魔の山 下 (岩波文庫 赤 433-7)

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  • Amazon.co.jp ・本 (690ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003243374

感想・レビュー・書評

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  • 長期滞在が続くハンス・カストルプは、ショーシャ夫人との出来事のあとも、様々な出会いと別れを重ねていく。

    まぁ、本を手に取った時点でわかっている話(700ページ近い厚さ)ではあるが、下巻もとにかく長い(汗)。ストーリーそのものだけにしぼればもっと短くできそうなものだが、音楽(レコード)やオカルト(こっくりさん的な降霊術)などにハマる長々とした描写も含め、ダラダラと論争や語りが続くところに意味のある小説なんだと思う。

    上巻以上に重要な出会いと別れが続き、単調であるはずのサナトリウム生活には話題が尽きない。多様な登場人物との触れ合いがこの小説の魅力だ。病いと死に隣り合わせのため、面白おかしいというわけにはいかないが、下界とは一線を画する環境であるゆえの人物描写が独特の味わいをみせている。

    本書最大の山場はおそらく、第六章にある節「雪」だろう。スキーに出た雪山で吹雪におそわれたハンス・カストルプは、幻想的なビジョンを夢で見たあと、対照的な思想を持つセテムブリーニとナフタの論争を超越し、理性に代わって生と死の対立を超える「善意と愛」に目覚めていく。

    後半でハンス・カストルプに大きな影響を及ぼすペーペルコルンが物語に活力を与えている。三角関係のようになってしまうショーシャ夫人との顛末も面白く、素直に楽しめた。

    作中で「人生の厄介息子」と称されるハンス・カストルプの生き様は、現代でいえばニートに類似するものではあるまいか。訪問者が時間の感覚を失って居座ってしまう、この「魔法の山」での生活のなかで、生と死、社会と人生における広範なテーマを模索し学び、長いモラトリアム期間を過ごしたあと、現実に戻っていくというような、青年期におけるイニシエーション的な奥行きがあると思った。

    映像的かつ詩的なラストの描写には大きな感動を覚えた。ああ、そうなるのか、と。
    非情に深い感慨を受けた本作。一読では消化不良の部分もあるため、ぜひともいずれ新潮文庫版も読んでみたい。

  • 主にサナトリウムの小さな世界だけを舞台にした物語なのだが、なんだか果てしない物語への旅を終えたような感じがしている。
    下巻だけで約650頁の大部で読了に2週間超を要した。
    ハンス・カストルプ青年の上をゆきすぎてゆく、諸々の想念、観念、精神の遍歴のヒストリー、である。
    だが、ドイツ観念論と云うのかどうかわからないが、観念や精神についてのドイツ的な思考が、綿々と積み重ねられ、しかも長いので、いま何が語られつつあるのか、少し俯瞰して、その部分の主題を確認しつつ読み進めるのがよいのではないか。読後、振り返ってそう思う。
    なので、本作に関しては、読み始める前に、巻末の解説を読んでから読み始めてもよかったと思う。物語の読み取りかたで、少し難しい面があるからである。

    さて。
    上巻ではセテムブリーニによる濃厚な政治論、神学論のこれでもかという展開に辟易した。その後セテムブリーニは療養所を去り読者としてホッとした心地がしていた。
    がしかし、下巻ではさらなるくせ者、論客ナフタが登場。今度はセテムブリーニVS.ナフタというそれまで以上に激しく、そして不毛な論争が始まる。正直言って、やはりウンザリさせる部分なので、精密にしっかり読み解くことは諦めてその部分は読み流すように読んだ。ちなみに、下巻で初めて明らかになるのだが、近代的な自由主義を標榜するセテムブリーニは、実はフリーメイスンの会員。専制政治や支配のシステムの一部たる教会のありようを肯定するナフタは、なんとイエズス会員なのであった。
    というわけで、時折ではあるのだが、下巻でも政治論・神学論に類する激しい議論が果てしなく続く場面がある。ナフタが登場する節は「さらに一人 」と表題されている。まさに読者の気分としても、厄介なのがまた「 さらに一人 」出て来やがった!という気分であった。

    下巻( 第6章と7章)では、ナフタの登場の他にも大きな動きが出てくる。観念の物語において、それらの場面は、胸に迫る強い印象を刻む。

    *****以下、ネタばれ情報を含む。****

    ・従兄で親友のヨーアヒムは自主退院で「 下山 」〜念願の軍隊入営へ。ヨーアヒムを見送る駅での別離の場面は二人の想いがあふれだして哀切であった。だがヨーアヒムはほどなく病気再発。サナトリウムへ再入院、そして病死する。

    ・ハンス・カストルプが恋焦がれ続けた女性ショーシャ夫人の帰還。だが、ペーペルコルン氏という老齢の大男の同伴者として再訪。ハンス・カストルプのショーシャ夫人への想いが激しく再燃か?と思いきや、ハンス…が夢中になったのは意外にもそのペーペルコルン氏。氏はセテムブリーニらと違って、その弁舌はざっくりしていて、明確な言い切りすらしない独特の話法で語る。それでも人物のスケールを感じさせてハンス…を強く魅了。氏とハンスは、多くの時間を共にする。だが、ある夜突然ペーペルコルン氏は自死してしまう。

    ・ハンス・カストルプは一人雪野原にスキーで出掛けるが、猛吹雪に襲われ死にかける。その時ハンス…はある幻影を見る。夏の海辺に遊ぶ若者達の平和で健康的なポジティブな情景。そして瞬時に一転して現前した、妖婆が人の赤子をむさぼり喰う陰惨な場面、餓鬼の地獄絵。ハンス…はこの2つの幻影、ビジョンから示唆を得る。両者は共存するのだ、と。

    ・ナフタはセテムテムブリーニとの激しい論争のなかで激昂。あろうことか、ナフタは決闘を申し込む。セテムブリーニは拳銃をナフタに向けず空に向けて発砲。一方、ナフタは、自身の頭に銃を突き付けて引金をひき自死。アルプスの峡谷に、銃声がなんどもこだましてゆく。不快な人物で好感を持ちにくいナフタ氏ではあったが、その死、この場面は虚しく、悲痛であった。
    ナフタ氏は、なぜ自死したのか。詳らかにはされない。だが、欧州が近代から次の時代に移行しつつあったときに、旧い精神を背負っていたように思われるナフタ氏。ヨーロッパのある種の精神の危機、亀裂を示唆していたように感じた。

    ・サナトリウムで療養していた娘エレン・ブラントを巡るエピソードもまた鮮烈で印象深い。彼女は霊能者で、サナトリウムではやがて彼女を使っての「こっくりさん」さらには降霊の会が計画される。物語のそれまでの質感とは少し異なる、異様な展開で戸惑うが、わくわくさせる。本作は、ある種の神秘主義も排除しないようである。
    ハンス・カストルプは、この降霊会で従弟ヨーアヒムの霊を呼ぶよう依頼。部屋の暗がりにヨーアヒムの姿が浮かび始める。だが、ハンス…は、電灯を付けその姿を消し、会を強制中断させるのだった。

    その他、下巻では、サナトリウムが購入した蓄音機に、ハンス…が夢中になる一節も印象に残る。

    そして、終章。
    ハンス…の7年に及ぶ療養所生活は、意外なかたちで、駆け足のように、物語の終幕に向かう。第一次世界大戦が勃発し、ハンス…は雷に打たれた如くに、山を下りることを決意。ドイツ救国の使命感を強く自覚したのだろうか。ダヴォスの駅で、ハンス・カストルプをセテムブリーニは、涙で見送る。この別離もまた胸に迫る。
    そして、ハンス…の姿は、雨と泥濘と砲火の戦場にある。幻想的な描写のなかで描かれて物語は幕を閉じる。

    急展開な終幕である。だが、それまで、あらゆることをこってりと語り尽くしてきた感もあるだけに、もはや、どんな終わり方もあり得るような、納得もあった。

  • 上巻からは想像できないくらいの死。ナフタが登場してセテムブリーニとの宗教論争、政治論争、平和論争が延々と続き、終盤のペーペルコルンの登場で突然円周率の計算についてのご託がはじまって、ひょっとしたらハンス・カストルプの将来の姿かと思わせる。初読のときラストが衝撃だった。物語としては「ブッデンブローク家の人々」の方が面白いかもしれないが、サナトリウムで展開される人間模様が切れ目のない、否もしかしたらあらゆる所に切れ目があるような構造を持っているので、漱石の「我輩は猫である」のような読み方が可能かもしれない。

  • 下巻に入ると俄然興味深くなってきた。フリーメーソン会員であるセテムブリーニとイエズス会士のナフタによる論戦は20世紀初頭の時代精神を感じさせるし、そうした形而上学的議論を吹っ飛ばすペーペルコルン氏のわかり易い器の大きさとその退場の仕方は現代的だ。物語は「人間は善意と愛を失わないために、考えを死に従属させないようにしなくてはならない」という言葉が感動的な「雪」の章の後、緩やかに下山するかの様に死の景色が強くなるが、先の言葉を思い返すことでその景色を越えていくのだ。そして物語の時は止まり、私達の時が動き出す。

  • 本当に世界最高傑作とよんでいい大作。

    ヨーアヒム•チームセン、ペーペルコルン氏、圧倒的な一人一人のキャラクター。

    そのような一人一人と過ごす時間がずっと続いて欲しいと思うが、これまた圧倒的なフィナーレを迎えてしまう。

    大学生諸君に読んでいただきたい。

    そうして、十年ぐらいしたら、再読してみて欲しい。

    素晴らしい感動が待っているよ。

  • いやー難しい。50%も理解してない気がする。
    抽象化して抽象化しての感想を言うと、
    なんの制限や規範もない中で、
    有意に、豊かに生きることは重労働だなぁと。
    なぜなら自由は人を退廃化させるから。
    無規範は退廃。退廃とは死。
    一元的にならず、総合的に進歩していくこと。偏らないこと。
    それが生きるということ。
    自然に従順なのは動物。理性に従順なのは機械。その真ん中が人間ということかなぁ。
    そして、人間らしさの源は感性。
    磨くためにはまず意志がいる。水遣りを怠らないこと。
    企業で生きない自分にとって、
    重要な内容だった。また機会があれば読みたいと思う。

    「道徳を理性と徳操の中に求める人文主義者の目には、すでに救われない人間として映っていただろうか」

    「老子は、無為は天地間のあらゆるものよりも有益であると考え、すべての人間が行動することをやめたら、地上には完全な平和と幸福とが訪れるだろうと説いている」

    「人間はもともと善良で幸福で完全であったのに、社会的欠陥の為に歪められそこなわれたのみであって、社会機構を批判し改善することによって、再び善良に幸福に完全にならなくてはならない」

    「喋ったり、意見を持ったりすることからは、混乱が生じるだけだ。僕達から言わせると、僕たちがどんな意見をもつかは問題ではなくて、信頼できる人間かどうかが問題。はじめから意見などは少しも持たずにいて、やるべきことを黙って実行するのが一番いいんだよ」

    「肉体的な美は愚劣そのもの。魂と表現の世界から生まれたものは常に美しいために醜態」

    「人間のためになるのが真理です。自然は人間の中に要約されています」

    「キリスト教的世紀のすべては、自然科学が人間にとって無価値であるという点で完全に一致した考えを持っていた」

    「教育の目標は絶対命令、絶対服従、規律、犠牲、自己否定、人格の抑制にある。青年の深い喜びは従順です」

    「対立しあうものは調和しあいます。調和しあわないのは、中途半端な不徹底なものだけです。」

    「真に自由と人間性とに到達するためには、【反動】という概念にびくびくしなくなることが第一歩です」

    「彼の考えが私の考えと違っていて、対立的であることが、私にとって彼と話しあう魅力になっているんです。私は摩擦を必要としています」

    「自分の考えを主張しないこの慇懃な如才なさは、彼が育った文化に自信がないからではなくて、むしろ文化の強固な価値を意識していたからであった。」

    「自分にとって奇怪に感じられる習俗に接してもそれを奇異に感じる気持ちを見せまい」

    「病人は病人であり、病人なみの体状と弱い感性を持っているだけであって、病気は病人を衰弱させ、病苦をそれほど苦痛と感じさせなくさせ、体の感性的減退、喪失、ありがたい麻痺、精神的と道徳的な順応と軽減現象を招く」

    「行為や行動においては決定論がもちろん成り立ち、そこには自由はありえないが、人間の本性には自由がある。人間はかくあろうと欲した通りの人間であり、滅びるまでかくあろうと欲してやまない」

    「徳と理性と健康が軽視されて、悪徳と病気が不思議に尊敬されている世界に近づくことはできない」

    「人間性、高貴性、自然からすっかり離脱してしまい、自分を自然と全然反対の存在と感じている人間を、他のあらゆる有機生命から区別しているのは精神である」

    「進歩というものがありえるならば、それは病気だけが与えるものであり、天才だけの賜物。天才とは病気に他ならない」

    「客観的真理を追究することを人間の倫理性の最高の法則であると考えている」

    「目的にかなったことをやっているつもりでも、実はぐるぐるまわりをやっていて、悪戦苦闘を続け、出発点へ逆戻りの円を描く」

    「人間は善意と愛とを失わないために、考えを死に従属させないようにしなくてはならない」

    「檀と言う概念そのものが、すでに絶対的なものという概念と緊密に結びついている」

    「人間らしさとか、人間的とかいうものは、論争される2つの極端の中間、饒舌な人文主義者と、文盲な粗野との間のそこか中間にある」

    「文学的精神は、あらゆる人間的なものへの理解を呼び覚まし、愚昧な価値判断と信念とを軟弱させ、人類の教化、醇化、向上を可能にする」

    「興奮的な理論を口にする精神は、生命を損なうだけであり、熱情を抑制しようとするのは、無を欲すること」

    「なんでもないことにもおちょっかいをすることがきらいではなく、それをなんでもないことでもあるかのように扱い、それでも神様にも人間様にも受けが良くなるように考えておいでです」

    「世間では哲学的な楽観、明るい結果を信頼する自信を健康の表現と考え、その反対に、悲観と嫌世とを病気の兆候のように考えているが、これはあきらかに誤見である。なぜならそうでなかったら、絶望的な最後状態になってからあんな楽観におちいるはずがない、あのような病的な楽観にくらべると、その直前の沈鬱な状態などはむしろ健康なたくましい生命の発現であるとも言える」

    「文学者の誤りは、精神だけが人間を真面目にすると考える点です。ほんとうはむしろその反対。精神がないところにのみ真面目さがある」

    「どうして彼がこういう人々をまわりに集めることが出来たか。それは、彼がどんなことでも【傾聴に値する】ように感じたから。」

    「機知、言葉、精神が問題ではなくなり、事実、生活、つまり支配者的人物の縄張りである問題と事実が前面へ出てくると、情勢は明らかに不利になった」

    「生にいたる道は2つあって、その一つはふつうのまっすぐな大通りであり、もう一つは裏道、死を通り抜ける道であって、これこそ天才的な道なんだ」

    「我々は感情燃焼の義務、宗教的義務を持っている。わたしたちの感情は、生命を呼び覚ます男性的な力。人間は感じるから神聖」

    「人生への感情の減退を、宇宙の終局、神の汚辱と感じる」

    「無感覚も場合によっては悪魔性をおびる。神秘な恐怖を呼び起こす」

    「時間を忘れた生活、屈託も希望もない生活、外見は急がしそうで内部は沈滞している生活、死んでいる生活である」

    「心情が物質の世界でも創造力を持つことをみとめることになる」

    「まやかしと真実とを区別する倫理的勇気が退廃し始めると、生そのもの、批判、価値、革新的行為もおわりであって、道徳的懐疑がおそろしい分解作用を行ない始める」

    「物質によって精神に形を与えようとするのは馬鹿げている」

    「義務と活動の市民社会を軽蔑の気持ちを持って、平地と呼んでいるが、この優越感と自信とは、市民社会のきずなと時間の束縛とから自由になった人が義務と束縛の中に生きている人々に対して感じるもの。」

    「生の暗い面を見ることは、けして生の否定いはならない」

  • トーマスマンの考えを余すところなく伝えていただいた

  • 記録

  • 2022/1/21

  • 結局完全に理解できないまま読破してしまいました。けれども読み終わってから、心がゾワゾワするような感じがします。いつか再読したい作品です。

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著者プロフィール

【著者】トーマス・マン(Thomas Mann)1875年6月6日北ドイツのリューベクに生まれる。1894年ミュンヒェンに移り、1933年まで定住。1929年にはノーベル文学賞を授けられる。1933年国外講演旅行に出たまま帰国せず、スイスのチューリヒに居を構える。1936年亡命を宣言するとともに国籍を剥奪されたマンは38年アメリカに移る。戦後はふたたびヨーロッパ旅行を試みたが、1952年ふたたびチューリヒ近郊に定住、55年8月12日同地の病院で死去する。

「2016年 『トーマス・マン日記 1918-1921』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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