- Amazon.co.jp ・本 (227ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003243558
感想・レビュー・書評
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ピストリウスとの章が一番好きで、何回も読み返してしまう。人物としても一番親近感を持てました。
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内向的な男性の「青春」を描かせたらヘルマン・ヘッセの右に出るものはいない。「デミアン」は一見同性愛的にもみえる。女っ気がほとんど無い。酒場に入り浸るようになって堕落していた時期から救うのが、恋愛感情というよりは信仰だ。その女性の顔を描きたくて描いていたら、デミアンの顔のようなものになる、というのは神秘的に感じられるが、実際その光景を防犯カメラで見ていたとしたら、ドン引きするであろう。とにかくイコンを描くように絵を描き、それは主人公を救っただろう。そして最終的に戦争が運命を回収していく。
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なにはなくても、岩波文庫版推し!文体の艶っぽさが素晴らしくて、資料用に読んでいたのがもともとなのに、引き込まれました。
原文、新潮社版と見比べて、ホゥと溜め息ついてます。 -
心から尊敬する友達と出会うことができれば、世界はとても美しく、広くなる。
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2014.03.19読了。
今年13冊目。
これまた中谷美紀のインド旅行記の影響で。
ヘッセは車輪の下以来だったし、難しく感じたけれど内容は面白かった。
歴史苦手なのでネットで時代背景やヘッセについても少し調べなきゃいけなかったけど笑
まず、ジンクレールの幼少時代の善悪についての考え方。
善の明るい公式の世界、悪の暗い非公式の世界、そんな風に区別していたわけではないけれど私も間違いを犯したときもういい子には戻れないんじゃないか、暗くみじめな人生になるのではないかという焦りとか絶望とか、子どもながらにそういうの考えてた気がする。
ジンクレールの幼少時代は敬虔なキリスト教の家庭に育つが、その教えに彼は疑問を抱く。
今はどうか知らないけど、当時のキリスト教だと善悪がハッキリ分かれていて、自分たちは善の世界に住んでいるという考えで偏っていたんだなと感じた。
認められた世界と黙殺されている世界。
人間には善の部分も、悪の部分もあり、それを自分で認め受け入れてこそ自分らしくいられると思うので、清く明るい部分だけ見て行きていくのは無理が出てくるだろうなと。
でも後半またデミアンに再会してからの部分はあまり理解できなかった。
キリスト教に詳しくないのも関係ありそう。
もう少し勉強してからまた読みたい。 -
ヘッセ(1877-1962)、1919年の作。第一次大戦の精神的危機の中で作家は書き、ドイツ青年層に熱狂的に読まれたと云われる。副題「エミイル・ジンクレエルの青春の物語」
作品から溢れ出てくる、私自身の諧調、社会の何処からも聴こえてくることのなかった、私自身の内なる声。それが確かに聴こえてくる。"孤独な人間同士のあいだに生じうる共同体"とは、例えば、この作品とその読者ということであろうか。
ヘッセは本作品の中で繰り返し説く。自己自身の内に深く没入せよと。そこから内発的に聴こえ出てくる声にのみ耳を傾けよ――それ以外は全て偽りであり紛い物であるところの俗物衆愚(運命を担うことから逃避した"集団")の雑音駄弁に過ぎぬ――と。そしてそれだけを生きよと。それだけが生きるべき問題なのだと。つまり、自己自身へ向かう道を行けと。自己自身へと到達せよと。
【どんな人間の生活も、自分自身へゆく道であり、道のこころみであり、・・・。かつてだれひとりとして、どこからどこまでかれ自身であった人間はない。しかもなお、だれもかれも、そうなろうと努めている・・・】
【ぼくたちはしゃべりすぎるよ】【りこうそうなおしゃべりなんて、ぜんぜん価値がない。・・・。自分というものから、はなれてゆくばかりだ。自分をはなれてしまうというのは、罪悪だよ。ぼくたちは、自分の中へかめのこみたいに、すっかりもぐりこむことができなけりゃだめだ】
【自分とほかの連中とをくらべるのは、よくないな。・・・。・・・いろんな予感がわいてきたり、たましいのなかの声が語りはじめたりしたらすぐに、そういうものに身をまかせてしまってね、はたしてそれが先生がたやお父さんや、またはどこかの神さまにも、お気にめすとか、都合がいいかなぞと、わざわざ聞かないことさ。そんなことをすれば、身をほろぼすことになる。そんなことをすれば、歩道をあるくようになって、化石になってしまうよ】
【ある人間をにくむとすると、そのときわたしたちは、自分自身のなかに巣くっている何かを、その人間の像のなかでにくんでいるのだ】
【どんな人間にとっても、真の天職はただひとつ、自分自身に到達することだ。かれが詩人としてまたは狂人として、預言者としてまたは犯罪者として、終ろうとかまわない――それは彼の本領ではない。それどころか、そんなことは結局どうでもいいのである。かれの本領は、・・・、自己独特の運命を見いだすこと、そしてそれを自分のなかで、完全に徹底的に生きつくすことだ。それ以外のいっさいは、いいかげんなものであり、のがれようとする試みであり、大衆の理想のなかへ逃げ戻ることであり、順応であり、自己の内心をおそれることである】
羊水の楽園――自己‐世界未分離の楽園――が破られて、そこから放逐される、失楽園。【多くの人は、われわれの運命である死と新生を、ただこの一度だけしか体験しない――つまり、幼年期が腐朽して、しだいにくずれおちてゆくとき、すなわち、いとしくなったすべてがわれわれを見すてようとして、われわれがとつぜん、宇宙のさびしさと、死のようなつめたさを、身のまわりに感じる、このときだけなのである。そして非常に多くの人たちは、永久にこの絶壁にぶらさがったまま、せつない気持ちで、一生のあいだ、とりかえしようもなくすぎ去ったもの、失なわれた楽園の夢・・・に、しがみついているのだ】。しかし、このような"死の世界"を通り過ぎ"再生"へ到る、という自己形成の物語(Buildung Romance)はもはや成立しない。世界軽侮と自己軽侮が必然的に到り着くところの世界否定と自己否定。否定態としての自己意識は、否定主体そのものとしての自己自身をも否定しようとするその仮借なき徹底性に於いてこそ、自己意識を自己意識たらしめる。こうして、死と再生の無際限の反復が、自己意識によって演じられる。我々に帰るところはない ―― return to nowhere ―― 人間は、いつもそこから引き剥がされる以外にない存在態だ【ふるさとへ帰るということは、決してないものなのよ】【ずっといつまでもつづく夢なぞというものは、ないのです】。我々は、常に世界に於いて何者かとして断片化されんとする以外になく、終ぞ全体的なる実存に於いて何者たりえない【ただひとつ、できないことがあった。――ほかの連中がするように、心のなかにもうろうとかくれている目標を、そとへひっぱりだして、どこでもいいから、目前にえがくということだった】。星に惚れこんでしまった男の寓話(P.200)は、自己意識の否定態という在り方に関して、実に示唆的だ。否定対象として、世界は欺瞞の空虚、縁無しの無限遠の穴、でしかない。自己は、手足を捥がれた無限小の点でしかない。実存は、即物的な仕方でしか世界の中に存在を許されない。そこに流れる時間を、日常、と呼ぶ。
しかし、沈潜した自己の内に於いて、我々が見つけるものはなんであろう、我々が聴き取る声はどんな響きであろう。無際限の否定という自己意識の機制そのもの以外に、一体何があるだろうか。沈黙だけが聴こえる。その沈黙に耳を傾けなければならない、その無に出遭わなければならない。
自己への没入は世界からの逸脱だ、それは世界の側からすれば「死」であり「無」であり「異」である。真に俗物的でしか在り得ない世界大衆へと逃避した太平楽な幸福の既製品に目眩まされてはいけない。致命的に孤独が足りないのだ。致命的に絶望が足りないのだ。我々は今こそ、実存の深い孤独と絶望の内に奥底深くまで自らを浸し尽さねばならない。
【ぼくの問題が、あらゆる人間の問題であり、すべての生命と思考の問題である・・・。ぼくの最も固有の個人的な生活と意見が、大きな理念の永遠の流れに関与しているかをみてとり、かつ突然そう感じたとき、ぼくは不安と畏敬の念におそわれた】
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【まるでそのせつなに、自分のかつておこなってきたこと、体験してきたことすべてが、返答として、実現として、自分のところへもどってでもきたように・・・】 -
娘の置いていった文庫を見つけて、数十年ぶりに読み直した。
「どんな人間にとっても、真の天職とはただひとつ、自己自身に到達することだ。」「ずっといつまでもつづく夢なぞというものはないのです。どんな夢でも、新しい夢に取って代られるものですし、どんな夢でも、引きとめようと思ってはいけないのですよ。」今になって痛切に分かる言葉が箴言のようにあふれていた。 -
こんな言葉をかけてほしい、と思ったときにかけてもらうと本当に嬉しいですね。そんな優しい友達との対話を追体験したような読後感。読んだ時期がちょうどよかったのかも。
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青春の一冊。
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ヘルマン・ヘッセの作品





