シッダルタ (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2011年8月18日発売)
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感想 : 49
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  • 本 ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003243565

感想・レビュー・書評

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  • およそ百年にもせまる昔に、西欧で書かれた東洋思想の本から、多くの教えを得るということに、小さくない感動を覚える。百年前の作者と今の読者である自分とが交感することは、「時は無い」という本作中の言葉を、また別な意味で体験する思い。良書。

  • ヘッセと言えば、「車輪の下」。
    そんな西洋人が東洋の思想てんこもりの小説を書くとは!

    主人公のシッダルタ=ブッダだと思って読み始めたが、途中でブッダが出てきたので違うんですね。
    回りくどい表現や何回も同じことを言っている感じで読みにくいが、物語の展開はおもしろかった。

    シッダルタがゴヴィンダに言った
    「求める人の目が、ただ求めるもののみを見ているために、何ものをも見出すことができず、何ものをも心に受け入れることができないのです。それは畢竟その人がただ求めるものばかり考えているからです。…しばしばあなたの眼の前にあるものに気づかれぬから」
    という部分が心に残りました。

  • ヘッセと言えば、みんなも大好きな、あの教科書に載っていた究極の名セリフ
    「そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」
    これ↑しか読んだことなかったのですが、気が向いたので「シッダルタ」を読んでみた。

    シッダルタ、って音、いいですね。
    なぜか、澄んだ瞳の青年が木陰で静かに佇む姿が目に浮かびます。
    そういうイメージのある名前。

    しかし、私はタイトルからシャカのバイオグラフィを想像していたのに、全然違っていて、時代設定はそのあたりなんだけれど、解説にも書いてあったとおり、ヘッセ版「ツァラトゥストラ」という感じの本でした。

    おもしろかったし、たくさんのハっとさせられる叡智に満ちた言葉でいっぱいだったけど、でもストーリーそのものは単純というか、筋が読めてしまいます。
    ただ、20世紀初めの西洋人がこれを書いたというのはやっぱり驚くなぁ。東洋的な描写に全然違和感がない。

    ほほぅ、と思う文章がいっぱいあったけど、やっぱり
    「そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」
    の究極性には負けます。
    いや、このせりふ、ほんと刺されますよね。ひと突きで。
    蝶(蛾?)のもつ神秘的なイメージ、静かな羽ばたきの印象とあいまって、なんか、もうたまらんです。

    今確認したら中学校の教科書なんだ。高校じゃなくて。ビックリ。
    大人だけでなく、中学生ですら刺されるセリフ。
    天才ですね。

  • シッダルタの半生を描いたもの。

    以下気付きとなったコメント
    シッダルタのただ一つの目標
    虚しくなることである、渇きを離れ、願いを離れ、夢を離れ、悲喜を離れて虚しくなることである。
    自己を滅却し、我を脱し、心を虚しうして安静を見出し、個我を離れた瞑想に浸って世界の驚異に胸を開くこと、これが彼の目標であった。我のいっさいが克服され死滅するとき、心の中の欲望と衝動のいっさいが黙するとき、必ずや究極のものが目覚めるであろう、自我を脱した存在の最奥、大いなる神秘が目醒めるであろう。
    わたしがわたし自身をおそれ、常にわたし自身を避けているということから来ているのだ。真我をわたしは求めた。ブラフマンを私は求めた、わたしはわたしの自我を砕き、殻を破り、その未知の内部から、あらゆる殻の核心、真我、生命、神性、究極なるものを探り取ろうとしていた。しかもそのときわたし自身というものは、わたしの手から逃げ去ってしまっていた。
    (中略)わたし自身を師にしてわたしは学ぶのだ、わたし自身の弟子となるのだ、そしてわたし、シッダルタという秘密を知ることを学ぶのだ。

    あまりに多くの知識が彼をさまたげたのだ、あまりに多くの聖句、あまりに多くの犠牲の法式、あまりに多くの禁欲、あまりに多くの行為と努力が。彼は驕慢に充ちていた、いつも第一等の秀才であり、第一等の熱心家であった、いつも一歩ずつ衆に先んじ、いつも智者であり思想家であり、いつも祭司であり賢者であった。(中略)そして自分のうちに巣食う祭司と沙門が死んでしまうまで、快楽と権勢、女と金にうつつを抜かし、承認、賭博者、飲酒家、貪婪者とならねばならなかったのだ。
    (中略)彼は死んでしまった、新しいシッダルタが眠りの中から目覚めたのだ。

    ヴェズデーヴァは言った。「河は河の至る所で同時に存在する、源においても河口においても、滝においても、渡し場においても、瀬においても、海においても、山においても。至る所で同時に存在する。そして河にただ現在があるばかりで、過去の影もなく、未来の影もない」
    シッダルタ「そして私がそれを学び知ったとき、わたしはわたしの生涯をみつめるのだ、するとそれも一つの河であった。少年シッダルタは壮年しっだるた、さらに老年シッダルタから単に影によってへだてられているばかりで、現実的なものによってへだてられているのではない。シッダルタの前生もけっして過去ではなかった、また死とブラフマンへの復帰もけっして未来ではない。何者も過去に在ったのではなく、何者のも未来に在るのではない。いっさいは現在に在るのだ、現存しているのだ(中略)あらゆる苦悩は、言い換えれば「時」ではないか身を苦しめることも恐れることもすべて「時」ではないか、もし「時」を超克し、「時」の思想を脱することができるなら、この世におけるあらゆる困難、あらゆる障害は取り除かれ克服されるのではないか」

    もう彼はそれらの多くの声を一つひとつ区別することはできなくなった、喜びの声と号泣の声、子供の声と大人の声、それはみな結び合い融け合っていた。愛幕の嘆きと知者の笑い、激怒の叫びと臨終の呻き、すべては一つであった。そしていっさいを合わしたもの、いっさいの声、いっさいの目標、いっさいの憧れ、いっさいの悩み、いっさいの快楽、いっさいの善と悪、それらいっさいを合わしたものが世界であった。いっさいを合わしたものが、生起の河であり、生の調べであった。そしてシッダルタが注意深く、この河、この千万の声の歌に耳をすまし、苦悩と笑いとを分離することなく、おのが魂を特定の声に結びつけてそれに自我を投げずることなく、すべての声、全体、一を聴き取った時、千万の声の大いなる歌はただ一つの語から成っていた、即ち「オーム」

  • 美しい。文章も、あるいはシッダルタの思想も。
    かなり良い訳なのではないだろうか。

    「わたしは自分の見出したことを言っているのだ。『知識』を人に伝えることはできる、しかし『知慧』を伝えることはできないのだ。」(193頁)

  • タイトルからお釈迦様のなにがしかが読めるのかと思ったが
    シッダルタという名前の求道者が悟りを求める話でした

    本を読んだ上での理解度は2~3割程度といった具合で自分には
    難易度が高かった、他の方のレビューを読ませてもらってやっと4割くらいでしょうか

    {「知識」を人に伝えることはできる
    しかし、「知恵」を伝えることはできないのだ}
    求道者は仏陀から教えを請わないで自ら道を開こうとするが、欲にまみれてしまう
    それさえも、味わうことでしか知恵として自分に溶け込めないという考え方には
    うなずける部分もあると思う
    頭で知ってるだけでなく、体験(味わう)したうえでないと自分自身で本当に理解できないことはある

    仏陀から教えを請わなかったが
    遊女、賭博師、自分の子、河の渡り守と人からも学び
    さらに川の流れから「時」の存在、人間の苦悩まで説いてくれる
    理解度は読み手の人生経験や知識量に左右されそうです

  • 釈迦となるシッタールダの物語。途中、『教えは言葉によって伝えられた時点で内容が損なわれ、本質の抜けたものになる』という考え方は、宗教のみならず、人生全般に言えることだと思うので共感して読めた。後半が弱いと思えた。最後に悟りへと達したシッタールダの『悟りとは何か』という部分が上述と同じ調子で肝心な部分が語られない。結局、悟りに至った人は霊験な振る舞いと態度によって人に影響を与えるというものだった。つまり、その態度がどうして起こっているのかを知りたいと思う。

  • 約30年前、ヘッセに引かれて10冊ほどの作品を続けて読んだ。すべて高橋健二訳だった。当時、一番好きだったのは『デミアン』だ。
    『シッダルタ』は未読だったので、書店で手に取ってみた。高橋健二訳が馴染み深かったけれど、高橋健二訳と手塚富雄訳があったため、最初の1ページを読み比べてみて、後者がしっくりと来たのでそちらを選んだ。難解な表現も所々あるが、柔らかく流れる、とても美しい訳文だ。

    釈迦の生涯を描いたものだと思って読み始めたが、そうではなく、ヘッセ自身の内省から生まれた独自の作品だった。河の声に耳を傾けているうちに、自我が「統一」に融合されていくくだりは、もう少し丁寧に描いてほしかった。

  • ヘッセを読むのは中学の頃の『車輪の下』以来か。あれは全く面白いと思わなかった。今読んだら違うのだろうか。ヘッセがこの本を書いていたのを知ったのはどこでだったか?全然イメージがなく意外に思った。
    ブッダの伝記かと思っていたのだが、違う話なのね。近代西洋人というかキリスト教徒というか、二元論がベースにあるので微妙に違和感を覚えるのだが、それでもよく書けている。訳も良いのだろう。
    発達論的な悟りと常に既にとの二重性なんだよな。言葉にするとつまらんのだけど。

    「『知識』を人に伝えることはできる、しかし『智慧』を伝えることはできないのだ。智慧を見出すことはできる、それを生活し味わうことはできる、それを自分の力とすることはできる、それによって奇蹟を行うことはできる。しかしそれを口に言い、人に教えることはできない。」

    真理は指し示すことしかできない。おそらく仏教の多様性は言葉にならないものをどう指し示すかのバリエーションなのだろう。

    『要約福音書』読み返してみたくなった。あと、『神曲』と『ファウスト』かな。自由連想法みたいですが。

  • ドイツ人の著者が仏教を語ると釈迦はこうなるのか。とにかく頭の回転が速くて効率的なものの考え方をするけれど、その分余白が感じられない御仁となってしまっていて、この国の私からすると、釈迦は南アジア人ではなくてヨーロッパ人の一人のような気がしてくる。もっとも、インド人はアーリア人の一派なのでヨーロッパ人からするとこの国の人間が思っている以上にインド人に親近感を持っているからこそこのような描き方になったのかもしれない。「お釈迦様」とヘッセが描くシッダルタはスピード感とゆとり感の観点で異なる人物である。

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