銃をナフタに向けず空に向けて発砲。一方、ナフタは、自身の頭に銃を突き付けて引金をひき自死。アルプスの峡谷に、銃声がなんどもこだましてゆく。不快な人物で好感を持ちにくいナフタ氏ではあったが、その死、この場面は虚しく、悲痛であった。
    ナフタ氏は、なぜ自死したのか。詳らかにはされない。だが、欧州が近代から次の時代に移行しつつあったときに、旧い精神を背負っていたように思われるナフタ氏。ヨーロッパのある種の精神の危機、亀裂を示唆していたように感じた。

    ・サナトリウムで療養していた娘エレン・ブラントを巡るエピソードもまた鮮烈で印象深い。彼女は霊能者で、サナトリウムではやがて彼女を使っての「こっくりさん」さらには降霊の会が計画される。物語のそれまでの質感とは少し異なる、異様な展開で戸惑うが、わくわくさせる。本作は、ある種の神秘主義も排除しないようである。
    ハンス・カストルプは、この降霊会で従弟ヨーアヒムの霊を呼ぶよう依頼。部屋の暗がりにヨーアヒムの姿が浮かび始める。だが、ハンス…は、電灯を付けその姿を消し、会を強制中断させるのだった。

    その他、下巻では、サナトリウムが購入した蓄音機に、ハンス…が夢中になる一節も印象に残る。

    そして、終章。
    ハンス…の7年に及ぶ療養所生活は、意外なかたちで、駆け足のように、物語の終幕に向かう。第一次世界大戦が勃発し、ハンス…は雷に打たれた如くに、山を下りることを決意。ドイツ救国の使命感を強く自覚したのだろうか。ダヴォスの駅で、ハンス・カストルプをセテムブリーニは、涙で見送る。この別離もまた胸に迫る。
    そして、ハンス…の姿は、雨と泥濘と砲火の戦場にある。幻想的な描写のなかで描かれて物語は幕を閉じる。

    急展開な終幕である。だが、それまで、あらゆることをこってりと語り尽くしてきた感もあるだけに、もはや、どんな終わり方もあり得るような、納得もあった。

  • セテムブリーニとナフタの論戦が所狭しと繰り広げられるが、肝心の登場人物たちの造形は、いささか記号的人物のように感じられて仕方がない。/

    第一に主人公ハンスだが、ショーシャ夫人に心惹かれるが、彼女がいったん山を降りると、手紙のやり取りで恋情をつのらせることもなく、たちどころに夫人を忘却の彼方へと打ち捨ててしまったように見える。
    また、『八甲田山』ばりの死の行軍に足を踏み入れるも、肺に浸潤を抱えているにもかかわらず、生還後に深刻な病状悪化があった様子など微塵もない。/

    第二に従兄弟のヨーアヒムにしても、明るくて豊満なマルシャに惹かれるが、胸の内を告白するでもなく、ハンスに恋の悩みを打ち明けるでもなく、とうてい血の通った人間とは思えない。
    おまけに、彼自身はさほど興味を持ってはいないはずのセテムブリーニとナフタの論争を聞くために、従兄弟に毎回つきあってやるというのは、軍人として生きるのを志す人間にはおよそあるまじき救いがたい主体性のなさだ。
    彼はなぜ、ハンスとは別行動をとって、可愛いマルシャが視界に入る範囲内で、時を過ごさなかったのだろうか?
    このような彼の行動は、彼がハンスを愛しているという場合以外には、およそ考えられないものだ。
    ずっとそういう不満を抱えながら読んでいたので、自らの死期を自覚した彼が、初めてマルシャのかたわらに立った姿は感動的でさえあった。/


    この物語、僕はどうしても感情移入して読むことができなかった。
    愛すべき人物が一人も見出せないのだ。
    マドンナ、ショーシャ夫人にしても、彼女はなぜいつもドアを「ガチャン、ガラガラ」と開け閉めするのだろうか?
    少しでも自らの美しさを意識している女性なら、普段の立ち居振る舞いにも当然それにふさわしい細やかな気配りがなされてしかるべきではないだろうか?
    キルギス人のような細い眼をはじめとする彼女の描写にも、この女性ならハンスが虜になるのも当然だと読者が納得するだけの魅力は感じられない。/


    セテムブリーニとナフタの論戦についても、なにしろ顔を合わせるたびに角突きあっているので、小型犬がキャンキャン吠えあっているようで、もとより『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」には及ぶべくもない。/


    【しかし、ナフタの世界とヨーアヒムの世界とになによりも共通していたものは、血にたいする二者の関係で、手に血ぬることをおそれないという原則であった。

    ー中略ー

    この神殿騎士修道会士たちは、信仰を持たない人々との戦いで死ぬのを、ベッドで死ぬのよりも名誉な死であると考え、キリストのために殺したり殺されたりするのは罪悪ではなく最高の名誉であると考えたのであった。】/


    マンは、終盤のハンスとショーシャ夫人の別れにはほとんどふれずに、しまいには「こっくりさん」と降霊術のエピソードにページを費やしている。
    彼がいったい何を書きたかったのか、僕にはさっぱり分からない。
    どう考えても、あれこれ盛り込み過ぎではないか?
    どうやら、マンは「鉛筆」はどうにか借りたものの、「消しゴム」は持っていなかったようだ。/


    終盤まで読んで来て、どうしてもビュトールの言葉を思い出さざるを得なかった。/

    《偉大な作家とは、登場人物に存在感をあたえられる人、つまり登場人物のひとりひとりにそれぞれ一つの声をもたせられるような人のことです。》(ミシェル・ビュトール『即興演奏』)/

    僕には、この物語に描かれた人物たちがそれを獲得しているとは到底思えなかった。/

    おそらく作者であるマン自身も、そのことをうすうす感じていたのではないだろうか?

    【つづられたこの詩は必ず忘れられてしまうだろう、ちょうど夢をおぼえていることが困難であるのと同じように】(本書第七章)

  • 上巻からは想像できないくらいの死。ナフタが登場してセテムブリーニとの宗教論争、政治論争、平和論争が延々と続き、終盤のペーペルコルンの登場で突然円周率の計算についてのご託がはじまって、ひょっとしたらハンス・カストルプの将来の姿かと思わせる。初読のときラストが衝撃だった。物語としては「ブッデンブローク家の人々」の方が面白いかもしれないが、サナトリウムで展開される人間模様が切れ目のない、否もしかしたらあらゆる所に切れ目があるような構造を持っているので、漱石の「我輩は猫である」のような読み方が可能かもしれない。

  • 下巻に入ると俄然興味深くなってきた。フリーメーソン会員であるセテムブリーニとイエズス会士のナフタによる論戦は20世紀初頭の時代精神を感じさせるし、そうした形而上学的議論を吹っ飛ばすペーペルコルン氏のわかり易い器の大きさとその退場の仕方は現代的だ。物語は「人間は善意と愛を失わないために、考えを死に従属させないようにしなくてはならない」という言葉が感動的な「雪」の章の後、緩やかに下山するかの様に死の景色が強くなるが、先の言葉を思い返すことでその景色を越えていくのだ。そして物語の時は止まり、私達の時が動き出す。

  • 本当に世界最高傑作とよんでいい大作。

    ヨーアヒム•チームセン、ペーペルコルン氏、圧倒的な一人一人のキャラクター。

    そのような一人一人と過ごす時間がずっと続いて欲しいと思うが、これまた圧倒的なフィナーレを迎えてしまう。

    大学生諸君に読んでいただきたい。

    そうして、十年ぐらいしたら、再読してみて欲しい。

    素晴らしい感動が待っているよ。

  • ぬるま湯に浸りきっていたハンスを覚醒させたのは戦争だった…。皮肉ですな。

  • ●2026年4月6日、YouTube見てたらオススメに表示されたショート動画が以下のもので、その動画のコメント欄にみんながそれぞれ自分のおすすめの本を書き込みしてたのですが、そのなかにこの本を推してる人がいたので初めて知って気になってチェックした。

    動画:生活捗るラボ
    《読書好きでも知らないけど一度はクソ読むべき神本あげてけw》
    https://youtube.com/shorts/t24kXXekjnA?si=K9NiKXVQu314Zb2T

    コメント欄:
    「翻訳書アリならトーマス・マンの魔の山 死ぬまでに一度は読むべき」

  • 下巻では,早々に旅に出る予定だった計画が後ろ倒しされ,始めに立ち寄ったサナトリウムでの,(何らかの精神疾患を象徴していると思われる)様々な人々との交流が続き,多角的な教養を身につけていく一方,それにのみ人としての絶対的価値を見出し,精神的世界に留まる選択肢を採る.恐らく中世ヨーロッパの教養主義に対する皮肉がテーマと感じるが,その皮肉を長々とサナトリウム(すなわち魔の山)の人々に語らせ,単なる表層的皮肉に留まらないあたりは,トーマス・マンのマンたる所以なのかも知れない.

  • 1999年に観た2本の映画「マトリックス」と「ファイトクラブ」が、四半世紀たったいまもfavouriteだ。この2本の映画は、ひたすらに画面が暗い。暗い画面の中に、ひとりの憂鬱な男。クソみたいな人生。しかし、男はやがて気付く。こんな世界は偽物だと。ザックの声と、ブラック・フランシスの声が、目を覚ませと、魂はどこにあるのかと、呼びかける。こんなにも気持ちを昂らせてくれる映画はそれまで観たことが無かった

    私がトーマス・マンの「魔の山」を読んだのは、その3年後くらい、2002年の頃だった。「魔の山」のラストシーンで、私は同じような、いやそれ以上の気持ちの昂りを感じた

    「魔の山」のラストシーンでは、「社会や人生を変えてしまうような歴史の転換点においては、その転換点の直前であればあるほど、遠い昔の出来事であるかのように思われる」と語られ、ハンス・カストルプは7年過ごしたサナトリウムを離れ、第一次世界大戦へと向かって歩き出す

    それの何が昂るのかというと、別に戦争に行きたいわけではない。抜け出せない泥沼の中で長い間苦しんだ後に、主人公は魂としか呼びようのないものを手に入れて、さらに苦しい絶望に向かって歩き出す。その姿を描くトーマス・マンの文章が、私の背中を押してくれているような気がして、生きていく勇気が湧いたのだ

    魂を掴んで歩き出した後、一度だけ振り返ってみると、その転換点直前の出来事は遥かに遠く感じられ、その転換点というのは、2本の映画においては21世紀のことだったし、「魔の山」においては第一次世界大戦だったということだと思う

    トーマス・マン。なんてイカれたチョビ髭オヤジなんだ!って思った

  • 一人の青年が街から遠く離れたサナトリュウムという特殊な社会で、色んな影響を精神的にも肉体的にも受けて成長していくが、結局戦争というごちゃ混ぜな渦の中に消えて行くという…

  • とにかく長い。でも読んで良かった。

  • 下巻では自分の従兄が死亡してしまう。そして交霊術が行われ従兄とであう。山を下りて軍隊に入り爆撃の場面に遭遇して歩き回るところでこの小説は終わる。
     会話以外の説明のところでトーマス・マンの思想が書かれているのであろうがはっきりとはわからない。

  • トーマスマンの考えを余すところなく伝えていただいた

  • 記録

  • 2022/1/21

  • 結局完全に理解できないまま読破してしまいました。けれども読み終わってから、心がゾワゾワするような感じがします。いつか再読したい作品です。

  • この上下の大長編を読み終えて無言で本を閉じることはありえるだろうか。否、ありえない。私たちはニヒリズムという平行線から逃れ、ベルクホーフという山あいで生み出した綜合的な思想の萌芽を見逃さずにはいられない。退廃主義、退嬰的、ニヒリズム、ペシミズム、デカダンス、などありとあらゆる悲観主義を表す言葉は物語上では一定の水準に収まった一個人の叫びにすらならない悲壮の体現者の特徴にしかならず、どのような感受性も生まれない。それに対してトーマスマンはセテムブリーニの啓蒙主義とナフタの原初主義かつ神秘主義の思想がぶつかり合わせる弁償的論理でハンス・カストルプに新たな見地を植えつけた。その後ペーペルコルンの身に起きたことも含め、全てがバランスの上で螺旋状に向上する物語であったといえよう。それはある意味、たった一つの世界の定理を求める問いであるように思えた。

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著者プロフィール

20世紀のドイツを代表し、ドイツ語圏文学史上、最も著名な作家の一人。1875年ドイツ北部のリューベック生まれ。兄のハインリヒも有名な作家。20代で発表した『ブッデンブローク家の人びと』『トニオ・クレーガー』などで、若くしてベストセラー作家となり、長編小説『魔の山』刊行後、1929年のノーベル文学賞受賞により、国際的な地位も確固たるものとする。主な作品にヴィスコンティ監督により映画化もされた『ヴェニスに死す』、第二次世界大戦後に刊行された『ファウストゥス博士』など。1955年8月12日死去。

「2026年 『ヨゼフとその兄弟たち3 若いヨゼフ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

トーマス・マンの作品

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