トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

  • 岩波書店
3.66
  • (49)
  • (55)
  • (104)
  • (6)
  • (2)
本棚登録 : 797
感想 : 65
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (150ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003243404

作品紹介・あらすじ

「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」-文学、そして芸術への限りないあこがれを抱く一方で、世間と打ち解けている人びとへの羨望を断ち切ることができないトニオ。この作品はマン(1875‐1955)の若き日の自画像であり、ほろ苦い味わいを湛えた"青春の書"である。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 三島由紀夫が29才のときに書いたという短編小説「詩を書く少年」を高校生のときに読み、ここまで自身の文学的青くささを爆発させた小説なんてもう他にはないと思っていた。だが後から思ったのだけど、たぶん三島は、トニオ・クレエゲルをモデルにしていたのだろう。トニオ~も三島に負けず劣らず青くさい。

    もう少し、三島由紀夫の「詩を書く少年」に焦点をあててレビューしてみよう。同作品は15才の学習院中等科の生徒が主人公(三島自身がモデルと思われる)。
    少年は詩が湧き上がるかのようにでき、言葉を磨く能力を高めることで、世の中のあらゆる美しいものを自分のそばへ引き寄せられ、すべてを理解しているという感覚を得る。そして美に囲まれた自分は、美に選ばれし者だとも自覚する。
    しかし少年は早熟ゆえに、ある出来事をきっかけに、自分が美しくないことを認めざるを得なくなる。そしていずれ詩を書くのをやめるだろうことを予感する。

    三島は作家として終生を貫くので、詩を書くことをやめても文筆を折ることにはならないのは周知のとおりだが、それと引き換えに終生、美と正対し、美にその実存を問いかけ続けなければならない宿命を背負うことになった。
    つまり、美に魅せられ、美を領しようと決心したものの、いつの間にか美に殉じざるをえなくなった者としての独白が、詩を書く少年であり、トニオ・クレエゲルだと私は考える。

    先に「青くさい」と書いたが、美の探求というテーマは、美そのものの抽象性があまりにも高いこともあって、高みを目指す文学者にとっては永遠のテーマとなり、若きトーマス・マンと若き三島由紀夫が競う形でともに美について登場人物に語らせているのは、視野が狭いからではなく、それだけ美というものが完全につかみ取り得ない「恐ろしいもの」だからだ。

    その美の「恐ろしさ」を究極的に文章表現したのは、ドストエフスキーである。(以下、三島由紀夫「仮面の告白」エピグラフからの引用)。
    『美-美という奴は恐ろしいおっかないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。…美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。…この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。…その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の理想をもって終るという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事がある。つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。…理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?…』

    これを読むと、結局は、マンも三島もここに行き着きたかったのだとわかる。
    ただし、先にドストエフスキーにここまで到達されてしまったので、少年期特有の“完全志向だが決定的に不完全”という二律背反性から、美の同様の特質にアプローチを試みたということなのだろうか。

    他方、2作品の比較で私がおもしろいと思ったのは、トニオ~ではゲーテの影響が大きく感じられるのに対し、詩を書く~では、ゲーテの肖像画での老いた姿が好きでないと少年に言わせているところ。さすが三島、トーマス・マンを意識しながらも、マンと同じ轍を踏もうとは決してしない。

    (しまった!トニオ・クレエゲルのレビューなのに、三島のレビューみたいになってしまった!失敗作だ!)

  • 額の印について触れられているくだりがあって、ヘッセの『デミアン』を思い出した。『デミアン』も『トニオ・クレエゲル』も、ふたつの世界の間に生きる人の話であるという点で共通していると思う。が、『デミアン』よりも『トニオ・クレエゲル』のほうが、短くてとっつきやすいと思う。『デミアン』も素晴らしい小説だが、カインとアベルとかグノーシスとか、卵から無理に出ようとする鳥とか、難しくて少しとっつきにくいかもしれない。他方で『トニオ・クレエゲル』は、筋は王道的と言ってもよいくらいに明快で、読後感も爽やかで、それでいて豊かなものである。
    実吉捷郎の翻訳もよかったと思う。『デミアン』を読むときも、新潮の高橋訳と迷った末に岩波の実吉訳を選んだけれど、今回もとてもしっくりくる文章だった。

  •  人の暖かな交流、その象徴としての舞踏会と社交場からの本質的な疎外感に苦しむトニオ。彼の覗く鏡の向こう側とこちら側との間にある距離について。

     彼から言わせれば、「呪い」である文学で、しかしそれはまた疎外された自分自身を特別視しない。ともすれば「悲劇のヒロイン」だとか「マイノリティをアイデンティティー化する一般人」になり兼ねない、繊細なバランスの上に芸術を位置させている。

     彼の告白の聞き手となるリザベタは「一人の俗人」といって、ばっさり切り捨てていく。これには、彼に共感しながらここまで読んできたひとにもひやっとしたと思う。わたしもひやりとした。疎外感を感じながら、それに対する不平不満を垂らして、疎外されている自分のポジションを疎外している多数社会にマウントしようとする。「そんな下卑た根性をもっている一般人でしょ」と切り捨てられたようで苦しい。

     でもまた、このリザベタの発言のおかげで、トニオは「すり寄せ」だけではない、文学への動機を発見する契機を得ることになる。つまり、自分のルーツである原体験、ハンスとインゲへの憧れ、両親、その部隊になった故郷へと接近していく。

     幼い頃に感じたハンスの美しさと快活さ。
     ハンスが彼の愛している物語を決して好みはしないだろう、寧ろ、その必要性がないということ。インゲの持っている詩的な美しさに彼女自身が彼のような憧れを持ちはしないということ。舞踏会で手を取り合い、踊りあいながら深まっていく親睦や愛情の条件が彼自身には備わってはいなかったこと。
     ないからこそ、そんな明るい彼らに憧れ、惹きつけられるのだということが痛々しく告白されていく後半部分は、『creep』(レディオヘッド)の歌詞にも共通する悲痛さがあって読み込んだ。

     読み始めてから一度中断した。中断した部分はリザベタと会話しながらも、殆ど独白状態になっていた中盤だった。トニオの語り部分はしっかりと単語とその繋がりを考えながら読んでいく必要があって流せないからと感じた。

     再開してからは、一気に読み通すことができる。リザベタへの告白には文学への批判と失望がはっきり語られる部分が面白い。

      “文学の病的な貴族性全体~地上では芸術の国土が拡がって、健全と無垢の国土が狭まって行きます。だから本当は、その中でまだ残っているものを、できるだけ大切に保存しておくべきはずで~詩のほうへ誘惑しようなんぞと思ってはいけない(p,66)”

     どこか、かたわの人間に残された手段としての文学とその受容が見えてくる。

     読んでいていてふと思い出したのは『草の花』(福永武彦)で、現実を置き去りに膨らんだ芸術観念が、現実での愛情を阻んでいくのに、ハンスとインゲとの距離に見られた断絶との共通点を見た気がする。トニオは汐見と違い、まだ断絶された現実に打ちひしがれない力があり、それが断絶してくる現実への愛情だったことが、異なるところで明暗が分かれる。

      “一切の真理に対する無感激と無関心と皮肉な倦怠(p,60)”

     ヒヤッとする一文だ。芸術や文学が商用的に拡大分布された現代では、疑似的な言葉と認識によって、この病理が蔓延しているのかもしれない。もうドキドキもワクワクもしない未知のない、意味づけされていない世界になり果てているのかもしれない。

     そう考えると「安住の地がないこと」は良いことにように思えてくる。トニオが断絶された社会のガラス張りの扉のこちら側にたって、それでも、そちらの世界を愛し、その愛が生み出す世界の余地が彼に残されていたのだから。

     もしかすると、22世紀のハンスやインゲは、痛烈な憂鬱に駆られながら、トニオを羨んでいるかもしれない。

  • ノーベル賞作家トーマス・マンの若き日の苦悩を投影する自伝的小説。芸術家にも俗人にもなりきれない青春の軌跡。

    例えば、オタクがリア充に対して感じる感情とか、陰キャが陽キャに対してとる行動とか。「わかるわ~」と、ある種の人間にとっては共感がつきない心理が仔細に描かれていて、「自分のために書かれてるんじゃないか」と思わせるほど入り込める小説。オタクにありがちな長広舌を女友達に披露したあと、あっさり一言で断罪されるショックも他人事とは思えない。その後の放浪と帰郷、そしてかつての憧れとの再会、からの決意は、清新な感動を呼ぶ。青年期の座右に置きたい、まさに青春小説の決定版。

  • 『ヴェニスに死す』(以下ヴェニス)に続いて、二作目のマン。
    この物語の主題も芸術と世間との葛藤であったが、主人公の年齢と、結末の帰着が少し異なっている。主人公のトニオはアッシェンバッハよりはだいぶ若い。そして結末は、非常に世間よりに終わる。つまりトニオが自分の中にある俗人気質を受け入れて芸術家として生きようとする。『ヴェニス』のような、悲惨な芸術のサガに溺れて廃れていくのではないところがトニオの若さ故の救いなのかもしれない。
    トニオは少年の頃から自分とは遠い、妬みや憧憬を抱いてしまう存在に愛着を持つ性質があった。それはどこから来るのかというと、人間的な凡庸性を持つ人々への「愛」である。彼は伝統的な名誉領事の息子である為、規律的かつ紳士的な家庭に育ち、彼にもその姿勢が求められた。彼の周りには階級の高い人物がたくさんいた。しかし彼は人一倍洞察力に長けた故に、その世俗の弱点や汚点、そして自分自身の周りとの異質さを見極めてしまい、懊悩する日々が続く。ここで出てくるのが『ヴェニス』にも度度出てきた「認識」という言葉である。世間に馴染めないトニオは、嫌悪な一般市民たちを観察し、それを芸術に落とし込む創作をする傍ら、自らも市民的であるように振る舞う。しかし人々を認識することで、滑稽と悲惨をもたらしてしまう。その滑稽と悲惨というのは、恐らくあらゆる感情の昂ぶりは簡単に冷却され、一時のカタルシスを味わい、感情を「片付ける」ことはできるが、人はこの感情の昂ぶりを幾度と繰り返してしまうということではないかと思う。つまり人は同じ罪を繰り返すような存在であるということである。しかし彼はそんな溌剌とした凡庸な人々に憧憬や嫉妬を抱いている。トニオはこのような「認識のむかつき」に苛まれ、芸術家と俗人とに揺れ動かなければならない。そんな彼の苦悩を、本物の芸術家であるリザベダは「踏み迷っている俗人」と一蹴する。この残酷にも映る判決が彼を解決へと導かせたように思う。彼はその言葉を聞いて、自分を「片付けられてしまった。」と言った。トニオは「片付ける」という言葉を人間の悪い性質として書いていたが、これを自分に当てはめて使うということは凡庸性を自覚したとみれる。語ることで彼の感情の昂ぶりも冷却させられた。まさに世俗の人間のように。
    トニオは断ち切れぬ世俗への愛を、「心臓が生きている」と表現している。やがて心臓が死んだと言う時には、滑稽と悲惨を世俗に感じているが、これは憧憬の裏返しであったということを忘れているに過ぎなかった事を自覚する。そしてトニオ自身の芸術は世俗への間から育まれることを宣言する。幼少から気が付いていた「愛」を紆余曲折経て漸く自覚することができたのである。私は、芸術家という高尚な身分に身を置きながら、世俗への憧憬を持ち、その弱さを認めるという単調な一連を、面倒臭いとは到底思えなかった。トニオの青春は淡くも清らかでもあり、私の理想の青春の色彩であった。
    つくづく、私は『ジキルとハイド』の時にも思ったが、自己に内在する対極的な矛盾というテーマがとても好みらしい。人間の心を簡単に裁断できないという事を自覚することが一種の人間の進歩のように今の私には映るのであろう。

  • 高校生の頃、この本に大感動してまさに人生の書!と思ってそれ以来大切に大切にしてきたのだけれど、10年ぶりくらいに読んで、なにが大切だったのかが全然わからなくなっていた。率直に言って、悲観論と面倒臭さが過ぎるという感覚がある。年を取った…と思ったな。

  • トニオ・グレーゲルという青年が、芸術を志し、俗人や俗世間との違いを感じる。

    芸術を志すことで、孤独になっていく中で、俗世間で生き生きと生きる人間たちに対して憧れや嫉妬を感じていく。

    人生、人間を愛す青年が、芸術と俗世という2つの属性の間で揺れ動く様が、描かれていると思う。

    芸術に対する著者の考えが散りばめられている。

    主人公は芸術から、逃れられない、芸術に吸い込まれていく模様を自ら受容していくように感じた。

    2つの世界の間に立つ主人公が、芸術にのめり込む自己を受け入れ、俗世で輝く人々に対する憧憬を自らに認め、そこに幸福を感じることで自己を肯定するようだった。

  • 「好きな人と上手く関われない」経験をした人なら、共感できると思います。それに対する感じ方、考え方に気をつけて読んでも面白いです。別の視点では、生家を再訪するシーンの映像感がすごいと思いました。

  • 物語は解らなくても、芸術の中に埋もれたい欲求の筆者のモラトリアムの時期が、小説の初期に見られて良かった。特にハンスに恋にも似ない、トキメキを感じる柔らかい思い遣りがあった。

    終盤は理性的に読めなかったかな。
    三島由紀夫や北杜夫が憧れた作家のようです。

  • きちんとしたレビューは書けないがとっても良かった 眩しい

全65件中 1 - 10件を表示

トオマス・マンの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ドストエフスキー
ヘルマン・ヘッセ
ヘミングウェイ
三島由紀夫
ドストエフスキー
三島由紀夫
ドストエフスキー
フランツ・カフカ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×