- Amazon.co.jp ・本 (150ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003243404
作品紹介・あらすじ
「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」-文学、そして芸術への限りないあこがれを抱く一方で、世間と打ち解けている人びとへの羨望を断ち切ることができないトニオ。この作品はマン(1875‐1955)の若き日の自画像であり、ほろ苦い味わいを湛えた"青春の書"である。
感想・レビュー・書評
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三島由紀夫が29才のときに書いたという短編小説「詩を書く少年」を高校生のときに読み、ここまで自身の文学的青くささを爆発させた小説なんてもう他にはないと思っていた。だが後から思ったのだけど、たぶん三島は、トニオ・クレエゲルをモデルにしていたのだろう。トニオ~も三島に負けず劣らず青くさい。
もう少し、三島由紀夫の「詩を書く少年」に焦点をあててレビューしてみよう。同作品は15才の学習院中等科の生徒が主人公(三島自身がモデルと思われる)。
少年は詩が湧き上がるかのようにでき、言葉を磨く能力を高めることで、世の中のあらゆる美しいものを自分のそばへ引き寄せられ、すべてを理解しているという感覚を得る。そして美に囲まれた自分は、美に選ばれし者だとも自覚する。
しかし少年は早熟ゆえに、ある出来事をきっかけに、自分が美しくないことを認めざるを得なくなる。そしていずれ詩を書くのをやめるだろうことを予感する。
三島は作家として終生を貫くので、詩を書くことをやめても文筆を折ることにはならないのは周知のとおりだが、それと引き換えに終生、美と正対し、美にその実存を問いかけ続けなければならない宿命を背負うことになった。
つまり、美に魅せられ、美を領しようと決心したものの、いつの間にか美に殉じざるをえなくなった者としての独白が、詩を書く少年であり、トニオ・クレエゲルだと私は考える。
先に「青くさい」と書いたが、美の探求というテーマは、美そのものの抽象性があまりにも高いこともあって、高みを目指す文学者にとっては永遠のテーマとなり、若きトーマス・マンと若き三島由紀夫が競う形でともに美について登場人物に語らせているのは、視野が狭いからではなく、それだけ美というものが完全につかみ取り得ない「恐ろしいもの」だからだ。
その美の「恐ろしさ」を究極的に文章表現したのは、ドストエフスキーである。(以下、三島由紀夫「仮面の告白」エピグラフからの引用)。
『美-美という奴は恐ろしいおっかないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。…美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。…この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。…その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の理想をもって終るという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事がある。つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。…理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?…』
これを読むと、結局は、マンも三島もここに行き着きたかったのだとわかる。
ただし、先にドストエフスキーにここまで到達されてしまったので、少年期特有の“完全志向だが決定的に不完全”という二律背反性から、美の同様の特質にアプローチを試みたということなのだろうか。
他方、2作品の比較で私がおもしろいと思ったのは、トニオ~ではゲーテの影響が大きく感じられるのに対し、詩を書く~では、ゲーテの肖像画での老いた姿が好きでないと少年に言わせているところ。さすが三島、トーマス・マンを意識しながらも、マンと同じ轍を踏もうとは決してしない。
(しまった!トニオ・クレエゲルのレビューなのに、三島のレビューみたいになってしまった!失敗作だ!)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
額の印について触れられているくだりがあって、ヘッセの『デミアン』を思い出した。『デミアン』も『トニオ・クレエゲル』も、ふたつの世界の間に生きる人の話であるという点で共通していると思う。が、『デミアン』よりも『トニオ・クレエゲル』のほうが、短くてとっつきやすいと思う。『デミアン』も素晴らしい小説だが、カインとアベルとかグノーシスとか、卵から無理に出ようとする鳥とか、難しくて少しとっつきにくいかもしれない。他方で『トニオ・クレエゲル』は、筋は王道的と言ってもよいくらいに明快で、読後感も爽やかで、それでいて豊かなものである。
実吉捷郎の翻訳もよかったと思う。『デミアン』を読むときも、新潮の高橋訳と迷った末に岩波の実吉訳を選んだけれど、今回もとてもしっくりくる文章だった。 -
人の暖かな交流、その象徴としての舞踏会と社交場からの本質的な疎外感に苦しむトニオ。彼の覗く鏡の向こう側とこちら側との間にある距離について。
彼から言わせれば、「呪い」である文学で、しかしそれはまた疎外された自分自身を特別視しない。ともすれば「悲劇のヒロイン」だとか「マイノリティをアイデンティティー化する一般人」になり兼ねない、繊細なバランスの上に芸術を位置させている。
彼の告白の聞き手となるリザベタは「一人の俗人」といって、ばっさり切り捨てていく。これには、彼に共感しながらここまで読んできたひとにもひやっとしたと思う。わたしもひやりとした。疎外感を感じながら、それに対する不平不満を垂らして、疎外されている自分のポジションを疎外している多数社会にマウントしようとする。「そんな下卑た根性をもっている一般人でしょ」と切り捨てられたようで苦しい。
でもまた、このリザベタの発言のおかげで、トニオは「すり寄せ」だけではない、文学への動機を発見する契機を得ることになる。つまり、自分のルーツである原体験、ハンスとインゲへの憧れ、両親、その部隊になった故郷へと接近していく。
幼い頃に感じたハンスの美しさと快活さ。
ハンスが彼の愛している物語を決して好みはしないだろう、寧ろ、その必要性がないということ。インゲの持っている詩的な美しさに彼女自身が彼のような憧れを持ちはしないということ。舞踏会で手を取り合い、踊りあいながら深まっていく親睦や愛情の条件が彼自身には備わってはいなかったこと。
ないからこそ、そんな明るい彼らに憧れ、惹きつけられるのだということが痛々しく告白されていく後半部分は、『creep』(レディオヘッド)の歌詞にも共通する悲痛さがあって読み込んだ。
読み始めてから一度中断した。中断した部分はリザベタと会話しながらも、殆ど独白状態になっていた中盤だった。トニオの語り部分はしっかりと単語とその繋がりを考えながら読んでいく必要があって流せないからと感じた。
再開してからは、一気に読み通すことができる。リザベタへの告白には文学への批判と失望がはっきり語られる部分が面白い。
“文学の病的な貴族性全体~地上では芸術の国土が拡がって、健全と無垢の国土が狭まって行きます。だから本当は、その中でまだ残っているものを、できるだけ大切に保存しておくべきはずで~詩のほうへ誘惑しようなんぞと思ってはいけない(p,66)”
どこか、かたわの人間に残された手段としての文学とその受容が見えてくる。
読んでいていてふと思い出したのは『草の花』(福永武彦)で、現実を置き去りに膨らんだ芸術観念が、現実での愛情を阻んでいくのに、ハンスとインゲとの距離に見られた断絶との共通点を見た気がする。トニオは汐見と違い、まだ断絶された現実に打ちひしがれない力があり、それが断絶してくる現実への愛情だったことが、異なるところで明暗が分かれる。
“一切の真理に対する無感激と無関心と皮肉な倦怠(p,60)”
ヒヤッとする一文だ。芸術や文学が商用的に拡大分布された現代では、疑似的な言葉と認識によって、この病理が蔓延しているのかもしれない。もうドキドキもワクワクもしない未知のない、意味づけされていない世界になり果てているのかもしれない。
そう考えると「安住の地がないこと」は良いことにように思えてくる。トニオが断絶された社会のガラス張りの扉のこちら側にたって、それでも、そちらの世界を愛し、その愛が生み出す世界の余地が彼に残されていたのだから。
もしかすると、22世紀のハンスやインゲは、痛烈な憂鬱に駆られながら、トニオを羨んでいるかもしれない。 -
ノーベル賞作家トーマス・マンの若き日の苦悩を投影する自伝的小説。芸術家にも俗人にもなりきれない青春の軌跡。
例えば、オタクがリア充に対して感じる感情とか、陰キャが陽キャに対してとる行動とか。「わかるわ~」と、ある種の人間にとっては共感がつきない心理が仔細に描かれていて、「自分のために書かれてるんじゃないか」と思わせるほど入り込める小説。オタクにありがちな長広舌を女友達に披露したあと、あっさり一言で断罪されるショックも他人事とは思えない。その後の放浪と帰郷、そしてかつての憧れとの再会、からの決意は、清新な感動を呼ぶ。青年期の座右に置きたい、まさに青春小説の決定版。 -
高校生の頃、この本に大感動してまさに人生の書!と思ってそれ以来大切に大切にしてきたのだけれど、10年ぶりくらいに読んで、なにが大切だったのかが全然わからなくなっていた。率直に言って、悲観論と面倒臭さが過ぎるという感覚がある。年を取った…と思ったな。
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「好きな人と上手く関われない」経験をした人なら、共感できると思います。それに対する感じ方、考え方に気をつけて読んでも面白いです。別の視点では、生家を再訪するシーンの映像感がすごいと思いました。
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物語は解らなくても、芸術の中に埋もれたい欲求の筆者のモラトリアムの時期が、小説の初期に見られて良かった。特にハンスに恋にも似ない、トキメキを感じる柔らかい思い遣りがあった。
終盤は理性的に読めなかったかな。
三島由紀夫や北杜夫が憧れた作家のようです。 -
きちんとしたレビューは書けないがとっても良かった 眩しい