ジェルミナール 上 (岩波文庫 赤 544-7)

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  • Amazon.co.jp ・本 (263ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003254479

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  • 「坦々たる平野の中、墨を流したような濃暗の、星影のない夜空の下に、男がひとりぼっちでマルシエンヌからモンスーへ向って甜菜畑を真直ぐに貫く十キロの舗装した大道路をたどっていた。眼の前の黒い土さえ見えず、三月の風の息吹だけが辛うじて平坦な廣漠たる地平線を意識させていた。」


     という出だしから傑作を保証しているような気がする。男はエティエンヌ、職を失った機械工。仕事をもとめてモンスー鉱山街に流れ込む。


     鉱夫マユの娘で、ヒロインであるカトリーヌが、鉱夫用の半ズボンにリンネルの上着、ベギン頭巾を結びつけた姿を、エティエンヌは最初少年と間違える。


        「じゃ、おまえは女だったのかい?」彼はあっけにとられて囁いた。
        彼女は陽気な様子で、顔を赤らめもせず答えた。
        「そうともさ……。ほんとによ、永いことかかったもんだねえ。」


     いまとなっては定番といえば定番と言えるシチュエーションではあるが、ここまでのゾラの筆が確かなために安直な属性萌えで終わることのないカトリーヌの生き生きとした魅力を伝えている。


     自宅の寝室におけるカトリーヌの描写は具体的であり、兄弟たちと雑魚寝状態の少女が下着姿で欠伸をし、脇では着替えがあったり、幼い弟たちが用便したりしているという具合で、『レ・ミゼラブル』において早朝のコゼットの寝室の描写を、慎みから抑制するべきとしたロマン派ユーゴーとの差を思い知らされる。さすが自然派、こういう細かい描写でもけっこう嫌われたんじゃないかと思う。

     労働の現場でのカトリーヌの描写はとりわけ官能的。


    「彼女は両足を開き、坑道の両側の杭木で足を支えて、堅固な據點をつくるように彼に教えなければならなかった。全筋肉をもって、肩と腰で押すような具合に、腕をぐっと伸ばし、體を傾けなければならないのだった。運搬のあいだかれは彼女の後を追い、彼女がお尻を突き出しサーカスで働くあの矮小な動物のように四つ這いになって走っていると見えるほど、兩のこぶしを低くして突っ走るのを見つめた。」


    この肉体に関する密度の高い描写は全編を通じて貫かれるもので、労働、快楽、暴力、飢餓にいたるまで執拗に描かれていく。毛穴から発散される熱気や汗の匂いが感じられそうな表現力は、狭く暗い坑道のなかでますます威力を増すようだ。


     もっともカトリーヌは早々と第二部においてライバルのシャヴァルに強引に手折られてしまい、これ以後精彩を欠いてしまうのはもったいない。マユの家に下宿したエティエンヌとカトリーヌの微妙なやり取りは恋愛小説としても優れた水準にあり、この展開は必須だとしても、もう少し、吊り下げた状態を続けてもよかったのではと思うのは、わたしが毒されているのかなぁ。

     自分の女になるかもしれなかったカトリーヌを目の前で奪われたエティエンヌは逆上する。この辺の男の馬鹿っぷりの描写もさすが。

    「何たる蕒女だ!いわれもなく、彼は彼女を軽蔑することによって復讐してやりたいという狂おしい気持を感じた。」
    「彼はこれからはもう兇暴な無念の気持しか持つまいと務めた。この事が好い教育になって、娘たちを巧みに扱うことを彼に教えるだろう。」



     第三部あたりから労働者の生活の困窮が容易ならざるものになってくる。エティエンヌは第一インターの書記プリシャールと連絡を取りながら炭鉱夫の組織を作りはじめる。すでに社会主義的な態度を取り始めている古株の酒屋ラスヌールや、ロシアの貴族の子弟で、ナロードニキ運動に関わってフランスに亡命し、組合の漸進的な活動には否定的な機械工のスヴァリーヌらと議論しつつ労働者の間に宣伝を深めていく。

     カトリーヌの妹であり、背中に瘤があるため鉱山では働けないが、家事や弟妹の世話に骨惜しみをしない心優しいアルジールが、エティエンヌの宣伝の傍らで自分の幼い理解なりに思いにふけるシーンはこの小説一番の美しさかもしれない。

    「小さなアルジールは言葉のはしばしを捉えて、子供らが好きなだけ遊び、腹一杯に食べて暮す非常に暖い家という風にその幸せを心の中に思い描いた。」

     それでも祭りの日には楽しみもある。
    「澎湃たるビールの海、デジール後家の大樽の腹は裂け、ビールは人々の腹を太鼓のようにし、鼻や眼やその他いたる所から流れ出していた。山のような人々はひどく膨れ上がり、各々肩や膝が隣の者にのしかかるほどになって、誰も彼もこうしてお互いの肱を我が身に感じて陽気になり喜色満面だった。絶え間ない笑いに人々の口は開け放され、耳まで裂ける有様だった。」
    カトリーヌの弟、ジャンランにすでに情婦扱いにされ、窃盗の片棒を担がされている小娘リヂも、盗んだ酒瓶からラッパ飲みして、路上で爆睡のカニバル。


     そんな中いよいよ不況は深刻化し、家族総出で働き、借金をしながらなんとか回している家計に、会社からは賃下げが提示される。一方、スヴァリーヌは会社の狙いは組合の基金が十分でないうちにストを挑発し、組合を壊滅に追い込むことが狙いであると、エティエンヌに忠告する。しかし折りしも鉱山では労働環境の悪さから崩落事故。緊張は不可避的に高まっていく…。

     というわけで、中盤以降の労働者の闘争という展開が評価されがちな『ジェルミナール』ですが、序盤もすばらしい。こうしてためた日常部分の描写が後の展開を支えるのであり、付言すれば、この単体で読んですら十分に読み応えがあります。

  • 「あんたには幸せになるには神と天国が要るんですか?あんたは自分で自分のために幸せをこの世に造ることができないんですか?」

    まるで、これは鎮魂歌。真っ暗な土のなかから、いまだ聴こえてくる哀愁と恭敬と憤懣のうた。
    華やかに彩られた"地上"の奥底で、唸りとうねりが鳴っていた。
    無情な隷属があたりまえの人びと。地上の香りを纏った栗毛の馬のはなつ匂いをめいっぱいすいこむ坑内の白馬。嵐のせまるお祭りと狂騒。酒と肉欲にすがる彼らのやるかたのない円環が、暗闇のなかから少しずつその実態をあらわし、もたらされた知恵とためこんだ鬱積が、いまにも放たれる。

    知識をえることによってうまれる反発。さいきんそのことをずっと考えていた。日本は教育方法が海外より遅れている、ということではなくて、もしかしたら敢えてそうしているのではないか、そんな都市伝説のようなこと。子どもたちが賢くなってしまったら、みずからの意見をもってしまうようになったら、教科書以上の知識をもってしまったら。なんて、そんな不安(「社会が変わってしまう」)に対する圧力を、感じてしまってしかたがない。


    「一番強い人間でねえ場合は、一番利口な人間にならなくちゃいけねえ。」

    「こうしたことは、活気の失せた機会のまわりや、石炭を吐き出すことに倦んだこの竪坑の近くで、創造が復讐をしているという風に見えた。」

    「ヘッ、司祭の奴らなんか!あいつからがもしそんなことを信じてるんだったら、天国に上等の席をとっておくために食う物も少くし、もっと働くだろうぜ・・・・・。そんなこたァ嘘だ、人間くたばりゃくたばるだけよ。」

    「この叫びの中には彼女の辛い青春の想い出があった、腹の子供を一人ずつ後の糊口の道具とする先祖代々の窮乏があった。」

  • 3.83/54
    『フランス革命は,産業と科学とを結びつけ,大工業の発達を促し,労働者を組織化せしめた.ここに労資の利害関係の対立が社会的舞台の前面に押し出されてきた.ゾラは,この問題を社会の重要な要素として題材にとり,労働者の生態を描いた.プロレタリア文学の先駆をなす小説.』(「岩波書店」サイトより▽)
    https://www.iwanami.co.jp/book/b248004.html

    原書名:『Germinal』
    著者:エミール・ゾラ(Émile Zola)
    訳者:安士 正夫
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    文庫 ‏: ‎263ページ(上巻)  全上中下巻

    メモ:
    死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」

  • ゴッホが読んだと知り読みました。
    炭鉱労働者の話です。

    ゴッホはうずくまる妊娠した娼婦や痩せた炭鉱労働者たちの絵などを初期に描きました。牧師をやめて絵描きになりました。最期は狂っていきます。

    (ゴッホと同じ年に生まれた人にセシルローズがいた)

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著者プロフィール

エミール・ゾラ
1840年、パリに生まれる。フランスの作家・批評家。22歳ごろから小説や評論を書き始め、美術批評の筆も執り、マネを擁護した。1862年、アシェット書店広報部に就職するが、1866年に退職。1864年に短編集『ニノンへのコント』を出版、1865年に処女長編『クロードの告白』を出版。自然主義文学の総帥として論陣を張り、『実験小説論』(1880年)を書いた。1891年には文芸家協会会長に選出される。

「2023年 『ボヌール・デ・ダム百貨店』 で使われていた紹介文から引用しています。」

エミール・ゾラの作品

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