デミアン (岩波文庫 赤435-5)

制作 : 実吉捷郎 
  • 岩波書店
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レビュー : 100
  • Amazon.co.jp ・本 (227ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003243558

感想・レビュー・書評

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  • ヘッセの作品。
    第一次世界大戦直後に書かれた本。
    “ぼく”という主人公が
    デミアンという不思議な友だちに出会い
    そのときどきで自分の内面と関わる人と出会いながら
    デミアンへ帰結していく物語。
    第一次世界大戦後のヨーロッパの精神的な荒廃の時代に
    大きな共感をもって受け入れられた。
    ストーリーは青春の徘徊といった感じで
    そこに散りばめられている言葉が響く。

    印象的なフレーズをいくつか。

    死と新生の体験、それは
    幼年期が腐朽して、しだいにくずれおちてゆくとき、
    すなわち、いとしくなったすべてのものが
    われわれを見捨てようとして、
    われわれが突然、宇宙のさびしさと、
    死のような冷たさを、身のまわりに感じる、
    このときだけなのである。

    いちど、日曜の午前に、
    ある酒場を出たとたん、往来で子供たちが、
    明るく楽しそうに、
    髪にくしを入れたばかりのすがたで、
    日曜の晴れ着をきて、
    あそんでいるのをみたら
    ふと涙がこみあげてきた。

    酒場に陣取って、ぼくは世間とけんかしていた。

    鳥は卵からむりに出ようとする。
    卵は世界だ。
    生まれようとする者は、
    ひとつの世界を破壊せねばならぬ。

    神的なものと悪魔的なものを融合する。

    真の天職とはただひとつ、
    自己自身に到達することだ。

  • 後半が難しかった。
    自己独得ということばが好き。

  •  前半150ページは一日で読み終え、後半150ページに4日費やした。これを読む前に一度新潮文庫で読んだことがあったのだが、後半がちんぷんかんぷんだった。今回も同様。
     敗戦後のドイツで若者から支持を得たというのは分かる気もするけれど・・・現代に敢えてこの小説を紐解くのはどうなんだろう。

     啐啄(そったく)という言葉がある。雛が孵ろうとするときに、雛が内側から、親鳥が外側から殻を啄ばむという意味で、「禅宗で、導く師家と修行者の呼吸がぴたりと合うこと」(大辞泉)だ。
     この小説は、卵の中にいる主人公のジンクレールが殻を破り新たな世界へ飛び立つわけだが、殻の外から孵化の手助けをする役割をデミアンが担っていると言える。ただ、何でもできるスーパーマンのように描かれているように感じてしまったのは自分だけだろうか?自己を追い求めるジンクレールというよりも、超越者デミアンに導かれしジンクレールという印象が強かった。カモメのジョナサンを読んだ時のような気味の悪さを感じた。

  • ジンクレエルは直面する現実との葛藤にはじかれ立ち止まりもしたが、友人たちとの交流を通して自分の内面を見つめつづけ、そして答えを見つける。

    登場人物たちの生き方と考え方には、自分と向き合うことの大切さを感じた。

  • 19歳のときに読んで、自分の中のジンクレールと出会い、今また読み直してみると、遠き日の自分と出会うことができた。

    以下、引用。
    ---------

     いうまでもなく、ぼく自身の心のなかで、何かがととのっていなかった。それどころか、大いにみだれていたのである。ぼくは今まで、明るい清潔な世界に住んでいた。ぼく自身が一種のアベルだった。ところが今は、とても深く、「別の」境にはまりこんでいる。とてもひどく落ちて沈んでしまった。しかもなお、ぼくはそれをあまり大してわるいとも思っていないのだ。これはいったいどういうことになっているのだろう。ところで、このときある追憶がぼくのむねにさっときらめいて、一瞬のあいだ、ぼくに息をとめさせそうになった。ぼくの現在の不幸がはじまった、あの不吉な晩、父とのいきさつがあった。あのときぼくは、ほんのちょっとのあいだ、父とかれの明るい世界と英知とを、突然見やぶって、けいべつしたにひとしかった。そうだ。あのときカインであったぼく、そのしるしをつけていたぼく自身が、このしるしは恥辱ではなくて、勲章であって、自分は自分の悪意と不幸によって、父よりも高いところに、善良で敬虔な人たちよりも高いところに、立っているのだ、と思いこんでいたのである。


     思い出してみると――デミアンは、恐れを知らぬ者たちと臆病者たちとについて、なんと奇妙な調子で語ったことか。カインのひたいにあるしるしに対して、なんとふしぎな解釈をくだしたことか。かれの目、かれの異様な、おとなびた目が、そのときなんとあやしく光ったことか。すると、ぼくの頭のなかを、もやもやと通り抜けたものがあった――かれ自身、あのデミアン自身が、そういうカインといったものではなかろうか。自分がカインに似ていると感じないなら、なぜかれはカインをべんごするのだろう。なぜかれは、目のなかにあんな力をもっているのだろう。なぜ「ほかの連中」のことを、じっさいもともと信心ぶかくて、神の意にかなっている、気の小さい連中のことを、あれほどばかにしたように話すのだろう。
     こうしたぼくの思案ははてしなくつづいた。泉のなかへ、石がひとつ投ぜられたのである。そして泉にはぼくの若いたましいであった。そうして長い、非常に長い時期にわたって、カインと殺人としるしというこの問題は、認識と疑惑と批判への、ぼくのあらゆるこころみの出発点となった。


    つまり、ぼくは内心そんなふうだったのである。歩きまわっては、世のなかをけいべつしていたぼく、精神の面ではほこり高く、デミアンと思想をともにしていたぼくだというのに。ぼくはそんなふうだった。人間のくずで、ぐうたらで、よっぱらいで、うすぎたなく、いやらしくて、下等であり、あさましい欲望によろめかされる、放埓な人非人だったのだ。ぼくはそんなふうだった。純潔と栄光としとやかな愛撫でいっぱいの、あの花ぞのから出てきたぼく、バッハの音楽や美しい詩を愛していたぼくだったのに。ぼくはなお、むかつくような、腹立たしいきもちで、自分自身の笑い声を聞いた。よっぱらった、しまりのない、けいれん的に、おろかしくほとばしり出る笑い声なのである。それがぼくなのだ。
     しかしそうは言っても、そういう苦しみをなめるのは、ひとつの楽しみに近かった。とても長いあいだ、ぼくはめくらのまま、無感覚に、這って歩いていたし、とても長いあいだ、ぼくの心はだまりつづけて、みすぼらしく片隅にすわっていたので、この自己非難、この恐怖、このいまわしい感情全体さえも、たましいにとって、よろこばしく思われたのである。そこにはなんといっても、感情があり、なんといっても焔がもえあがっていたし、なんといっても心臓がけいれんしていたのだ。とまどいながら、ぼくはそのみじめな境涯のさなかで、何か回復のような、春のようなものを感じた。

  • もっと若い頃に読んでいれば、人生を変えたであろう作品。何度でも読み返したくなります。この本をプレゼントしてくれたのは、まさにデミアンのような人でした。……絶対狙ってチョイスしたんだろうな。

  • 10.6.2 また読みたくなった  

  • 青春。

  • 子どもがから大人へと「第二の世界」へ踏み出すとき、人は誰でも悩み苦しみます。自分を見出し自己を確立することで培われた精神はやがて「人類の意思」となります。本書は大人へなろうとしている若者たちへのバイブルです。

  • 青年でありながら老熟した精神を持つデミアン。彼を思い出に持つジンクレエル。 生きることを、生きるために学ばなければならないことを語っているこの作品は、私にとって一冊の哲学書となった。

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著者プロフィール

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)
1877~1962年。ドイツ、バーデンヴュルテンベルク州生まれ。詩人、作家。1946年ノーベル文学賞受賞。代表作に『青春彷徨』(『郷愁』)『車輪の下』『デーミアン』『シッダールタ』『荒野の狼』『ガラス玉遊戯』などがある。

「2019年 『文庫 愛することができる人は幸せだ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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