ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

制作 : 野村 修 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 179
レビュー : 8
  • Amazon.co.jp ・本 (357ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003246320

作品紹介・あらすじ

時代の強風にあおられて、その生の中断を余儀なくされたベンヤミンだが、彼の遺した仕事はこの危機の時代においてますます清新な輝きを放っている。パリ亡命後に書かれた文章のうち、大衆化時代の芸術を考える上で欠かせない「複製技術の時代における芸術作品」など、生涯の思考の結晶ともいうべき「歴史の概念について」に至る6篇。

感想・レビュー・書評

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  • 収録されている「複製技術時代の芸術」を読みたくて購読。

    複製技術時代の芸術作品からは、作品の一回性が消失する。芸術作品は、コピー機でコピー可能になる。

    複製技術時代では、芸術作品の宗教的、礼拝的価値が消失する。かわりに芸術作品は、社会的、展示的価値を帯びる。教会や礼拝堂にあった芸術作品は、美術館におかれるようになる。

    かつて芸術作品は、鑑賞者に精神の集中を要求したが、複製技術時代の芸術作品は、鑑賞者に遊戯を与える。「少数の為の芸術」から「大衆の為の芸術」になる。ヨーロッパ映画からハリウッド映画へ。娯楽性の増大。

    複製技術時代の映画は、ファシズムと結びつく可能性を持つ。ファシズムは、権力者による大衆支配の関係を固定しようとする。ファシズムはまた、政治を耽美化する。政治が芸術的になるし、芸術は政治に奉仕するものになる。ファシズムのプロパガンダ映画を見た大衆は、美しい権力者を賛美し、権力者が罵倒する対象を嫌悪するようになる。

    ファシズムと対立するコミュニズムは、芸術を政治化する。

    芸術作品によってコントロールされるのでなく、芸術作品によってコントロールを打ち破ること。ベンヤミンは、複製技術時代の芸術作品が、コントロールの道具になるのでなく、コントロールを打ち破る抵抗の契機になることを望んでいる。

    ・・・などとまとめてみたけれど、『複製技術時代の芸術作品』は、こんなふうにまとめきれる作品ではない。要約されることを拒否するように、ある一つの話の結論が出そうになったら、全然関係ない話に移って、そこで結論が出そうになったら、また違う問題提起がされて、もうわけわからん論文。だからこそ美しいベンヤミン。

    ベンヤミンは断片を愛した。決して要約できないものにアウラと美が宿る。

  • 「複製技術時代の芸術作品」と「歴史の概念について」を読みたくて手に取った。岩波現代文庫の出始めのときに、やたらベンヤミンの取り扱いが多かったのでどのような著作なのかずっと気になっていた。ただ、まさか「ボードレール」というタイトルの文庫にこの2作がライナップされているとは思いもよりませんでしたが…

    「歴史の概念について」、いわゆる歴史哲学テーゼですが歴史的唯物論がこれほど人に救いの光として存在することがありうるのかと驚嘆する。ベンヤミンにとって世界は黙示録の只中にあり、マルクスにとって社会科学であったはずの何物かが異形となり、ついに神々しいまでの信仰に到着してしまったということだろうか。

    「生起するものを停止させるメシアの合図をーいいかえれば、抑圧された過去を開放する闘争の中での、革命的なチャンスの合図をー認識するのだ」

  • 14/05/15 ブックオフで購入。

  • ボードリヤール『象徴交換と死』で頻りに引き合いに出されていた思想家がフーコーとバタイユ、そしてベンヤミンだった。「複製技術の時代における芸術作品」を下敷きにして芸術の終焉を論じていたものだから、この論文目当てに読了した。

    収録作は「フランツ・カフカ」「複製技術の時代における芸術作品」「カフカについての手紙」「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ブレヒトの詩への注釈(抄)」「歴史の概念について」の6篇。

    小林秀雄や花田清輝を読んで、ベンヤミンを彷彿とされるのが順当なのだろうが、私は先に日本の散文家たちと親しんできたので、読みながら花田清輝みたいだと思った。カフカやボードレールを論じるにしても、歴史を俎上に乗せるにしても、理論に依らず膨大な教養を土台にした感覚や審美眼でもって対象へ切り込んでゆく。詰まるところが、印象批評だ。

    「複製技術の―」は、【アウラ】という概念の提唱が面白かった。曰く、[ある事物の真正性は、その事物において根源から伝えられうるものの総体であって、それが物質的に存続していること、それが歴史の証人となっていることなどを含む。歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる。たとえ、あやふやになるのがこの能力だけだとしても、でもこうして揺らぐものこそ、事物の権威、事物に伝えられている重みにほかならない。](p66-67)

    絵画や彫刻が第一線から退き、複製技術並びに配信技術によって支えられた音楽や映画が台頭する転換期において、芸術が直面している問題を的確にすくい取っている。ベンヤミンによると、芸術の社会的機能はこの時期、儀式から政治へ移行した。ボードリヤールはデュシャンやウォーホルを引き合いに出し、芸術の真正性はもはや迷信であり、世界は無内容なレディ・メイドで満たされている。極論、美術館に所蔵されるか否かでアートかどうか決められてしまう。そう断じて、憚らない。

    一理あるけれども、悲観する必要なんてないとも思う。山田順『出版大崩壊』にて言及されていたのだが、いままたLIVEでの生演奏や劇場での観劇が見直されてきているらしい。YOUTUBEを観るだけでは満たされないものを求め、受け手は自らの足で芸術に触れにゆく。これはアウラの再評価と見做せるだろうし、そこからはアウラを他者と共有したいという現代人特有の現象をも読み取れるかも知れない。時代の変容に即して芸術の在り方も変わる、それをポジティブに捉えていくのが大事だと思う。

    「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」は、19世紀パリの都市論としても読める。バルザックやポオと比較されるなかで、ボードレールの個性が浮き彫りにされてゆく。解説によると、もともと3部構成を目的とした論考で、これは第2部に該当する部分だったらしい。謂わば前半と後半がすっぽり抜けた生身の状態なわけで、論の骨子が曖昧な恨みはあったものの、そのぶん美味しいところだけを堪能させてもらえはした。

    「歴史の概念について」は、ベルクソンもヘーゲルも読んでないので何とも言えない。ただざっくばらんに言って、大澤真幸『虚構の時代の果て』にある考察の方がよほど勉強になった。宗教改革によって、神(規範)との接し方が変革される。それは今をどのように生きるべきか、という時代感覚や生活態度をも変えずにはおかない。連合赤軍やオウム真理教を具体例に、こういった考察を当て嵌め、理想(規範)なき現代社会の実相を探ってゆく。大澤真幸が理論的かつアクチュアルだったのに対し、ベンヤミンの方はやや抽象的で散漫な印象を否めなかった。ただ教養豊かな読み手には、それがそのまま古典的な味わい深さとして受け止められるはず。

  •  収録論文は、「フランツ・カフカ」、「複製技術の時代における芸術作品」、「カフカについての手紙」「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ブレヒトの詩への注釈(捗)」、「歴史の概念について」の6編。
     タイトルからして、ボードレール論が売りみたいだけれども、ボードレール読んだことがないから流し読みしてしまった。個人的に一番おもしろかったのが「複製技術の時代における芸術作品」だった。
     事物が持つ真正性を、複製によって失ってしまう事物が持つ権威を、ベンヤミンは「アウラ」(オーラ)と呼んだ。そして、オリジナルが持つアウラをコピーは得ることはできない、とも説く。また、芸術が持つ2つの価値、すなわち礼拝的価値と展示的価値について考えると、前者ではアウラの存在が大きな意味を持つ。一方で、後者では、アウラの存在は大して問題ではない。そして、近代の複製技術は後者を大いに発展させると同時に前者を大きく衰退させる結果となったことを考察している。
     ちょっと考えたのは、植民地の都市風景と宗主国の都市風景は異常に似ているわけだが、植民地の都市をアウラのない複製物と呼べるのかどうか。また、このとき、アウラの有無というのはどういう事で、あるとどうなのか?ないとどうなのか?とか。

  • 未来へ吹く強風に流されず、過去へと狙いをさだめて跳躍せよ。根源こそわれらの目標なのだ!という気合いの入ったレトロ擁護者ベンヤミンのエッセイ&論文。
    この人の頭のなかには常に自分と相手との「距離」のことがある。オーラの源泉はオカルトではなく、すべてのものと適切な距離をおいて生きることにある、というクールな思想に胸のすく思いがする。

  • だんだんと追い詰められていく思想家の刻み付けた言葉。というと大袈裟に思われるかもしれないけれど、職場とかで隠れて読むとリアリティがひしひしと感じられます。

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